セレナードで眠らせて
髪が軽くなった。
シャンプーの泡で目は開けられないですけど、浴槽で鳴った水の音でそれがなぜかはすぐにわかる。
「浩平」
「気にせず続けてくれ」
「無理です」
いつものことです。
浩平と一緒にお風呂に入ると、落ち着いて洗うこともできなくて。
ただでさえ大変なのに、時間ばかりかかってしまう。
「洗えないです」
「そうか？ 別にこの辺ならいいだろ」
たぶん、一番先を持ってるんでしょうけど。
こんなに軽く感じられるくらいまで持ち上げられていたら、気になってしかたがないです。
髪をたどって、そこにあった浩平の手を捕まえて。
「離してください」
けれど浩平は。
「ケチだな」
離してくれなくて。
無理することもできなくて、洗うことも止めるしかなくて、このままだと冷えてしまいそう。
「どれ、俺が手伝ってやろう」
「やめてください」
また浩平の悪い病気です。
自分ですることも不安なのに、浩平にしてもらうなんてもっとできないです。
「大丈夫だ、心配するな」
「とても心配だから、嫌です」
だけど、目が開けられないこの状況では、どうすることもできなくて。
浩平の手が私の髪を梳いていくのがわかってもどうすることもできないんです。
「どうだ、茜。うまいだろ」
浩平は得意そうに言うけれど、そう言われても。
「わからない」
こう答えるしかないです。
きっとあなたは気付いてないけれど、迷惑です。
「変なことはしないから、やらせてくれ。見てるだけってのも退屈なんだ」
もう、これだけで十分に変なことです。
それなのに、浩平の声がどこか真剣に聞こえて、それならいいかもと思えてしまうから、少し不思議です。
きっと、そんなことはないはずなのに。
「お客さん、痒い場所はありませんかー？」
ほら、やっぱり浩平です。
自分勝手な悪ふざけで私を困らせようとして。
少しくらいは我慢してあげますけれど。
それが浩平だから。
でも、程々にしてください。
そう思っていたら、少しだけ様子が違ったんです。
「浩平？」
「ホントに綺麗だよな」
「え？」
意外な言葉でした。
こんな時はきっともっとふざけて物を言う人なのに。
びっくりして、思わず目を開けてしまいそうになるくらい。
「いや、髪もだし、なんていうかだな」
その先の言葉、少し怖い気がする。
とくん、とくん、とくん、心臓が鳴り始めて。
まだ髪を洗わないといけないのに、そんなことを忘れてしまうほど胸が苦しくなって。
押さえていないと、たまらなくて。
「あぁ、いや、なんでもない」
続きを言ってくれなかった浩平に、でも少しだけほっとして。
ほんのわずかだけど、聞いてみたい気もして。
「はい」
それなのに、それを聞くのはためらってしまう。
浩平が何を言おうとしたのか、少しだけ想像はつきます。
だって、ほんの少し前、彼に言われたばかりの言葉がたくさんまだ心の中に残ってるから。
綺麗、可愛い、そんな言葉をかけてくれるのは浩平だけだから。
大切な、私の小さな宝物。
「このくらいでいいか？」
これまで言ってもらった言葉をいくつもいくつも思い出しているうちに、浩平は私の髪を洗い続けてくれていて。
「わかりません、見えないから」
「じゃぁ、俺の判断でいいな。おしまいだ」
「はい」
男の人なのに、こうして優しく洗ってくれる。
それは私にとって新鮮な体験かもしれないです。
乱暴で、意地悪で、特に浩平は変な人ですから。
それが、今日は少し違う。
優しさでいっぱいで。
知らないわけではないですけど、あまりいつも見せない所だから、とても浩平とは思えなくて。
「浩平」
「なんだ？」
「ありがとう」
私も素直に、そう言えました。
「それと」
「今度はなんだよ」
ぶっきらぼうな言葉、少し照れている感じがします。
浩平らしい。
「シャワーは髪に近づけてもらえますか？」
「あ、あぁ。熱くならないか？」
「大丈夫です。いつもそうだから」
「了解、まかせとけ」
「はい」
今日は浩平にお任せします、今日の浩平は違うから。
やっぱり、今日だからでしょうか。
少しだか熱いお湯がシャワーとなって私の髪を梳かしていく。
うつらうつらと少しだけ眠気。
ちょっと疲れてるみたいです。
もう少しだけ、この微睡みに委ねていたいんです。
浩平が与えてくれる、この心地よさの中で。
「ほら、終わったぞ」
だけど、それを破ったのも浩平です。
振り返ったら、やっと顔を見ることができた。
目と目が合ってしまう。
「ちゃんと落ちましたか？」
「バッチリだ」
得意そうな顔、俺だってこれだけできるんだぞ、って言ってるみたいです。
そうですね、でも、まだダメですよ。
「せっかくだからわがまま言いますね」
「お、なんだなんだ、体も洗ってほしいか、念入りに隅から隅まで洗って……」
「させません」
「残念だ」
本当に残念そう。
だって、ここでそんなことされたら、またエッチされそうだから。
やっぱり、それだけじゃ嫌です。
こういう夜は、ちゃんと他にもすることがあるものです。
だから、今日はさっきのだけでおしまいです。
「念入りに、ですね」
「お、やっぱり体……」
「違います」
「無茶苦茶残念だ」
一瞬だけすごく嬉しそうに顔を輝かせたけど、かくん、頭を下げてしまう。
「時間をかけてゆすいでほしいの」
「髪か？」
「はい」
前を向き直して、浩平がしてくれるのを待ちます。
「もう大丈夫だろ」
浩平は不思議そう。
やっぱり男の人だからわからないのかもしれない。
「すすぎは時間をかけてやるものです。少しでも残っていたら、傷みますから」
「なるほど、そういうものなのか」
「はい、そういうものです」
そうして、長い時間をかけてゆすいでもらったんです。
たまにはこういうのもいいかな、そう思いました。
これからもこうして浩平に甘えることが……。
「浩平？」
キッチンを通って、部屋の中、先に出たはずの浩平がいなくて。
胸がきゅっとなる。
どこですか、どこにいるんですか、そう思いながら動くこともできなくて。
「ここだ、ここ」
後ろからの声。
「浩平？」
振り向いたその先、窓をはさんで浩平がいた。
「どうして、そんな所にいるの……」
思わず走って、浩平の腕を捕まえてしまいました。
彼が逃げるわけでもないのに。
いなくなるはずはないけれど、彼の姿が見えなくなると少し不安になる。
「風呂上がりの夜空ってのも乙だろ？」
「風邪ひきます」
「現実的だなぁ」
そう言って、鼻で笑う。
「しかたないです、本当のことですから」
「で、中に入らないのか？」
「浩平が入ってくれるなら」
それからしばらくして。
何も話はしないままの時間を過ごしてから、浩平がそう言い返してきました。
けど、いまの気持ちは同じ、そんな気がして。
だから、何も言いません。
ずっと、一緒に夜空を見て、考えていたこと。
今日のこと、これまでのこと、これからのこと。
「実感……」
「え？」
「沸いてきたか？ 実感は」
実感、その質問の答えは簡単過ぎて。
そして本当は私があなたに聞きたいことなんですよ。
「幸せすぎて、苦しいくらいです」
「珍しいな、そういうのは」
「そうですね」
でも、それは当然のことだと思う。
今日はあなたとの。
「まぁ、なんだ。これからもよろしくってことなんだよな、こういう時ってのは」
「はい」
あなたと私が同じ名字になった、同じ家族になれた。
「ずっと、ずっと、よろしくお願いします」
「こちらこそな」
「はい」
一生の記念日ですから。
指にはめた指輪を夜空に透かせながら、じっと見ていました。
アンダリューサイト、浩平が言うには七色の石。
その呼び方もウソじゃないと思うくらいに、夜空が映っていろんな色を見せてくれる、不思議な石。
結婚指輪に不思議な石。
少し不釣り合いだけど、それが私の誕生石だから。
浩平が探し回った誕生石のウェディングリング。
この色が、きっと今の私たちの色……。
「そろそろ入るか、いいかげん冷えてきただろ」
「そうですね」
少し冷えてきた体、何も言わないのに浩平が気付いたのは少し驚きです。
そして、私をかばうように中に入ってくれたのも、です。
浩平って、こんなに優しかったかな。
そうかもしれない、これが今の浩平なのかも、そう思います。
「浩平」
「んー？」
「せっかくですから、あれ、飲みませんか？」
「あれってなんだ」
振り向いた浩平が考えこんでる。
あれ、じゃわからなかったみたいです。
「今日貰った」
そこまで言うと、浩平はぽんと手を叩きました。
「あぁ、あれか。むぅ、そうだな、飲むか、せっかくだ」
「はい。ではグラス出してきますね」
キッチンにグラスを取りに行きながら、そっと後ろを覗いたら。
浩平の嬉しそうな後ろ姿。
この人ってアルコール、好きだから。
いけない、笑いが込み上げてきそうになって、慌てて、グラスの準備をする私。
「食べるもの、いりますか？」
「まぁ、欲しくなったら自分で取りに行くよ」
「はい」
では、グラスだけでいいですね。
今まで一度しか使わなかったグラス。
同棲を始めた時、記念に、とペアで買ったものだけど。
本当の出番は今日、だったんですね。
手に一つずつグラスを持って部屋に戻ったら。
ベッドに腰をかけた浩平が、もうワインを開けてしまってます。
瓶口からの香りを楽しんで、嬉しそう。
ずるいです。
「いいぞ、これ。年代物ってのはウソじゃないみたいだ」
「ウソなわけないです。詩子がウソをつくことはないんですから」
「ウソはつかないが、会社の商品は取ってくるわけだな」
「そうですね」
そこが詩子らしいけれど。
このワインは、詩子が結婚のお祝いにと持ってきてくれたもの。
でも、話を聞いてみたら詩子が働いている会社の商品だ、って。
だから、お金は後で払っておかないといけないかもしれないけれど。
「とりあえず、飲みませんか？」
「だな。賛成」
季節前のこたつの上にグラスを置いたら、とくとくとく、浩平がゆっくりとワインを注いでくれる。
ぺたんと床に座って、二人でじっとそれを見ていました。
目の前にある赤ワインの色は、どこかアンダリューサイトの色に似ているような気がする。
「じゃぁ、とりあえず」
一足先にグラスを手に取った浩平が、恭しく頭を下げて。
「では、折原浩平と里村茜の前途を祝いまして」
少しだけ仰々しく言うけれど。
「違います」
「っと。なんだ、せっかく人が乗ってる時に」
不満そうに。
けどダメです、私のほうがもっと不満ですから。
だって。
「違うから」
「何が」
「折原浩平と」
「あぁ、俺の名前だ」
自信満々に答えます。
自分の名前を間違える人はちょっと怖いですよ。
それに、今の指摘はあなたの名前じゃなくて。
「はい。だけど里村茜、ではありません」
「なんだとっ、いつから名前を変えたっ！」
大きくのけぞって驚いてみせる、そんな浩平の行動はすっかり馴れてるから。
「今日からです」
一言だけ。
「なにぃっ」
「本当に気付いてないんですね」
とても残念です、こんな大事なことなのに。
でも、私が答えを言うことじゃないから、あなたにちゃんと間違いに気付いてほしいから。
だから、私は言いませんよ。
「ん？ どういうことだ……あぁ、あぁあぁ、すまん」
良かったです、気が付いてくれて。
こんな寂しくなる間違いは嫌です、絶対に。
「はい。もう一度、初めから」
「了解だ。では」
コホン、わざとらしく咳き込んでみせてから。
浩平はもう一度言い直そうとした、けれど。
「折原浩平と」
そう言ったまま、私を見つめて何も言わなくなった。
どうしたんですか？
そう聞こうとした時、浩平があごを少し動かした。
私？
ちょっとだけ考えて、彼の考えてることがわかった。
小さく、声を通してから。
「……折原、茜の」
少しだけくすぐったい、今日からの本名を口にしました。
浩平は軽く頷いてから。
「二人の前途を祝いまして。乾杯っ」
「乾杯」
チン、軽く響いたガラスの音が心地よかった。
「ははっ」
「くすっ」
ワインを静かに一口、二口。
浩平と私の目があった時、思わず笑いが込み上げて。
「似合わないよな」
その言葉がもっとおかしくて。
「しかた、ないですね」
笑いを我慢しながら答えるのが精一杯。
まだ大人になりきっていない私たちには、ほんの少し背伸びだったのかも。
それでもいいんです、今日くらいは。
こんな素敵な日に何もしないなんて。
そんなにもったいないこと、できないですから。
二十歳の二人では、いつもの二人では、少し物足りないことでも。
「いつか、似合うようになりたいですね」
「なるだろ。嫌でもな」
自信満々な答えかた。
「それっていつ頃ですか？」
「中年」
「嫌です」
それでは、夢も何もありません。
「素敵なマダムかもしれないじゃないか」
「そんなの、考えたくないです」
それと。
「そんなに未来じゃ遅すぎます」
それもそうか、と浩平が同意してくれます。
「だけどだな、自分で言っておいてなんだけどさ。茜のマダムってのはちょっと想像が」
「つきません」
「だろうな」
「はい」
「肝っ玉母さんなら」
「すごく嫌です」
そんな想像しないでほしいです。
私にも理想像ってあるんですから。
「はぁ。こんなだから、似合わないんだよなぁ」
首を傾げて、そんなこと言うから、おかしくって。
「笑い過ぎだ」
「くす、くす」
注意されてしまうくらい、止まらなくなってしまって。
視線を浩平から逸らせてずっと笑い続けました。
「だから笑うなって言うんだ」
「だ、だって、ふふ」
全然違うようで、浩平とはどこか考えることが似ているのかもしれない。
最近になって、そのことに気付き始めてます。
「おかし、ぃ、ふふ」
嬉しくて、それ以上におかしくて。
止まってくれないの。
「なんだってんだ、おまえは」
「ふふっ。は、ぁ。苦し、かったです」
ようやく笑いが治まってきて、浩平に目を向けることができた。
「当然だ」
少し、怒ったような顔してます。
ごめんなさい、でも、可笑しすぎたから。
「浩平」
謝る代わりに、こたつ越しに彼の手を握った。
ちょっとほてった手の甲は、固い感じで。
強く握っても押し返されてしまう、そんな男の人の手。
「だから、いいんですよ」
こうして触れることのできる幸せが、これからずっと同じでありますように。
心の中で、誰かに願いを込めながら。
「だから、一緒になれたんです」
いつでも、いつだって側にあなたがいて。
嫌と言っても側にいてくれて。
これからもずっと……。
「だから、こうして幸せになれたんです」
何を言ってるの？
自分でも少しわからなくて。
「じゃあ、一生このままでいいな」
「それは嫌です」
「冗談だ」
はい、わかってます。
ずっとこのままでいいって考えていたら、きっとこんなふうになるはずがなかったから。
里村茜は里村茜のまま、折原浩平も折原浩平のまま。
それを、変えたかったんです、きっと。
そして今日、変わったんです、変わることが、できたんです。
里村茜が折原茜になって、ふざけてばかりの人がこんなに優しくしてくれて。
「ずっと」
「ずっと、なんだ？」
途切れた言葉、出てこないの。
伝えたい言葉はあるのに。
簡単で、すごく聞きなれた言葉なのに。
口に出せないんです。
幸せにして、そんな言葉じゃ足りないから。
「茜」
どうして？
どうして、こんなに優しくしてくれるんですか。
浩平の手が、私の目許をなぞって。
ぼやけてもはっきりとわかるくらい、笑顔で。
「心配しなくても大丈夫だ」
だめ、です。
もう、だめ。
止まらないの、止まらないんです。
「嫌に思われたって、いつまでも隣にいてやるから、覚悟しろな」
もぅ、ダメですよ、そのリフレイン。
教会で言った誓いの言葉をまた聞かせてくれたけど。
そんな、素敵な言葉は二度も言ったらもったいないです。
「おまえがいてくれたから帰ってこれたんだからな。これからはずっとおまえのためにいるからな、茜」
だからだめです、プロポーズも大切な言葉なんです。
でも、止まらないの。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しすぎて、切なくなるから。
嬉しくて、切なくて、幸せすぎて、幸せだから。
あなたの前で、泣いてもいいですよね。
「寝たか？」
「いいえ」
気がついた時には、彼の胸の中で抱かれていました。
もう数えることもできないくらい飛び込んだこの場所も、なぜか特別なものに思えてしまう、不思議。
「泣き止んだみたいだな」
「はい」
本当の所は、そうでもないですけど。
「ごめんなさい」
「いやいや、これも旦那の特権だろ」
「ふふ」
浩平はやっぱり浩平です。
「じゃあ、私がこうできるのも妻の特権なんですね」
「おう。いつでも空けて待ってるからな。どんどんこい」
ふふ、いいんですか？
そんなこと言われたら、本当にいつでもこうしてしまいそうなのに。
「ただし、トイレの時だけは勘弁してくれ」
「嫌です」
「ぬぉ、なんとっ」
少し大げさです。
「って言うか、本気か？」
「はい。いつでもって言いましたから」
「おいおい、待て待て待てっ」
「ふふ、冗談です」
「あのな。なんか最近誰かに似てきた気がするぞ」
「似てきたと思います」
だって、いつも一緒にいるから、それは自然なことです。
それに。
大慌てする浩平が、すごく好きなんです。
それを、初めて教えてあげたんです。
「屈辱だ」
ふふ、この結婚祝いは少しきつすぎたのかもしれないですね。
怖いです、クセになっちゃいそうで。
「くそ、知るか」
プイと横を向いて、体も放されて。
浩平は、横になってしまった。
「こんな所で寝ると、風邪ひきます」
「Ｚｚ」
きっと赤ちゃんでもわかっちゃいますよ、たぬき寝入り。
「ひいても知りませんよ？」
「Ｚｚｚ」
「もう」
不貞た浩平が、少し可愛く思えるのが不思議。
大人の男の人が、こんなに感じる時が来るなんて。
それも、浩平が、なんて。
すごく驚きです。
「起きてくれないと……私もここで寝ます」
「Ｚｚｚ」
その嘘の寝息を。
了解、そう思うことにして。
「おやすみなさい」
浩平の背中に引っついて、一緒に横になりました。
明かりはつけたまま、こたつもつけたまま、いつもなら絶対にしないこと。
今日が特別な日だから、それもあるかもしれないですけど。
本当の理由はたぶん。
「茜」
「はい」
私も、彼も、今日は眠れないってわかってるから。
「変な話、していいか？」
嫌ですって、返したいけれど。
「はい」
そう言えませんでした。
大事なことだから、きっと
「今日、覚えてるか、ほら」
浩平の言葉はそこで止まったけれど、話の続きを黙って待つ。
「なんだ、あの、そう、あの神父の言葉」
「どのことですか？」
あの神父さんはいろんな話をしてくれた。
結婚という意味、二人でいると言う意味。
見ず知らずの私たちに、大事に大事に伝えてくれた、あの人の言葉。
私にはその中でも心に残った言葉がありました。
一瞬、胸がぎゅっと締めつけられた言葉でした。
「愛しあう二人も、幸せだけで過ごすことはできません」
思わず出してしまった言葉に。
「あぁ、それそれ」
浩平がすぐに肯定して。
「びっくりしたよな」
「はい」
こんな幸せの日に、そんなこと言われるなんて思わなかったから。
「でも」
「その、後だろ？」
「はい」
本当に伝えたい言葉はその後にありました。
幸せに浮かれていただけの私。
これからのことを夢見ていた私。
きっと浩平もそうだったと思います。
だけど、それだけではダメなんですね。
「見なくてもよかった、辛い部分、嫌な部分も見ることになる、だったかな」
「そうです」
「それで、なんだったっけ」
「……浩平」
どうして、一番大事な所を忘れるんです？
「いや、ちょっと待ってくれ。今思い出してるから」
頭をトントン叩いて。
でも、待ちません。
後ろから、浩平の首に腕を回して、抱きしめました。
「そんな時には、お互いのことを見つめ直しなさい。あなたがこの人を選んだ理由を問い直してください」
「あー、そうだな」
「はい」
回した腕に浩平の手が触れて、胸がとくん、高鳴りました。
「それでさ、覚えてるか」
今度は何ですか？
「あの頃、茜が言った言葉、俺が消えた時だけど、覚えてるか」
どうして……、どうしてそんなことを言うの？
嫌です、こんな時に。
あの頃のことを、思い出させないで。
「まぁ、忘れるなって言っても、覚えてるだろうけどな」
「私は、忘れますって、言ったから。忘れました」
「ウソつけ。ちゃんと覚えてるだろうが」
「嫌っ」
こんな嘘、すぐに見破られるのはわかっていました。
それでも言わずにいられなかったんです。
泣きたく、なるから。
「あの時があるから、今があるんだよな」
そう、ですけど、でも、悲しい思い出だから。
「あの時以上の嫌な部分、ないだろ、きっと」
「え？」
何を言うのか考えていたけれど、それとは全然違ったから。
少しびっくりして。
「あんな最低なこと以上に、嫌な部分はないだろ？」
はい？ いいえ？
そんなこと考えもできません。
わからない、何を言えばいいのか、わからないんです。
「俺は、あの時以上の最低な奴にはならないからな」
「……はい」
そう返事をするだけで。
「おまえがいたから帰ってこれたし、おまえがいたから帰ってきたかった。俺が茜を選んだのはなぜかって言われると困るけど、茜がいるから今ここにいるってことだな」
あなたからのプロポーズで、聞かされたあの言葉の意味。
理解していたつもりだったけれど、今初めてわかったのかもしれない。
「俺の一生はもう茜の為に使うと決めたし、茜の一生も貰うと決めた。嫌な所はいくらでも見るだろうけど、俺にはこの理由があるから」
浩平が、寝返りを打って。
私の方を向きました。
「だから、茜が嫌になるまで、側に、いて、やるから」
私の中に、驚きと、感動と、喜びと、少しだけの悲しみと。
だって、こんな顔見たの、初めてだから。
あなたの目から、流れるなんて、思わなかったから。
「はい。私も、同じ理由だから。だから。一緒に、います」
「……はは。ありがとうな」
「いいえ」
照れ笑いに、少しだけ心の締めつけが緩みます。
「浩平」
「なんだよ。そんなにおかしいか、俺が泣いたら」
「違います。目、閉じてくれますか？」
「襲う気だな」
そんなことしません。
言葉にはしたら、また何か言われるから。
「閉じてください」
そう言って。
「変なことしたら警察に痴漢って、連れていくぞ」
「閉じてください」
浩平も、やっと黙って目を閉じてくれた。
ありがとう。
大好きです。
そんな気持ちを一緒に込めて。
「むぅ」
涙の筋を、すっと拭ったんです。
「恥ずかしいな」
「まだ開けないでください」
指についたそれを、私は口元に運んで……。
私の、秘密の誓い。
家族にも、友達にも、あなたにも教えない、私だけの誓い。
この涙に誓います。
私も、あなたを選んだ理由は、一生忘れません。
「浩平？」
すぅ、と聞こえた音は、目の前の浩平から。
「浩平？」
もう一度呼びかけても、何も答えてくれない。
目を閉じてもらったそのままで、浩平は眠ってしまったのでしょうか。
こんな所で眠ったら、風邪をひくって言ったのに。
だけど、起こす気にはなれなくて。
私は浩平を置いてこたつを出ました。
浩平に当たらないように、一歩、二歩。
そうして、そこに辿りつきました。
手に持ったグラスを置いて、蛇口を少しだけ捻る。
水の音で浩平が起きないように、気をつけながら。
「っ」
思わず引いてしまった手を、見つめてしまいます。
もう暦では冬ですから、水も冷たくなっていて。
これからは炊事するのは辛くなりそうです。
でも、それが私の役割だから。
ワイングラスを念入りに洗います。
今度使う日がいつになるかは、わからないから。
それまでは綺麗でいてほしいんです。
傷つけないように、汚れが残らないように、いつも以上に慎重に。
ゆすぎも三回、念入りに。
そうして、水切りにグラスを置きました。
また、今度。
「おやすみなさい、浩平」
戸締まりを確認してから、明かりとこたつのスイッチを切って。
私は、もう一度元の場所にもぐりこみました。
絨毯の上で寝るのは馴れてないから、まだしばらくは眠れそうにないです。
このアパートで暮らしてから、ベッド以外の場所で眠るのは初めてかもしれません。
けれど、夫婦になった初めての夜だから、ほんの少しくらい変わったことがあってもいいですよね。
「浩平、ずっと、ずっと、こうしていたいですね」
答えは帰ってこないですけど。
浩平の耳には届いていないですけど。
自分に言い聞かせただけだから。
あなたの寝息を答えと勝手に思うことにします。
薄暗い部屋、馴れない寝所。
いつもと同じあなたの隣、いつもと違うあなたの寝顔。
初夜に響いた音楽は、静かな寝息のセレナード。
せっかくですから、今夜はこうして。
――セレナードで眠らせて。
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