ただの女
「香里、お疲れ」
声に、私は頷くことしかできなかった。
痛みと、怠さと、疲れ。
目を開くこともできない。
「大丈夫か」
見て、解らない？
そう言いたくはなるけれど。
もう、そんな力も残ってない。
今はただ。
眠りたい。
子供をひとり産むっていうことが、こんなに辛いなんて。
何度も話に聞いていた。
想像だってして、覚悟もしていた。
それに、怖かった。
それでも、赤ちゃんのためだって言い聞かせてた。
「起きたか」
「うん」
目を開けると、彼がいた。
もう見慣れてしまった天井を隠すみたいに。
「大丈夫か？」
聞いてくる。
倦怠感。
軽くはない。
眠る前よりも、もっとひどいかもしれない。
「大丈夫よ」
こんなに辛いなんて。
想像以上だった。
けれど。
「お疲れさま。よくがんばったな」
「月並みね」
「悪かったな」
「ふふ」
痛くて苦しい時間で。
身体を全部持っていかれそうなくらいで。
私はひとつの命を産んだ。
「…………」
やさしく撫でられる頬と。
やさしく微笑まれる私と。
温まってくる胸の中が、冷めていたはずの身体を熱くして。
この時間が愛おしくて、とても愛おしくて。
「祐一、おめでとう」
今なら解る気もする。
この気持ちがきっと幸せなのよ。
「おめでとう……って、俺に言ってどうする」
首をかしげて苦笑いしてる。
解らないの？
決まってるじゃない。
「私たちの、子供よ。あなたにとってもお祝いじゃないの？」
「まぁ、そうなんだろうけどな」
「じゃぁ、おめでとう、でしょ？」
「うぅむ。まぁ、ありがとうと言っておくよ」
祐一のその言い方が、少しおかしくて。
「ふふっ」
「今度はなんだよ」
「なんでもないわ」
あなたの言い方がそっくりだから。
でもね。
「なんだよ、気になる笑い方しやがってさ」
「なんでもないわよ」
こんな時には言いたくないわ。
いくら、親友のことでもね。
別の女の子のことをあなたに考えさせたくないの。
考えさせたくないのよ。
私は。
「ねぇ」
「ん？」
「ちょっと眠っていい？」
甘えたい。
今はそんな気分。
「遠慮はなしだ」
「えぇ。じゃぁもう少しだけ」
「ゆっくりな。俺、外出てるから」
頬から温もりが離れる。
私は閉じた目をもう一度開くしかなかった。
「ダメよ」
「ん？」
「行っちゃダメ」
もう立ち上がって歩きだそうとしていた祐一。
私は、すぐに服を掴んで引っぱった。
「わ、と。なんだよ。静かなほうがいいだろ」
「落ち着かないの。あなたがいないと」
強く、強く、引っぱった。
「……ふむ」
私から視線を反らしてる。
何よ、いまさら。
恥ずかしがるような人かしら。
「でも、子供の顔も見てきたいしなぁ」
「んっ」
「いてっ」
服を離して。
背中をつねった。
強く、思いきり、あとがつくくらい。
「痛い、やめろっ」
「ふん」
知らないわ。
そんなに子供のがほう大事？
私はね。
あなたに側についていてほしいの。
ずっと。
「はぁ。要は、俺にいてほしいんだろ？」
「そうよ。決まってるじゃない」
「……負けた」
「ふふ」
あっさり負けるのね、今日は。
「手、握っててくれる？」
「はいはい。今日はお姫様の仰せのままですよ」
「今日だけじゃなければいいのにね」
「それだけは勘弁してくれ」
握った手が強く締めつけられる。
「あら、どうして」
「解ってて言ってるだろうが」
「少なくとも、授乳くらいは私がするわ」
「後は俺に全部させる気だろっ」
「当然よ」
「……はぁ」
「ふふ」
いつもなら、しつこく食い下がるのにね。
解ってるけど。
祐一なりに気をつかってくれてるのは。
「寝るわね」
「あぁ。ゆっくり疲れ取れよ」
「うん」
ありがとう。
眠りたかった。
でも、眠れなかった。
身体はすごく疲れているのに。
頭では眠っていたいと思うのに。
どうしても眠りにつけなかった。
なぜ？
ひとつだけ、その答えを持っていた。
「祐一」
「ん？ まだ起きてたのか」
「眠れなくて」
「まぁ、初産だしな」
「そうなの？」
「いや、知らないけど」
私もそんなことは聞いたことはないわ。
でも、そうなのかもしれないわね。
一度でも経験していれば、辛さが解るもの。
母さんたちの言葉だけじゃ経験にはならない。
そういえば。
「ねぇ、祐一」
「なんだ」
「母さんは？」
初めて気がついたわ。
目を覚ましてからずっと祐一以外誰もいないこと。
「あぁ、秋子さんや名雪と赤ん坊見てるはずだけど」
「そう」
「呼んできてほしいのか？」
「ううん。逆。今は二人だけのほうがいいから」
二人だけじゃないと、話せない。
あまり他の人に……母さんや名雪たちにも……聞かれたくないから。
「とにかく、今は眠れよ。疲れたまんまも辛いだろ？」
「ダメ」
聞かれていたら、できないのよ。
眠れないわけは。
「ダメって。眠るって言ったのはおま……」
「眠れないわ。決めてないんだもの」
私の言葉に。
祐一はふしぎそうな顔をする。
「決めてないって？」
解らない？
こんな簡単なこと。
「鈍感」
「ひどいこと言うなぁ」
「鈍感よ。決めてないことって、ひとつしか思い浮かばないと思うけど？」
解らない？
私たちは決めてないのよ。
「出産費用？」
「バカ」
いつも思うわ。
この人は、冗談と本気の区別ができないところが一番悪いところ。
「名前」
「名前。あぁ、なるほどな」
「決まってるじゃない」
「悪かった、悪かった。でもさ」
「でも？」
「別に今すぐじゃなくていいだろ。起きてからでも」
「ダメよ。約束、覚えてないの？」
「覚えてはいるけどなぁ」
祐一が、分娩室に入る前に言ったことよ。
生まれたら、決めておいた名前を教えてくれるって。
今まで、何も決めてないって言ってたのに。
今日になって突然。
「じゃぁ、いいじゃない」
「疲れてないのか？」
「気になって眠れないよりはいいわよ」
そう。
あなたの考えなんて、バカでも解るんだから。
きっと、誰だってね。
「解った、解ったから。身体起こすなって」
起きようとした私を押し止めてくる。
「でも、解ってるんだろ？」
「何が？」
「はぁ。まぁいい、まぁいい」
首を振って項垂れてる。
解ってる？
決まってるじゃない。
あなたは、私の何を見てきたの？
「じゃぁ、言うからな」
「えぇ」
あなたは本当に見ていたの？
私の何を？
「嫌よ」
彼から発せられたその名前。
瞬間に私は返した。
「……は？」
「嫌って言ったのよ」
自分が思っていたよりは冷静だった。
もっと怒りが込み上げてくると思ってた。
不思議ね。
心はかき乱されてない。
どろどろになるかと思ってた。
どうしてかしら。
「そんな名前、嫌よ」
「嫌って、お前」
「私たちの子供よ」
「そうだよ。だから」
「だから、嫌なの」
祐一の反論を聞く気もない。
同じことだから。
「俺たちの一番大事な子だろ？」
「どっちのこと？ あの子？ 赤ちゃん？」
「……どっちもだ」
「なら、尚更よ」
不思議ね。
言葉ではキツく言えるのに。
どうしてこんなに頭の中が静かなの。
「なんだよ、それ」
「あの子は、あの子だけよ。赤ちゃんはあの子じゃない」
「それは……」
彼が、私の言葉に初めて息を飲んだ。
「あの子は妹よ。私の娘なんかじゃないわ」
「だけどな」
「嫌よ。絶対に嫌」
「香里」
あなたは、私の何を見ていたの？
こんな言葉、本当の事言ってるとでも思ってるわけ？
「わかった。とりあえず考えておいてくれ」
「嫌」
「はぁ」
「ねぇ」
私の本心は解らないの？
解ってくれないの？
一緒にいたのに。
あの子よりもずっと長く。
あの子よりもずっと側に。
それなのに、あの子と赤ちゃんは別って。
そんなすぐ見破れる嘘、簡単に信じるの？
バカみたい。
「私を見て」
私がどんな想いをして、あなたと生きてきたのか。
解らないの？
「え？」
「私だけを見て」
見てくれれば解るでしょ。
「あ、あぁ」
「ずっとよ」
ねぇ、解って。
「約束して」
「ずっと一緒だ」
わたしはね、祐一。
「私、弱いんだから」
「知ってる」
死んでいったあの子に。
「私、弱いの」
あの時からずっと。
「弱いの」
嫉妬しているだけの、ただの女なの。
だから、私はあなたの側にいる。
あなたが嫌になっても側にいるわ。
別の女の子のことなんて。
あの子のことなんて。
あなたが考えなくなるまで。
私は。
ずっと側にいる。
投票結果
KOU (採点:5)
香里の必死で、深い想いを見れた気がします
夏葵 (採点:3)
題材は面白いんですが、最後のまとまりに欠けたかなと。
神代 悠 (採点:4)
うむ、文句無しの良作ですね。香里の心情がストレートに伝わってきます。
荒野草途伸 (採点:5)
香里贔屓といわれようとなんだろうと、この作品に５点を捧げます！
taka (採点:3)
切ないですね・・・。過ぎた嫉妬は、破滅に繋がりますが。
YOSHI！ (採点:5)
弱くて儚い香里の心が綺麗に描かれていてとても良かったと思います。
ヘキサ (採点:3)
香里のいじらしさや、祐一のやさしさが良く出ている良い作品でした。
十七夜 (採点:2)
あゆ・・・・じゃなくて栞だよね？
ugen (採点:4)
ありがちかと思えばそうでもなかった、こういう香里もありだと思う
Alice (採点:3)
最後まで読んでタイトルの意味を理解した。なんというか、言葉にするのが恥ずかしい部分をダイレクトに言っちゃってるなぁ〜という感じ。私としてはそこそこ高評価。栞を匂わせる文章とかもあれくらいなら良いんじゃないかな〜。むしろ、栞って名前にするってラストが待っていたら一瞬で評価が暴落していたかもしれないですね。
藍翔 (採点:5)
香里の弱さを書いた作品ていうのは、やっぱりいいですね。
naoki (採点:5)
誰だって、好きな人には自分だけを見つめてもらいたいですよね。
Kanade (採点:3)
死して尚、姉の傷になる妹、というのはやっぱり痛いです。
ASKA (採点:3)
わかるような気がしますね、香里の言葉
Ｇすぽると (採点:3)
香里は普段隠している激しい感情が表に見えた時、強烈な魅力を発しますね。
橘征五郎 (採点:2)
短く切った文節は逆効果でリズムが悪い。女性心理及び口調の勉強不足か、読んでいて違和感を覚えた。出産をテーマにした本は多いので、女流作家の本を読んで勉強しよう。タイトルも弱い。
十七夜 (採点:3)
本当の香里はきっとこんな感じなのかもしれませんね。
コーダイ (採点:3)
香里の嫉妬がいいですね〜
紅 虹葉 (採点:3)
う〜ん、好きな人を取られたくないかおりん・・・かわいいですねぇ。設定は暗めっぽいですが・・・（＾＾；
naka (採点:4)
香里の感情が良く出ていますね
Doll (採点:4)
最後で鳥肌が立ってしまいました。本当に当り前のことを書いているだけで、だからこんなに強い言葉なのかなあとか考えてます。
かずき (採点:1)
だめだ・・・、祐×香は受け付けない・・・・。
フール (採点:5)
妹にも、娘にでさえも負けたくないという香里の心が出ていて、すごく良かったです
kuryu (採点:3)
香里らしさがでてて、よい作品だと思います。これからもがんばってください。
グＥ (採点:2)
最後のほうもう少し書いてくれるとよかったように思いました。
神崎隆一 (採点:2)
もっと先が読めない展開を……。文章は読みやすくていいんですけどね。
Ｇａｒａ (採点:1)
個人的には、人の親にまでなってなお、自分を「只の女」として甘える事を肯定してる女は嫌です。「母親」は「只の女」である前に「母」であって欲しいです。「女であること」を「わがままを言う理由」に出来るのはせいぜい結婚前までかと
Ｖｉｓ (採点:5)
感想云々の前に、話に飲まれました。香里の弱いところ、もう亡い妹に対する嫉妬、めでたいイベントにそういうお話がかぶって、一言では言えない複雑さな心境です。
ひゅう (採点:2)
個人的に北×香なもんで・・・。あと何かインパクトが足りない・・・。
すなふ (採点:2)
面白かった、とはいえないものの、なるほどな、と思わされる作品でした。
全採点
5点 : 15
4点 : 38
3点 : 91
2点 : 51
1点 : 11
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