ノート
お姉ちゃんが無口になるたびに、私は昔からどきどきしたものだ。
両親やお姉ちゃんが何か隠しているのはなんとなく気づいてた。まず必要以上に明るいお父さんとお母さん。そのくせ目をそらした瞬間悲しそうな色を映す。それを見る度にいちいち落ち着かない気分になった。
さらに落ち着かなくなるのはお姉ちゃんの態度。口数が減ったお姉ちゃんはひどく気になる。お姉ちゃんが無口になるのは、昔から私に何かを教えてくれる前兆だったから。
親戚の家で隣同士に布団を敷いて寝たときは、懐中電灯を持って潜り込んできた幼い私に、わざわざ親戚一同で姉妹に伏せていた祖母の死を教えてくれた。それからというもの、お姉ちゃんは私にいろいろなことを惜しみなく伝えた。そのほとんどが「大人」の「子供」の部分、まさか私たちの耳に入っているとはつゆにも思われていないであろう情報だった。私は今までに聞いたことも想像もしたこともない世界の話をされて、頭を整理するためにとても莫大で心地のよい時間を費やしたものだ。その度に私の視界は広くなった。
ほくそ笑む、という表現をまるで世界中で独り占めするような笑い方をして、いつもお姉ちゃんは教えてくれる。
「栞。――ってあったでしょ？ あれは本当はね」
クリスマスの日に聞いたその話は、整理するのに一体どれだけの時間をかけたのだろうか。自分でも全く覚えてない。経過したけして少なくない日数の分だけ考えていたというのが妥当だとは思うけれど、もっと短い時間に感じた。
結論だけが明白だった。
私は、次の誕生日まで、生きられないらしい……。
もし好きな人ができたらその人の言葉を溜め込んでおこうと思って衝動買いした綺麗な空色のノートに、とりあえず代理ですねと祐一さんの話した言葉を書き込む。
「『オレのことはお兄ちゃんと呼んでいいぞ』……と」
１ページ目から何か違う気がしたが、言霊にはすべて価値があるんだと変な理屈で無理やり自分を納得させることにした。
私がいなくなる前に、もう一度くらい見返せたらいいなと思う。このノートが不要になる日が来るという希望はすでに持ちあわせていない。今が楽しいし、私には今しかないことがわかっているんだから。
このノートは結局１回書き込んだだけで、カッターナイフと一緒に机の引き出しに放り込むとその存在をすっかり忘れてしまった。その時は祐一さんと知り会ったばかりで、彼と会ってアイスクリームごしに一緒の時間を過ごすのが楽しくて仕方なかった。
そのうち祐一さんに告白されて、彼と私がそれぞれ住む世界のカベをはっきりと意識した。「私、ダメです」と口にして、そのカベの存在が私の中で曖昧になっていくのがわかった。
ダメですよ、祐一さんにとって私は風邪でちょっと休んでるただの下級生なんですから。そこまで徹底した言葉を紡ぐことはできなかった。
家に帰ってきて、一人になって、一週間ぶりに私は泣いた。
ダメだ、やっぱり祐一さんがほしい。失いたくないよ。取り返しのつかないことをした後で、未来を生きたいもう一人の自分が私の瞳からとめどなく水をこぼさせていた。
噴水の公園に足を向かわせたのはどちらの私だろうか。三日ぶりの水の匂いは昼と夜とでまったく違うようにも感じられた。
ただ、なんとなく祐一さんががいるような予感がしてた。
私はそこで彼に謝罪し、隠してた負担をちゃんと彼にも背負わせて、私の気持ちを伝えた。そして私たちは彼氏彼女になった。
奇跡なんてあてにしていなかったけれど、私が次もその次もずっと自分の誕生日を過ごせるようになったのは、祐一さんがいてくれたからにほかならない。私を特別に思ってくれる人がいることが、どれほどの生きる糧になったかは計り知れない。
たとえば祐一さんが喫茶店で手を振って、私とお姉ちゃんを引きあわせた日の夜。
「なに、このノート……『お兄ちゃんと呼んでいいぞ』ってこれ書いたの相沢君？」
「あ！ それだめだよー！」
慌ててお姉ちゃんの手からノートを取り上げたが、「へー相沢君あんたのお兄ちゃんになるの」と容赦なくつつかれた。
ふくれた私にお姉ちゃんは笑った。含み笑い。私の大好きなお姉ちゃんの笑い方。私に向けて。
また見ることができたんですよ、祐一さん。本当にありがとう。
清潔な色のベッドで目を開けたとき、私はお父さんやお母さんがいることも構わずに、まっさきに祐一さんの頭をよせてキスをせがんだ。祐一さんは照れるように時々横に目を走らせたけど、ちゃんと唇を重ねてくれた。ドラマと同じで両親はあまりいい顔じゃなかったけど、同じく側にいたお姉ちゃんは、私たちを見て「お兄ちゃんねえ」と笑っていた。
ブラウスの上に落ち着いた色のカーディガン、それとお店の人が勧めたほどきわどいとも思えないスリットの入ったタータンチェックのスカートを身に付けた自分自身を鏡に映してみる。昨日自分で揃えた前髪が微妙に短くなっているのが気掛かりに思えて、２、３回手で強く撫で付けた。
それらを手早く済ませ、机の上に放ってあるスケッチブックと鉛筆をつかんでドアに向かった。
と、外視野にスカイブルーが映った。
「いけない、出しっぱなしだった」
ひとりごちて私はすぐにノートを机にしまう。昨日の分の日記をつけてから出しっぱなしだったようだ。ここにこのままにしておくと、「親切にも妹の部屋の窓掃除という慈善行為をしにきた」お姉ちゃんに「事故的に」中を見られてしまう危険でいっぱいだ。日記は誰にも見せない。
私は手にしたついでにぱらぱらとページをめくってみた。まだ１０ページくらいが空白だった。もし、たとえこれが全部埋まっても、またノートを買えばいくらでも私の言葉を満たすことができる。わたしの、過去と未来の言葉は、これからも綴られていく。
「……浸ってる場合じゃないな」
祐一さんを現在進行形で公園に待たせている現在の状況を思い出して私は我に返った。自分から呼び出しておいて大遅刻ではダメ人間にも程がある。
そうは思いつつも家を出た私は、歩くスニーカーのつま先でリズムを取って遊んだ。半年前の自分からは信じられない今の気分の軽さには、キャラメル色のダッフルコートを着ていたもうずっと会っていない女の子の「運命だよね」という言葉が不思議とぴったりきた。
止まっていた私の時間はまた動き出した。絵だってずいぶん上達したはずだ。
「さあ、今日こそ祐一さんには私の絵をキュビズムだなんて言わせないぞー」
とりとめのない決意を思いながら私ははっきりと自覚していた。
私は成長している。
Note - In other words what we're saying sounds, precious memories, &
future called "unwritten"
投票結果
KOU (採点:4)
栞が可愛くて、香里が隠し味になってますねぇ。グットです。
ａｓｈ (採点:1)
「すっかり存在を忘れてしまった」はずのノートがひょいひょいと脈絡なく出てきて、それまでの流れとのつながりがつかめません。栞の心情を綴っていると言うよりも、作者の自己完結だけと言う気もします。
Manuke (採点:5)
穏やかなリズムで、栞というキャラクタが良く描けていると思いました。
荒野草途伸 (採点:4)
この栞ちゃんは、なんだか力強いですね。それもまた良し。
Alice (採点:4)
短いながらも充分伝わってきた。良いＳＳだと思う。Ｎｏ．１１と似ているけれども、これとはまた別の道で同じ結論に行こうとしている。読み比べてみて面白い。ＳＳコンペだからこそという感じ。内容も良い。ノートというタイトルもしっかりと意味を持っている。ＳＳらしいＳＳ。冒頭の香里が栞に対してとっているスタンス―を語る栞が凄く良い。そのシーンを想像してみて新鮮な気持ちを思い出した。このＳＳへの評価は、この部分につきる。
naoki (採点:3)
悪くないです。ノートに書かれているのは、白紙と言う未来ですか。
ugen (採点:5)
小道具をうまくつかっていて違和感のない栞と香里の話に出来上がっていた
藍翔 (採点:5)
何も考えずに満点を入れてしまいました。
taka (採点:3)
栞、すごくいい感じに書けてますね・・・。可愛いです。
橘征五郎 (採点:4)
時系列が微妙におかしいところが一箇所。淡々とした語り口は演出だろうが、淡々としすぎてデート前の浮かれた雰囲気が伝わらない。エピソードや文体に過去と現在の対比を意識させてみると良いかも。「ノート」というタイトルのわりには小道具としてのノートの扱いが軽い。もっとメインに据えてエピソードを絡めて。文章力はなかなか。
ASKA (採点:3)
ドラマ好きな栞らしい話です
かずき (採点:4)
うまいなあ、ちょっと栞の復活の所が納得いかんけど。
コーダイ (採点:3)
栞がとても可愛く書かれています。
ケイ (採点:5)
面白かったです。特に最後の英語のところがカッコよかったですね。ただ、「私は成長している」でなく、「自分の道を歩き続ける」とかのほうがよろしかったのでは？と思いました。ありがとうございました。
グＥ (採点:3)
ほのぼのとしていてよかったと思います。ただ、描写不足だと感じるところがちらほらとあるのが残念でした。
naka (採点:4)
とにかく文章のまとめ方が凄いです。
しゅう兵衛 (採点:3)
3.5と言う事で…（＾＾；
まちゃる (採点:5)
思わず栞シナリオの色々なシーンを思い出しながら、幸せそうな栞に暖かい気持ちになりました。
Ｂ・Ｃ (採点:3)
「今」を「生きている」栞がとても幸せそう。なんか小説風で良かった
Ｇａｒａ (採点:1)
設定と状況説明だけでストーリーは皆無。ムードを読ませるタイプでも無し…書きたい物が伝わってこなかった
神崎隆一 (採点:4)
栞の健気な感じを出した文章がとてもいいです。あとむだに改行入れないのも気に入りました。
TAZO (採点:5)
素晴らしい。ラストの「私は成長している。」には怖気が走った。名文。
匿名希望 (採点:4)
いかにも栞らしいお話ですね。冒頭の掴みといい、ラストの引きといい、格好良くてかなりお気に入りな作品です。
舞耶 (採点:3)
何気に香里さんアピールしてます?祐一君に・・・（笑）
トリプル (採点:5)
栞の独白の表現が好きでした。適度にギャグもまじていてよかったです。
神代 悠 (採点:5)
最高！ それ以上言う必要ないでしょ。
すなふ (採点:4)
書き出しは巧みで、引き込まれる。ラストの締めもgood。もっぱら回想で進んでいくため、一本調子になってしまったのが惜しい。
はぐ (採点:1)
「読むのは疲れました」 女の子なのに、いきなり「〜したものだ」で始まったので、いささか脱力して読み始めました。そこにしても最後にしても、かっこよく見せたいんだとは思うけど。それに似合うだけの本文を書けてないので逆に読んでてひいてしまいます。
全採点
5点 : 16
4点 : 42
3点 : 82
2点 : 35
1点 : 7
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