SSこんぺ No.088 : 『if...』

『if...』

『もし』あの時、ああしていれば。
『もし』あの時、俺に力があれば。
『もし』あの時、俺が傍にいたのなら。
あんな事は起こらなかったハズなのに……

ぴぴぴぴぴ……
カチッ。
「はぁ……」
以前と違う目覚ましで目が醒める。
布団を剥ぎ、背を伸ばす。
憂鬱な一日が始まる。

服を着替え、誰も居ない台所へ向かう。
「おはようございます」
返してくれる人がいないのは判っていても、習慣で言ってしまう。
『おはようございます、祐一さん』
そう言ってくれた秋子さんは、今、此処には居ない。
あの事故のショックで、未だ目が醒めない。
のそのそとトースターにパンを入れ、自分で珈琲を淹れる。
味気ない朝食を、たった一人で食事を取る。
バターだけ塗ったパン、味も匂いも薄い珈琲。
ハッキリ言って、不味い。
だが、喰わなければ身体が保たない。
パンを珈琲で流し込み、食事を終える。
「行ってきます」
誰も応えないと判っていても、俺は口に出した。
玄関を開けると、優しい風が頬を撫でる。
緩やかに春が訪れていた。
時刻は八時になる一歩手前。
歩いても余裕で間に合う時間だ。
隣りに誰の温もりもなく、長い通学路を一人歩く。
少し前の喧噪とは違い、水を打ったような静けさだ。

「よぅ」
校舎の敷地内に入ると、誰かが声を掛けてきた。
「なんだ、北川か」
「なんだとはなんだ」
くだらないやりとり。
いつもの会話だ。
「……なぁ、相沢」
「……なんだ？」
「水瀬さんは――」
「名雪の話をするな」
「……ワリィ」
キーンコーンカーンコーン。
人気のない校庭にチャイムが鳴り響く。
「しまった……」
「行くぞ、北川っ」
「ああっ」
ダッシュで昇降口へ向かう俺達。
こうなると石橋との競争だ。
日頃鍛えた脚力で教室へ急ぐ。
「何とかセーフか」
「だな」
窓際の席に腰を下ろすと、すぐに石橋がやってきた。
「あー、出席をとるぞ」
次々に名前を呼ばれる。
その中に美坂香里の名前はない。
「……今頃どうしているんだろうな」
「さぁ……」
栞の死、その日を境に香里は学校を去った。
香里が去る前日に俺に告げた最後の言葉、
『この街は、哀しすぎる出来事が多すぎたわ』
……確かにな。
この街は哀しすぎる出来事が多すぎた。

俺達の学校で聞いた、あゆの最後の願い。
あの日を境に、あゆは俺の前から姿を消した。

秋子さんの事故以来、笑わなくなった名雪。
自室に籠もり、未だ出てこない。
秋子さんの意識も戻らないままだ。

ものみの丘で挙げた、真琴との結婚式。
その最中に真琴は消えた。

夜の学校で繰り広げた魔物との――いや『まい』との戦い。
最後の一匹を仕留めた後、舞はそのまま帰らぬ人となった。

誕生日に死ぬと医者から宣告された栞。
医者の言葉通り、栞は永遠に笑う事はなかった。

舞の一件以来、笑いもせず、泣きもしない佐祐理さん。
この学校を去り、その後、何処にいるのかさえ判らない。

真琴が消えた後、以前のように頑なに他人に心を開かない天野。
彼女の心は以前より、更に深い哀しみに覆われている。

「水瀬――は欠席か」
石橋の言葉で我に返る。
「以上でホームルームを終わる」
淡々としたホームルームを終えると、石橋はそのまま去っていった。
「なぁ、相沢」
「なんだよ」
「もし、もしもだ」
「だから、なんだよ？」
北川の顔がいつになく真剣だ。
「もし、あの時こうしていれば、と思ったことはないか？」
……あるさ。沢山ある。
あの時、俺が気付いてさえいれば。
あの時、俺が力になることが出来たなら。
そんな事は腐るほどある。
「……あるな。一つだけ」
「なんだ？」
俺は窓の外を見つめながら、
「……俺は、この街に来なければ良かった」
心とは裏腹に、口から出た言葉はそれだった。
「……なんでそんな事を言うんだよ！」
北川の顔が怒りに染まる。
「来い！　相沢！」
北川は俺を無理矢理立ち上がらせ、教室の外へと連れ出す。
俺は抵抗する事もなく、自然に従う。

「授業、始まったな」
一限目の開始を告げる、始業のチャイムが校舎に鳴り響く。
「授業なんてどうだって良いんだよ」
苛立つように北川が俺の言葉を吐き捨てる。
「さっきの言葉、本音なのか？」
「ああ」
「嘘を言うなッ！」
「嘘じゃない」
「お前はそんな事を言うヤツじゃないだろ！」
「俺はこんなヤツ――つぅっ！？」
「ふざけるな！」
北川の拳が俺の頬を捉えていた。
俺は不意の攻撃に抵抗も出来ず、地面に崩れた。
「なんでだよ！
お前らしくないじゃないか！
いつものお前は何処へ行ったんだよッ！！」
北川の言葉が胸を貫く。
それと同時に沸々と沸き上がってくる感情。
……怒り。
「お前に……お前に何が判るッ！！」
怒りに身を任せ、俺は北川を殴りつける。
「わからねぇよ……判る訳ねぇよ！　お前は何も話してくれないからな！」
言うが早いか、再び俺を殴る北川。
「お前は何をした！？　俺に出来ない事も出来たハズじゃないか！
なのに、なんで何もしないんだよ、動こうとしないんだよッ！！」
「黙れ！　俺だって……俺だってやれるだけの事はやったつもりだよッ！！」
「嘘を言うな！　美坂だって、水瀬さんだって……
お前次第ではあんな状態にはならなかったかも知れないだろ！」
「全部……俺のせいだって言うのか？」
「……違う。そうじゃない。
お前に出来て、俺に出来なかった事があるハズだろ？
それをお前はしなかった……その上、こんな事まで平気で言いやがる。
それが俺には許せなかったんだよ……」
北川の頬を涙が伝う。
俺は何も言い返す事が出来なかった。
「なあ……もう一回だけ、訊くぞ？」
「……ああ」
「もし、あの時、こうしていれば、と思った事はないか？」
「ある」
「なんだ？」
「俺に出来ることをするべきだった」
今度は嘘じゃない。
「……判った。
今、お前に出来る事はあるのか？」
北川は満足そうに微笑む。
「あるさ。一つだけだが」
「それは、今すぐ出来る事なのか？」
「ああ、そうだ。
そして、今すぐしなきゃいけない事だ」
北川は大きく頷くと、
「……判った、後のことは俺に任せろ。
……行ってこい！　相沢！！」
「……ああ！」

北川を背に、俺は走った。
一分、一秒でも早く彼処へ向かうために。
まだ間に合う。
いや、間に合わせてみせる。
通学路を朝来た方向とは逆に駆け抜ける。
目的地は――
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
全速力で駆け抜けたせいか、呼吸が乱れている。
呼吸を整えながら、水瀬家のドアをゆっくりと開ける。
「……ただいまっ」
誰の返事もない、人気のない家。
汗だくになった制服のジャケットを玄関に脱ぎ捨て、家へ上がる。
向かう先は名雪の部屋。
プレートが掛かった部屋は、あの日以来閉ざされている。
そして、名雪の心も。
俺は大きく深呼吸してドアを叩いた。
「名雪。聞いてくれ」
「……」
返事は無い。
「聞きたくなければ、聞かなくても良い。
俺はお前に伝えたい事がある。
今までやらなかった事、出来ないと思い込んでいた事。
それが元でこんな事になってしまった。
……だから」
俺は一旦言葉を切り、自分にも言い聞かせるように話し始めた。
「……名雪。
俺には奇跡は起こせない。起こせていたらこんな事にはならなかった。
でも、一つだけ。たった一つだけ出来る事がある。
俺はお前の傍にいる事は出来る。
ずっと、いつまでも。
あゆや栞、舞に真琴。
天野や佐祐理さん、それに香里や秋子さん。
……みんな、俺のせいでいなくなってしまった。
……みんな、俺のせいでおかしくなってしまった。
だから……だから……ッ！！
俺は……俺は……お前までも失いたくない……ッ！！
これ以上、何も出来ない自分でいるのは嫌なんだ……ッ！！」
知らぬ間に頬が濡れていた。
気付かぬうちに涙が溢れていた。
「……名雪。
こっちに来たとき、待ち合わせした場所で待ってる。
……それじゃ」
名雪の返事を待たず、俺は名雪の部屋に背を向けた。

「ふぅ……」
七年振りに帰ってきた時に座っていたベンチ。
俺は再びそこに腰を下ろした。
駅からは絶え間なく人の波が吐き出されている。
あの時振っていた雪とは違い、桜の花弁が舞っていた。
空を見上げる。
何処までも抜けるような青空。
俺はベンチに深く腰を下ろし、じっと待つ。
時刻は一時を回ったところだった。

薄暗い部屋の中。
祐一の言葉が胸に突き刺さる。
哀しいのはわたしだけじゃない。
傷ついたのはわたしだけじゃない。
「……ひっく、うっくぅ……」
涙が溢れる。
お母さんが眼を醒まさなくなって、何度泣いたか判らない。
わたしは弱い人間だよ、祐一。
祐一みたいに強くはないよ……
でも……今は違うよ。
祐一が勇気をくれたから。
祐一が背中を押してくれたから。
だから、行かなきゃ。
祐一が待ってる。
あの場所で、わたしを待ってる。

ぽかぽかとした春の陽気。
頬を桜の花弁が掠める。
祐一はあの時のように、じっとベンチに座っていた。
祐一が空を見上げる。
あの時のように、わたしが視界を遮る。
「……花弁、積もってるよ」
「……そりゃ、二時間も待ってたからな」
近くの腕時計をみる。
時刻は三時を過ぎたところだった。
「……あれ？
わたし、遅刻したかな？」
「……いや、遅刻したのは俺の方だな」
「……ううん、そんな事無いよ」
「……悪いな」
「謝るのはこっちの方だよ……」
「……俺が、あの時、もう少しだけ勇気を出していれば」
「違うよ、祐一」
申し訳なさそうに顔を伏せる祐一に笑顔を見せる。
「祐一は頑張ってたよ。勇気を出せなかったのは……わたしだよ」
「違う……ッ！」
「祐一、そんなに自分を責めないで……」
今にも泣き出しそうな祐一。
わたしは見ていられなくてその頭を抱きしめた。
「俺は……俺は……ッ！！」
ぽたぽたと地面に落ちる雫。
微かに漏れる嗚咽。
祐一が泣いているのを見るのは初めてだった。
「……あのね、祐一。
一つだけ、伝えたいことがあるんだ」
あの時、祐一に言われた事を思い出す。
「えっとね。
祐一は『自分は奇跡は起こせない』って言ってたけど。
あれは嘘だよ。
祐一、奇跡起こせたよ。
だからわたしは此処にいる。
違うかな？」
「……それはお前が強かっただけだ」
「違うよ、祐一。
わたしはとても弱いよ。
祐一みたいに強くないよ。
でもね……
祐一が勇気をくれたんだよ。
現実に立ち向かう勇気を。
前に進む勇気を。
わたしは祐一から貰ったんだよ。
祐一が背中を押してくれたんだよ」
祐一の頭を更に強く抱きしめる。
暖かかった。
久し振りに感じる祐一の温もり。
お日様のような祐一の暖かさ。
凍てついていたわたしの心を溶かしてくれた祐一の優しさ。
その全てを、今、感じていた。
「……ありがとう」
ポツリと祐一が呟いた。
「わたしもありがとう、祐一」
祐一から手を離し、少し間をおく。
祐一が微笑みを浮かべて、顔を上げてくれた。
わたしもそれに応えるように笑顔を見せる。
「眼、赤いよ」
「お前もな」
祐一もわたしも、目が腫れていた。
ぷっ、とどちらからでもなく笑い出す。
本当に久し振りに自然に零れた笑い。
胸の奥が暖かくなる。
「あっ、そうだ」
「なんだ？」
「これあげる」
わたしはポケットから缶珈琲を取り出し、祐一に渡す。
祐一は不思議そうに見つめていた。
「祐一への御礼」
「……随分と陳腐な御礼だな」
「酷いよ、祐一～」
笑いを隠そうとせず、無邪気に笑う祐一。
釣られてわたしも笑っていた。
春の陽気には似合わない熱すぎる珈琲。
あの時の事を想いだし、わたしはこんな事を言ってみた。
「ねえ」
「ん？」
「わたしの名前、まだ覚えてる？」
「そう言うお前だって、俺の名前覚えてるか？」
再会した時と同じやりとり。
「うん」
花弁の舞う中で……
暖かな春の陽気に包まれた街の中で……
短かったけれど、永遠とも思えるような時間を一息で埋めるように……
「祐一」
「花子」
「違うよ～」
「次郎」
「わたし、女の子……」
あの時と同じように間違う祐一。
わたしはあの時と同じように困った顔をして見せた。
懐かしいやりとりが、街を包む春風のように、今までの時間を埋めていく。
舞い散る花弁は、更に密度を増してゆく。
「さて……そろそろ帰るか」
祐一は立ち上がると、わたしに背を向けて歩き出す。
「わたしの名前……」
「そろそろ帰ろうか」
「名前……」
大好きな人と、大好きなこの街で迎える春。
満開の桜に囲まれて、
「行くぞ、名雪」
大好きな人がわたしの名前を呼び、手を差し出してくれる。
凍っていた時間が溶け、ゆっくりと流れてゆくような気がする。
「あ……うんっ」
最高の笑顔で。
大好きな人にだけ見せる笑顔で。
わたしは、祐一の手を取った。
暖かい、祐一の温もり。
もう、二度と失いたくない。

桜の花弁が舞っていた。
止まっていた刻を埋めるように、桃色の欠片が散る。
失った刻。
これから幾らでも取り戻せばいい。
今からでも遅くない。
もしも、あの時、俺が勇気を出さなければ……
この温もりは永遠に失っていたハズだ。
だから……
俺はもう、迷わない、逃げたりしない。
この温もりを失うわけにはいかないから。

投票結果

璃亜 (採点:4)
北川くんが格好いいです♪

久慈光樹 (採点:2)
竜頭蛇尾といった印象でした。惜しいなぁ……

akira (採点:4)
名雪シナリオのもう一つの形に、全てのヒロインのBADエンドが含まれているかなり悲しい作品ですね。腐っていた祐一にとって、たった一つの救いだったのは、親友の北川が『とても友達思いのいいヤツ』だった事でしょう。きっとこの作品は、彼の優しさと心遣いがなければもっと暗い終わり方をしていたと思います。

Doll (採点:1)
うーん。真琴と結婚式までやっておいてあっさり名雪とくっつくのは個人的には納得できないです。

ugen (採点:1)
いろいろな意味でよくある話

kuryu (採点:1)
オリジナリティがすごく薄い気が。。

グＥ (採点:2)
ラストシーンのほうでもう少し描写がほしかったです。

naoki (採点:3)
不自然です。話自体は悪くないですが。

り～だ～ (採点:2)
なんか内容がうすい。。。

Ｇａｒａ (採点:4)
これほど露骨に、他のヒロインは犠牲にしている事を自覚した上で名雪エンドを迎えると、後味の悪さは最強かも。でも、だからこそ名雪が救われた気はしますが。

白 (採点:4)
ダークでシリアスですねえ・・・北川カッコイイけど・・・。

かずき (採点:3)
まだ納得できる出来でした。

橘征五郎 (採点:1)
まずタイトルになんの捻りもないのは如何なものか。ストーリーが陳腐。展開が唐突。北川が単なる狂言回し。文章力が足りない。

musu (採点:1)
秋子さんが事故に遭ってから春まで部屋の中に閉じこもってたら、既に死んでると思う。

taka (採点:3)
うぐぅ・・・。悲しみと後悔が伝わってきます。

神代　悠 (採点:3)
今度は、その温もりを手放さないで欲しいものです。

全採点
5点 : 6
4点 : 22
3点 : 57
2点 : 36
1点 : 20

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