光差す場所で
春の光を柔らかに受け止める木々の間を、すり抜けるように奥へ奥へと足を運ぶ。
整地されている訳じゃないから何度も足を取られるけども、躓いても歩みを止めるわけにはいかない。
「でも、昔はもっと足を取られて、何度も転んだっけ」
そう考えると、転ばなくなったというのも立派な成長した証なのかもしれない。
確かにわたしは成長した。
わたしの身体はその時間の間に『子供』から『大人』の一歩手前にまで育った。
それ以上に、７年という時間は、私に様々な経験を与えてくれた。
では、あの子はどうなのだろう。
７年という時間はあの子にどんなことを与えたのだろう？
「………それは、今考える事じゃないよね」
それは、いくら考えても答えのでない問い。
答えを知っているのは、あの子とその場所だけだから。
だから、わたしはそこに向かっている。
「うー、確かこっちだったよね…」
何度も何度も迷いそうになって、その度に記憶の奥底にしまい込まれたおぼろげな地図を広げて、そこへの道順を思い出す。
そして、木漏れ日に照らし出された一本のか細い回廊に導かれるように、その場所はわたしの前に広がった。
まるで光の柱がそびえ立っているような空間が−
「やっと着いたよ…」
鬱蒼と立ちつくす木々の一角、そこだけ広場のように開かれた場所。
でもそれは自然がそうした訳じゃなく、人為的にそうさせられた場所。
その証拠として、今もその場所にはっきりと残されている巨大な切り株。
それでも、やがて木々がこの空間を浸食していきこの場所を取り込むのだろう。
ここで起きた悲劇と、少女の思いも一緒に。
「久しぶりだね…あゆちゃん」
わたしはこの場所にいない本当の主に呼びかける。
月宮 あゆ
この場所で起きた悲劇と共に、祐一の記憶を閉ざした少女。
たぶん祐一の初恋の少女。
そして、わたしに最初の失恋を与えた少女。
「でも、それはあゆちゃんが悪い訳じゃないんだよ…」
そう、あの悲劇がなかったら失恋が無かった訳じゃない。
あの事がなかったとしても、結果は同じだっただろう。
失恋をするに当たっての、印象が違っていただけ。
むしろ、今その事がきっかけとなってわたしは祐一とつき合っている。
「わたし…悪女、なのかな」
なぜか、そんな言葉がぽつりと口から漏れ出た。
祐一が未だ思い出せない、この場所の真実。
だけど、わたしは覚えている。
「忘れるわけがないよ…この場所で起きたことも、その後のことも」
わたしはゆっくりと、切り株に近づいていく。
そっと触れると、ひんやりとした感触が手に伝わる。
それは、この樹の生命が既に絶たれている証なのかもしれない。
もちろん、そんなことはないはずだ。
だけど、再び元の姿に戻ることを拒否するかのように、この樹は変わらぬ姿を止め続けている。
まるで、再び同じ悲劇を起こさないために、この樹自身がそう決めたみたいに。
人間の暴力によって強制的になぎ倒された巨木。
この樹は何を見つめてきたのだろうか？
そして、この樹はどんな思いで倒れていったのだろうか？
この樹は、その後どんな未来がやってくるのか知っていたのだろうか？
「あゆちゃんだったら、聞き出すことができたのかな？」
わたしには、よくわからない。
わたしは、あゆちゃんにはなれないから。
「−よっと」
わたしは思いきって切り株の上に身を横たえてみた。
乱雑に切ったせいか、長い年月風雨に曝されたせいか、背中に硬くごつごつとた切断面の感触が伝わる。
痛いくらいなのに、なぜかその感触が気持ちよかったりする。
何も遮るものがない目の前の空は綺麗に晴れていて、白い雲がふわふわと流れていく。
ぼぉっと眺めていれば、そのまま眠ってしまいそうなくらい素敵な光景。
だけど、今は眠るわけにはいかない。
眠るために、この場所に来たわけじゃないから。
「………この樹があった時、枝の上からどんな光景が見えたのかな」
今となっては、あゆちゃんしかわからない事。
わたしはもちろん、祐一もこの樹に登ることはなかったから。
だからこそ、運命はあゆちゃんを選んでしまった。
あの日、運命の鎌はあゆちゃんと未来とを切り離してしまった。
そんなのが運命だとしたら、運命は何と残酷なんだろう。
「ねぼすけさんのわたしが言うのも変だけど、あゆちゃん、７年は眠りすぎだよ」
一度だけ、お母さんに連れられてお見舞いに行った病室の光景を思い出す。
清潔そうな白いシーツの敷かれたベッドの上、様々な機械に囲まれながらぴくりともしないで眠り続けるあゆちゃん。
呼びかけても、揺すっても何の反応も示さずに眠り続けている。
その姿は、まるで御伽話の毒入り林檎を口にした眠り姫みたいに見えた。
ならば、周囲の機械は小人ということになるのだろうか。
もしそうだとしたら、眠り姫に林檎を食べさせたのは一体誰になるのだろうか。
「わたしにもっと勇気があったら、わたしが祐一に本当のことを喋っていたら、今頃あゆちゃんは目を覚ましているのかな」
眠り姫は王子様のキスによって目覚めて、そしてふたりは幸せになる。
わたしも大好きな御伽話の終わり方。
もしあゆちゃんが眠り姫なら、王子様は間違いなく祐一だろう。
だけど、わたしには祐一に伝える勇気がない。
今の関係が壊れてしまいそうだから。
今の、幸せな関係が壊れるのが怖いから。
わたしが、祐一を手放したくないから。
それだけは、はっきりと言うことができる。
「…ごめんね。わたし、眠り姫をキスで起こす王子様を奪っちゃった」
もしかしたら、これはわたしなりの７年越しの復讐なんだろうか？
７年前わたしに振り向いてくれなかった祐一と、祐一を奪っていったあゆちゃんへの、ささやかな。
もしそうだとしたら、やっぱりわたしが眠り姫に林檎を食べさせたことになる。
自分の勝手な都合のために、本当なら結ばれているはずのふたりの中を引き裂いていることになる。
「やっぱり…わたしが悪女なんだよね」
心が締め付けられる。
涙がこぼれそうになる。
このまま、この場で身を引き裂かれてしまいたい。
ぎゅっと、両手で自分の身体を抱き寄せた。
「本当は、祐一はあゆちゃんの側にいた方がいいんだよ。だけど、祐一に離れて欲しくないよ。幸せの味を知っちゃったんだよ。もう待つ辛さを味わいたくないんだよ」
誰も聞くものがいないわたしの罪の告白。
静寂な森にわたしの声だけが響き渡る。
「そんなことは…ないぞ」
その時−鳥の羽ばたきと共にひとりぼっちの空間は破られた。
「ゆ、祐一っ」
聞き間違えるはずがない。
いつだって、いつまでも聞いていたい人の声だから。
あわてて身体を起こすと、わたしが入ってきたのと同じ入り口の所に祐一の姿があった。
だけど、本当にそこにいるのが祐一なのかわからない。
だって、ここはこの街に来ることすら拒絶するほど傷ついた場所だから。
あゆちゃんとの事も、未だ思い出していないはずだったから。
そんな祐一が、この場所に来るなんて考えられない。
「…どうして、ここに？」
確かめずにはいられなかった。
何しろ、今日は祐一はもちろん、お母さんにも内緒で出かけてきたから。
もちろん、お母さんはいつものように気がついているだろうけど。
「名雪が出かけるのが窓越しに見えたから、何か思い詰めた顔をしてたから、後を付いてきた………ごめん」
「ううん、いいんだよ。それなら、これでおあいこだよ」
祐一が頭を下げる姿を見て、なぜかわたしはほっとした。
突拍子もないことをしたり、ちょっとだけ意地悪だったりもするけども、やっぱり祐一は優しいんだって再確認できたから。
それに、こっそり後を付けてしまう所はやっぱりいとこなんだなって思うと、なぜかおかしく思えてしまう。
「おあいこ…か。ということは、やっぱり７年前俺の後を付けてきてたのか」
「−あっ」
祐一が痛い視線をぶつけているのを感じて、わたしは墓穴を掘ったことに気がつかされた。
そう言えば、７年前も、そして今も、あの時わたしが後を付けていたなんて一言も言っていない。
「あっ、じゃないぞ。…まあ、俺も人のことは言えないか」
頭を掻きながら、祐一はわたしの足下に近づいてきた。
「そうか、ここから始まったんだったか…」
「祐一…思い出したの？」
今はここに立っていない巨木を見上げるように、空を見つめる祐一。
もしかして、祐一は既に思い出していたのだろうか。
「いや、まだ何かが拒絶しているんだろう、全てを思い出すことが出来ない」
「−そう」
「でも、名雪は知っている。そうだな」
「………うん」
「そうか」
何かを確かめるように、祐一はそこで言葉を切ってうつむきがちに考える。
何を考えているのだろう、そしてこれからどんな言葉が出てくるのだろう。
祐一のその姿が、わたしをとても不安にさせる。
「ならば、教えてくれ。７年前、ここで何があったのかを」
「ゆう…いち？」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
祐一は、それを知ってどうするつもりなんだろう？
全てを知った後、祐一はどうなるんだろう？
もし、全てを知ってしまったが為に今の関係が壊れてしまったら−
「大丈夫だ、名雪が考えているようなことにはならない。俺は、名雪のことが大好きだ。それだけは、自信を持って、誰に対してもはっきりと言える」
「…わかったよ」
祐一の言葉が、表情が、わたしに決心させた。
重い記憶の扉を開く事を。
「７年前、祐一はあゆちゃんと…って、この辺りは思い出してる？」
「ああ、俺はあゆばっかり追いかけてた。それは思い出している」
何となく複雑な気分。
幼い日のこととはいえ、祐一が他の人を追いかけていた事を確認しないといけないなんて。
割り切れない思いを無理矢理飲み込んで、わたしは言葉を続ける。
「………わたしはちょっと離れた場所にいたからふたりの会話は聞き取れなかったけど、あの日あゆちゃんはこの樹の高い枝に腰掛けて、祐一とお話ししてた」
「………………」
「その時、強い風が吹き抜けて、その瞬間風に煽られたあゆちゃんは…」
どうしても、そこで言葉に詰まってしまう。
その先は、出来れば口にしたくない。
誰が見たって痛々しい光景だから。
「−っ」
「祐一っ！」
その時、祐一がこめかみを押さえてしゃがみ込んだ。
祐一のことが心配でその場で立ち上がろうとして、そこが切り株の上だって事をわたしはすっかり忘れていた。
「−あっ」
足が空を蹴って、支えを失ったわたしの身体はそのまま倒れ込んで−
なのに、わたしの身体は地面にぶつからなかった。
「まったく…名雪はそそっかしいな」
わたしを柔らかく抱きかかえた祐一が、耳元で囁く。
「いくらこの高さだと言っても、怪我でもされちゃたまらないからな。あの日のあゆのように」
「祐一、思い出した…の？」
祐一の服をぎゅっと握りながら、おそるおそる尋ねた。
「ああ、やっと思い出した。俺はあゆが傷つき倒れているのが、いや、あゆを失うのが怖くて、その時のことを、この街のことを全てどこかに追いやっていた」
祐一がわたしの身体をより強く抱きしめる。
締め付けられて痛いけど、これで祐一への大切な隠し事が無くなったと思うと、どこかほっとしたような気分になれた。
「名雪が、助けを呼んできてくれたのか？」
「…うん、わたし怖くなってその場から逃げて、森の中を何度も何度も転びながら走って、出会った大人の人に叫んで」
「もう…いいよ」
身体を解放してゆっくりとわたしを地面に立たせた祐一が、そっと目の下を撫でる。
いつの間にか、わたしは涙を流していた。
でもこれは何に対しての涙なんだろう？
悲しいことを思い出したから？
ずっと祐一を欺いていたから？
それとも…あゆちゃんに対しての懺悔の涙？
「それで…今あゆはどうしているんだ？」
わたしが落ち着くのを待ってから、祐一が尋ねてきた。
「今も…病院のベッドで眠ったままのはずだよ。あの日以来一度も意識を取り戻していないはず…」
それ以上のことを、わたしは知らない。
お見舞いに行ったのは一度きり、それ以後病院に足を向けることも無かった。
薄情だと言われても仕方がないけど、わたしが行っても何もしてあげることが出来なかった。
それに、あまりにも深く知りすぎて傷つくのが怖かった。
「そうか。それじゃ…見舞いに行かないとな」
「…うん、そうだね」
「それはそうとして…」
そこで言葉が途切れた。
どうしたのかと思って祐一の方を見ると、何か続きが言いにくいのか視線が宙を泳いでいる。
「どうしたの？」
「いや、あゆに２つ謝らないといけないな、と思ってな」
「………２つ？」
「ああ、あゆのことを忘れていたことと、名雪とつき合っていることを、な」
今更だとはいっても、改めてわたしと祐一がつき合っているということをはっきり言われると顔が赤くなってしまう。
「最後のことはわたしもいっしょに謝らないといけないね」
「そう…だな」
真剣な話をしているのに、なぜか、ふたり向き合ってそろって笑いがこみ上げてきた。
くすくす、くすくす、といつまでも止まらないで笑い合っている。
それが、その日初めての笑みだということに、後になって気がついた。
「それにしても、この樹は何も悪くないのにな…」
笑いが治まって、祐一がそっと、樹の根本に触れる。
祐一は樹が切り倒されたことを知らなかった。
もっとも、教えようとしてもその言葉に耳を貸さなかったとは思う。
「仕方がない、とは言いたくないけど、けど、どうすることも出来ないよ…」
この樹は何も悪くない。
あゆちゃんだって何も悪くない。
別に、誰かが悪い訳じゃない。
だけど、起きてしまったことはもう戻すことが出来ない。
時計の針は、誰も止めることは出来ない。
「…それでも、俺達３人の中では今でもここに立っているさ」
そう呟くと、祐一は静かに立ち上がった。
今なら、わたしもそう思える。
ここに樹があったこと。
ここで起きたこと。
そして、この樹が静かに私たちのことを見続けていたことを。
きっと、今でも見守り続けているに違いない。
「それじゃ、帰るぞ。俺達の場所に」
「あ………うんっ」
その言葉と共に祐一が差しだした手。
わたしはそれにしっかりと繋ぐ。
わたし達の場所に帰るために。
祐一から離れないために。
そして、今度は３人でこの場所に来るために−
投票結果
akira (採点:5)
読んでいて切なくなりました。名雪のあゆへの懺悔の涙、全てを受け入れてもなお、7年間待ちつづけた名雪を裏切らなかった祐一、『そして、今度は3人でこの場所に来るために』 この最後のセリフも、ここにくるまでの話の流れがいいからこそ、重みを出せたと思います。いい物語でした。
久慈光樹 (採点:3)
結末として綺麗にまとまっているようにみえて、あゆには残酷すぎるような……
ugen (採点:3)
本編と微妙に矛盾するところもあるが、良いできの話
ＪＩＭＭＹ (採点:4)
綺麗に構成された話です。この世界では「カチューシャに羽リュックのあゆ」は現れなかったんですね。超自然現象が何も起こらなかった世界での、過去との決着に、現実的な苦しみと喜びを感じさせられました。
グＥ (採点:4)
七年前のことをおもい、葛藤する名雪が非常にいい感じでした。
naoki (採点:3)
祐一、あっさりしてますねー……。
かずき (採点:3)
どうもあゆがつらいなあ。
橘征五郎 (採点:2)
前半部分、文章表現が稚拙ではあるが名雪の心情はよく考察されているとは思う。話のテンションを盛り上げるための演出と、文章力を磨こう。一箇所突っ込むと、毒入り林檎を食べたのは白雪姫。眠り姫は糸車の針で指を刺した。
taka (採点:2)
名雪の葛藤がよく現れてていいと思います。ただ、名雪と結ばれる話が多すぎてマンネリ化してきたのでこの点数に・・・（汗
はぐ (採点:1)
「読むのは疲れました」 変にかっこつけた言葉じゃ女の子らしくはならないと思いますよ。感覚的な言葉を少しいれてみるとどうでしょう？
全採点
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