自分の居場所
居場所。
ボクの居場所。
離れたくなかった大切な場所。
好きな人。
ボクの好きな人。
あの人と別れるのだけは、絶対に嫌だったのに。
けれど。
ボクに選ぶ権利なんて無いことも、わかっていたんだ。
だってしょうがないんだもん。
ボクの本当の居場所は、此処じゃ無かったんだから……。
自分の居場所
風が吹いていた。
秋の、少しだけ冷たい風が。
「今まで本当に、本当にっ、色々とありがとうございましたっ！」
街で一番大きい病院、中央病院の正面玄関前で。
大勢の看護婦、そして白衣を着た若い主治医の暖かい微笑みを受け。
大きな目にいっぱいの涙を湛え、その両手にいっぱいの色取り取りの花束を抱え。
無邪気な笑みと共に。
赤いカチューシャがよく似合う頭を、音が聞こえるくらいに勢い良く下げた。
彼女の名は月宮あゆ。
脳挫傷の為に、７年間もの長い間、植物人間として昏睡していた少女だった。
「うう……だから看護婦の数が絶対的に足りないんだって……むにゃ」
それは主治医が宿直室で仮眠を取っていた時だった。
「ここにいたっ！ センセ！ ちょっと、大変なんです！ 早く起きてくださいっ！」
ゆさゆさゆさっ。
「……うぁ？ ふわぁ……なんだよ、また山田さんが病室を脱走したのか？」
「違いますっ！」
「じゃあなんだって言うんだよこんな遅い時間に。急患担当は俺じゃ無いだろう？」
「あっ、あゆちゃんが！ あの月宮あゆちゃんが意識を取り戻したんですよぉっ！」
宿直室に音を立てて駆け込んできた看護婦の表情は、驚きと喜びに満ち溢れていた。
しかしあゆが目を覚ましたと聞いた時。主治医が性質の悪い冗談だと思った程に。
もちろん付き添いの看護婦も。
そして本人すらも。諦めかけていたのだ。
奇跡など、起こる筈が無いのだと。
「おはよう、祐一君」
「ああ。おはよう、あゆ」
目覚めたあゆは、痩せ衰え全く言うことの利かない自分の身体にひどく驚いていた。
無理も無いだろう。７年もの長い間、ずっとベッドの上で寝たきりだったのだから。
しかし、困難だと思われたリハビリは思いのほか順調に進んだ。
それは一人の少年が、毎日のように病院に通い、あゆを支え続けたからだ。
少年の名前は相沢祐一。
看護婦が聞いた所によると、あゆが脳挫傷を負う原因の一端を担ったのだという。
「うぐぅ……。もう駄目。へとへとだよぉ……」
「頑張れあゆっ。あともう半分歩いたら、熱々のたい焼きが食べられるんだぞ！」
「でも。きっと、もう冷めているんじゃあないかなぁ」
「冷めてたらまた買ってきてやる。だから頑張れ、あゆ！」
一生懸命リハビリと闘うそんな健気な２人を、看護婦と主治医は温かく見守り。
そして半年が経ち。
８年目の長い夏が終わり、短い秋が始まる頃。
あゆはなんとか自立できるようになり。
後遺症の心配もほとんど無い事が決め手となり。そして今日、９月１０日。
無事退院することになったのだった。
「よく頑張ったね、月宮さん」
「えへへ……」
主治医の言葉に、あゆは照れながら頭を掻いた。
「これも、みなさんのお陰です」
「あと、そこのかっこいい彼氏の……ね」
看護婦が悪戯っぽい視線を向けたその先。
何度か見たことがある。
確か此処からそう遠くは無い、学園の制服を身に纏った少女。水瀬名雪の笑顔と共に。
看護婦たちの視線を感じた相沢祐一が、居心地悪そうに苦い笑いを浮かべていた。
「かっ、彼氏だなんてっ、そんなっ」
「またまたぁ」
「今更隠したってバレバレなんだって」
「うっ、うぐぅ」
「ははは。今日で正式に退院になるけど、定期検診はちゃんと受けるんだよ」
「はっ、はい」
「向こうの先生には話、ちゃんと通してあるから。あと、もしこの街に寄った時には」
「遠慮なく遊びに来てね。お茶ぐらい出すんだから」
「あと、あゆちゃんが好きなたい焼きも、ね」
「はい。ありがとうございますっ」
その時。
赤いカチューシャとお揃いの色のワンピースのスカートが、強い風にはためいた。
熱い涙は風と共に頬を流れ落ち。
「うぐぅ……本当に本当に、長い間お世話になりましたっ」
あゆはもう一度。
涙でくしゃくしゃに歪んだ顔を隠すように。
大きく大きく、頭を下げたのだった。
８年間、看病し続けてくれた主治医。
まだ３０にも足らない若い医師。笑顔を浮かべると目が線になるのが印象的だった。
８年間、付き添ってくれた看護婦達。
まだ名前を覚えていない人もいたが、皆、自分の面倒を甲斐甲斐しくしてくれた。
そして８年間、お世話になった大きな病院。
自分が眠り続けた深いベッド。
そして、リハビリの為に半年を過ごした病室と、移動の際に使った車椅子。
退院したら、もう自分は二度と此処に戻ることは無いだろう。
だからそれらと決別するために。
そして、この街と決別するために。
月宮正恵。今年で５０になる、柔らかい笑みが印象的な女性。
あゆの母親の伯母であり、めでたく退院を迎えた今日。
真っ先にあゆの病室を訪れた人物でもあった。
「本当に、相沢さんと水瀬さんにはお世話になりました」
病院からの帰途。
喫茶店に入ろうという正恵の提案を受け、４人は百花亭に足を踏み入れていた。
「そんな。俺の方こそ、あゆを酷い目にあわせちゃって」
真正面から丁寧に大きく頭を下げられて、祐一も慌てて頭を下げた。
テーブルの上には湯気立つブレンドが２つと、大きなイチゴサンデーが２つ。
商店街でも人気の高いこの店は、夕方でもそこそこに賑わっている。
あゆは席に着いてから、ずっと俯いて無口を保っていた。
甘いもの好きだというのに、目の前のイチゴサンデーに手を付けようとさえしない。
名雪はそんなあゆの雰囲気を感じ取ったのだろう。
「あゆちゃん。早く食べないと、溶けちゃうよ」
「……うん」
しかしあゆは頷くだけで、手を膝に置いたまま動こうとしない。
だから名雪も、目の前で溶けていくイチゴサンデーを口にすることは無かった。
「それでね。あゆちゃんの、これからなんだけど」
喫茶店の賑わいが、重苦しくのしかかる中。
ブレンドを軽く一口飲んでから。正恵は柔らかい笑みと共に、言葉を吐き出した。
「前にも言いましたが、私の実家で引き取ることになりました」
あゆの小さな身体が微かに震えた。
祐一は目を閉じ、唇を噛み締めた。
「水瀬さんのお言葉には感謝しています」
あゆを水瀬家で引き取ってもいい。
祐一が駄目元で出した提案を、水瀬秋子はいとも簡単に了承した。
名雪も反対しなかった。だから事は、簡単に済む筈だった。
「けれど、１つだけ。条件があるの」
「条件……、ですか？」
「ええ、そう」
秋子は台所に立ち料理をしているので、祐一にはその表情は判らない。
「それはね、あゆちゃんの口から私に、直接言ってくれることよ」
「ここに住ませてくれ、と？」
「ええ」
味噌汁の良い香りが漂っていた。
祐一の食欲は、いつの間にか消えてなくなっていた。
「自分のこれからの事は、あゆちゃん自身が選ぶべき事よ」
「……それは、そうですけど」
「私には、受け入れるだけしかできない。それは判ってほしいの」
そう、秋子の言うことはもっともだった。
だから祐一は、大きな喪失感に襲われたのだった。
あゆの出す結論。
そんなモノ、決まっているじゃないか。
「けれど、さすがにそこまで甘えさせていただくわけにはいかないと思いますの」
「あゆはどうなんだよ」
出した声が震える。
あゆは祐一に問い掛けられても、しばらく俯いたままだった。
「ぼくは」
「俺達と一緒に暮らそうぜ。秋子さんだって良いって言ってくれているんだ。な？」
「……ぼくは」
ゆっくりと上げた顔。そこには、儚い笑顔が。
どう見たって無理に浮かべたとしか見えない、まったくあゆらしい笑顔があって。
祐一は言葉を失った。
「ぼくは、伯母さんと一緒に北海道に帰ろうと思ってるんだ」
夕食を済ませた祐一は自室に戻り、ベッドに横になると天井を見上げた。
「ぼくは、伯母さんと一緒に北海道に帰ろうと思ってるんだ」
そう言って無理に浮かべたあゆの笑顔。それが腹立たしかった。
どうして断るんだよ。
あゆは俺と一緒に居たいんじゃないのか。
俺はこんなにも、あゆと一緒に居たいって言うのに。
どうして素直になれないんだよ。
これじゃああの時と一緒じゃないか。
「あの時、か……」
交わした指先から伝わってきた温もり。
別れたくないと。
もう二度と別れたくないと、その小さな身体を抱きしめた時。
あゆは微笑んでくれたのに。
あんなにも嬉しそうに、微笑んでくれたのに。
トントン
「祐一、寝ちゃった？」
「起きてる」
「じゃあ入るねー」
パジャマを着た名雪が部屋に入ってきても、祐一は天井を見上げたままで。
名雪は微かに寂しげな表情を浮かべ。
それから笑顔を浮かべて、ベッドの裾にすとんと腰を下ろした。
「今、あゆちゃんの事。考えているんだね」
「ああ」
「明後日だったっけ。北海道に発つのって」
「ああ」
「もうっ。ああだけじゃなくて、ちゃんと喋ってよぉ」
「ああ」
「むー」
名雪は頬を膨らませた。
「あゆちゃんの事、手伝ってあげようと思ったけど。やめようかなー」
「手伝う？」
ようやく祐一は名雪の顔を見た。
「手伝うったって、あゆは自分で北海道に帰るって言っているんだぜ」
「でも、祐一はあゆちゃんと別れるの、嫌なんでしょ？」
幼馴染の優しい笑み。
祐一は寝返りを打ち、名雪から顔を背けた。
「それに祐一は、あゆちゃんの事が好きなんでしょ？」
名雪は立ち上がると、祐一の顔を覗き込んで、言った。
目が合う。
「あゆちゃんも祐一の事が好き。なら、２人は絶対に別れちゃ駄目だと思うの」
じっと目を見つめて、真剣にそんなことを言う名雪。
酷く恥ずかしかった。けれど目を逸らせなかった。
だってそれは事実だから。嘘をつくことはできなかった。
「あゆちゃんの泊まってるホテルの場所、教えてあげようと思って」
「どうしてお前がそんな事を知っているんだ」
「お母さんにね、調べてもらったの」
そういって得意げに取り出した紙切れには、ホテルの住所と部屋番号が書かれていた。
「いつも思うんだけど、秋子さんの仕事ってなんなんだ」
紙切れを受け取り、思わずそんなことを呟く祐一に、名雪はにっこりと微笑んだ。
「そんな事より、イチゴサンデー」
「ああ。奢ってやるよ。約束する」
「じゃあ指きりー」
「馬鹿っ。んな恥ずかしい事ができるかっ」
「じゃあじゃあ、血判状」
「あほかっ！」
名雪が取り出したもう一枚の紙切れ。
それを祐一はくしゃくしゃに丸めると、ごみ箱に放り込んだ。
「ううっ。約束破ったらはりせんぼんだからねー」
それでも微笑を浮かべ、部屋を出て行った名雪を見送り。
祐一は早速身支度を整え、部屋を飛び出したのだった。
「これで良かったんだよね……」
二階の自室の窓から祐一の背中を見送り、名雪は小さく呟くのだった。
そのホテルは駅前にあった。
受付で取り次いでもらえるように頼む。
すると５分と待たずに、あゆがエレベーターから姿を現した。
「よう」
「どうしたの？ こんな時間に」
戸惑い気味のあゆの手を強引に取り、祐一はホテルを出た。
「うぐぅ、どこへ行くのぉ」
「俺はな、お前のせいで腹が減っているんだ」
秋子さんが作ってくれた晩御飯を、祐一は珍しく残していたのだ。
「あゆは何が食べたい？」
「ぼく、さっきご飯食べたばっかりだよ」
「じゃあたい焼きでいいな」
「うぐぅ、祐一君てばごういんだよぉ」
それでもどこか嬉しそうなあゆと共に。
祐一はいつものたい焼き屋の屋台で、できたてほかほかのたい焼きを６つ買った。
「美味しいよぉ」
「飯食ったばかりじゃなかったのか？」
「たい焼きは、別腹なの」
駅前のロータリーのベンチに２人並んで座り。
あゆは３匹目のたい焼きにかぶりつきながら、嬉しそうに言った。
そしてしばらくの間。２人は無言でたいやきにかぶりついていた。
「なぁ、あゆ」
「うん」
たい焼きの包み袋をごみ箱に捨てて。
「北海道に行くのか」
きっとどこかで身構えていたのだろう。あゆの表情が崩れることは無かった。
「そのつもり、だよ」
「俺を置いて行くのか」
「……うん」
そしてあゆは引きつったような、どう見ても不自然な笑みを浮かべ。
「だってぼくの居場所。此処には無いから」
居場所。
それは大切なモノだ。判っている。
だからこそ。
俺は。
「秋子さんじゃ駄目なのか」
「違うの。ぼく、秋子さん大好きだもん」
「だったら名雪が駄目なのか？」
「違うよ。お姉さんみたいで、大好きだよ」
「なら、……俺が原因なのか」
祐一のすがるような視線を受けて、あゆは俯いた。
「祐一君のことも、大好きだよ。ぼく、みんなのこと大好き」
そして、あゆの瞳から零れた大粒の涙。
あの日のように、無理に浮かべた笑顔は、次第にひきつって。
いつしか、くしゃくしゃに歪んでいて……。
「大好きだもん。だから……、甘えちゃうのが怖いんだ」
「馬鹿。無理するなよ。大好きなんだろ？ なら、甘えちゃえばいいんだよ！」
祐一はあゆを抱きしめようとした。
けれどあゆは、その手を払いのけて。
「駄目だよっ」
そう言って、泣いたままで無理に浮かべたあゆの笑顔。
それはあの日の笑顔に瓜二つで。
「ぼくはもう夢を見ていちゃいけないんだ。誰にも迷惑をかけちゃ、いけないんだよ」
「勝手に決め付けるなよ！ 迷惑だなんて誰も思っていない！」
「正恵伯母さんね」
あゆは涙を服の袖でごしごし拭うと、ベンチから立ち上がった。
「ずっと１人だったんだって。寂しかったんだって」
そして、祐一と距離を取った。
一歩、二歩。
ゆっくりと。
「だからいつかぼくが目を覚ましたら、一緒に暮らそうってずっと思っていたんだって」
三歩、四歩。
次第に遠ざかっていくあゆの後姿。
けれど祐一は、ベンチから立ち上がることだけで精一杯で。
その寂しげな背中を抱きしめれば、何もかもが変わるかもしれないのに。
静かにつぐまれるあゆの言葉に、それすらもできなくて。
「そうやって、嬉しそうに話してくれたんだよ」
そしてあゆは祐一から大きく距離を取ると、くるりと振り返った。
その顔に、寂しげな笑顔を浮かべて。
「だから、ぼくの居場所は此処じゃないんだよ」
「ならっ、俺はどうするんだよ！」
それがただのわがままだと判っていた。
けれど、絶対に納得したくなかった。
もう二度と失いたくなかったのだ。この手から、その温もりを。
「祐一君には、居場所があるから」
「違う！」
恥も外部もなく、祐一は叫んでいた。
「俺の居場所には、お前がいなくちゃ駄目なんだよ！ 俺はお前が」
「ぼく、祐一君と出会えて良かった」
「俺はお前のことが好きなんだよっ！」
「うぐ……ぼくも、うぐっ、祐一君が、大好きだよ。ずっと、ずっと……」
「あゆっ！」
あゆは涙も拭わずに祐一に背を向けると、駆け出した。
その小さな背中に向かって。祐一は叫んだ。
「じゃあ待ってろ！ いつか俺がお前の居場所をつくってやる！」
どんどん小さくなっていくあゆの背中に。
祐一は、あらん限りの声を張り上げた。
「いつかお前を迎えに行ってやる！ だからそれまで待ってろ！ 約束だ！」
次第にあゆが見えなくなっていく。
零れた涙で視界がぐにゃりと歪んでいたから。
それでも。
祐一は約束したかった。
だって、約束は。
必ず、守られるものなのだから。
「約束だからな！ 守らなきゃ、はりせんぼんなんだからなっ！」
その声は、果たしてあゆに届いたのだろうか。
既にあゆの姿は全く見えない。
判らない。けれどそれでも、祐一はどこかしら安堵していた。
「待っていろよ、あゆ」
決意に満ちた祐一の呟きを、秋の冷たい風がさらっていった。
ＰｉＰｉＰｉＰｉＰｉ……
「んぁ」
Ｐｉ
目覚し時計のスイッチを切り、祐一はベッドから半身を起こすと大きく伸びをした。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
するとタイミングを見計らったかのように、目覚し時計の大合唱が始まる。
祐一はタオルケットでゆっくりと顔を拭いてから、ようやく名雪の部屋に向かった。
扉を開けて、やかましい目覚し時計のスイッチを手馴れた手つきでオフにしていく。
そして全部の目覚し時計を沈黙させてから、祐一はようやく名雪に呼びかけた。
「名雪、朝だぞ。起きろー」
「うみゅう」
「遅刻するぞー」
「うみゅう」
「じゃあ、起こしたからな」
そして祐一は制服に着替えてから、一階のリビングに下りた。
「あら、祐一さん。おはようございます」
「おはようございます、秋子さん」
「トースト、何枚食べますか？」
「２枚でお願いします」
「わかりました」
そして秋子が出してくれたコーヒーを飲んでいるときだった。
「そういえば、今日ですね」
小麦色に焼かれた２枚のトーストが乗せられた皿をテーブルに置いて、秋子。
「あゆちゃんが、北海道に帰る日」
「ええ」
祐一はマーガリンをトーストに塗りながら、頷いた。
本当なら学校を休んでも見送りに行きたかった。
けれど。
「見送りには行かないんですか？」
「湿っぽいのは柄じゃないんで」
苦い笑みを浮かべながら、祐一はトーストにぱくついた。
約束したから。
だから、もう大丈夫なんだ。
「ふぅああ……おはよーございますだよー」
「あらあら。すごい寝癖よ、名雪」
「うー。変な夢見たよぉ」
席に着くなり、ぐでっとテーブルに突っ伏す名雪。
「けろぴーがね、がおーって祐一を食べちゃうの」
「おいおい、夢だからって止めてくれよな、そういうの」
二枚目のトーストに手を伸ばしつつ肩をすくめる祐一。
そんな祐一に、名雪はにへら、と笑った。
「大丈夫だよ。けろぴー、祐一のこと美味しいって言ってたから」
「そういう問題じゃなくてだなぁ……」
そんな日常。
ずっとい続けばいいと思っていた。
けれど。
「ああ、そうだ。秋子さん、ちょっと頼みがあるんですけど……」
雪が降っていた。
以前住んでいた街の雪とは少し質の違う、目の細かい雪が。
しんしんと。全ての視界を覆い尽くさんばかりに。
「遅いな」
祐一は駅前のベンチに座り、ぼーっと空を見上げていた。
約束の時間は１２時ちょうど。
なのに、既に腕時計の針は１４時を指している。
もしかして約束の時間を間違えたのかな。そんな事さえ思ってしまう。
そういえば、あの街に戻ってきたときもこんな感じだったよなぁ。
名雪や秋子さん、元気だろうか。まぁ秋子さんがいれば問題ないだろうけれど。
そして更に１時間。
祐一のコートが雪にしっとりと湿り始めた頃。
少女はようやく姿を現した。
「ごめんね。遅れちゃったよ」
長い髪を赤いカチューシャでまとめた、小柄な少女。
苦い笑みを浮かべて、祐一の頭に降り積もった雪をミトンの手袋で払いのける。
祐一はそんな少女に身を委ねたまま、やれやれと呟いた。
「待ち疲れて怒る気力も失せたよ」
「うぐぅ。だって赤点取ったら補習だなんて知らなかったんだよぉ」
そう言って、上目遣いで祐一を見上げるあゆの頭を、祐一は笑顔で、ぽん、と叩いた。
「まぁいいさ。それよりも腹が減った」
「あっ、ぼくもだよ！ もうお腹ぺこぺこだよぉ」
「じゃあ、前に電話で話していた美味いラーメン屋に連れて行ってくれよ」
「うん！ そこのラーメンね、豚骨なんだけどすっごくあっさりしててね……」
あれから。
祐一は秋子の紹介で高給のアルバイトを始め。
高校を卒業する頃には、５０万近くを貯金する事に成功した。
卒業式が終わるや否、祐一は北海道での就職場所の内定をもらい。
そして、３月。北海道へと引越ししたのである。
２人がいつでも出会えるために。
あゆと自分の居場所を作るために。
「で、あゆ。お前さ、赤点だぁなんて言ってるけど学校はどうなんだ？」
「ぼちぼちだよぉ」
あゆはにっこりと微笑んだ。
「友達たくさんできたし授業面白いし。でもぼく頭悪いから、テストだけは苦手なんだ」
「ばーか、そんな事言ってたら卒業できないぞ」
「大丈夫だよっ。伯母さんも応援してくれてるし、テスト以外ならまかせてよっ」
「……なんか変わってないよな。お前ってば」
「うぐっ、痛いよ祐一君っ！」
「あはは、それそれっ」
「うぐぅー！」
１年ぶりに出会う恋人が、以前と全く変わっていないことが何よりも嬉しかった。
遠く離れて暮らすうちに擦れ違いがあるかもしれないと、祐一は心配だった。
そう、あゆは北海道に引越しすると養護学校に通い始め、知性のリハビリを始めた。
しかしさすがに８年というブランクを埋めるのには時間がかかるらしく。
最近になって、ようやく中学３年生レベルの授業が始まったのだという。
それでもあゆは以前のあゆだった。元気で、笑顔が似合って、おっちょこちょいで。
「一応ことしね、夜間高校を受験してみるつもりなんだ」
小奇麗な店内でラーメンを美味しそうに頬張りながら、あゆは祐一に言った。
「そっか。よし、頑張れよ、あゆ！」
「うん！」
大きく頷くあゆの笑顔を見て、祐一は心の底から思った。
やはり自分には、あゆが必要なのだと。
自分の居場所は、此処にあるべきなのだと。
「あ！」
ラーメンを食べ終わったあゆが、箸も置かないうちに大きな声を上げた。
「ん……どうしたんだ？」
「すっごくね、美味しいたい焼き屋さんが近所にあるんだけどねっ」
そして慌てて祐一の手を取ると、椅子から立ち上がった。
「そのお店って５時に閉まっちゃうんだよ！ 早く行かないとっ」
「わっ、ちょい待てって。勘定済ませないとっ」
「うぐぅっ、早く早くっ！」
あゆに手を引っ張られ、見慣れない街並みを走りながら。
祐一は思わず苦い笑みを浮かべたのだった。
そう、いつかのあの日も。
こうやってあゆに手を引かれて、街中を走ったよな。
「お前って、ほんと、変わらないよなぁ」
「ああん、変なこと言ってないでもっと早く走ってよぉ。間に合わないよぉ！」
雪が降っている。
以前住んでいた街の雪とは少し質の違う、目の細かい雪が。
しんしんと。全ての視界を覆い尽くさんばかりに。
そんな中、２人は走っていく。
手を繋ぎ合い。
自分の居場所を、見つける為に……。
ＥＮＤ
投票結果
ugen (採点:3)
ありがちな話だけどもできは普通
グＥ (採点:3)
祐一とあゆの別れのシーンがよかったです。
荒野草途伸 (採点:4)
祐一のご都合主義な性格とかよく出てて、良いです。
naoki (採点:2)
なんか、変な話ですね。
かずき (採点:3)
やっぱりあゆと名雪は両立できないのかなあ？
kuryu (採点:3)
リアルさが痛くて、でも、本当でよかったです。
橘征五郎 (採点:2)
北国の夏は短い。百花亭ではなく百花屋。主張が「居場所をつくる」から「居場所を見つける」に変わってしまっている。文章のレベルが低い。
浮動明王 (採点:4)
状況に立ち向かう祐一がすばらしいですね
taka (採点:4)
あゆあゆ可愛すぎですぅ。それに、北海道に帰るあたりがあゆらしいですし。
全採点
5点 : 4
4点 : 34
3点 : 68
2点 : 24
1点 : 5
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