雪が降っていた。
重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。
「……」
俺はベンチに深く沈めた体を起こして、思わずため息をつく…その息も白く凍っていた。
屋根の上が雪で覆われた駅の出入口は、今もまばらに人を吐き出している。
見上げれば、駅前の広場に設置された街頭の時計は…３時。
まだまだ昼間だが、分厚い雲に覆われてその向こうの太陽は見えない。
「…遅い」
見上げた空は灰色と、そして白のモノトーン。
もう慣れたとはいえ、体を突き刺すような冬の風、そして絶えることなく降り続ける雪。
心なしか、空を覆う白い粒の密度が濃くなったような気がする。
思わず、もう一度ため息をつこうとした俺の視界を、ゆっくりと何かが遮る。
「……」
雪雲を覆うように、女の子が俺の顔を覗き込んでいた。
「雪、積もってる…」
ぽつり、と呟くように白い息を吐き出す。
「そりゃ、２時間も待ってるからな…」
雪だって積もる。
「…あぅ」
「あぅ、じゃない。遅いぞ、バカ」
「バカとはなによぅ」
ちょっと情けない声を上げて女の子は顔をしかめた。
「ちょ、ちょっと用事があったから…」
「用事ってなんだよ。」
「……そんなのいいじゃないぃ」
「言えないんだったら、最初から言うな。」
「あぅ…」
またも情けない声を上げる女の子。
そのツインテールの髪に、白い雪が舞い落ちる。
「ていうか、何でわざわざこんなとこで待たすかな…家で会えばいいじゃん。」
「……それは…」
俺が言うと女の子はちょっと目を落とした。
「……だって、家ではちょっと…」
「ちょっと、なんだよ？」
「えっと……ちょっと恥ずかしいから…」
「……？」
首を傾げた俺に、女の子は上目遣いで俺の顔を見ると、また目を伏せた。
「……実は今日はね…」
「うん？」
「……病院に行って来て、だから遅くなったんだぁ……」
「病院？」
「……うん」
雪の中で…。
雪に彩られた街の中で…。
「どっか悪いのか？」
「……そうじゃなくて……」
「またおなか出して寝てたんだろ？だから、ちゃんと布団を…」
「そうじゃなくって……」
「じゃなかったら……」
「………祐一」
顔を上げた女の子の肩越しに降る雪は、さらに密度を増していた。
女の子はかすかに頬を染めながら、俺に恥ずかしそうに微笑んで
「……あのね……」
「……なんだよ、真琴？」


「………あたし……赤ちゃん、出来ちゃった……」


はっぴ〜・はっぴ〜・くりすます




「…そりゃ正夢だわ、相沢。とうとうお前も年貢の納め時だな。」
「……んなわけないって。」
テーブルの向こう、にやにやしながら言う北川に、俺は思わずため息をついた。
いつもの大学の学食。昼食時間はいつもの様に学生たちでごった返していた。
「でもお前、身に覚えはあるだろ？まさか、ないとは言わせないぞ。」
「……ほっとけ。」
「そうか…まこぴーもお母さんかあ…」
「…『まこぴー』って言うなっ、馴れ馴れしいっ」
「だって、『まこぴー』って感じだから、真琴ちゃんは。」
「だから、呼ぶなっ」
「はいはい。」
まだにやにやしながら肩をすくめる北川。
まったく、こんな奴に話したのが間違いだった。学食で一緒になったから、思わず今朝のあの夢のことを話してしまったけど…
「大体が、俺、夏以来帰ってないし。だから、当然真琴とも会ってない。」
「そんなの関係ないだろ。出来てすぐ分かるってもんじゃないしな。どっちかというと、３ヶ月くらいで分かるらしいから…９月、１０月、１１月…１２月。ほら、ぴったりじゃん。」
「勝手にぴったりにするなっ」
「あははは」
「ていうか、ちゃんと避妊はしてるからなっ」
俺が声をあげた瞬間、なぜか静かになっていた食堂に、俺の声が響いた…
「……恥ずかしい奴。」
「…ぐっ」
…なんでこんな時だけ、ちょっと静かになるんだよっ
はぅ……
俺は取りあえず頭を下げ、他人のフリをしてみんなの目線を避けた。
ていうか、見るなよ…大学生にもなって、避妊がめずらしいのかっ
「……避妊はめずらしくないが、それを叫ぶのは恥ずかしい。」
「て、なんで考えてることがわかる、北川？」
「口に出してるんだよ、相沢…」
……はぅ……
悪い癖だ……思うことを口に出しちゃうんだよな、知らずに。
それでよく真琴とも…
「でも、だとしたら…あれだな。欲求不満。」
「欲求不満？」
「ああ。」
北川は頷くと、人差し指を指をチッチッと振って
「ほら、３ヶ月会ってないんだろ、真琴ちゃんと？　やっぱり電話だけじゃ物足りないってことじゃ…」
「……電話だってほとんどしてないって。」
「え？」
俺の言葉に、北川はびっくりしたように俺を見た。
「……嘘。」
「なんで嘘つくかな、こんなことで。」
「ていうか、お前らのことだから毎日電話してると思った。」
「するかよ、そんなもん。」
「ていうか、真琴ちゃんが掛けて来るだろ？」
「しないって。」
……本当は、それは嘘だった。
夏前は、毎日とは言わないまでもしょっちゅう掛けてきたけど……夏休み以降は、俺もあいつも…
「……そりゃ、そんな夢、見るよ。」
俺の顔をのぞき込みながら、北川が頷いた。
「なんでだよ。」
「だって…なあ。あの真琴ちゃんと会ってもいない、電話もほとんどないじゃあ…夢だってみるさ。」
「……」
「喧嘩してるんだろ？」
「……別にそうじゃ…」
「嘘だね。」
俺の言葉に、でも北川は一言で否定すると
「そうでもなきゃ、３ヶ月もお前らが会わず、電話もなしに済む訳がない。」
「おいおい…」
「お前ら、意地っ張り同士だから顔見りゃ言い合いしてるけど、ただの夫婦漫才だし。だいたいが、そんなことしながらお前らっていつも一緒にいるからな、高校の頃も、大学でこっち出てきてからも。」
「……そんなことは…」
「なのに、３ヶ月ほとんど音沙汰なしなんて、あり得ないだろ。どーせまたしょうもないことで喧嘩してるんだろうけど、夢に見るくらいだ……いいかげん、仲直りしろよ。」
「………」
そんなことは……ないと思うけど。
思うけど……

まあ、確かに夏休み終わって試験があって。秋休みにバイト入れちゃったのが真琴は気に入らなかったんだ。
『…なんで帰ってこないのよぅ！　学校休みなのに。』
なんて、電話の向こうですごく怒ってしまって。
そうは言われても、俺だってバイトに生活掛かってるからな、ギリギリしか仕送りくれないケチな親のせいで。それに……
『なによ、あたしよりお金が大事なのっ』
…そうじゃないさ。そうじゃないけど…あいつには、言えないこともあるわけで…
『うるさい、そんなの俺の勝手だろっ』
『勝手って…もういいわよ、祐一なんて…知らないっ』
『知らなくて結構』
『……祐一の……バカっ！　もう、絶交っ！！』
結局、売り言葉に買い言葉、真琴が言って電話切っちゃって…
以来、２ヶ月、あいつから電話が掛かってこない。あいつにしては長いよな……ていうか、あいつは意地っ張りだから、俺が謝りでもしない限り掛けてこない気なんだろうな。
けど、別に俺が悪いわけじゃないのに、なんで俺が謝らなきゃなんない？俺はあいつと秋休みに帰るなんて約束したわけじゃないんだからな…
『……楽しみにしてたのにぃっ……』
……なんか、言ったのかもしれないけど。そのつもりじゃなく、何かあいつに期待させるようなこと。ひょっとしたら…多分。
だから、あいつもあんなに怒ってたのかもな……

はあ…
まあ……そろそろ電話でもして、ちょっと機嫌取ってみるかな。もうすぐ…冬休みもバイト入ってるけど、でもクリスマスには帰れるし。そのことも話してやって…
あいつ、どうせ最初はなんだかんだ言うだろうけど、それ言ったらきっと…
「…そうだな。」
俺はニヤニヤしながら見ている北川に、悔しいけど頷いてみせた。
もうすぐ冬休み…クリスマスだからな…


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


トントン

「…真琴、いる？」
あたしが部屋で本を読んでいたら、廊下から名雪の声がした。
あたしはあわてて本を閉じて、振り返って
「うん。」
言ったら、名雪はドアを開けて部屋に入ってきた。
「わたし、お風呂上がったから。真琴、次どうぞ。」
「あ、うん。」
え、もうそんな時間…
あわてて時計を見たら、時間は…８時。
「…勉強してたんだ？」
「あ、ううん、そんなんじゃないけどっ」
あたしはあわてて手を振って見せる。
名雪みたいに大学行ったりしてないから、保育士の試験なんて…夢の夢だけど。
でも、いつかはバイトじゃなくって、ほんとの保母さんになりたいな…
なんて思って本を読んでみるんだけど。これがぜんっぜん頭に入らないの。
「…あははは。ちょっと見てただけから。」
あたしは本をしっかり閉じると、立ち上がって名雪に
「いいから、えっと…お風呂だよね？」
「あ、うん。そうだよ。」
「じゃあ…」
「……あ、真琴？」
出て行こうとしたら、名雪の声。
振り返ると、名雪はちょっと首を傾げてあたしを見てた。
「……ごめんね、サンタの件。」
「え？」
「ほんと、わたしも行きたかったんだよ。だけど、急に…」
「あ、ううん。気にしないで名雪。」
名雪が頭を下げるから、あたしはあわてて手を振った。
元はといえば、あたしが急に名雪に頼んだのがいけないんだから。名雪が謝ることないんだし。
「いいよ、名雪もクリスマス過ごしたい人、いても不思議じゃないもんね。」
「そんなんじゃないんだけどね。」
名雪はちょっと苦笑。
「急にサークル、出なきゃならないことになったから。そうじゃなかったら…」
「ううん、ホント、気にしないで。代わりなんて、きっとすぐ見つかるからっ」
「……そう？」
「うん。」
ホントはまだ見つかってないんだけど…あたしは名雪に笑って見せた。
名雪、優しいから無理してあたしの頼み、聞きかねないし。
それじゃ、悪いもんね。
だいたい、悪いのは、元はと言えば…
…やめ、やめっ
考えたら腹が立っちゃうからっ
「…じゃ、あたし、入ってくるね。」
「あ、うん。」
あたしは言って、立ち上がった。
そして、そのまま廊下へ…
「………」
……？
なんだろ？
なんか、名雪…あたしをじろじろ見てる気がするんだけど…？
特に、あたしの……おなか？
「…名雪、どうか…した？あたし、なんか変？」
「えっ、あ……」
あたしが聞くと、名雪はびっくりしたみたいにあたしの顔を見た。
「うん。えっと……」
「……？」
「……お母さんには、まだ……言わないほうがいいんだよ……ね？」
「……え？」
なんの……こと？
あたしはびっくりして名雪を見た。
名雪はあたしの顔、またマジマジと見ると、にっこり笑って
「でも、体に気をつけないとね、真琴。これからは特に…」
「…何言ってるの、名雪？
「……だって……ねえ？」
まだわけが分からないあたしに、名雪はちょっと顔を赤らめて、言った。
「…もう一人だけの体じゃ、ないんだから……」
「…………え？」
「だって……お腹に祐一の赤ちゃん、いるんでしょ？」


えええええええええええええええ？？？？？？？？？？？？？


「だ、誰のお腹にっ」
「真琴の、でしょ」
「だ、誰の子供がっ」
「祐一のに決まってるよね？」
「そりゃあ……」
あったりまえよっ、他の誰かのわけ、ないわよっ
……って、そうじゃなくてっ
「じゃなくてっ! 　いません、いない、いるもんですかっ!!」
あたしはもちろん、思いっきり否定した。
何で本人が知らないのに赤ちゃん、いるわけ！？
ていうか、誰がそんなデマを…
「違うの？」
「違うのっ！　ていうか、誰よ、そんなデマ流すのはっ！」
「あ、そうなんだ…びっくりしたよ、わたし。」
「あたしの方が、びっくりしたわよぅ！」
「あはは、もうわたし、おばさんになるのかと思ったよ……」
ほっとして笑う名雪。
名雪はいいかもしんないけど…あたしは笑い事じゃないわよ……
「それにしてもさ、名雪。誰にそんな話聞いたのよっ」
「え、えっと…」
「誰？ねえ、誰っ？」
「んっと…」
名雪はちょっと頬に手を当てながら（ちなみに、秋子さんと同じ癖。やっぱり親子…）
「…昨日、聞いたんだよね、電話で。」
「誰から？」
「えっと、同窓会の連絡してた時、北川くん、そんなこと言ったから、わたしびっくりしたんだよ。」
「北川…さん？」
北川さんって、祐一の友達だよね。あんまり話したこと、ないけど……
って、何で話したことない人が、あたしのこと…
「北川さん、何であたしが妊娠したなんて言ったんだろ？」
「えっと…聞いてびっくりしたから、細かいこと覚えてないけど…」
あたしが聞くと、名雪はまた頬に手を当てて、ちょっと首をかしげた。
「…そうだよ、祐一がそう言ってたって、北川くん、言ってたよ。」
「……祐一のやつぅ！」
あいつぅ……なんでそんなデマ、人に言ってるのよっ！
もう…問い詰めてやるっ！　なんのつもりで、そんな…
「あ、真琴…」
名雪がまだ何か言ってたけど、あたしは廊下へ飛び出した。
そして、階段を駆け下りると、電話を取った。
祐一のやつぅ……いったい……


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


トゥルルルルルル
トゥルルルルルル
トゥルルルルルル

テレビを見ていた俺の後ろ、電話が鳴った。俺は手を伸ばして受話器を取った。
「はい、相沢で……」
「祐一っ」
電話の向こうの声、もちろん俺にはすぐにそれは誰かは分かった。
久しぶりのその声は、でもなにやら怒っているようで……
「なんだよ、真琴？　久しぶりに掛けてきて……」
「あんた、なんで人にデマ流してるのよっ」
「……デマ？」
いきなり……何だ、デマって？
俺はもちろん、わけが分からず
「何だよ、デマって？」
「自分で流しといて、そんなこと言うわけねっ」
「いや、だから……」
「あのねえ、祐一っ」
電話の向こう、真琴は俺の言うことなんてぜんぜん聞かないでただただ一方的に怒るばかり。
俺は一つ、息をつくと、ともかく、もう一度真琴に大きな声で
「だから、いったいデマって何なんだよ？」
「覚えがないとは言わないわよっ！　あたしが…妊娠したなんて、何でそんなデマ言いふらしてるわけっ？」

……………はい？
真琴が……妊娠？
そんな馬鹿なこと、俺が言うわけが……

……………………いや、ひょっとして……

「……真琴、あのな……」
「なによっ」
まだ喧嘩腰の真琴に、俺はともかく頭に浮かんだ疑問を聞いてみた。
「…ひょっとして、その話、北川から聞いたり……した？」
「名雪が北川さんから聞いたのよっ！それを名雪があたしに言ってきたから、だからあたしも分かったのっ」
……やっぱり。
ていうか、多分、北川というよりも名雪のボケなんだろうな……
思わず、俺は苦笑しながら真琴に
「それ……名雪の聞き間違いだと思うぞ。」
「聞き間違い？」
「おう」
まだ怒っているらしい真琴の声に、俺は説明してやる。
「俺が北川に言ったのは、この間見た夢の話だぞ。」
「……夢？」
「おう。あのな、その……お前が俺に、赤ちゃんができちゃったって言い出す夢。」
「……？」
「それを俺が北川に話したのを、北川が名雪に言って…名雪、夢だって話、聞き落としたかボーっとして聞いてなかったかしたんだと思うが？」
「………そう……なのかぁ…」
電話の向こう、真琴はさっきまでの怒りは覚めたらしく、すっかり声が落ちていた。
まあともかく、久々に真琴から電話してきたことだし……いい機会かもな。
俺はそんなことを思いつつ、笑いながら真琴に
「えっと、誤解は解けたところで……」
「……祐一、なんでそんな夢のこと、北川さんに言ったの？」
「………え？」
「…どうして？」
なぜだかまじめな声で聞く真琴。
俺はわけが分からず、とりあえず
「そりゃ……ちょっとありえないだろ、そんなこと。だからびっくりして…」
「……びっくり……？」
「そりゃあ、なあ。だって、もうずいぶんお前と会ってもないし……それに、一応、そんなことになったら困るから、そのために……」
「……困る？」
「そりゃ、そうだろ。困るだろ、お前だって。だから…」
「………そう……そうなんだ」
と、いきなり真琴が電話の向こう、声のトーンをあげると、
「そりゃぁ……嫌よっ、あたしも祐一の子供なんてっ！」
「…真琴？」
「そんな……そんなやつの子供なんて願い下げっ！！」
「おい、なに怒ってるんだ、お前？」
「うるさいっ」
また真琴は怒り出したようだった。
俺には何がなんだか、さっぱりわけが分からない。
「何だよ、急に怒って……」
「うるさいぃ！」
「うるさいのはそっちだろ。急に怒り出して…」
「怒ってないっ」
「怒ってるだろ、いきなり変な電話して、誤解だって分かったのに、まだ…」
「誤解じゃないわよっ！　あんたの気持ちがよ〜〜く分かったのっ」
「分かったって…何が？」
「いまさらそんなこと言ったって、無駄なんだからっ」
「…だから、何を…」
「うるさい、うるさいっ！」
聞き耳持たない真琴。
ていうか、勝手になに怒ってるんだ？
俺が何言ったって？
いったい……
「……何なんだよ、人の家に電話して、勝手に怒るなよ。」
「勝手じゃないわよっ」
「勝手だろ、俺がちゃんと説明したのに…」
「そんなことじゃないぃ」
「じゃあ、なんだよ。」
「うるさいっ！　自分の胸に聞けっ！」
「……なんだよ、そりゃ…」
……いきなり電話してきて、いきなり怒って……
人がせっかく、機嫌でもとろうかなと思ったのに……
「……怒るだけなんだったら、わざわざ電話してくるなよっ」
電話の向こう、わからずやの真琴に俺は怒鳴っていた。
「ええ、もうしないわよっ！　そっちもしないでよっ」
「するかっ、そんなもん！　どうせ、今年はバイトで正月も帰らないしなっ」
「あー、そうですか、そりゃよかったわっ！　あんたの顔、見ないで済んでせいせいするわよっ！」
「そりゃこっちのセリフだっ！」
「何よっ」
「何だと？」
「バカッ」
「どっちがっ」

ブチッ

俺が電話を切ったのと、真琴が電話を切ったのは、多分、同時だった。
「……何なんだよ、まったく……」
そのまま、俺は受話器を充電台に置くと、つぶやきながら目を壁に……
「……やっちまった……」
その瞬間、頭に上っていた血がスッと引くのを感じると共に、思わず自分の頭を叩きたくなった。
壁に掛けてあるカレンダー。
…もちろん、そこにはクリスマスイヴに赤い丸…街に帰る日が印付けてあるわけで。
そして、そのことを真琴に話して…それで仲直りするつもりだったはずが……
「……はあ」
なんでだろう…何であいつと話すと、こうなっちゃうんだろうな。
ていうか、分かってるんだけど。あいつも俺も意地っ張りだからな。
分かってる。分かってるんだけど……
「……はあ」
俺はもう一度、カレンダーと電話を見て、ため息をつくしかなかった。


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


「……それがお願い、というわけですか？」
「…え？　あ……うん。」
静かな喫茶店の窓の外、ちょっとボーっと見てたあたしは、あわてて振り返った。
向かいに座っているのは、美汐。
いつものように、ちょっと無表情にあたしの顔を見てる。
「帰ってきて、いきなりでゴメンね。だけど…お願い、できるかな？」
「………」
もう一度お願いしたら、美汐、ちょっと首をかしげて
「でも、保育所のクリスマス会のサンタは、ずっと相沢さんがやっておられたのではないのですか？」
「………」
そ、そうだけど…
だから、なんか毎年サンタを探すの、あたしの役になってて…
保育所のことであたしができることってめったにないから、今年もって引き受けてたんだけど……
「……いいのっ、今年は…あんなやつに頼まないぃ！」
「………」
あたしが言ったら、美汐、ちょっと首をかしげた。
「……また、喧嘩ですか？」
「また、じゃないよぅ」
「……そうですか？」
「……そ、それにあいつ、今年はクリスマスイヴには……この町には帰ってこないのっ」
「……本当ですか？」
「ホントよっ！　そう、あたしに言ったのっ」
「……そうですか……」
「そうよっ」
「………」
言った…言ったんだもん……
あいつ……
「……で、今度は何のことで喧嘩なんてしたんですか？」
「だから、喧嘩なんて……」
「……話してください。こうしてわたしも巻き込まれてるのですから。」
「………あぅ」
美汐はちょっと微笑みながら、あたしの顔を覗き込んでいる。
あぅ……美汐にはお見通しって感じ…
それに……ホントは美汐に話しちゃいたい、そう思ってたし……
「……あのね」
「はい。」
あたしは目の前のオレンジジュースを飲む。
そして、ちょっとニコニコしてる美汐に
「……祐一がね、あたしが……赤ちゃんできちゃった夢、見たんだぁ。」
「……はあ」
「で、それを北川さんに話して……その話を、名雪が北川さんから聞いたの。」
「……それで？」
「……それだけ。」
「………」
美汐、あたしの顔をじっと見た。
「…それだけではないでしょう？それでは、なぜ真琴と相沢さんが喧嘩しなければいけないのか、まったく分かりません。」
「あ、あぅ…」
「肝心なところが抜けているのではないですか？真琴と相沢さんの話が。」
「あ、えっと…」
そう、それよっ
あの電話……祐一が、言った事……
「そうなのっ！　聞いて、美汐！」
「はい。」
「それでね、あたし、祐一に電話したのっ！　なんでそんな嘘、人に言うのかって。」
「……嘘？」
「そうっ！　だって、最初、あたしが名雪から聞いたのはね、あたしがホントに妊娠した、なんて話だったの！　だからね、あたしびっくりして祐一に電話したのっ！」
「おやおや」
「そうっ！　で、聞いたら、ただの夢だって。それ、祐一が北川さんに話して。で、北川さんが名雪に言ったんだけど…名雪、夢って話を聞いてなかったらしいのっ」
「……では、相沢さんが悪いわけではないのでは？」
「ううんっ！」
そんなことじゃないのっ
あたしが怒ってるのは…悲しかったのは、そんなことじゃ……
「それはどうでもいいのっ！　ううん、どうでもよくはないんだけど…」
「………」
「そのとき、あいつ、言ったんだよっ！　『そんなことになったら困るから』って。『困るだろ、お前だって。』それで…」
「…しかし、困るのは本当でしょう。相沢さんもまだ大学生ですし、真琴もまだ保育士の卵、勉強中の身ですし。」
「…それは、そうなんだけど。そうなんだけど……でもっ」
「……でも？」
「でも……でもねっ」
たしかに、そう。
美汐の言うとおり…祐一の言うとおり、なんだけど……
…だけどっ
「でも…そんな言い方、ないと思うじゃないっ！？」
「…？」
「だって……だって、祐一と、あたしの赤ちゃん…なのよ？あたし、ホントは…あたし、今すぐだってほしいのっ。ホントは、今すぐだって……なのに、祐一、困るって…あたしも困るだなんて……そんなこと、言うんだもん！そんなこと言うなんて…祐一、あたしのこと……」
「……真琴」
「だから、だからあたし……」
「……真琴」
あぅ、な、涙……
あたしはあわてて右手で顔をごしごし拭いた。
「…真琴、これ。」
「……あ」
美汐、言ってあたしの手の上に、ポンッと白いハンカチ、置いてくれた。
「…かわいい顔がだいなしですよ、そんなことをしては。ちゃんと拭いて。」
「あ……うん。」
はぅっ……恥ずかしい……
誰も見てない……よね…？
あたしは美汐の出してくれたハンカチで、急いで顔をゴシゴシこすった。
「ああ、そんなにこすると…ほら、せっかくの化粧が。」
「あぅ…いいもん。そんなにしてないから。」
「もう…」
美汐はしょうがないって感じで肩をすくめると、あたしの顔をのぞき込んで
「まったく…わたしは結局、ノロケを聞かされにわざわざ呼び出されたのでしょうか？」
「そ、そんなんじゃないよぅ」
「……そうですか？なんか、すごく恥ずかしいセリフを聞かされたような気もしますが…」
「……あ、あぅ…」
「………」
美汐はため息をついてあたしの顔をまたのぞき込んだ。
え、えっと…
そ、そういえば、あたし……祐一の子供が欲しい、とか言っちゃったような…

……あ、あぅ……
や、やっぱり恥ずかしいかも……

「……まあ、いいですが。」
多分、赤くなってるあたしの顔を見て、美汐はまたくすっと笑った。
「サンタの方は、わたしが引き受けます。」
「ほんと？」
「ええ。別に、もともと用事もありませんし。」
「あ、ありがと、美汐。」
「いえいえ。」
よかった、これでなんとか、保育所のみんなに迷惑掛けないで済む…
あたしはホッとして、手にしたハンカチで鼻を…
……って、ああっ！
「ご、ごめん、美汐、あたし…」
「いえいえ、いいんですよ、真琴。」
「あ、洗って返すからっ！　ごめん、ごめんねっ」
「いえいえ、いつものことです。」
「……いつもじゃないよう…」
「…そうですか？」
「……そ、そうだと……思うよ…」
「………」
いつもじゃないよ…ね…？
そ、そりゃあ、確かに何度か、あった気が……するけど……
…はぅ

思わず、息をついたあたしに、美汐はくすっとまた笑った。
そして、小さく首を振ると
「それにしても…真琴と相沢さんには、本当に困ったものですね…」
「あ、あたしじゃないぃ、悪いのは…」
「………」
「……あ、あたしは、悪くないもん……」
「………はあ」
美汐は、またあたしの顔を見てため息をつくと、クスクス笑った。
あぅ…


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


ピッピッピッピッピ

トゥルルルルルルル
トゥルルルルルルル

「……はあ」
電話の呼び出し音を聞きながら、俺はちょっと緊張していた。
何たって、相手は確か、これで電話するのは、多分２回目か…３回…

トゥルルルルルルル
ガチャッ

「……はい、天野です。」
電話の向こうの声は、天野の声に似ていた。
だが…母親の声って娘の声そっくりだったりするし。
俺は一応、よそ行き声で
「夜分申し訳ありません、わたし、相沢と申しますが、美汐さんは…」
「…ああ、相沢さん。」
俺の言葉が終わる前に、いつもの口調で天野が言った。
「…やっぱり、天野だったのか。」
「はい。相沢さんも、えらくよそ行きの口調で。」
「……しょうがないだろ。女の子の家に電話すると、いろいろあるからな…」
「……なるほど。」
電話の向こう、天野はクスッと笑って
「わたしの家など、めったに男性からわたしに電話など掛かってきませんから、父が出たりしたら大騒ぎになるかも…などと思って？」
「…そこまでは、言ってない。」
「…そうですか？」
クスクス笑いながら、天野。
そんな笑い声は、昔の天野らしくはない…が、今の天野らしい。
「……言ってろよ。」
「……ええ」
いつものそんな応酬に、俺もちょっと苦笑する。
「…元気か？」
「はい。相沢さんも…」
「元気だよ。」
「……のようですね。」
言って、天野はまたクスッと笑った。
「……なんだよ。」
「いえ…何でもありません。」
言いながらも、まだ笑っている天野。
…多分、真琴ともう会って、話を聞いたのだろう。だとしたら、ある意味、話は早い…
「……もう、真琴と会ったみたいだな。」
「…ええ。」
「じゃあ…話は聞いた？」
「…多分。」
「そうか……」
「ええ。ノロケを聞かされました。」
「ノロケじゃないって。」
「…そうでしょうか？夫婦喧嘩は犬も食わない、といいますし。」
「夫婦喧嘩じゃないって。」
「……そうでしょうか？」
また逆に質問してくる天野の口調。
聞いていると、なんだかすべてお見通しのように聞こえるのは…多分、気のせいじゃないのかもしれない。
俺は思わず苦笑して
「まあ、どう思ってくれてもいいけど…」
「そうします。」
「……ともかく、聞いたんだろ？真琴の妊娠デマ騒動。」
「はい。」
天野は答えると、またクスッと笑った。
「相沢さんも、そんな夢を見るなんて…真琴が恋しいのですね。」
「……北川にもそんなこと、言われたよ。」
俺は苦笑するしかなかった。
「まあ、それはともかくだな…」
「……ともかく、ですか？」
「……ともかく、だ。」
またも逆質問する天野に、俺はともかく話を続けて
「あいつ、話したと思うけど…俺が今年はバイトで帰らないとかなんとか。」
「…ええ。そう言ってました。おかげで……」
「………？」
「……いえ、何でもありません。」
「……？」
一瞬、何か天野は言いかけた…と思う。
でも、例によって、それ以上天野は何も言わなかったので、俺はとりあえず話を続け
「でも、それってほんとは…違うんだよな。」
「…違う？」
「ああ。ほんとは…バイトがあるって言うのはホントだけど、クリスマスイヴには帰ろうと思ってたんだ。ていうか、帰るんだけど。」
「……そうですか……」
「ああ。でも、あいつ、すごく怒ってて…だから、思わず言いそびれちゃったんだよな。」
「……言いそびれた、ただそれだけですか？」
「………」
いつもながら、天野の突っ込みは鋭い。
ホントのとこ、言いそびれたんじゃなくって……
「……売り言葉に買い言葉ってやつで……な。」
「……だと思いました。」
またクスっと笑う天野。
俺はため息をつくしかない。
「……まあ、そんなわけで、あいつ…怒ってたと思うけど。」
「…真琴が怒っていたのは、そのせいではないと思いますが。」
「…うん？」
「……真琴は……」
天野はなにか言いかけたが、そこで言葉を切った。
「……なんだよ？」
「……いえ、やめておきます。」
「……？」
「これ以上は、馬に蹴られるってやつでしょうから」
「……馬？」
なんのことか分からず、俺は聞き返した。
しかし、天野はそれには答えず
「…で、それで、相沢さんはわたしに何をしろと？」
「いや……」
いきなり核心を突いてくる天野。
俺はさすがにちょっと躊躇して
「…その、なんだ…」
「……まさか、わたしに仲を取り持て、というのではないでしょうね？」
「……いや、そこまでは言わないけど…」
「でしょうね。」
「でも、まあ、その……俺がクリスマスイヴには帰ってくるってこと、真琴の耳に入れてもらえたら…そうじゃなくとも、俺が電話してもいいくらいに、なんか真琴の気持ちを、だな…」
「……なんなんでしょうか、わたしはいったい…」
「………」
「相沢さんと……真琴の……」
「………天野……？」
「………」
天野は言葉を切ると、なにやら考えているのか黙ってしまった。
…まあ、確かにこんな時、天野に頼るのも情けないといえば……情けない……
ていうか、間違いなく情けない話で……
「…いや、天野、やっぱり…」
「……分かりました。」
やっぱり断ろう、そう思っって言いかけた俺に、天野が不意に声を上げた。
「え？天野？」
「とりあえず、相沢さんは予定通り、クリスマスイヴに帰ってきてください。時間は…１時の列車。いいですか？」
「お、おう。で、でも…」
「はい？」
急に乗り気になった天野。
どう言うつもりなのか分からなくなって、思わず俺は
「…真琴の方、何とかしてくれるのか？」
「……まあ、そのようなものですね。」
天野はいつもの表情の読めない口調で淡々と答えた。
「そのような……もの？」
「………わたしにばかり頼らないでください。もともと、あなた方二人の問題なのですから。
」
「いや、そうだけど…」
重ねて聞こうとした俺に、でも天野は淡々と話を続けて
「ともかく、相沢さんは着いたら駅前で待っていてください。」
「待ってる？　駅前で？」
「はい。」
「…帰っちゃ駄目なのか？」
話をつけてくれるんだったら、別に寒い駅前で待つ必要はないんじゃないか？
多分、この分だとクリスマスは雪かもしれないし…
思わず聞いた俺に、でも天野はきっぱりと
「はい、駄目です。いろいろ都合があります。」
「で、でも……」
「……いいですね。わかりましたか？」
天野のきっぱりとした、有無を言わせぬ言葉。
表情の読めない電話、その上、天野の無表情な口調。
…まあ、任せて……おけばいいか。
天野のこと、いいようにしてくれるだろう…真琴の親友だし。
それに、俺の方から頼んだんだし……
「…お、おう。」
俺は思わず、電話口に頭を下げて言った。
「そうして…くれ。」
「……はい。」
天野は電話の向こう、いつもの…いや、何か少し……笑っているかもしれない、そんな風に聞こえる口調で言った。


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


雪が降っていた。
重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。
「……」
俺はベンチに深く沈めた体を起こして、思わずため息をつく…その息も白く凍っていた。
屋根の上が雪で覆われた駅の出入口は、今もまばらに人を吐き出している。
見上げれば、駅前の広場に設置された街頭の時計は…１２時５０分。
ほぼ真昼の太陽は、分厚い雲に覆われてその姿は見えない。
そしてちらほらと、でも降り続く雪……
「……ホワイトクリスマス、だな……」
多分、クリスマスセールでにぎわっているらしい商店街から、わずかに聞こえるクリスマスソング。
別にクリスチャンでもないのに…まあ、日本人はそういうお祭りが好きだからな…
そんなことを思いながら、俺はまた空を見上げる。
約束の時間までは、まだ…
「……」
そんな俺の視界、雪雲を覆うように、女の子が俺の顔を覗き込んでいた。
「……思ったよりは、早いですね。」
「……お、おう」
「では…行きましょうか」
その女の子…天野は小さく頷くと、俺の手を引っ張って走り出した。
…って、おい？
「あ、天野…」
「約束よりは早いです…でも、時間はそんなにありません。急いで！」
「ていうか、いったい…」
「相沢さん、早く。」
駅前の雪の上、俺は天野に手を引かれて駆けた。
そして、駅前から大通りに出たところで
「…さ、早く乗って。」
「……え？」
天野が足を止めたのは、小さな赤い軽四の横だった。
天野は俺の手を離すと、さっさと運転席に乗り込んだ。
「さあ、相沢さん、乗ってください。すぐ、行かないと」
「行くって…どこへ？」
その剣幕に押されて助手席のドアを開けながら、俺が聞くと天野は
「もちろん、真琴のところです。」
「…真琴の？」
「ええ。さあ、早く乗ってください！」
なんだかわからない…が、ともかく俺は助手席に乗り込んだ。
「…？」
と、足下につぶれる感触。
見ると、助手席の足下に紙袋があった。俺はその袋を持ち上げると、天野に
「って、これ、なんだ？」
「いいから、行きますよ。」

キキッ
ブオーーーーーーーーーーーーーン

「って、天野、おいっ！」
いきなり、車は雪を蹴立てて急発進。
「あぶないぞ、おいっ！」
「……大丈夫です。合宿免許で、ちゃんと普通免許取ってきましたから。」
「そうじゃなくってっ」
車体をきしませながら、猛スピードで車は走り出していた。
ていうか…し、死ぬ……
「あ、天野っ！　こんな雪道で、そんなにスピード出すなっ、危ないっ！」
俺は顔を引きつらせながら、運転席の天野に怒鳴った。
しかし、天野は俺の方をいつもの無表情で見ると、小さく頷いた。
「大丈夫です。これでも運転には、自信がありますから。」
「嘘つけっ！」

ブオーーーーーーーーーーーーーン
キキキッ

タイヤを空回しさせながら、走る車。
オレは天野を再度見た…が、いつもの無表情は変わらず…

キキー
ズサーーーー

「ス、スリップしてるぞっ」
「雪道ですから、少しはします。」
…違う…違うぞ、天野…
オレはそんなセリフすら言う気にもなれず、言葉を飲んで思わず目を…

キキッ

「ぐはっ」
大きな横Ｇ。
また車は角を曲がった…って、おいっ！
「……そこ、一方通行！」
「……分かっています。」

………はぅ…だ、誰か止めてくれ……


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


「き〜よし〜、この夜〜、星は〜、光り〜」
「…真琴せんせー、歌ってないぞ〜」
そんなこと言い出すのは、啓介くん。
もちろん、あたしはいつものようにしかめっ面をして
「そ、そんなことないわよっ　人のこと言ってないで、歌いなさいよぅ」
「は〜い」
啓介くんはぺろっと舌を出しながら、また一生懸命『きよしこの夜』を歌い出す。
保育所のクリスマス会も、もうすぐ終わり。
クリスマス会って言っても、ただ子供達とみんなでカルチャーハウスに集まって、ちょっとお菓子を食べて、歌を歌っておしまい…いつもそれだけなんだけど。
…ううん、もう一つ、みんな楽しみにしてること…それは…
「…真琴せんせー」
「ん？何？」
歌の合間に服を引っ張られて、見たらそれは佐緒里ちゃん。
あたしがにっこり笑ったら、佐緒里ちゃんはまじめな顔のまま
「…ねえ、今年もサンタさん、来てくれるかな？」
「……うん。大丈夫だよ。」
あたしはもう一度、笑って頷いてみせる。
だって…サンタさんを頼んでおくのは、いつもあたしの役目だから。
このカルチャーハウスの飾り付けも、その他クリスマス会のいろんなことは園の保育士さんみんなの役割分担でやっている。まだバイトのあたしも、何かしなきゃ…そう思ってずっと来た時からいろいろやってみた。けど、あたし、不器用だし…だから、役に立てることといったら、サンタさんを誰かに頼む役だけだったんだ。
でも、それだけは大丈夫だったから…だって…
「……大丈夫。」
あたしはもう一度、佐緒里ちゃんに笑って見せる。
佐緒里ちゃんは頷くと、にっこり笑ってまた歌い出した。
「…御母のむ〜ねに〜、眠りたも〜〜〜う〜〜〜、夢や〜〜すく〜〜〜」
伴奏も終わって、静まりかえる部屋。
あとは園長先生のお話があって…そして、サンタさん登場…
「…さて、今日はクリスマスですね。」
園長先生の静かな声。
子供達はみんなわくわくしながら静かに聞いている。
あたしはそんなみんなをぐるっと見回しながら、ちょっと窓の外を見る。
窓の外は…雪。
ホワイトクリスマス、だぁ…

『なんでこんな雪の中、外で待ってなきゃならないのかな』
去年もクリスマス会の日はこんな雪が降っていたっけ。
ほんのちょっとのことなのに、祐一ったらそんなこと、ぶつぶつ言って。
『なんか、暖かい物おごれよ、真琴』
『何であたしなのよぅ』
『お前が俺に頼んだんだろ？だから、お前がおごれ。』
『いやっ』
『じゃあ、俺は帰る。』
『…帰れるもんなら帰ってみなさい。園の子たち、みんなに恨まれるのは祐一だからねっ』
『……サンタさんも辛いぜ…』
あたしが言ったら、祐一、肩をすくめてまた空を見上げてたっけ…

今年もこの雪じゃ、美汐…寒いんじゃないかな？
あ、でも…
あたしはもう一度、窓の外を見る。
『…遅れそうなので、来たら知らせます。真琴はみんなと部屋で待っていてください。』
今朝、電話で美汐、言ってたけど…まだ、来てないのかなぁ…
もうすぐ、園長先生の話、終わっちゃうのに…
美汐なら大丈夫だと思うけど……
……思うけど……
……間に合わなかったら、祐一のせいだからねっ！
祐一が…帰ってこないから…
帰って……

……祐一の…バカっ

コンコン

その時、誰かが窓を叩く音。
あたしはあわてて振り返って……
「……あれ？」
窓の外には、美汐が立っていた。
あたしを見て頷くと、カルチャーハウスの舞台側、勝手口の方を指さして……
……って、何で美汐、サンタの格好してないの？
それじゃ、間に合わない…
「…では、お話はこの辺で…サンタさんを呼びましょう。皆さん、いっしょに、せ〜のっ」
「サンタさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん」

バタン

次の瞬間、いつものように舞台の幕が開くと、そこから真っ赤な衣装のサンタさんが…
……え？
あたしはもう一度、窓を振り返って…
「………」
間違いなく、その窓の外に美汐が立っている。
そして、部屋にはサンタさん…
……誰？　あのサンタさん、いったい…
「ありがとう、サンタさん！」
「わ〜い、プレゼントだ〜」
「なんだろ、中身は？」
サンタさんは黙ったまま、みんなにプレゼントを配っていく。
あたしは誰か確かめようと、顔に目をこらす。
暗い照明、白い髭で隠れて顔はよく見えない。
だけど……けど……
「………」
いつのまにか、サンタさんはあたしの前に立っていた。
もうすっかりプレゼントを配ってしまって、空っぽの白い袋を背中に担いでいた。
そして、あたしの前で立ち止まると、ほっと一息ついた。
その息…ううん、そんなの聞かなくても、誰かなんて分かる。
…ホントは、分かってた。ホントは、最初に出てきた時から、分かってた。
分かってたけど…
「……メリークリスマス、真琴。」
あたしのよく知っている、その声。
聞けないはずの声。
聞けないと思った……

言ってやろうと思ってたこと、たくさんあった。
顔見たら…言いたいこと。言ってやろうと思ってたこと。いっぱい、いっぱいあった。
あったはずだった。
だけど……

「………バカ」

あたしの口から出たのは、それだけだった。
それだけで…あたしは…

「………」
「………」

あたしはそのまま、サンタに…祐一に抱きついていた。
それ以上、何も言わない…言わなくてもよくって。
ただ、あたしは…祐一とあたしは黙ったまま……


「…あ〜〜、真琴せんせーとサンタさんがキスしてる〜〜」


※　　　　※　　　　※　　　　※　　　　※


「…なんでもう、来るって言わなかったのよぅ！」
「…だから、言いそびれたんだって。」
すっかり暗くなった空から、まだ白い雪はゆらゆらと舞い落ちていた。
保育所からの帰り道、ぽつんぽつんと街灯の続く細い道を水瀬家へと歩きながら、俺はまだぶつぶつ言っている真琴にもう何度目かのセリフを口にした。
「だいたい、お前、聞く耳持たなかっただろうが。」
「…また、そんな言い方するぅ」
「ていうか、それ以上言い様ないし。」
「でも、祐一があたしに言ったんじゃない、『今年はバイトで帰らない』って。」
「だから、それはお前があんな言い方するから…」
「…あたしのせいなわけ？　全部？」
街灯の下、茶色いコートに身を包んだ真琴は、両手に息をハーッと吐く。
…その息はすぐに凍って街灯にまぶしいくらい白に変わる。
真琴はそんな真っ白な霧を身にまとうと振り返り、
「あたしが、あの時、どんな…」
「…ストップ。」
俺は苦笑しながら、今にも噛みついてきそうな真琴にちょっと笑ってみせる。
「まあ…売り言葉に買い言葉、俺も悪かったけどな。」
「ほら…」
「でも、お前もいきなり怒るから…だから、だろ。」
「……あぅ…」
ちょっと言葉に詰まると、真琴はまたホウッと息を吐いて
「……それにしても、なにより、なんで祐一がいきなりサンタに？」
「そうそう、それそれ。」
真琴の問いに、オレはうんうんと頷いた。
もともと俺も真琴にしてやりたかったのだ。
だって、俺もびっくりしたわけで…
「それがさ、聞いてくれよ、真琴。天野のやつがな…」
「美汐？」
「おう。お前、天野にサンタ、頼んだんだろ？」
「う、うん。」
「なのに、だな…」

あの後、俺は何度、死ぬと思ったことか。
一方通行逆走するわ、赤信号見落とすわ、スリップは何度も…
それでも死なずになんとか、車が止まったと思ったら
『相沢さんが決めてください。』
『な、何をだ？』
俺が聞いたら天野のやつ、にこりともせずに
『このまま、その紙袋の衣装を着てここに入っていくか、さもなくば…』
『…さもなくば？』
『…もう一回、わたしと一緒に駅前に戻るか、です。』
…言われて、俺も紙袋、覗いて見たさ。
そしたら、その中には…サンタの衣装。そして、着いた場所を見ると…

「というわけで、俺は脅されて天野の代わりを…」
「…嘘ね。」
「おいっ」
一生懸命説明した俺に、でも真琴は一言で否定した。
「だって、美汐がそんなこと、するわけないもん。」
「て、したんだって。あのまま、もう一回天野の運転で戻るくらいなら、サンタやった方が何百倍マシだって…」
「いい加減な嘘、言わないの、祐一。」
「って、おいっ」
さすがに俺も真琴に食ってかかって
「ていうか、お前…天野の運転する車、乗ったことあるのか？」
「ないわよ。免許、取ったのも知らない。」
「だったら…」
「でも、美汐はそんなことしないもん。」
「おい…」
俺は息をつくと、真琴の顔を真剣にのぞき込んだ。
「あのな、真琴。」
「なによっ」
「お前…俺の言うことと、あいつ…どっちを信用してるんだ？」
俺の言葉に、真琴は一瞬の考えることもなく答えた。
「もちろん、美汐よ。」
「おいっ」
「美汐がそんな、脅しみたいなこというわけないじゃない。だいたい、美汐のための衣装なんて、祐一には小さすぎて、着られるわけないじゃないよぅ」
…真琴にしては鋭い突っ込みだった。
というか、俺も本当は分かっていた。天野は俺と真琴、意地っ張りな俺達の喧嘩なんて、無理やりでも顔を会わせてしまえば、仲介するも何もなくすぐにおしまいだってことが判っててやったんだってことは。だから俺も、結局はそれに乗せられることにしたんだけど…
それにしても、結局そんな事、最後まで一言も言わなかったことといい…クリスマス会の最後までいたくせに、車に載せていってくれるでなく俺と真琴を置いてさっさと帰ってしまったことといい…
「……タヌキだよな、あいつは…」
「……？」
俺の言葉に、振り返った真琴は不思議そうに俺を見上げた。
俺は苦笑しながらそんな真琴に手を振って見せた。
「……なんでもない。ただ…」
「…ただ？」
「ただ…天野ってすごく…いい奴だよなって、そう思っただけ。」
「あったり前じゃない、そんなのっ」
きっぱり真琴は断言した。
「……確かに。」
俺は苦笑しながら、同じく頷いて空を見た。
真っ暗な空から、雪が街灯に、白く、銀に光って舞い落ちていた。
ひらひら舞い落ちる雪は、ゆっくりと俺の…真琴の頭にも薄く、白く積もっていた。
俺は手を伸ばすと、その真琴の頭の雪をポンポンッとはたいて
「………？」
一瞬、怪訝そうに俺を見た真琴。
でも、すぐににっこり笑うと、背伸びをして俺の頭の雪をはたき、
「どうせ、すぐにまた積もっちゃうけどねっ」
「…確かにな。」
俺の頭をはたいた手に、真琴はまた息をホーーッと吐いた。
すぐ真っ白に凍る息が、真琴をまた淡く包んだ。
「……あのな。」
俺は一つ、息をつくと、そんな真琴の、その大きな瞳をのぞき込んだ。
「…一応言っとくけど。」
「……うん？」
「あの…夢の件だけどな。あれは…」
「……」
「……本当に、嫌だとか、そんなつもりでいったんじゃ、ないからな。お前に、俺の子供が出来ること…それが困るって、そんなつもりじゃなくて。」
「……うん。」
「あれは…今は困るって、それだけなんだから。俺、まだ大学生だし。お前もまだまだ居候だし。」
「……うん。」
「だけど…でもな、俺…」
「……もう、いいよぅ、祐一……」
と、そんな俺の口を、真琴がそっと指で押さえた。
冷たい…でも、暖かい指…
「そんなの、分かってるから。あたしだって…ホントはそんなの、分かってるんだからぁ…」
「……ああ。」
俺は真琴のその冷たくなっている指…手を、両手でそっと包んだ。
それから、その手をそっと引き寄せると、真琴の体を抱きしめた。
「……そうだよな…」
「……うん…」
俺の腕の中、わずかに化粧の匂い…でも、その奥には変わらない、真琴の日向臭い、暖かい……懐かしい匂い。
俺はそんな真琴の唇に、そっとキスをしながら…その懐かしい匂いの中で…


いつか、話してやる……何で俺が一生懸命、バイトをしているのか。
そう、お前の左手の薬指に、ささやかなものだろうけど…光り輝く約束のリングを通してやった時…

それはきっとすぐだから。
その時、お前…なんて言うんだろうな…
考えといてくれよ？　俺も考えておくからさ。
そう、俺は…

『………あたし……赤ちゃん、出来ちゃった……』

世界で一番うれしい、そんな知らせを本当に聞いた時、俺がなんて言えばいいのか…
それを考えておくから。

そう、それはきっとすぐ……


暖かい真琴の体を抱きしめながら、俺は考えていた……

[Fin]


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