いつもの朝と同じように、祐一は水瀬家を一足早く出て学校へと向かっていた。
転校してきてからおよそ二ヶ月――もう間もなく卒業式が行われようとしている時のことである。
歩く生徒たちのまばらな通学路をしばらく歩いていると、見慣れた人影が遠目に見えてきた。
少し早歩きで近付くと、向こうも気がついたようで、笑顔で手を振っている。
「おはよう、佐祐理さん」
「おはようございます、祐一さん」
もうすぐ卒業で別れてしまう友人同士が、爽やかな朝の挨拶をかわす……のだが、
「……あれ？ 舞は？」
佐祐理が一人でいるのを見て祐一が首を傾げる。
いつもならば、祐一たちが待ち合わせる場所には、佐祐理と一緒に舞がいるはずだったのだが、今日に限って舞はいない。
どこかに隠れているのか、とも思ったがそういう無意味な冗談をするような性格でないことは、祐一がよく知っている。
佐祐理の笑顔が少し曇った。
「はぁ……それが……」
ポイズン・キッス
（全く、舞が風邪をひくとはなぁ）
学校の帰り道、祐一は歩きながら思っていた。
今朝舞がやって来なかったのは、風邪をひいてしまっていたためだったようだ。
前日に会った時には普通にしていたのに、いきなり風邪というのには驚かされたが、辛くても顔に出さないようにしていそうな舞のことだ。さすがに佐祐理たちも気付くことはできなかった。
一日我慢していたのだが、結局今朝になっても治るどころか、悪化してしまったために休むという連絡が佐祐理に届いたらしい。
（結構無茶してきたからなぁ。その反動かな）
祐一が舞とともに『魔物』と戦い、その決着がついてから一ヶ月近くが経とうとしている。
身体の怪我も完全に治ったわけでもないのに、いままで通りに普通の生活を送ろうとしていた。
それは『魔物』が親友を傷つけたことに対する罪悪感からきた感情なのかもしれない。
舞の心中は推し量るしかないが、いままで無理をしてきたというのはそう的外れな考えではないと思える。
無理をしてきたツケが今になってやってきてしまったのだろう。
何にしろ、風邪を引いて寝こんでいるというのが一番重要な問題なのだ。
「誰かいるかな……」
佐祐理に舞の家の場所は聞いていた。
小さな二階建てのアパートの一階が、舞の部屋である。
玄関前に立ち、呼び鈴を鳴らそうとして、他に誰もいなかったらどうしよう、と今更ながら祐一は迷う。
言うまでもないことだが、祐一は学校帰りに舞の見舞いに来たわけである。
だが、もし寝ている舞以外誰もいなかったとしたら、逆に呼び鈴を鳴らすのが迷惑になってしまうのではないか、と不安になってくる。
しばらく玄関前で迷った祐一であったが、このまま舞の様子も見ないで帰ることは尚悪いと思い直し、呼び鈴を鳴らす。
（……誰もいないかな？）
そのまま数秒待つが、誰かがやってくる気配はない。
舞が寝ているだけでやはり他に人はいないのだろうか。そして、舞も丁度眠っているために呼び鈴には気づかなかったのか。
（仕方ない。今日は帰るか）
諦めて帰ろうとした時、不意にドアが開く。
中から顔を覗かせているのは、舞であった。
「舞！？」
「……」
パジャマ姿で、いつもはリボンで纏めている髪もそのまま下ろしている。
病気で具合が悪そうな顔色をしているため、いつもと随分雰囲気が違う――
「大丈夫なのか？」
「……大丈夫……けほっ」
大丈夫と言いながらも、苦しそうに咳き込む。
「と、とりあえず、中に入るぞ」
「うん……」
このまま玄関先で話しこんでいたら風邪が悪化してしまう。
祐一は玄関を大きく開けて中に入り、舞を連れて部屋へと向かって行った……。
「今日は他に誰もいないのか？」
「……うん」
舞をベッドに寝かせた後に、思っていたことを尋ねる。
予想通りの返答であった。
家庭の事情はよくわからないが、応対に舞本人が出てきたことから想像していたことではある。
「悪いな。無理させて」
他に誰もいない状態で見舞いにきても迷惑にしかならないだろう、祐一はそう思って申し訳なさそうに頭を下げたが、ベッドの中で舞は首を小さく横に振る。
「丁度起きていたところだったから……。
それに」
「それに？」
「……来てくれて、嬉しい……」
「う、そ、そうか……」
病気になると気弱になるというが、同時に素直になったりもする。
『魔物』との戦いが終わってから、以前に較べて舞もやや饒舌になったような気もするし、意外と素直な言葉で話してくれるようにもなった。
とはいえ、ストレートに嬉しいと言われれば、祐一も照れてしまう。
普段の口数も少なく、語彙もそれほど豊富というわけではない舞の言葉は、子供のように率直で伝わりやすい。
「……佐祐理は？」
次に舞は、自分の親友の姿が見えないことを質問する。
「佐祐理さんは……ちょっと学校の用事で、な」
「……そう」
残念そうに舞は目を伏せる。
本来ならば、祐一だけでなく佐祐理も一緒に見舞いに来る予定であった。
しかし、緊急で生徒会の用事ができてしまったために、祐一一人で来ることになってしまったのだ。
一月の退学騒動で、生徒会に取引のためとはいえ所属することになってしまった佐祐理は、律儀に仕事をしているようだ。三年生なのでほとんどやることはないのだが。
あと数日で卒業式を迎えてしまうため、少しでも長い時間を共に過ごしたいというのが祐一たち三人の共通した思いではあったが、だからといって経緯はどうあれ一度引き受けた仕事を放り出すような無責任なことはできない、と佐祐理は思っているようだ。
祐一としては、生徒会がこれ以上こちらに手を出してこなければそれでもいいか、と半ば諦めている。
……佐祐理がいないことで、舞と二人きりになれるということに喜びつつ、悪いと思ってもいるが。
「俺だけじゃ不足か？」
舞が生徒会についてどう思っているのかはわからないが、少なくとも佐祐理と一緒にいられるはずの時間を取られているのだ。あまりよくは思っていないだろう。
病人に気を回させるのは気が引けるので、殊更おどけるように祐一は言う。
慌てて舞は首を振る。
「そんなことない……嬉しい……」
「そっか」
短い時間ではあったが、短期間で舞は変わった……そんな風に思い、祐一は笑う。
「熱はどうだ？」
言いながら舞の額に手を当てる。
今まで外にいたため、まだ祐一の手は冷えている。舞の身体がとても熱く感じられた。
「ん……朝より大分下がった……。明日には学校に行ける、と思う」
「そうか……でもあんまり無理するなよ」
「……うん」
無理するなよ、と言ったものの、舞のことだから熱が下がればすぐにでも学校へと来るだろう、と予想できた。
三人で学校にいられる時間は、もうあまりない。
多少無理してでも学校にきそうであった。
――それはそれで仕方ないか、と苦笑しながら祐一は手を放そうとする。
その手を、舞の手が捕まえた。
「？ どうした、舞？」
熱でやや火照った両手が、祐一の冷たい手を包み込んでいる。
「……祐一の手、冷たくて気持ちいい……」
表面が外気で冷えている手と、熱を持った身体にはかなりの温度差がある。
本当に気持ち良さそうに舞は目を閉じる。
祐一の手を頬に当て、火照りを覚ましているようだ。
「舞……」
何となく、祐一はもう片方の手を差し出す。
結果、両手で舞の頭を抱えるようになる。
熱でぼんやりとした、そして少し潤んだ瞳で舞が祐一を見上げる。
「んっ……」
何も言わず、無造作にといってもいいほどの動作で、祐一は舞の唇を奪う。
水分が不足して、乾いた唇を重ね合わせる。
その乾きを潤すように舌を這わせ、口内へと侵入する。
表の乾き同様、口の中もやや乾いている。
わずかな湿り気が熱を帯び、合わさった唇の隙間から熱い吐息が漏れ出す。
……風邪引いてる人間に何してんだ俺は。
頭の片隅にまだ残る冷静な理性が、ぼんやりとそんなことを思う。
舞は病人だ。問答無用の風邪引きだ。
そんな人間に無理矢理キスかまして何するつもりだ俺わ。
や、そのつい……何というかこうムラムラとキてしまいまして。
それにしても、熱に浮かされた舞も色っぽいなーとか何を場違いなこと考えているんだか。
「祐、一……」
ほら見ろ舞の目付きだって虚ろで怪しいじゃないか。
これで病気が悪化したらどうする。もう卒業式まで残り少ないんだぞ。
舞の風邪が治らなければ、学校で一緒にいられる時間はどんどん減っていってしまうんだぞ。
さぁお楽しみはここまでだ。
舞に無理させちゃいけない。笑って誤魔化して「元気になれよ」とでも一言かけて退散しろ。
ほら早く立って離れろって。
……違う場所おっ立ててどうする？ 違うだろそこ立てちゃ拙いだろ？
いやそりゃまぁ何だかんだ言って舞とはあの夜だけだったしー、自分自身に妙な誓い立てて自粛してきましたが。
見舞いにやってきたら意外に舞も元気で、あわよくばとかそんなこと考えてもいましたが。
明かに今日は無理だろ。誰がどう見ても拙いだろ。
俺は鬼畜じゃない俺は猿じゃない俺は舞を大事にしたい。
堪えろ俺の暴れん棒……じゃない、欲棒……も違う。
とにかく抑え込め俺の理性！
――祐一の中で二つの意思が激しい死闘を繰り広げている。
理性という名の天使と、欲望という名の悪魔の最終戦争。
知覚が何十倍にも拡大され、一瞬が永遠にすら感じられるような感覚の中で、両者は激しい争いを続ける。
そしてその闘いの軍配は、舞のことを大事に思う祐一の想いの後押しを受けた天使の側に挙がろうとしていた。
そうだ、正義は勝つ。
いつだって最後には正しいものが勝利するんだ。
悪魔は奈落の底へと封じ込められ、地上には平和が齎されるんだ。
ほら、耳を澄ませばグルーヴ感溢れる讃美歌が聞こえてくるじゃないか。
ハレルヤ！
「祐一……もっと……」
潤んだ目で見上げながら舞が呟く。
その瞬間、祐一は頭の中で自分の理性がガラガラと音をたてて崩れゆくのを確かに聞いた。
地獄の蓋が開き、悪魔の援軍が到着。
勝利を確信していた天使の軍団が次々と蹴散らされてゆく。
悪魔の軍勢の勢いは止まらない。瞬く間に天使は屠られ、制圧されてゆくばかり。
これはおっけーということですか？ Ｇｏサインですか？
わずかばかりに残った理性が必死の抵抗をする。
止めておけ、無理はするなさせるな次の機会を待て。彼女は熱で少しおかしくなっているだけなんだ。
いやいやでもこんなチャンス滅多にないぜ？
本人が合意してるんだしー、別にいいんじゃんー？
絶えず悪魔は囁き続け、祐一を唆そうとする。
いいじゃん鬼畜で行こうぜ。今を愉しめ。ハレルヤ。
「舞……舞っ！！」
一度離した唇を再び重ね併せる。
祐一の理性は木っ端微塵に吹き飛んだ。
ＯＫ、そっちがその気なら、俺も全力でいかしてもらうぜ。
まずはキスからだ。
じっくりたっぷりと舌を絡ませ、完膚なきまでに嬲って舐って蹂躙しつくしてやる。
風邪引いてたって容赦はしない。むしろ風邪なんか忘れさせてやるくらい、俺のことしか考えられないくらい濃厚なディープキスからだ。
俺を本気にさせたことを後悔させてやるくらい、蕩けさせてやる。
一ヶ月近く、耐えに耐え抜いてきた俺の情熱全てをぶつけてやる。
「ん……ふぅ」
いいか、これで終わりじゃないぞ。
一度口を離したくらいで終わると思うな。これからが本番だ。
息もできないほど激しいやつをおみまいしてやるよ。
他のことなんか全部忘れてしまえ。俺だけを見ろ、俺だけを感じろ。
さぁここから先は大人の領域だ。エロスの時間だ。１８歳未満侵入禁止だ。
「……って、舞？」
はたと祐一は我に返る。
腕の中で舞はくたっとなり、身体から力が抜けているようだ。
沸騰していた頭の中が急激に冷め、冷静さが戻ってくる。
天使たちがラッパを吹き鳴らし、悪魔たちが退散してゆく。
「……あれ？」
キスだけで、終わり……？
あまりに情熱的すぎたか、病人の消耗した体力ではついていけなかったか、舞は全力を使いはたしてぐったりとしていた。
いや、そもそも今までもずっと熱で朦朧としていたのか……。
ともあれ、舞は眠りに落ちてしまっていた。
「そんなぁ……」
どうしようもない自己嫌悪とやりきれない罪悪感と行き場のない暴発寸前の欲望と、そして脱力感に祐一もまたぐったりとしてその場に腰を落とすのだった。
〜エピローグ
翌日――
「おはよう、佐祐理」
「あ、おはよう舞。風邪はもう大丈夫なの？」
「……治った」
いつもの場所で一人待っていた佐祐理の元へと最初に現れたのは、昨日は姿を見せなかった舞であった。
病み上がりのはずなのだが、それを感じさせない力強い表情だ。
何というか、全身から元気が満ち溢れているように見える――と佐祐理は思った。
他人から見れば、いつも通りの鉄面皮であるのだが。
「昨日はごめんね。佐祐理もお見舞いに行こうと思ってたんだけど……」
「別にいい。……祐一が来てくれたから」
佐祐理が来れない事情というのもわかっている。
素っ気無い言葉ではあったが、別に怒っているわけではないということは佐祐理にはわかっていた。
――まぁ、わたしの替わりに祐一さんが行ってくれたみたいだし、その方が舞には嬉しいのかもしれない。
そんなことを思い、冷やかし半分に楽しく思う反面、少し寂しい気もする佐祐理であった。
「じゃあ、舞がすぐに治ったのも、祐一さんのおかげかな？」
内心の複雑な思いを誤魔化すために、わざと茶化すように佐祐理は言う。
「……その通り」
「え？」
てっきり照れ隠しのチョップが来るかと思いきや、意外にも舞は素直に頷いた。
普段通りのパターンならば、舞に祐一関連の話題で少しでも恋愛の要素を匂わす発言をすれば、顔を赤らめて反撃してくるはずなのに……。
もしや昨日の見舞いの時に、佐祐理には想像もつかない出来事が起こって、劇的に舞の心境が変化したのかも？
「風邪の特効薬を貰ったから」
「……特効薬？」
神妙な顔で舞は頷く。
そして、遠くを見つめて、
「……『風邪は誰かにうつすと治る』……」
「……はい？」
「祐一の犠牲は無駄にはしない……」
「………………そう」
敢えて佐祐理はどこにも突っ込まなかった。
そういえば、いつもならばもう祐一がやって来てもおかしくない時間だが、まだ姿は見えない。
学校へ向かう途中、大体同じ場所で合流するのだが、今日に限ってはやって来る気配は見えない。
「今日は祐一さんのお見舞い、かな」
ポツリと呟く佐祐理の声は、舞の耳には届いていない。
ふと空を見上げてみる。
もうすぐ雪が溶け、春が訪れようとしている季節……清々しい青空。
（祐一さん……お元気で……）
――祐一さんの分まで、わたしは舞と二人きりで精一杯生きていきます。
そんな薄情なことを思いつつ、佐祐理は舞と並んで学校へと向かう。
残り少ない学生生活を無駄にしないために。
青空の向こうに、祐一が最高の笑顔を浮かべているのが何となく見えたような気がした。
〜おまけ
天罰覿面。
ベッドの中で祐一はしみじみと思っていた。
これは病気で苦しむ舞にあれやこれやしようとしていた自分に下された天罰なんだろーなー。
あーでも、今日の放課後にもしかしたら舞がお見舞いに来てくれるかもしれないしー。
そう、これは試練なのだ。傷つき限界に近いこの身体の俺が、どれだけ舞を愛せるかという、神から与えられた試練なのだ。そうに違いない。
「うぅ……舞、俺がんばるからな……げふっ、ごふぅっ！」
「可哀想に祐一さん……こんなにうなされて……」
ベッドに横たわり、咳き込みながらも何事か訳のわからぬ言葉をうなされて呟く甥を看病しながら、秋子は憐れみを感じることを禁じえなかった。
外は祐一の病状とは対称的に、清々しい青空であった。
おわり
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