〜 0. Epilogue 〜
懐かしい教室に足を踏み入れる。
久しぶりに見たクラスメートたちの顔。
「おっ、折原、久しぶりー」
俺に気付いたひとりが、陽気に声を掛けてくれた。
「おぅ！」
俺はそれに軽く右手を上げて応えると、足早に教室を横切って行く。
目指す机には、学級日誌をつけている女子生徒がひとり。
仕事熱心な様子で、俺が机の前に立ったのすら気付いていないようだ。
……さて、どうしたものか。
「あー、おほん」
わざとらしく、咳ばらいをひとつしてみた。
それでようやく、女の子が顔を上げる。
最初は訝し気に、次に驚きから喜びへと、めまぐるしく表情が変わっていく。
やがて『パタ、パタ』と音を立てながら、雫がひとつ、またひとつと、女の子の頬を伝って落ちた。
学級日誌の文字の輪郭が、滲んでいく。
そして最後にゆっくりと、俺の記憶の中の笑顔へと変わっていき、
「ただいま」「おかえりなさい」
ふたりの声が、重なり合う。
視線が合わさって、そして……俺の記憶の中にも見たことがない、最高の、満面の笑顔で。
「おかえりなさい、浩平」
「ただいま、瑞佳」
……それは、どっちの角度から見たって、最高の幸せの欠片だった。
Fragment
〜 1. Prologue 〜
最近、毎日のように夢を見る。
わたしと、ひとりの男の子の夢。
それは、わたしの知らない男の子の夢だった。
顔はどうしてもわからなくて、ただ、目が覚めると知らない男の子だという意識だけが残っている。
けれども不思議なことに、何故か夢の中では、その男の子はわたしの幼馴染なのだ。
笑ったり、怒ったり、泣いたり、からかわれたり、困らせられたり。
いつだって、どこでだって、わたしたちふたりは一緒だった。
そして……。
夢の中のわたしは、その男の子が大好きだった。
……そんな不思議な夢を、まどろみの中でずっと、わたしは見続けている。
〜 2. 長森瑞佳 〜
授業終了のチャイムが鳴り、お昼休みの喧騒が広がる。
机を向かい合わせにして、お弁当の包みを開く。
集う顔ぶれは、いつもと同じ。
佐織と、七瀬さんと、広瀬さん、そしてわたし。
最近はもう、ずっとこんな感じで一緒にお昼ご飯を食べている。
「留美の唐揚、もらうよ」
「うん……って、あんた、勝手に何すんのよ！」
広瀬さんが七瀬さんのお弁当箱から、唐揚をひとつフォークに刺していく。
香ばしい感じの、大きめの唐揚が美味しそうだった。
「くぅっ、楽しみに取っておいたのにっ……」
「ん、留美にしては珍しく、良い感じに揚がってるね」
広瀬さんが、満足そうに、悪戯っぽく笑う。
「そうよっ！ せっかく……せっかく、上手に揚げられたのにっ」
おかずを取られたことよりも、会心作の出来映えを自分で確かめられなかったこと。
どちらかというと、それが悔しそうに見えた。
「あー、もうしょうがないわね」
そう言って、代わりに卵焼きを七瀬さんのご飯の上に載せる広瀬さん。
「割に合わないわよぅ」
七瀬さんが、涙目で抗議する。
「ほら、これもあげるから、大人しくしなさいよ」
やれやれといった感じで、たこさんウインナーも付け加える。
「乙女の七瀬には、こういう可愛いおかずが似合うよね」
「え、あ、……うん、ありがと、真希」
そんな様子に思わず苦笑する。
「全くあんたたちは、毎日毎日良くもまぁ、飽きないものね」
呆れたように、佐織が呟く。
「ま、ね」
悪びれた様子もなく相槌を打つ。
「だって、留美ってば、からかうと面白いから」
「って、真希、あんたはっ！」
思わず、七瀬さんが食って掛かる。
「うわっ、きったないわねぇ！ 唾飛ばさないでよ、留美」
「はっ！？」
思わず、皆で顔を見合わせて、笑ってしまう。
「ぷっ、くっ……あははーっ」
「くすくす」
「ふふっ」
「……くうーっ。はぁ」
そんな感じで、今日もまた、いつもと同じように。
心地良い時間が流れて行く……はずだった。
「ね、瑞佳」
「ん？」
ふとぼんやりしていると、佐織が心配そうに覗き込んで来る。
「瑞佳、ほとんど食べてないけど調子悪い？ なんだか、顔色も悪いよ？」
その問いかけに、同じように頷く広瀬さんと七瀬さん。
「あ、うん、ちょっと」
口篭もるように返す。
「ねぇ、瑞佳。最近、何かあった？」
最近、あったこと。
心に圧し掛かるような、悩み事。
心当たりはひとつしかなかったが、理由としてはそれで充分だと思う。
……わたしはまだ、夢の話を誰にもしたことがなかった。
もっとも別に隠していたわけではなく、話すきっかけがなかっただけではある。
でも……。
「うん、最近少し、寝不足なんだよ」
「寝不足？」
それはそれで問題ね、とか言いながらも、取り敢えず安堵の表情を浮かべる佐織。
「うん、そう、少し寝不足なだけだよ。だから、そんなに心配ないよ」
そう答えながらも、わたしは心の中で夢のことを相談することに決めていた。
機会があったらいつかは話そう、そう思っていたから。
今なら、自然な感じで話せるような気がした。
「ただ、ね……」
夢の内容を話し終えたあと、佐織が心配そうに呟く。
「瑞佳、あんた、疲れてるんじゃない？ 大丈夫？」
「そうよ。部活も忙しいみたいだし、無理してるんじゃないの？」
広瀬さんも、心配そうに同意する。
「うん、そうだね。疲れているのかも。これからは気を付けるよ」
そう言って笑みを浮かべようとしたけれど、どこかぎこちない感じがした。
「でも、知らない男の子の夢、かぁ……」
難しい表情をして、七瀬さんが呟く。
「ん？」
「あ、何でもない、何でもないのよっ？」
気になることでもあるのかと思ったけれど、慌てて否定する。
「そ、それよりさ、瑞佳。そんな男の子なんていないんだから、しっかりしてよね？」
七瀬さんはそう言って、広瀬さんと佐織に目配せをした。
「そうだよ瑞佳。馬鹿なことはおいといて、疲れてるんだったらゆっくり休みなよ？」
「そうでなくたって、瑞佳はいつも、頑張りすぎるんだから」
広瀬さんと佐織が、七瀬さんの言葉に頷きながら言う。
「うん、ありがとう」
「さ、もうこの話は終わりで良いよね？」
そう言って場を締めた佐織は、けれど、浮かない表情をしていた……。
夢の中の男の子とわたしは、クラスメートだった。
でももちろん、そんな男の子、現実のこのクラスにはいない。
それだけではなく、わたしには幼馴染の男の子自体、いないのだ。
名前も顔もわからない、男の子。
だからそれは、他愛もない夢。
他愛もない夢、のはず、だった……。
わたしは夢の中で、男の子からクリスマスプレゼントを貰った。
それは、可愛い『うさぎのぬいぐるみ』だった。
しかもそのぬいぐるみは、
不意に場面が飛ぶ。
「ありがとう、 」
わたしは、嬉しそうに男の子にお礼を言う。
知っているはずのその名前は、けれど、わたしの知らない名前だった。
だから現実のわたしには、その男の子の名前が未だにわからない。
当然のことだった。
だって、そんな男の子は、存在しないのだから。
なのに夢の中のわたしは、とても自然に、その名前を紡ぎ出していた。
わたしにとって、当たり前すぎる名前。
そう、それは、
目が、醒めた。
今見た夢の記憶が、霞がかかったように霧散していく。
嫌な感じで、じっとりと寝汗をかいていた。
「……このままじゃ、気持ち悪いよね」
時計を見ると、いつもよりだいぶ早い時間だった。
目覚し時計で起きたわけではないのだから、当然だった。
わたしはベッドの上で身を起こすと、シャワーを浴びてから登校することに決めた。
衣装箪笥の引出しから、着替えを取り出す。
その際、ふと何気なくその上の『もの』に視線が向いた。
「あれ？ わたし、こんな所に置いたんだっけ？」
何となく、自然にそのことを受け入れてしまう。
こんな目立つ所に置いてあったのに、どうして今まで気にも留めなかったのだろう。
たいせつなもの、なのに。
……たいせつなもの？
愕然とした。
「そんなこと、あるわけない……よ、ね？」
そこに、あるはずのないもの。
寒さではない理由で、身体が、震えた。
いつもより早い時間に登校し、佐織たちが来るのを見計らって、相談する。
「みんな、ごめんね。ちょっと話があるんだよ」
そしてわたしは、自分の持ち物の中の記憶にない『それ』を、バッグから取り出した。
「わたし、本気で忘れているのかも。もしそうだったら、本当にごめんね」
そう前置きしてから、佐織たちに尋ねる。
「誰か、このうさぎのぬいぐるみに見覚えがないかな？」
朝、登校前に家族にも確かめたけれど、誰にも心当たりがなかった。
だからもしかしたら、この中の誰かから貰ったプレゼントなのかもしれない。
もしそうならば、とても申し訳ないことになる。
だってわたしは、そのことを完全に忘れてしまっているのだから。
それでもわたしは、その可能性に望みをかけた。
少なくともわたしには、このぬいぐるみを手にすることになった経緯の記憶がない。
唯一有り得る可能性、それは夢で見た場面だけなのだから。
だからこれが、わたしの手元にあるなんて、有り得ないことなのだ。
「さぁ、覚えがないけど？」
佐織が首を振ると、広瀬さんも同じように否定した。
「けど瑞佳が、猫以外の動物のアイテムを持っているなんて、本当に珍しいよね」
広瀬さんがからかうように言った後、わたしの表情の深刻さに口を止める。
「……ごめんね、瑞佳」
「ううん、いいんだよ」
そして、大事なことだからと念を押して、もう一度だけ尋ねてみる。
「些細なことでも構わないから、何かあったら教えて欲しいんだよ」
けれど答えは変わらなかった。
「ごめんね瑞佳。覚えがないわ」
七瀬さんが、申し訳なさそうに呟く。
「そっか……」
これは、何を意味するのだろう。
気味の悪い、夢との符号。
自分の記憶にない何かが現実となっている、そんな恐ろしさが背筋を伝っていた。
夢の続きを、見た。
それは、不思議な夢だった。
まるで御伽噺のようで、切なくて、悲しいお話だった。
彼がいなくなる。
わたしのそばから、いなくなってしまう。
彼の存在そのものが、夢の中のその世界から消えてなくなる。
しかも誰ひとりとして、彼のことを覚えているものはいない。
ただ、わたしひとりだけが彼のことを覚えているのだ。
なんて、残酷な物語だろう。
……そんな、不思議な夢、だった。
「いかないでよ、 ！」
夢の中のわたしは、彼の名を叫ぶ。
どうしても思い出すことの出来ない、彼の名前。
遠くで鳥の羽ばたく音が聞こえ、刹那、彼の温もりが、わたしの腕の中から薄れていく。
だからわたしは、もう一度彼を強く抱きしめた。
抱きしめて、彼の名を、
「こうへいっ！！！」
目が、醒めた。
それとも今のわたしこそが、夢を見ているのだろうか？
わたしは、夢の中の男の子の名前を知った。
いや、正確に言えば違っていて、思い出したのだろう。
この時までのわたしは、たくさんのことを忘れてしまっていた。
そう、わたしには『幼馴染の男の子がいた』のだ。
でも、あんなに大好きだったのに。
いつだって、ふたり一緒に過ごしたのに。
わたしは、彼のことを、忘れてしまっていた。
夢、それは夢などではなく、わたしの記憶そのものだったのだ。
夢の中で彼は、わたしを置き去りにして、この世界から去っていった。
何故だろう？
彼は、わたしのことが嫌いになったのだろうか？
この世界が必要なくなったのだろうか？
彼にとってのこの世界は、わたしという存在は、価値のないものだったのだろうか？
……何も、わからない。
ひとつだけ言えることは、わたしが見ていた夢は現実のことだということ。
わたし自身が忘れてしまっていた記憶と現実を、映し出していた世界だということ。
いまのわたしには、そのことがわかっていた。
そしてこの世界にはもう、彼の存在も、彼が存在した痕跡も残されていない。
何処にも、何も、存在してはいない。
それは彼の望んだことだったのだろうか？
果たして彼は、忘れられることを望んだのだろうか。
今のわたしには、それを知る術は何もなかった。
わたしは、彼のことを、彼の真実を、夢という形で佐織たちに打ち明けた。
その時の彼女たちの目は、悲しみと哀れみの混じり合ったものだったと思う。
わたしの大切な親友たちの記憶の中には、彼は存在しない。
今更ながらに、そのことを痛感させられる。
「瑞佳、あんまり夢のことは気にしない方が良いと思うよ？」
佐織が、作り笑顔で慰めの言葉を呟く。
「そうだよ瑞佳。それに今は、音大進学のための大事な時期なんだから」
気まずそうな表情で、広瀬さんが続ける。
「そうそう。実技の方に集中しなきゃ、いくら瑞佳だってわかんないんだから」
わざとらしく、冗談めかした口調で七瀬さんが言う。
だから、わたしは。
「うん、そうだね。こうへいなんて男の子、現実にはいないんだもんね」
そう、かつてはいたかもしれない。
けれども、今はもう、この世界のどこにもいない。
そしてそんなこと、誰にとっても信じられることではないだろう。
「ただの夢だもんね。もう、気にしないことにするよ」
「瑞佳……」
三者三様の辛そうな表情で、わたしを見つめ返す。
ふと気付くと、七瀬さんが何か言いたそうに口を動かしている。
けれどそこから、言葉が零れ落ちてくることは、なかった。
結局その日は佐織の発案で、みんなで一緒に遊びに行くことになった。
わたしは部活があるからと断ったけど、結局押し切られてしまった。
『たまにはさ、瑞佳も羽を伸ばして気分転換しなきゃ』
『そうそう。悩み事があるときは、美味しいものでも食べてさ。そしたら忘れちゃうよ』
『毎日毎日練習ばっかりじゃ疲れちゃうし、一日くらいは付き合いなよ？』
持つべきものは、友達だと、そう思った。
……けれど。
道を、歩く。
夕焼けの赤。
とても目にしみる、感傷的な風景。
まるでそれは血の色のようで、眩暈を感じた。
不意に、遠くからけたたましいサイレンの音が近付いてくる。
それは多分、救急車の音だ。
思わず無意識に、横断歩道の真ん中で足を止める。
点滅する信号。
赤。
瞬く、赤。
誘うような、赤。
その瞬間、魅入られたように意識が呑み込まれていく。
わたし自身にはもう見えていなかった、交差点に猛スピードで進入してくる車。
「馬鹿、瑞佳っ！」
誰の声だろうか。
佐織、いや、七瀬さんの声かもしれない。
どこか遠く、現実感のないところから響いてくる。
思い切り、腕を引かれるようにして、
その間際、その身体を揺さぶられる感覚が、全てを思い出させてくれた。
投げ出される身体、赤い飛沫。
それは、誰のものだったのだろう？
わたしは、それを、忘れていたんだ……。
「こ う へ い……？ こうへい！？ こうへいーっ！？」
狂ったように、存在しないはずの男の子の名前を呼び続ける。
いるはずの無いその姿を、辺りに捜し求める。
そんなわたしの手を引いてその場から連れ出したのは広瀬さんで、
彼を呼び続けるわたしの頬をひっぱたいたのが七瀬さんで、
わたしを優しく抱きしめてくれたのが佐織だった。
……思い出した。
それは、事故だった。
彼は、わたしを助けてくれた。
そして、わたしを庇って身代わりに死んでしまった。
彼はわたしを突き飛ばし、そして、わたしの目の前で車に轢かれたのだ。
わたしは、思い出してしまった。
わたしの幼馴染の生命が、わたしの目の前で、永遠に失われてしまったことを。
ようやく知ることが出来た。
こうへいが、わたしの隣にいない、その訳を。
こうへいは、夢の中のように、この世界から消えていなくなったわけじゃない。
そうじゃ、なかったんだ。
自分のせいでこうへいを死なせてしまった、その辛さを捻じ曲げて忘れようとしたのはわたしの方だった。
だから彼の存在がこの世界から失われたのだとすれば、それは彼自身ではなく。
……わたしの方が、望んだことなのだろう。
彼を失った痛みに耐えられず、そうすることで、わたしは自分の心を守ろうとしたのだ。
……なんて、弱い心なのだろう？
わたしが、真実を捻じ曲げて。
わたしが、こうへいを、この世界から消去したのだ。
そう、この、わたしが……。
だからわたしは、自分が思い出したその全てを佐織たちに告白した。
友達だから。
全て、話さなければならないと思った。
「わたし、全部思い出したよ。こうへいは、こうへいは……わたしが殺したんだよっ！」
胸が、痛い。
「なのにわたしは、こうへいのことを忘れようとしたんだよ。だから、みんなは、こうへいのことを……」
けれど。
パンッ！
軽く弾む音。
右頬に衝撃と痛み、そして。
「ふざけんじゃないわよっ！」
……七瀬さんだった。
〜 3. 七瀬留美 〜
「ふざけんじゃないわよっ！」
あたしは、恥も外聞もなく、往来の真ん中で叫んでいた。
叩いた右掌が、じんじんと痛む。
だって、本気でひっぱたいたのだから。
クラスメート『長森瑞佳』。
それは、あたし『七瀬留美』にとって、この学園に編入して出来た初めての友達。
そしてその時から、一番の親友であり、憧れでもあり、最大のライバルだと思っている。
かけがえのない、大切な存在だった。
だからあたしは、瑞佳のために出来ることがあれば、可能な限りしてあげたいと思う。
そんなあたしにとって、今の瑞佳の姿は見るに耐えないものがあった。
はっきり言って、ぼろぼろ。
辛くて、とても見ていられなくて、涙が出そうだった。
あたしの忍耐心はもう、我慢の限界を超えてしまった。
「瑞佳、いい加減にしてよ！ ねぇ、しっかりしなさいよ！」
瑞佳の両肩を鷲掴みにして、思い切り言葉を投げ付けた。
思わず、道を行く人たちが振り返る。
……乙女失格。
とても恥ずかしかった。
でも、そんなことは今はもう、どうだって構わなかった。
乙女らしさなんかより大事なものがあることを、あたしは知っていたから。
「あんたがそんな調子でどうするのよっ！ こんな……こんなことなら、あたしだって！」
情けなくって、涙が滲んできた。
でも、もう、後には、引けなかった。
……引いちゃ、いけなかった。
誰が止めようと、あたしは、それが正しいと、信じたから。
瑞佳には、幼馴染がいたそうだ。
その子のことは、正直あたしたちは良く知らない。
なんでもその子は、瑞佳がまだ小さい頃に亡くなったとのことだった。
瑞佳の目の前で、車に轢かれて……。
亡くした幼馴染の名前が、折原と同じ『こうへい』君だったのか、それとも似た名前だったのか。
仮にこうへい君だったとしても、どんな漢字を書いたのか、今となっては関係者の記憶も曖昧になってしまった。
少なくとも当時の瑞佳は、その男の子のことを『こうちゃん』と呼んで慕っていたらしい。
あるいはそれが、瑞佳自身にとっては無自覚の初恋だったのかもしれなかった。
そんな幼い瑞佳にとって、こうちゃんといつも一緒にいることは、当然のことだった。
こうちゃんが隣にいないなんて、世界が転覆しても有り得ないことだった。
幼かった瑞佳はその時のショックで、精神失調気味になったそうだ。
しかし丁度その頃、たまたま引っ越してきた折原と瑞佳は出会ってしまった。
目の前で起きた、あらゆる現実を否定し、忘れ去ろうとした瑞佳。
失った幼馴染がいつか戻ると、ずっと幸せなままでいられると、信じ続けた瑞佳。
大切な存在を失って絶望している折原の姿に自分を重ね、その哀しみを全て否定しようとした瑞佳。
だからこうちゃんを失って精神状態が混乱していた当時の瑞佳は、こうちゃんの記憶を折原とのものとして置き換えた。
心の壊れかけた瑞佳は、折原のことを、いつだって一緒にいた『こうちゃん』として受け入れてしまった。
そしてそれ以来、亡くなった幼馴染のことは、記憶の淵に沈めて忘れてしまったようだ。
その結果、瑞佳は折原との出会いによって、表面的には立ち直ることが出来た。
……心の奥底には、深く消えることのない傷跡を残しながら。
そして時間が流れ、あたしたちはこの学園で出会った。
あたしも折原のことが好きになってしまったけれど、結局告白なんて出来なかった。
瑞佳が、折原のことを好きなのはわかっていたから。
それでも、少しは折原の気持ちを引こうと思って頑張った。
もしかして、折原の方からあたしのことを好きになってくれたなら。
そんな、僅かな可能性に期待しながら。
でも同時にあたしは、気付いていた。
折原の気持ちは、いつだって瑞佳の方を向いていたことを。
それでも折原自身の態度がはっきりするまでは、あたしは諦めなかった。
けれど、とうとう折原と瑞佳が付き合いだすに至って、あたしはふたりを祝福した。
あたし自身、ふたりの間に入り込むことは出来ないと、いつだって感じ続けていたから。
しかし、悲劇は繰り返されてしまった。
折原が瑞佳を庇って代わりに車に轢かれた時、あたしは心臓が止まるかと思った。
でも、あたしには落ち込んでいる暇も、悲しんでいる暇もなかった。
瑞佳は、遠い記憶の蓋が開いてしまった。
忘れていた記憶を、誤った形で蘇らせてしまった。
瑞佳は、かつて失った幼馴染と折原とを、混同し、混乱し、錯乱した。
目の前で、自分のせいで、大切な相手を失うこと。
そのあまりの哀しみに、瑞佳の心は耐え切れなかったのだろうか。
医師が言うには、自我を守るためだそうだ。
瑞佳は、折原を失う痛みに耐えきれず、その存在そのものを記憶から消してしまった。
大切な人の存在を忘れることで、瑞佳は、心の安定をはかろうとしたのだ。
こうして瑞佳の心の中からは、折原の存在が消えてなくなった。
結局あたしたちは、瑞佳の母親のたっての頼みもあって、全てを隠すことにした。
折原の存在を隠し、知らない振りをすることで、瑞佳の心を守ることに同意した。
……同意、したはずだった。
あたしは、我慢がならなかった。
一番大切な人のことを忘れてしまった、瑞佳の想いに。
忘れることで自我を守ろうとする、現実から逃げている瑞佳の姿に。
そのくせ、忘れてしまった現実を、夢という形に投影して追いかけている瑞佳の心に。
そして、大切な友達に嘘を吐いて騙し続けている自分自身に。
大切な友達だからこそ、真実から目を背けて逃げて欲しくない。
大切な友達だからこそ、嘘を吐いて誤魔化したり騙したりしたくない。
もう、知ったことじゃなかった。
あたしは、あたしのやりたいようにしかできないって、思い知ってしまった。
ごめん、瑞佳。
あたし、酷いことをしようとしている。
それでもあたしは、あんたに本当のことを思い出して、そして乗り越えて欲しいから。
……笑って欲しいから。
「思い出して、瑞佳。折原のことを！」
あたしは、瑞佳の鞄の中から、例のぬいぐるみを奪い取る。
「七……瀬、さん？」
呆然として、蒼白な表情で瑞佳が呟く。
「い、今、折原って……こうへいのことっ！」
「ええ、そうよ！ 折原の馬鹿。自分の彼女にこんな辛い思いをさせてる、大馬鹿よ！」
構うものか。
「知ってるわよ。当然よ。だって、瑞佳の言うような絵空事なんて、あるわけないでしょ！」
そしてあたしは、うさぎのぬいぐるみの背中のボタンを押した。
折原に相談されて、あたしと一緒に折原が瑞佳のために選んだぬいぐるみ。
世界で唯ひとつだけのプレゼントに成れる、その特別な力。
今はもう、それだけが、あたしの頼りだった。
「折原は、ちゃんとこの世界にいるのよ！ 思い出しなさいよ、瑞佳！」
質の悪いスピーカーから流れる声は、けれども紛れもなく折原の声だった。
「こうへいっ！？」
まるで錯乱したかのように、うさぎのぬいぐるみに飛び付き、抱きしめる瑞佳。
「こうへい、こうへい、こうへいーっ！」
頬擦りするように、ぎゅっと抱き締める。
……その瑞佳の姿に、あたしは、羨ましさと痛ましさの同居した気持ちを感じた。
それでも、純粋に。
（敵わないなぁ、もぅ……）
大好きな親友の、かけがえのない想いの強さに、心地良い敗北感のようなものを感じてもいた。
瑞佳は、確かに一度は全てを忘れてしまおうとした。
けれども瑞佳の本当の心は、忘れてなお折原を想い続けていたのだから。
「それにっ！ あたしの好きな人を勝手に殺さないでよっ！」
こういうのを、世間一般では『やけくそ』というのだろうか。
「折原はっ、ちゃんと、生きてるんだからー！」
多分、今のあたしを止められる存在は、この地上の何処にもいないのではないかと思う。
「あんたがそんなんだったらねぇ、あたしが折原のこと、貰っちゃうんだからっ！」
結局、あたしは、各方面からの大目玉を喰らい、
そして結果的には、ふたりの友情と、あたしらしさに対しての賞賛を賜ることになるのだった。
〜 4. 折原浩平 〜
俺は、幼い頃に妹を亡くした。
それよりも前、物心が付くか付かないかの頃に父親を亡くしていた俺にとって、妹は特別な存在だった。
父親の代わりに、俺が家族を守らなければならない。
そんな馬鹿馬鹿しい、子供じみた使命感に、俺は燃えていた。
だから妹を亡くした時の俺は、抜け殻に近い状態だった。
そしてそれが原因で母親が失踪した時、世界は優しくはないということを身に染みて知った。
結局、唯一の親戚筋である叔母に身柄を引き取られることになった俺は、住み慣れた土地を後にした。
そこで俺が出会った少女。
彼女は、俺が信じられなくなっていたものを、あると言ってくれた。
『えいえんは、あるよ』
そして来る日も来る日も、俺のそばに一緒にいてくれた。
『これからはずっと、わたしがそばにいてあげるよ』
その言葉がどんな気持ちから出たものかは、あの頃の俺には分からなかった。
俺は、そこまで大人じゃなかったし、そして心にゆとりもなかった。
けれども、そばにいてくれる人の存在が、もう一度だけ生きる気力を俺に与えてくれた。
あの日交わしたふたりの約束が、俺にとっての全てであり、俺はあの日、確かに瑞佳によって救われた。
それ以来俺は、瑞佳のことを見つめ続けてきた。
そしていつしか、そばにいて欲しいよりも、そばにいたいと思うようになっていたと思う。
その頃の俺はもう、あの頃の瑞佳がどうしてあんなことを言ったのか、瑞佳の母親から聞いて知っていた。
それでも、俺の心が変わることはなかった。
何故ならば、あの時の瑞佳の言葉で俺が救われたことに嘘はなかったから。
そして俺は、自分の中にある気持ちを強く自覚した。
俺を、あるがままの俺として見て欲しい、と。
それでも俺たちは、過去の真実を瑞佳に告げることは、出来なかった。
……そして。
あの日。
交差点で信号待ちをしている間に、道路に飛び出した子供の姿を見て、瑞佳は錯乱した。
間が悪いとは、このことだろうか。
近くで、救急車のサイレンの音が鳴り響いていた。
その上時間は夕暮れ時で、街並みは夕陽に赤く照らし出されていた。
『こうちゃん！』
そう叫んで車道の子供の所へ飛び出した瑞佳。
俺には、進入してくる車の軌道から瑞佳を突き飛ばすのが、精一杯だった。
それから後のことは、よく覚えていない。
気が付くと俺は、病院のベッドの上で、一命を取り留めていた。
そしてその時にはもう、瑞佳の心の中には、俺の記憶は無くなっていた。
幼馴染を亡くしたあの日の記憶が、俺の死という形で瑞佳の心に圧し掛かり、
その重みと痛みに耐え切れなかった瑞佳の心は、壊れてしまったから。
あの日、幼馴染を亡くした記憶が、俺の存在を上書きし、
そしてその幼馴染の記憶ごと、瑞佳は、全てを、忘れることを選んだ。
結局、瑞佳の心が自然に癒えるまで、あるいは何かを取り戻すまで、俺は姿を消すことになった。
幸い姉妹校が全国に点在する学園の横の繋がりのおかげで、俺は特例として他所に編入することができた。
瑞佳のことはいつも気がかりだったけれど、俺にとっては瑞佳自身の心の方が大切だった。
だから、信頼できる友人たちに全てを任せる他には方法がなかった。
そしてその時間の中で、たとえ夢と言う形にせよ、瑞佳は少しずつ俺のことを思い出していき、
とどめとばかりに七瀬が全部ぶち壊して、そして瑞佳の心を救ってくれた。
瑞佳が望み、瑞佳のために周囲が作り上げた虚構の世界。
それは、今はもう、どこにも存在しない。
瑞佳に必要だったのは、壊れ物のように守られることではなく、自ら乗り越えることだったのだろうと思う。
そして全てが終わった今、俺はもう一度、瑞佳と一緒の時間を取り戻すために。
残り僅かな学園生活を、瑞佳と共に過ごすために。
……始めから、やり直すそのために。
〜 5. Epilogue, Again 〜
懐かしい教室に足を踏み入れる。
久しぶりに見たクラスメートたちの顔。
「おっ、折原、久しぶりー」
俺に気付いたひとりが、陽気に声を掛けてくれた。
「おぅ！」
俺はそれに軽く右手を上げて応えると、足早に教室を横切って行く。
目指す机には、学級日誌をつけている女子生徒がひとり。
仕事熱心な様子で、俺が机の前に立ったのすら気付いていないようだ。
……さて、どうしたものか。
「あー、おほん」
わざとらしく、咳ばらいをひとつしてみた。
それでようやく、女の子が顔を上げる。
最初は訝し気に、次に驚きから喜びへと、めまぐるしく表情が変わっていく。
やがて『パタ、パタ』と音を立てながら、雫がひとつ、またひとつと、女の子の頬を伝って落ちた。
学級日誌の文字の輪郭が、滲んでいく。
「ごめんね、ごめんね、こうへ……」
俺は、謝ろうとする瑞佳の口を手で制し、微笑んだ。
ゆっくりと、俺の記憶の中にあるのと同じ笑顔へと変わっていく瑞佳。
そして……。
「ただいま」「おかえりなさい」
ふたりの声が、重なり合う。
視線が合わさって、そして……俺の記憶の中にも見たことがない、最高の、満面の笑顔で。
「おかえりなさい、浩平」
だから俺も、満面の笑顔で挨拶を返す。
「ただいま、瑞佳」
そのまま、クラスメートの見守る前で、ぎゅっと瑞佳を抱き締めた。
……それは、どっちの角度から見たって、最高の幸せの欠片だった。
〜 Fin. 〜
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