仄かに暖かく、優しく抱き締めるように包み込んでくる何かを掻き分けて、僕は懸命に泳ぐ。上へ向かっているのか、下へ向かっているのか、右なのか、左なのか、どちらに進んでいるのか良く判らない。
一つだけはっきりと意識しているのは、前に進むと云う事。僕がかつて捨て去り、ずっと忘れていた大切な事。歯を食いしばり、振り返らずに泳ぐ。近いようで遠い、微かな光を目指して。だけど、いつまで経ってもそれは近付いてこない。時間は少し……たった一日しかないのに。
そこまで考えて、僕は自分が焦っている事に気付き、思わず苦笑した。一日と云う時間が貴重だと感じるなんて、いったい何時以来なんだろう。つい先刻までそう思っていたような気がするけれど、とても懐かしい感覚のような気もする。そう言えば、あちらではどれ程の月日が流れたのだろうか。どれだけ世界は変わったのだろうか。僕の事を覚えていてくれる人は、居るのだろうか。
不意に、誰かが僕を呼ぶ声が聞こえた。聞こえた気がしただけかも知れない。でも、それはとても良く知っている声。側にいる事が当たり前だった、愚かな僕がその大切さに気づけなかった声。
会いたい。
僕は叫ぶ。呆れる程に声を張り上げて、強く強く願う。
気が付くと、僕は光に包まれていた。眩しい。幾度も巡り来る、輝く季節に降り注ぐ光に吸い寄せられるように、僕は浮上していく。何処までも、何処までも。
けれど、それはいきなり途絶えた。それまで僕を包んでいた、暖かい何かも瞬時に消え去る。呆気なく放り出された僕の意識は物凄いスピードで落下し、柔らかい感触の上に叩き付けられて何度もバウンドした。勢い余って転がり落ちる。転がり落ちる？ 何から？ 僕は仰向けにひっくり返ったまま、小さな黒い眼で世界を見上げた。
ああそうか、ベッドから落ちたのか。僕は短い脚でじたばたと藻掻きながら納得した。このベッドには見覚えがある。天井、壁紙の模様、ずっと使っているらしい机にも。僕は何度か来た事があるから間違い無い。ここは、彼女の部屋だ。
……で、僕は何？
いつか、その日の為に
「で、あんたは現実逃避を実行した訳ね」
「うむ、まあ簡潔に言えばそう云う事だ」
首根っこを掴まれて連行されながら、俺は堂々と答えてやった。すると、隣を歩く七瀬の歩みがぴたりと停まる。ゆっくりと振り向いた七瀬の目付きは凶悪そのもので、俺はちょっとだけびびった。シャツの襟を掴んでいるのと反対の手に握られた木刀がぴくりと動いたのには、更にもうちょっとだけびびった。
「待て七瀬、俺が悪かった。だからそれはもうやめろ」
その威力はさっきこの身をもって知ったばかりだ。と言うか、木刀で殴るのは人としてどうだろう。なんだか頭が凹んでいる気がする。何で読んだかうろ覚えだが、宮本武蔵だって真剣より木刀の方がある意味恐ろしいと言っているんだぞ。よりデンジャーな武器を選択するとは、さすが七瀬だな。まあこれが真剣だったら、今頃俺は生きちゃいないのだが。
大まじめな顔でそう言うと、七瀬は急に疲れた様子を見せて俺から手を離した。すかさず襟を直し、伸びてしまっていないか確認する。これから更に一年間、悪くするとあと二年かも知れないが着続けなくてはいけない大事な制服だからな。
「折原、あんたねえ……自分の事でしょ？ 落っこちたいの？」
「それは嫌だ」
「じゃあ、真面目にやんなさいよ。全く、なんであたしが貴重な春休みをコイツの為に浪費してるんだか」
ぶつぶつと呟きながら歩き出す七瀬の後にくっついて、両手を頭の後ろで組んだ俺ものんびりと歩き出した。微かな声で鼻歌を歌い、左右に揺れながら歩く俺を、この季節にしては妙に元気な太陽が照らしている。こう暖かいと、面倒臭がりな俺でも光合成のひとつやふたつ試してみたくなるのだ。特に、軟禁状態で問題集漬けにされている状況だと。俺は限界まで目を細めて太陽を見た。
冗談はさておき、俺は現在結構な危機的状況に置かれている。簡単に言えば留年の危機。浩平ちんダブりぴんちだ。
元々、一年の留年は覚悟していた。えいえんの世界……幼い頃の盟約によって、思い出の中に閉じ籠もり停滞し続ける世界に呑み込まれた俺は、つい先日どうにかそこから帰って来た。帰って来れたのは、自分で言うとこっ恥ずかしいが、ずっと俺を想ってくれていた大切な人のおかげだ。でも、帰ってきて彼女と再会して、ハッピーエンドおめでとうとは行かないのがこの世界の厳しいところ。俺が消えている間、こちらでは丸一年が過ぎてしまったらしい。一年ぐらいなんだ、と浦島太郎にゃ鼻で笑われそうだが……今ふと思ったが、案外ヤツもえいえんの世界に行ってたのかもな。まああれはお伽噺だけど。
話が逸れた。消えた当時二年生の三学期、それも終わりに近い頃にだった俺は、三年生の過程を全部すっぽかしている事になる。この一年はでかい。勿論、高校卒業は不可能だ。そんな状況で卒業させろと云うのは、いくら担任の髭が宇宙的に大らかでも無理だろう。いや、少し期待してはいたんだが、やっぱり無理なものは無理だ。
それどころか、教師連中が逆に突き付けてきたのは、俺こと折原浩平の二年生時に於ける出席日数と単位の不足だった。つまり、俺は三年生にすらなれない。衝撃が大き過ぎたせいか妙に冷静になっていた俺の隣で、同じ学年になれるとはしゃいでいた澪が肩を落としてがっかりしていたのを覚えている。
仕方がない事だし、俺を全く知らない二つ下の連中に混じる方が気楽かもな、と一度は腹を括ったのだが、まだ諦めるのは早かった。
条件付きで進級が認められる事になったのだ。どう云う事情が働いたのか良く判らないが、願ってもない話ではある。勿論俺は飛び付いた……話を良く聞かなかったのは失敗だと思っている。でも、選択肢は無かったと思うけどな。
条件は簡単。春休み中に全科目のテストを受け、合格点を取る事。ただ、その合格点が異様に高い。状況を理解するにつれ、やる気を失っていく俺とは対照的に、妙に鼻息を荒くするヤツが一人、俺の周囲には居た訳で。
「留美っ、浩平いた？」
曲がり角の先から、息を切らせて飛び出してきた長森は、俺が七瀬の後ろにのほほんと立っているのに気付いて、わざとらしく胸を押さえて溜息を吐いて見せる。俺は頭の後ろで組んでいた両腕を解いて、だらりと垂れ下がらせた
「どうした長森、心臓がヤバイのか？ 若いのに大変だな」
「違うよっ、ホッとしたんだよっ……浩平ってば、ちょっと目を離した隙に居なくなっちゃうんだもん」
呆れかえった表情で、長森が睨んでくる。そう、昔から何かと俺の世話を焼く幼馴染みは、やっぱり今回も黙ってはいなかった。自分はとっくに卒業していると云うのに、未だ保管してあるらしい何冊ものノートを抱えて、既に諦めムード全開だった俺の所へ乗り込んで来たのが三日前。
ちなみに、俺と長森に挟まれてげんなりしている七瀬は、昨日から長森に連れられて来ている。元クラスメートとして、親切に勉強を教えに来ている……なんて訳ではない。まあ、俺が七瀬から学べるものと云えば溢れる漢気ぐらいだしな。七瀬の役割は、懲りずに繰り返される俺の脱走への対抗策だ。二人の監視の眼を潜り抜けて脱出した俺をしっかりと捕獲しているあたり、長森の人選は的確と言えるだろう。方法は多少アレだが。
「とにかく、もう時間無いよ浩平。頑張ってラストスパートしよう？」
顔を覗き込んでそう言うと、長森は俺の腕を掴んで引っ張った。ぶらぶらしてた反対の腕も、無言の七瀬にがっちりと掴まれ引っ張られる。顔を見合わせ大きく頷き合うと、長森と七瀬は馬力全開で歩き出した。二人の息は妙に合っている。どうやら俺が消えている間に、この二人の間には深い友情が生まれたらしい……何があったのかは知らないが。脱力した頭を右へ左へと激しく振りながら、俺は二人に引きずられて自分の家へと帰って行った。
帰ってくる途中から、いい加減観念して自分で歩いてきた俺がリビングのドアを開けると、そこには物凄く見慣れた栗色の三つ編み姿がちょこんと座っていた。細長いリビングテーブルに広げられていたノートや問題集の類は、いつの間にか適当に重ねられて隅に追い遣られており、代わりに湯気を立てるマグカップが三つ置かれている。中身は紅茶だった。四つめのマグカップは、こちらに横顔を見せて正座している、その両手の中にすっぽりと収まっている。中身の色が他三つと全然違うのは、たっぷりの砂糖とミルクが注がれているからだ。信じられないくらい甘党なのだ。
「あれ？ 里村さんどうしたの？」
入り口で立ちどまっている俺の後ろから身を乗り出した長森が、リビングを覗き込んで声を上げる。急に名前を呼ばれ、真っ直ぐ前を向いていた顔をゆっくりとこちらに向けて頷いたのは、やはり元クラスメートであり――――現在、俺の彼女でもある茜だった。
「こんにちは、浩平。長森さんと七瀬さんもお久し振りです」
「久しぶり〜。卒業式以来だね」
大袈裟な感情表現をあまりしない茜の、一見では素っ気ないとさえ見える控えめな挨拶に、長森は満面の笑顔で答える。俺は「よう」と軽く手を挙げて答えた。その間に長森は、俺の脇を擦り抜けてリビングに入り茜の隣に腰を下ろしている。
「えーと、こんにちは」
フレンドリーな長森とは対照的に、七瀬は少し戸惑い気味だ。俺の知る限り、長森も七瀬も高校時代には茜とは特に親しいと言える関係では無かったから、この反応の差は単純に二人の性格の差だろう。確かに七瀬は茜みたいなタイプが苦手そうだ。それでも、俺が長森の向かい、茜の隣に座り込むと、七瀬も後に続いて座った。リビングテーブルを四方から囲む形になって、ふう、と息を吐く。不意に疑問が浮かんだ。
「そう言えば、茜はどうやって入ったんだ？」
俺の叔母であり、この家の主である由起子さんは、今日も忙しいらしく朝早くから家にいない。ここには俺と由起子さんしか住んでいないのだから、俺が外出している間に家の中に入る事は出来ない筈だ。そして、茜はさっきまで確かに居なかった。
「鍵が開いてました」
真顔で答えると、茜はマグカップからミルクティーを一口啜る。なるほど、それなら入れて当然だな。茜にとっては、入りさえすれば後は勝手知ったる何とやら、紅茶を入れるどころかフルコース料理だって作れてしまうだろう……実は、最近頻繁に来て俺に食事を作ってくれているのだ。多分、今一番この家のキッチンを使っているのは茜だと思う。元々料理上手だけあって、あっと云う間に俺好みの味付けを覚えてしまった茜のおかげで、昔は灰色だった俺の食生活も今はバラ色だったりする。
いや、それはともかく。
「おーいおいおい、お前ら不用心だな〜。人の家だからって、鍵開けっ放しで出て行くなよ」
「あんたが逃げ出すからよっ！」
俺が呆れた口調でそう言うと、すかさず七瀬がツッコんで来た。長森もムッとした顔で唇を尖らせている。
「それに、わたし達はこの家の鍵を持ってないもん。鍵を掛けられる訳ないよ」
長森の言葉に、そうそうと頷く七瀬。まあそらそうだと思いつつも、黙ったまま明後日の方向に眼を逸らした俺は、ふとある事に気付いて長森を見た。
「あれ？ じゃあお前、前はどうやって家に入ってたんだ？ 由起子さんが居ない日だってあったろ」
同じ学校に通っていた頃は、俺は何時も部屋に乱入するこいつに叩き起こされていたのだ。鍵を持っていなくては出来ない芸当だと思うんだが。
俺が訊くと、なぜか今度は苦笑いを浮かべた長森の方が眼を逸らす。
「……前は、由起子さんが玄関に鍵を隠してる場所を、教えて貰ってたんだよ」
「何っ！？ 俺は知らないぞ、そんな事」
それは初耳だった。俺はてっきり、由起子さんが長森に鍵を渡してるんだと思ってたのに。と云うかそれを知っていれば、鍵を忘れた時に住井や他のヤツの家に押し掛ける必要も無かったじゃないか。
「だって浩平がそれを知ってたら、わたしが入って来れないように鍵を隠しちゃうじゃない」
断定かよ。少しムッとしたが、自分でもやるだろうなと思うので言い返せない。俺は横を向いて咳払いすると、マグカップの中で適度に冷めた紅茶を半分程一気に飲んだ。
「うん、おいしい。ありがとう里村さん。この馬鹿を追っかけ廻してたもんだから、喉が渇いてたのよね」
俺と長森の遣り取りを余所に、マイペースで飲み続けていた七瀬が、カップを置いてそう言った。茜が小さく微笑む。
「いえ……私も、何かして落ち着きを取り戻したかったので」
茜のその言葉に、俺は違和感を覚えた。取り戻したかったって事は、さっきまでは落ち着いていなかったって事か？ そう云えば、茜の様子はどことなくおかしかった。どこが、と云う程ではないが、何となく全体的に動きがぎこちない気がする。
「何かあったのか？」
気になって俺が訊くと、茜は困ったような怯えたような何とも曖昧な表情になって俯いた。これは、何かあったな。
「どうした？」
「話すには、ちょっと勇気が要ります」
そこで言葉を切った茜は、両手で握り締めていた紅茶の残りを飲み干した。由起子さんが俺を茶化すネタの一つでもある茜専用マグカップが、軽い音を立ててテーブルに置かれる。正座した膝の上に両手を置いて、縋るような眼で見つめてくる茜に、俺は思わずごくりと唾を飲んだ。何時か聞いた台詞。かつて、茜が独りで背負っていた悲しみを俺に告白する前に、ぽつりと呟いた言葉に似ている。ふと気付けば、背中一面にうっすらと汗。
だが、意を決したように口を開いた茜から飛び出したのは、俺の想像と全然違う言葉だった。
「その……浩平。今から、来てくれませんか？」
「はい？」
間抜けな声を上げてしまう俺に向かって、茜は真剣極まりない表情で身を乗り出す。
「私の部屋に……来て欲しいんです」
揃ってカップを傾けていた長森と七瀬が同時にむせた。長森はそうでもないが、七瀬は気管を直撃されたらしい。顔を伏せて激しく咳き込んでいたが、俺がぽかんとしている間に立ち直ると、勢い良く顔を上げて上擦った声を出した。
「ちょ、ちょっと里村さん！」
それきり、次の言葉が出てこなかったのか固まる七瀬。その隣で、長森はどう云う訳か三白眼になって俺を見ていた。
「浩平、やらしいよ」
「なんでそこで俺なんだ。言い出したのは茜だろう」
「そうだけど……ううー」
おかしなうめき声を上げたきり、やはり停止してしまう長森。リビングに奇妙な沈黙が満ちた。無意識の動きで頭を掻く俺。そんな俺達をを順繰りに眺めていた茜は、大きく溜息をつくと眼を閉じ、言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。
「違います」
……違うのか。いや、勿論俺には判ってたけどさ。別に「そーゆー事は二人の時にな」なんて口走りそうになってないぞ。本当だってば。
ちょっとだけ動揺したままの俺に構わず、茜は静かに立ち上がりながら言葉を続ける。
「そんな事じゃ無いんです。あの、そうだ、出来れば……長森さんと七瀬さんにも来て欲しいです」
真剣な声と表情で見つめてくる茜を見上げた俺と、我に返った長森と七瀬はお互いの顔を見合わせた。二人の顔には困惑の表情が浮かんでいる。多分俺もそうなっているだろう。けれど、茜はそれ以上に大きく困惑している様子だった。
「見て欲しいものがあるんです」
里村家に来るのは、随分久しぶりだ。帰って来てからはまだ無いから、現実時間では丸一年振りか。しかも、数える程の訪問歴はせいぜいリビングぐらいまでで、茜の部屋まで上がり込むのは初めてだったりする。
「家族はみんな出かけていて、今家には誰も居ません」
二階にある茜の部屋、閉じられたドアの前で、振り返った茜が俺に向かって言う。さっきのに続き、またもや男なら一度は言われてみたい台詞だったが、如何せん今この場にそんなムードは微塵も無く、俺達は二人きりでもない。
「見て欲しいものって、里村さんの部屋にあるの？」
茜がゆっくりと顔を巡らせて、無言で頷く。視線の先には不思議そうな表情を浮かべた長森と、なぜか家の中をきょろきょろと見回している七瀬がいた。結局くっついて来た二人にちらりと視線を走らせ、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ俺は首を傾げて顰めっ面を作る。
「んで、何なんだ？ ずっと、来れば判るの一点張りだったけど」
俺の家からここまで歩いてくる間、俺や長森や七瀬が何回も訊いたのだが、その度に茜はさっきの曖昧な表情を浮かべるだけで答えなかった。一度だけ口にした言葉は、『今話すと、呆れて三人とも帰ってしまうかも知れないです』。そんな事言われたら、かえって気になってしまうじゃないか。話だけ聞くとバカバカしく、でも実際に目の当たりにするとシャレにならない事態とは何か。俺は無言で一歩前へと進み出た。茜が、やはり無言でこくりと頷き、ドアの前から一歩下がる。何が起きているのかまだ判らないが、俺はほんの少し前まで自分自身がとびきりの不思議の中にいたんだ。そう簡単には驚かないぞ。
すぐ隣から茜の、背後から長森と七瀬の視線を感じながら、俺はそっとドアノブを掴んで廻した。二十センチ程度ドアを開けて、その隙間に顔半分を無理矢理突っ込む。片目だけをぐるりと巡らせて、茜の部屋を見回す俺。
全体的な印象としては、やはり女の子の部屋だなあ、と云ったところか。尤も、俺が直接知っている女の子の部屋なんて長森のところぐらいなんだけどな。シンプルで、淡い色に統一され整頓された空間。綺麗好きな茜らしく、ぱっと見でも掃除が行き届いている事が判る。比較的高い棚の上にも様々な物が置かれているあたりが、長森の部屋と少し違う。あいつの家では、うじゃうじゃいる猫が暴れ回って落っことすので、高い所に物を置かないようにしているのだ。そう云う制約が無い分、空間を自由に使えるのだろう。同じぐらいの間取りだったと思うが、こちらの方が広く感じた。
ふと。
俺の視線が、明るい光が差し込んでいる窓を通り過ぎて、そして止まった。表の道路に面した窓の桟と、そこから少しずれた位置に置かれた机の上に跨るように、あのぬいぐるみが置かれている。俺が茜に買ってプレゼントしたものだが、何のぬいぐるみかは良く判らない。ハムスターっぽくもあるが、ディフォルメし過ぎのシルエットのせいでそれも微妙だ。何より、呆れる程の巨大さがハムスターらしさを全力で否定している。
そいつは後ろ足で机の上に立ち、前足を窓に掛けるようにして俺に尻を向けていた。つまり、顔は窓の外に向いていた。茜もおかしな置き方をするもんだ。あれじゃ肝心の顔を見れないし、尻が乗っかった机を使うにも、今は開け放たれているカーテンを閉めるにも随分と邪魔になるだろう。他がきちんと整理されているだけに、妙に気になってしょうがない。これじゃまるで、あのぬいぐるみが外を見ようと机によじ登ったみたいだ。良く見ると、キャスター付きの椅子も机の下から乱暴に引っ張り出されていた……いや、まさか、そんな、なあ？
俺が自分の想像を笑い飛ばそうと、口を大きく開けた瞬間。
ヤツが、くるりと振り返った。笑い顔のまま固まる俺。頭の中で、んなアホなと呆然とする俺と、ああやっぱりなと納得する俺と、首が無いのに何で振り向けるんだ等と呑気に考えている俺がトライアングル状態でパンチをぶっ放し、三人揃ってＫＯされる。一瞬にして思考が真っ白になった俺の視界の中で、巨大ハムスターがもぞもぞと身を捩っていた。何をしてるんだ？ ああそうか、机の上に戻ろうとしてるのか。よいしょ、よいしょと云う声が聞こえてきそうな様子で、短い前足をチマチマと動かして移動している。精一杯急いでいるようだが、あまりにも遅い。その内、本人……と言っていいのか……ももどかしくなったのか、ぐっと力を込める様子を見せたかと思うと前足で窓を蹴った。机の上で勢い良く仰け反る。完全に天井を向いてしまった頭の下で前足をばたつかせ――――巨大ハムスターは床に転がり落ちた。
「ふう」
何故か溜息を吐いてドアを閉める。しばらくそのまま停止していた俺は、急に弾かれたように振り返った。隣から無言で注がれる視線には気付かない振りをして、きょとんと俺を見る長森と七瀬に向かって爽やかに笑いかける。
「さあ、試験までもう時間がないぞ！ 締まって行こうじゃないか、なあ？」
はっはっはと不自然に笑い、両腕をぶんぶん振りながら、俺は玄関に向かって歩き出しその場を後にしようとした。次の瞬間、ズボンのベルトを掴まれてつんのめる。物凄い速さで伸びた腕の持ち主は、ドアの隣でさっきと変わらない姿勢のまま立っていた。
「……見たんですね」
俺は重々しく頷く。
「ああ、素晴らしい映画だった。襲来するだよもん星人をばっさばっさと無惨に斬り捨てる、孤独なヒーロー漢女七瀬の生き様には感動した」
「……言いたい事は色々あるけど、まずなんでヒーローなのよっ！」
「わたし、悪役？」
眉をつり上げる七瀬と、自分を指さす長森。うむ、いい反応だ。しかし、肝心の茜には通じなかったらしい。俺のベルトを掴んだまま、機械のような動きでこちらを向く。
「見たんですね」
「……見た」
どうやら現実逃避は不可らしい。唇を尖らせて大きく息を吹き出すと、俺は両手を腰に当てて天井を仰いだ。オヤジっぽい動きだったが、今はそんな気分なんだから仕方無い。茜も小さな溜息を吐いていた。気持ちは判る。夢か幻覚だと思いたかったのに、俺が同じものを見てしまったんだから。
「何？ 何なのよ」
そんな俺達二人の様子を交互に見て、七瀬が訝しげな声を上げた。俺と茜は全く同じ動きで七瀬を見つめ、また全く同じ動きで閉ざされたドアを見る。何も言わない俺達に、しばし七瀬は顰めっ面で躊躇していたが、やがて意を決したようにノブに手を掛けた。俺と同じようにそっとドアを開け、顔半分だけで部屋を覗き込む。一秒。二秒。
「……いへあっ！」
意味の判らないかけ声と共に、仰け反った七瀬が勢い良くドアを閉めた。そこまで驚く事かよと思ったが、どうやらお馴染みのツインテールがドアに挟まれないようにしただけらしい。振り返った七瀬の顔は割と冷静だった。
「と、とと、ぬい、ぬい、何？ 何アレ？」
前言撤回。流石の七瀬も相当混乱している。俺は七瀬の肩に手を置き、無言で首を左右に振った。いいんだ、お前はよくやった。
「うわあ。動いてるよ、凄いね」
気付くと、いつの間にか長森も部屋の中を覗いていた。と言うか、お前冷静だな。一人だけ平気な顔で、わあとか、へえとか言いながら笑ってやがる。俺と茜と七瀬は、何とも云えない表情で顔を見合わせた。アイコンタクトの末、俺が恐る恐る長森に声を掛ける。
「長森、アレは今何してる？」
「え？ う〜ん、なんか私に向かって色々してるよ。何か言いたいみたいだけど、喋れはしないみたいだね」
長森はそう答えて、尚も部屋の中を見て笑っている。どうやら、危険な事はなさそうだ。まあ元があのぬいぐるみだしな。俺達はもう一度顔を見合わせてから、今度は三人そろってドアに取り付き押し開けた。いつの間にか廊下に正座している長森の隣に茜が屈み込み、その上から俺と七瀬が覗き込む形だ。と、押し開けたドアが掠める程近くに、あの巨大ハムスターがでん、と座り込んでいるのが見えた。巨大ハムスター……もう面倒臭いのでハムスターと略す事にするが、そのハムスターはいきなり見下ろす視線が四つに増えて驚いたのか、わたわたと前足を踏みならした。いや。違うな。これは長森の言う通り、何かを訴えてるのだと思う。だけど、喋れない上に手足もアレなので、何が言いたいのかさっぱり判らない。
「ねえ、これってロボットとかじゃないの？ 中に機械があるとか」
気味が悪そうにハムスターを眺めながら、七瀬が左隣の俺にそう言った。確かにそれは考えられるな。何せ元は五十万円の値が付いてた代物だ。中に何が仕込まれててもおかしくはない。しかし、俺の真下の栗色のお下げ髪は、それを否定して横に振られる。
「いえ、これは只のぬいぐるみです。少なくとも、手足に機械は入ってません」
「なんで判るの？」
真上を見上げて主張する茜に、右側の長森が尋ねた。茜は一瞬無言になり、目の前のハムスターを見つめ、それから急に遠く窓の外を見つめて小声で言う。
「……昨日、うっかり踏み付けました」
「そりゃ駄目だ。ロボット説崩壊だな」
俺達は思い思いの方向を向いて唸り、考え込む。ロボットじゃないとすると……と、そこまで考えて俺は急に我に返った。他の三人もすぐ気付いたらしく、ハッとした顔を見合わせる。そう、そんな事よりも問題なのは。
「茜。コレどうするんだ」
「どうすればいいでしょう、長森さん」
「どうすればいいのかな、留美」
「あたしっ？！ えーと……」
長森から急に話を振られて、七瀬は焦りながらも何か考えようと、眉を顰め俯いていた。固唾を呑んで七瀬に注目する俺達。しかし、結局俺達は七瀬が出したであろうアイディアを聞く事は無かった。目の前で大人しく座っていると思ったハムスターが、突如凄まじい跳躍を見せて突っ込んで来たからだ。
「うわっ！」
反射的に避ける。勢い余って俺は尻餅をついた。俺と七瀬が立っていた場所、長森と茜の頭上を通り越してハムスターは廊下に躍り出る。俺達が一瞬呆然として、状況を把握できないでいる内に、その丸い影は転がるように、いや文字通り半ば転がりながら階段を駆け下りて行った。次の瞬間、階下から「きゃ！」と言う悲鳴。それで俺達は我に返った。
「逃げた？」
「逃げた！」
「七瀬が、バラバラに解体してバーベキューにするとか言うからだ！」
「言っとらんわ、アホ！！」
ヤケクソ気味に怒鳴り合いながら、慌てて立ち上がる俺と七瀬。いきなりの展開に呆然として、振り向きながら眼を瞬かせていた茜と長森も我に返る。俺達が慌てて階段を駆け下りると、玄関にバッグを持って突っ立っているおばさんが居た。会った事がある、茜のお母さんだ。呆気に取られた様子で見つめる先には、開け放たれた玄関ドア。そうか、畜生。あいつ、誰かが帰ってきて玄関を開けるのを待ち構えてたんだ。
「おばさん！」
「え、あら？ えーと、折原君だったっけ。久しぶりねえ」
「お久し振りです。あの、今飛び出していったヤツ、どっち行きました？」
挨拶もそこそこに、俺はハムスターの行方を尋ねる。機械仕掛けじゃなく、なのに本物の生き物のように動き廻っているハムスターのぬいぐるみ。しかも巨大。でかいのはどうでも良いかもしれないが、放っておくのは何かヤバい気がする。俺や、続いて階段を駆け下りてきた茜、それに他の二人の焦った様子におばさんは怪訝な顔をしたものの、手を伸ばして道の先を指し示した。
「多分あっちに行ったわよ。あれは何？ 犬？ 良く見えなかったけど……」
良かった。咄嗟の事で、おばさんにはあれが娘の部屋にあったぬいぐるみである事に気付いていない。俺達はおばさんを適当にごまかすと、道路に飛び出して走り出した。
交差点を一つ、二つと走り抜ける。しばらく真っ直ぐ走ると、前方に茶色くて丸い怪しすぎる物体を見つけた。飛び跳ねるように走っている。あんにゃろう、脚の作りは爪楊枝レベルの癖に滅茶苦茶速いじゃないか。
「居たー！」
俺は叫ぶと、思いっきり加速した。俺の声が聞こえたか、一際高く跳び上がったハムスターもまたちっこい脚を更に高速で動かして加速する。
そして、実に傍迷惑な鬼ごっこが始まった。
ハムスターが最初に逃げ込んだのは、何処かの学校の校庭だった。俺は校門を通らずフェンスを乗り越えたからよく判らないが、多分中学校だと思う。長期休み中で人気のない校舎を、何故か校庭の隅に座り込んで見つめているようだった。俺は後ろから近付き、飛びかかろうとしたが、長時間走ったせいで流石に乱れていた呼吸で気付かれてしまった。途端、スタコラと逃げ出すハムスター。結局ここでは取り逃がした。ヤツは最高速はそれほどでもないが、身体がぬいぐるみのせいか疲労することなく一定のペースで走れるようだ。
次にヤツが立ち止まっていたのは、住所的にはもう隣町になる住宅街の、一軒の家の前だった。俺がヤツを見つけると同時に、ヤツの方でも俺を見つけてしまったので、ここでも俺はあっさりと逃げられてしまう。駆け抜け際に、ハムスターが見上げていた家にちらりと視線を走らせた。門は黒塗り、塀は四方を囲んでいて、敷地も広く家本体ははっきり言ってかなりの豪邸だ。表札には「柚木」とあった……まさかな。
とにかく、どう云う訳か人混みに近付かないので、今のところ騒ぎにはなっていないが、それも時間の問題だ。次こそ確実に捕まえないと。俺は少しその場で足踏みし、遅れ始めている七瀬を待つ。相当なスピードで走り回っているため、流石の七瀬にも疲れが見えていた。長森や、特に茜などはもうどこに行ったのか判らない程だ。
「七瀬！」
「……何よ」
それでも、多分全力で走ってくる七瀬に近付いた俺は、ポケットからそれを取り出して七瀬に握らせた。
「何コレ？」
渡されたもの……ソフトボールのボールを見つめて、七瀬が訝しげな表情になる。このボールは、さっきまた最初の中学校の近くを通りかかった時に、校庭に落ちていたのを思い出して拾ってきたものだ。七瀬と並んで走りながら、俺はニヤリと笑って親指を立てる。
「いい加減埒が明かないからな。こいつで仕留める」
「ちょっと待って、あたしに投げろって言ってるの？」
「そうだ、お前の超音速魔球に期待してる」
「あるかっ！ 大体、こんなもんぶつけてアレに効くの？」
「さあ。でもやってみる価値ぐらいあるだろ」
七瀬は乗り気じゃ無かったが、俺は強引に押し切った。実際のところ、これより良い案は思い浮かばなかっただけだけど。それに、もうそんな議論をしている暇も無かったのだ。
「折原！ 居た、居たよ！」
「よし、行け七瀬！」
目の前十数メートル。どこかの家の建築現場の前で、再びぼんやりと座り込んでいるハムスターを見つけて、俺達は色めき立つ……なんだかこの頃には、俺達は走り続けでハイになっていた。ランナーズ・ハイって奴だな。ちょっと違うか。俺に言われるまま、フルパワーで振りかぶる七瀬。投げた。速い。おお、良いボール投げるじゃないか。けど。
「馬鹿、高い！」
ボールの軌道は狙いよりかなり高かった。俺達の騒ぎに気付いて、また逃げだそうとしたハムスターの頭上を越えてしまう。またもや逃がしたかと思った瞬間、それは起きた。
「！！」
軋むブレーキの音。思わず息を呑んだ、俺か七瀬かどちらか判らない声。脇道から飛び出してきた自転車は、前を飛ぶボールに気を取られ、その後ろに走るハムスターに気付かなかったのだ。ぎりぎりになって気付いた自転車の乗り手は、慌てて避けようとするがとても間に合わずにハムスターを跳ね飛ばした。こちらに跳ね戻されながら、車道に転がるハムスター。しかも、間の悪い事に車の流れが迫ってきていた。自転車に乗っていた若い男は一瞬焦った表情を見せたものの、自分が跳ねたのがぬいぐるみだとすぐに気付いたらしい。どうしてぬいぐるみがこんな所にあるのか不思議そうな顔はしたものの、それ以上気に留める事無く自転車を発進させてしまう。
ハムスターの方は、車道の真ん中で藻掻いていた。ぬいぐるみだけに、自転車に跳ねられた程度では大したダメージはないらしい。しかし、あの体型だ。一度ひっくり返ったらそう簡単に立ち直れない。それに、果たして車に轢かれても平気なのか。じたばたと藻掻く姿は、それだけなら間抜けなのだが、この状況では余りにも……ヤバいんじゃないのか！
「浩平！！」
唐突に、俺の耳を打つ叫び。それが道路の向こうに走ってきた茜のものだと理解する前に、俺は歩道のアスファルトを蹴っていた。道路に飛び出し、馬鹿でかいハムスターを抱え上げる。立ち止まらない。一気に反対側の歩道まで駆け抜けた俺のすぐ後ろを、クラクションを鳴らしながらトラックが走り抜けた。
「浩平！」
「浩平！ 何やってるんだよっ！」
勢いが付きすぎて歩道さえも駆け抜け、道路脇のビルに激突して止まった俺とハムスターの元へ、随分前に置き去りにしてしまっていた茜と長森が駆け寄ってくる。良くここが判ったなと、俺は少し不思議に思った。後を辿ったにしては速いし、大体もう追い切れないぐらいに引き離していたのだ。じゃあ何故？ 二人のどちらかが、この場所を予想したんだろうか。だとしたら、それは多分。
「……何か判ったのか？ 茜」
顔を上げた俺の前に静かに立った茜は、ゆっくりと頷いて言った。
「はい……彼を行かせてみて下さい。捕まえようとしなければ、逃げたりはしないと思います。そうですよね？」
茜は俺ではなく、ハムスターのぬいぐるみの顔を覗き込んだ。俺が掴む腕の力を緩めても、もうハムスターは暴れなかった。こいつの声は聞こえない、こいつの表情は判らない。けれど俺には、こいつが穏やかに微笑むのを、確かに感じたような気がした。
春になって、日は長くなったけれど、流石にもう夕暮れが近い。赤みを増した太陽に照らされて、俺達はのんびりと歩く。先頭をちょこまかと進むのは、あのハムスターのぬいぐるみ。続くのは俺、茜、少し離れて長森、七瀬。なんだかなあ、自分たちの姿を想像するとおかしくなる。照れ笑い。なんだか今日一日のドタバタした出来事が、あっという間に笑える思い出話になっていく。
夕陽に眼を細めた茜が、珍しくはっきりと判る陽気な声で話している。
「浩平が行った中学校……私達はそこまで追い掛けたんですが……あそこは、私と詩子が通っていた学校なんです」
そしてもちろん、あいつも。頷く俺。
「じゃあ、もしかしてさ……」
俺はさっき見かけた、「柚木」の表札が掛かった豪邸の話をした。
「ああ、それは詩子の家ですよ」
「マジか？ あいつん家金持ちなんだな」
よく遊びに行った、あいつとも。頷く俺。
「それに、気付いてましたか？」
下から覗き込むように、微笑みを向けてくる茜。
「ああ、家を建ててたから、すぐには判らなかったけど……」
一年前は空き地だった。降り続けた雨と涙が染みこんだ場所。
「俺が消えた、空き地だな」
そして、その前にはあいつが。頷く茜。
なんだよ、もう。散々引っかき回された。暴走ハムスターに取り憑いて、やらかしたのは思い出ツアー。でもそれは多分、道しるべを得る為の前準備。だからきっと、あいつは。
「ねえ。何だか人が一杯集まってない？」
急に七瀬が声を上げた。一斉に長い階段の上を見上げる。いつの間にか、俺達は学校の裏山の下まで来ていた。目を凝らすと、確かに頂上あたりに沢山の人が集まっているのが見える。ハムスターがそこへ向かおうとしているのは明らかだった。人の沢山居る所へ行こうと云う、こいつの行動も良く判らないが、なんで今この時間にあそこに人が集まっているのかも謎だ。
俺と七瀬が顔を見合わせていると、近付いてきた長森がおずおずと口を開いた。
「あのね、浩平。私達、さっき住井君に会ったんだけど……なんだか今日は、町中で色々ヘンなものが目撃されてるんだって」
「ヘンなもの？」
「うん。喋る猫とか……動く人形とか」
「……爆走するぬいぐるみとか？」
俺がそう言うと、長森は躊躇いがちに頷く。俺は頭を抱えた。
「おいおいおい、そんなにいるのかよ」
「何だか、私が一人で悩んでいたのが馬鹿みたいです」
茜は憮然とした表情を浮かべ、でもその眼は笑っている。
俺達は思い出話をしながら、階段を登っていく。思い出話を笑い話に変えながら、一歩一歩登っていく。えいえんなんてない事を、えいえんなんていらない事を知った、あの時の気持ちで。
人々は輪になって、裏山の展望台に集まっていた。色んな人がいる。若い人、年老いた人、男も、女も。そしてその中央で俺は、もう懐かしさすら覚えるひとの姿を見た。
「こうへい」
「みずか……か」
かつて俺が盟約を結び、その盟約のもとに俺をえいえんの安らぎへと誘った少女は、以前と比べなんだか少しだけ大人びた気がした。錯覚？ いや、違う。彼女もまた、前へ進む事を知ったんだ。
「浩平、誰に話し掛けているんですか？」
俺の隣で、茜が不思議そうな顔をしている。俺は茜に、見えないのか？ と聞きかけてやめた。多分……みずかと云う少女は、本当は居ない。彼女は俺を映す鏡なんだろう。えいえんを求めた者が、それぞれにその姿を映す、鏡のような存在。それが多分、みずかなんだ。
「そうだね。僕には……違う人に見えるからね」
不意に聞こえた声に、俺と茜は振り向いた。隣で、茜が息を呑むのがはっきりと判る。そうか、こいつが。
「なんで、元に戻ってるんだ？」
俺の質問に、そいつは、俺達よりちょっと年下に見える線の細い少年は、穏やかに微笑んだ。
「気付かないかい？ 今、この場所は一時的だけどそれぞれの世界に繋がっているんだ。僕たちはまだ、本当はそこにいる。君達は今この一時だけ、僕の世界とみんなの居る世界を共有している。だから、僕は茜にも会えるし、折原君、君とも話が出来るんだ」
言われて、俺はあたりを見回した。気付かない内に、空は真っ暗になっている……いや違う。凄まじい速さで星が流れ、同時に静止している。これはえいえんの空だ。いま、ここは確かにえいえんの世界なんだ。俺は首を巡らす。周囲には俺の知らない、多分それぞれのそれなりの理由を持ってえいえんに行った人達が、懐かしい人達と再会を喜び合っている。家族、恋人、友達。そこにある絆を、失くして初めて気付く大切な絆を、しっかりと握り締めて。
「わたしね、こうへいが行ってしまっても、良く判らなかった」
背中から掛けられた声に、俺はゆっくりと振り向いた。みずかが、ほんの少し眼を離した間にまた少し大人びたみずかが、少しだけ寂しそうに微笑んでいた。
「前に進むって事。大人になるって事が、よく判らなかった。だから、わたしはみんなにこうへいの話をしたの。わたしに、前に進む事を教えてくれたひとの話をしたの」
「君の話は、僕たちに大切な事を思い出させてくれた。一度安寧に溺れてしまった僕たちにも、もう一度歩き出す強い勇気をくれたんだ」
少年と少女は頷き合って、小さく笑う。俺は頭を掻いた。なんだかなあ、恥ずかしすぎて照れ笑いすら出ない。
気が付くと、俺達の周囲に沢山の人が集まっていた。視線は俺と、みずかに向けられている。みずかは周囲に集まった人々を見回すと、いつの間にか殆ど大人になったその姿で両腕を広げた。
「さあ、そろそろ時間だよ。わたしがこうへいに貰った、想いの力の残滓だけでは、これが精一杯。みんなが本当に還る為には……自分自身の想いが……」
みずかの姿が急速にぼやけた。ハッとした俺が手を伸ばす。だが。俺の手が触れる直前、みずかの身体は光になって霧散した。周囲にたゆたう光の霧は、次第に螺旋を描いて空へ昇って行く。その流れに乗って、一人、また一人と消えて行く人々。
俺達の目の前に立っていた少年の姿も、次第に薄れて来ていた。両手で顔を押さえて、溢れる涙を堪えていた茜が、堪えきれずに手を伸ばした。彼はまだ、触れる事が出来た。何か言おうとして、何も言えない。触れた手を小刻みに震わせる事しか出来ないでいる茜に、少年は優しく微笑みかける。
「きっと還ってくる。だから泣かないで。あんな酷い事をした僕を、ずっと覚えていてくれた茜には、本当に感謝してるんだ。僕は必ずそれに応えるよ。だから、待っていて欲しい。そして、還って来れたら……」
「今度こそ、きっちり茜を振れよ」
俺に口を挟まれて、少年は一瞬だけ呆気に取られた顔をした。俺は後ろから茜を抱き締めて、それを少年に見せつけるように身体の向きを変える。そして、少年に向かって歯をむき出して笑った。少年はそれを見て……思いっきり吹き出し、腹を抱えて笑った。俺もまたニヤニヤと笑う。
「くくく……あははははは、判った、約束するよ。僕は必ず還って、そしてきっちりと茜を振る。それを楽しみに待っててくれよ、折原君、茜！」
「ちょ、ちょっと浩平！」
慌てる茜を挟んで、俺達は思いっきり笑い合った。そして、彼もまた――――光になって……
気が付くと、空は再び夕焼けに戻っていた。残された沢山の人々は、ぽつりぽつりと帰りはじめ、最後には俺と茜と、いつの間にか姿が見えなくなっていた長森と七瀬だけになっていた。
「ねえ、結局なんだったの？」
七瀬が呟く。長森と七瀬には、今ここであった出来事の記憶はなかった。一瞬のうちに、全てが終わったのだと云う。
「さあな、俺にも良く判らないよ」
俺はそう言って、足下に転がるハムスターのぬいぐるみを拾い上げる。もう、それは動かない。でっかくて怪しげだが、俺が茜にプレゼントした、只のぬいぐるみ。
「帰るか。試験勉強もしなきゃいけないしな」
「あれ？ 浩平がやる気になってるよ。どうしたのかな」
俺の言葉に、長森が目を丸くした。失礼な奴だな。俺は只、こう思っただけだ。
「……負けてらんないしな」
仄かに暖かく、優しく抱き締めるように包み込んでくる何かを掻き分けて、僕は懸命に泳ぐ。上へ向かっているのか、下へ向かっているのか、右なのか、左なのか、どちらに進んでいるのか良く判らない。
一つだけはっきりと意識しているのは、前に進むと云う事。僕がかつて捨て去り、ずっと忘れていた大切な事。歯を食いしばり、振り返らずに泳ぐ。近いようで遠い、微かな光を目指して。
ＥＮＤ
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