マジカル☆ワードを唱えよう
「ああ、大変！田中君が悪い怪人に捕まっちゃったよ！」
「こんな時にプリティ澪がいてくれたら……」
「そうだ！観客のみんなが大きな声で呼んでくれたら、
彼女に届くかもしれない！」
「よい子のみんな、お願い！私と一緒にプリティ澪を呼んで！」
「プリティ澪ー！」
「……いや、あのね」
「どうしたの？声が小さいよ！それじゃ彼女は来てくれないよ！」
「プリティ澪――――――！」
「……ちょ――っと待ってもらえるかしら……？」
冬まっさかり。
今年も演劇部の忙しくなる季節がやってきた。
三月には部のにとって大事な公演がある。
ＯＢとなった深山雪見は、残された部員達に活を入れようと、久しぶりに母校へ帰ってきた。
どんな劇をやるのか、気になっていたのもある。
だが。
「…何よこの惨状は」
体育館内で行われていた練習は、すごいものだった。
演劇の枠をはみだしている。というか、別物。
「練習ですけど」
数少ない男子部員がそう答えた。
「いつの間に、うちの部はヒーローショーもどきをやるようになったのっ？！」
深山元部長、ひどくご立腹。
「いやあ、こーゆーのもいいかなぁって。たまには」
「いいわけないでしょっ！……つか、どうしてこんな話をやることに」
「それは……ですね」
『台本、書いてきてもらったの』
おおーっ、と部室内から声が上がる。
「上月部長の知り合いが書いてくれたものです。きっとすごいものでしょうねー」
喋ることのできない少女・上月澪は、演劇部部長になっていた。
普段の頑張りが認められた……というか、周りから持ち上げられたというか。
「早速見てみましょうか」
ワープロ用紙で書かれた台本を、部員の一人が受け取る。
彼女はみんなにわかるように、台本の中身を、声を出して読み始めた。
「えー…なになに？『魔法少女プリティ澪・愛の大決戦』」
『…………！』
びっくりした顔の澪。
どうやら渡されたものをそのまま持ってきて、まだ何も見てなかったらしい。
「『これは魔法少女プリティ澪が愛と勇気の力で戦う物語で……』」
澪はかなりの恥ずかしがりやだった。
慌てて、その台本を奪おうとする。
けれど、その行動は彼女に読まれていた。
「おおっと」
台本を持った部員は、澪に取られないために立ちあがって読み続ける。
澪はかなり背が低く、それだけで台本に手が届かなくなった。
『……』
……はぅぅ〜っ。
ぴょんぴょん飛び跳ねながら、さらに台本を奪おうとする。
しかし、ジャンプしても手が届かない。
「『変身するんだ！そうすればあいつも倒せる！』
『で、でもあんな格好恥ずかしいのっ』」
目の前には、顔を真っ赤にしながら、台本を取り返そうと跳ねている澪がいる。
これだけでこの反応の澪に、ひらひらの（恥ずかしいらしい）魔法少女コスチュームを着せたら、一体どうなるだろうか。
（……ものすごく着せてみたい）
部員全員がそう思った。
「この脚本……いけるかもしれない」
初めに言い出したのは、台本を読んでた彼女。
「そうだよな！なんか聞いてて素晴らしいものを感じたよ！」
「三月の公演はこれしかないわ！」
「忘れていた子供心を取り戻せる、いい作品だよ！」
中身を五行くらいしか聞いてないのに、次から次へと褒め称える部員達。
『……』
…え？え？
澪はどうなってるのかわからず、キョロキョロしていた。
そんな澪を置いて、盛りあがりを見せる部員達。
こうして「魔法少女・プリティ澪」は、次の三月公演で行われることになったのだった。
「あ―――――んた――――らね―――――――――っ！」
「い、いたたっ！。深山部長、離してっ！」
深山元部長、必殺の頭ぐりぐりを部員にかます。
「はぁ……誰か止める人間いなかったの」
『……』
…はいはーい。
澪が手を上げる。
「……」
正直止めた方がいい、とは思うのだが。
いかんせんもう時間がない。
公演までは残り一月。
「……ええいっ、もう！あんたたち！始めたのがどういう理由でも、やるからには
真剣にやりなさいよっ！」
「ういーっす」
「あ、頭痛い……」
部員がこんなになったのは、今はいないある一人の男の影響なのだが…
余談なので置いておく。
「それと、観客に呼びかける所だけは変更しなさい」
「えー」
「えーじゃないっ！そんなにお客さん引かせたいのっ？！」
…しばらく、毎日様子見に来よう。
そう思う深山雪見だった。
それから二日後。
とあるハンバーガーショップにて。
珍しく時間の空いたこの日、澪はここで友達と会っていた。
「澪ちゃん、あたしの書いたシナリオどうだった？」
頭にペケを持つ天然少女、柚木詩子はテリヤキバーガーをかじりながら、そう聞いた。
『…正式採用されてしまったの』
「え、うそっ？！あたし冗談で書いたつもりだったのに」
「冗談にしては、えらく気合の入った量でしたけど」
物静かな少女、里村茜は食べかけのスイートパイを置いてツッコミを入れた。
「あはは。いやそれはまあ、ねえ。澪ちゃんかわいいから」
詩子は隣の澪を抱きしめて、頭をぐりぐりと撫でた。
澪は手のソフトクリームを落さないように頑張っていた。
「澪ちゃん、魔法少女もの好きでしょー。だったら問題なしじゃない」
『……』
…でもぉ、と澪は下を向いてしまう。
「…好きだったんですか。初耳です」
「あたしも澪ちゃんくらい小さい頃は、魔法少女を夢見てたからね。わかるよ」
「一歳しか違いませんけど」
『それで、これから衣装をもらいにいくの』
「へー、どんなのどんなの？あたし見てみたいーっ」
『で、でも、すっごく恥ずかしいの』
なにせ「恥ずかしい格好で」とシナリオに書いてあるから、思いっきり恥ずかしい衣装が作られている。
「いいじゃない。どうせ当日はたくさんのお客さんに見られるんだしさ」
『……』
詩子の言葉に一瞬、澪が止まった。
「どうしたの？」
『昔、同じ事言われたの』
「えー、あたしの真似するなんて誰？！澪ちゃんの彼氏とか？」
ごんっ！
驚いた澪は、思わず一歩後ずさって、壁に思いきり頭をぶつけた。
『……』
…えぐえぐ。
頭を押さえてうずくまる。
「……あ、ひょっとして当たっちゃった？」
「みたいですね」
『……』
…あうあうあう。
「彼氏なんていたんだ…。あたしの澪ちゃんをたぶらかすなんて、とんでもない奴がいたものだわっ！」
『……』
…びくびく。
「……あー、ごめんごめん。冗談だから戻ってきてー」
柱の影に隠れた澪を、詩子が引っ張って席に連れ戻す。
「でも、そんな人見たことないよー」
『…今はいないの』
「…ひょっとして、ふられちゃった…とか？」
『行方不明なの』
「…そう…なんだ」
ちょっとまずいこと聞いちゃったかな？と思う詩子。
「行方不明……」
茜は誰にも聞こえないような声で、そっと呟いた。
「ま、それはともかく、澪ちゃんの衣装をぜひ一目」
かなり強引に話を戻す詩子。
暗い話は自分の専門外だと言わんばかりの態度である。
『……』
…だだだだっ。
澪は逃げ出した。
「あ、逃げたっ！追うわよ茜！」
「…少しはゆっくり食べさせてください」
「そんなのいつでも食べれるじゃない」
そんなことを言い合いながら、商店街へと走って行く。
あわれスイートポテト達は、置いてけぼりをくらってしまった。
「マジカル☆ワードを唱えるのよ！澪ちゃん！」
「わかったの！」
『澪はマジカル☆ワードを唱えると、愛と勇気の魔法少女プリティ澪に変身するのだ！』
「マジカルプリティチェーンジっ！」
ＢＡＮ☆ＢＡＮ行くの 負けないの
かけっこビリなの 負けないの
テストが０点 負けないの
どんなピンチもくじけない
こんな時こそ必殺技なの
マジカル☆ワードを唱えよう
想いを形にする魔法
マジカル☆ワードを唱えよう
心を嬉しくする魔法
マジカル☆ワードを唱えよう
私を素敵にする魔法
舞台にスモークが、バックに主題歌が流れる。
ちなみに、作詞は柚木詩子、作曲は演劇部員一同だ。
数秒が経ち…そして、スモークの中から登場する人影。
ひらひらがたくさん付いたメイド服のようなコスチューム。
手には先端がハート型の、ステッキ。
スカートはパンツが見えそうで見えないぎりぎりの位置を保っている。
これが魔法少女プリティ澪である。
「時を構わず悪行三昧。お食事中を邪魔された。
許しておけない悪者達。悪の華って食べれるの？
魔法少女プリティ澪！お寿司くわえて参上なの！」
ちなみに、澪の声は声優志望の部員が当ててくれている。
澪はその声を聞いて、自分がいかに普段『なの』を沢山使っているかを自覚させられたとか。
「さあ、覚悟するの！このプリティ澪が来たからには……
って、澪ちゃんどこ行くのっ？！」
スモークが晴れると澪は、だーっと舞台の脇に走っていって、幕の中に隠れてしまった。
『……とてつもなく恥ずかしいの』
「ダメだよ澪ちゃん。いつもこの場面で逃げ出すんだから」
「普通の反応だと思うけど」
特別出演・ツッコミ役 深山雪見。
とかテロップに流されそうなくらい、最近の彼女はツッコミが多くなっていた。
と、そんな事を言ってる三人に
「こんにちは」
と、後ろから声がかけられた。
「あら、どなたですか？」
「上月さんの友達の、里村茜です」
『……』
…ぱあっ。
見に来てもらえたことが嬉しいのだろう。
茜を見た澪の瞳が輝き出した。
「もう１回いくわよー。澪ちゃんしっかりねー！」
呼ぶ声がする。
澪はすぐ側のスケッチブックを手に取り、そっと抱きしめた。
目を閉じ、何事かを呟くように口を動かす。
ちょっとの間。
そしてすぐに立ちあがり、別のスケッチブックを開いた。
『いってくるの』
恥ずかしいのを振りきって、澪は再び舞台に駆けていった。
「頑張ってますね、上月さん」
「そうね。あの子はそれが取り柄だから」
失敗もよくするけど、と最後に付け加える。
「でも、恥ずかしいと言ってるわりに、一生懸命やってますね」
「そうね…実は結構、気に入ってるのかもね」
魔法のバトンをふりふりしている澪を見ながら、深山雪見はそう言った。
雨が降り始めた。
夜の闇に、ゆっくりと、染みこむように。
それに気付いてしまった茜は、傘を持ってそっと出かけた。
あの空き地へ。
あいつが帰ってくるかもしれない、あそこへ。
「…私は、いつまでこんなことをするんでしょうか」
まるで他人事のように呟く。
声は、雨音に消えていった。
水滴だけが、世界をざわめかす。
寒い…
冬の雨は、心に染みるような冷たさを持っていた。
靴が濡れて、重さを増していく。
その靴から靴下へと、水が染みようかと言う時、ようやく茜は空き地の前まで辿りついた。
しかし、そこは……
「……！」
雨の中、辿り着いた場所は、いつもの空き地ではなくなっていた。
ロープが張られ、建設予定の看板が立っている。
そこはもう、茜が入れる所では、なくなっていた。
「…私は……」
どこに行けばいいのだろう。
どうすればいいのだろう。
待つ場所は、もうなくなろうとしている。
目の前にあるのは、夜の闇。
目指すものは、闇に隠れて見当たらない。
「……」
茜は、行くあてもなく、その闇をふらふらと歩きはじめた。
「……」
無意識のうちに、茜は夜の学校に来ていた。
いつの間にか雨は上がっていて、満月の光が校舎を照らしている。
誰かに会いたい……
誰かに会って、なんでもいいから話をして、この辛い気持ちを紛らわせたい……
そんな想いが、茜をここに運ばせたのだろうか。
けれど。
こんな時間に誰かがいる…
「…はずないですよね……」
下駄箱の近くで、足は止まった。
家に帰って、詩子にでも電話するほうがいい。
そう思い、引き返そうとする。
と、そこに……
がばあっ！
「きゃあっ！」
何者かが茜にしがみついてきた。
泥棒？それとも変質者？！
暗闇でうごめくものが茜からまとわりついて離れない。
落ちこんでいた茜にとって、この状況は耐えがたいものだった。
じわり、と涙が浮かび上がってくる。
「や、やめっ…離してくださいっ！」
茜は必死になって、それを引き離そうと…
「……あ」
そこで、はたと気付く。
しがみついているものはやたらと小さかった。
身長が平均女子少し下の茜よりも小さい。
ひょっとしたら、迷子の子供なだけかもしれない。
そう思うと、急に落ちついてきて、しがみついてるものをよく見ようと
暗闇の中、目を凝らした。
「……上月さん？」
『……』
……えぐえぐ。
迷子の子供と思ったのは、怖がりの澪だった。
澪の教室の、窓際の席。
二人は夜空を見上げながら、話をしていた。
『練習いっぱいしてたら、日が暮れてたの』
月明かりでスケッチブックの文字を見せながら。
「それでなんで下駄箱にいたんですか？」
『一人で帰るの怖かったの』
「…暗くなる前に帰ればよかったのに」
さっきとは違う、月の光の青い世界。
心は少し落ち着いていた。
『もうすぐ本番だから、練習もいっぱいしないと、なの』
「……」
そこで、沸きあがる疑問。
澪は好きな人が行方不明になった、と言った。
なんで、それで平気なのだろうか。
なんで、普通に笑っていられるのだろうか。
なんで、頑張れるのだろうか。
自分は……辛くて苦しくて、身動きすらできないのに。
「上月さん、あなたはなぜ…大切な人を失ったのに……頑張れるんですか？」
『……』
しばらくの沈黙。
澪はしばらく茜をじっと見ていたが、やがて、スケッチブックに言葉を少しづつ書きだしていった。
『お別れする時に……マジカル☆ワードを唱えてもらったから、なの』
マジカル☆ワードとはなんだろう。
少しの間、とまどう。
しかし、すぐにあの「魔法少女プリティ澪」のテーマソングの言葉だと、茜は気付いた。
私を素敵にする魔法……
『帰ってくるまでに、頑張って素敵な自分になっておきたいの』
「でも…帰ってこないかもしれませんよ」
『その時はまた、考えるの』
強い子だと思った。
どんな時でも、目標を持って生きていける。
自分は、ただ泣いていることしかできなかったのに。
マジカル☆ワードを唱えてもらったから、なのだろうか。
「どんなピンチもくじけない
こんな時こそ必殺技なの……」
月に向かって、茜は歌ってみた。
「マジカル☆ワードを唱えよう…」
その安っぽいメロディーは、不思議と心を落ち着かせてくれる。
何かに祈るように、歌い続ける茜。
澪はその歌声を、ゆっくりと首を揺らしながら聞いている。
月はそんな二人を、優しく照らしていた。
女子高生人気の店、山葉堂。
ワッフルを作らせたら県内一と評判の店だが、味だけで勝負してるわけではない。
定期的に新メニュー発表、記念セールなどをやっている。
その日は、丁度、記念セール五割引の日だった。
「ふぅ…すごい人です」
甘いもの大好きっ子な茜は、当然このイベントに参加していた。
今は行列の中ほど、あと二十分で買えるくらいの位置。
後、何人くらいいるのかを見ようと、茜は背を伸ばした。
と、そこに。
「あ」
前方から澪がこちらに向かって歩いているのが見えた。
両手に山ほどのワッフルを抱えて。
あんなに持って、落としたりしないんでしょうか……
などと思っていたら
『……！』
…ぐらぐらっ。
案の定、バランスを崩して倒れそうになる。
澪はなんとか立て直そうとしたが、歩道の段差に躓いてしまい、空中にワッフルを撒き散らすことに。
「あぶないっ！」
茜は走って駆けより、倒れる寸前の澪の体を受け止めた。
『……？』
受け止められた方の澪は、しばらく目をぱちくりさせていたが、やがて助けられたのに気付くと、ぺこりとおじぎをした。
「行列で段差が見えにくくなってますから、気をつけないと」
『ありがとうなの』
澪は、落ちてしまったいくつかのワッフルを拾い上げる。
「そんなにたくさん食べるつもりだったんですか？」
『部のみんなに頼まれたの』
「なるほどです」
部活動におやつを持っていっていいのかどうか、一瞬考えたが、帰宅部の茜が考えてもわかる筈がなかった。
「私も、ワッフルを買いに来たんで……」
そこまで言って、茜ははっと気付いた。
行列はすでに詰められ、最後尾は一時間半待ちだという状況に。
結局茜は、落ちてつぶれたけど、袋に入ってたので食べれなくはない、というワッフルを澪と二人、近くの公園で食べた。
つぶれてはいるが、ワッフルは甘くて美味しかった。
＜これでテストがなければ最高なんだけどな＞
ふと、そんな言葉が頭の中をよぎる。
…それは、誰の言葉だっただろうか？
しばらく考えても、答えは出なかった。
朝から雨が降っていた。
茜は空き地に行くかどうか、迷っていた。
まだ工事は始まっていない。
外からあそこを見渡すのなら、できなくもない。
けれど、もういいかげん区切りをつけたほうがいいのかもしれない。
自分は澪のように、あいつから魔法をかけてもらったわけでもない。
でも。
それでも。
足は動いていた。
あそこへ。
風がきつかった。
気をつけないと、傘ぐらい飛んで行ってしまいそうだった。
ゆっくり慎重に、歩いていく。
途中の川は増水が激しく、ごうごうと音を立て、すごい勢いで流れていた。
その川の横。
今にも水に飲みこまれそうな土手。
そこに人影があった。
「…上月さん！」
最近、澪とは立て続けによく会う。
偶然なのか、それとも何か運命のようなものがあるのか。
だが、そんなことを考えている暇はなかった。
あんなところにいては危ない。
風圧で動きにくい傘をたたんで、すぐ側まで駆け寄る。
「……」
近くに行くと、澪が泥だらけなのがわかった。
川に落ちてしまったのだろうか。
だが、澪はそんなことを構わずに、鞄をひっくり返した。
鞄の中も泥が入っていたのだろう。
出てきたのは泥にまみれたスケッチブック。
それはあの時、澪が抱きしめていたスケッチブックだった。
茜は直感で気付いた。
あれはたぶん、彼との思い出が入ったものなんだ、と。
澪は慌てて、一番最後のページを開く。
＜さ……なら、…＞
文字は泥によってほとんど見えなくなっていた。
『……』
…だっ！
「ど、どこに行くんですか？！」
近くの公園に走り、水道の水で、それを必死に洗い流そうと試みる。
普段とはまるで違う、痛々しい澪。
茜はただ呆然と見ているしかなかった。
水が泥を洗い流して行く。
だが、泥のついた紙は脆くなっていた。
…ぼろっ。
紙が、溶けて落ちる。
溶けたそれは、止める間もなく排水溝に流れていった。
もう、澪にしかわからない彼の、「いたことの証」。
それはもはや、形にもなっていなかった。
『……！』
澪はあの時以来、初めて人前で泣いた。
声も出さずに……いや、声も出せずに。
『…！……！』
流れ落ちる涙は、最早止めようもなく、だたひたすらに流れた。
その姿に……茜は初めて気付かされた。
辛くないわけじゃない。
我慢できてるわけじゃない。
それでも、それでも澪は戦っていた。
彼のいない世界に、自分を保とうとしていた。
「…上月……さん」
泥だらけの澪を茜は構わずに抱きしめた。
今の澪が、自分と重なる。
あの日、一人で泣いていた自分と。
『……！…！』
こんな時……せめて澪は、一人で泣かせたくなかった。
愛しい人の温もりは与えられないけれど、せめて……
雨は、彼女達の心など知らぬかのように、ひたすら降り続けた。
「上月さん来てないんですか？」
「ええ、そうなの」
もうすっかり知り合いになった、深山元部長。
澪はこの数日顔を出していないと言う。
「澪ちゃんこの話大好きだったのに、休むなんて…」
「きっと病気なんだと思います」
雨にあれだけ打たれたのだ。
風邪を引いていてもなんらおかしくない。
問題は……風邪でなかった時のことだ。
「あ、ちょっとその台本、見せてもらえますか？」
澪が大好きだと言う、この話。
あの時とは違い、今は興味があった。
そして、そこで初めて、茜はこの話の全容を知る。
ある日、魔法少女として覚醒した中村澪。
それから悪の秘密結社との戦いが始まる。
戦いの中、芽生える恋。
しかし、敵によって恋仲の二人は離れ離れにされてしまう。
だがしかし、彼女は究極のマジカル☆ワードで、最後の敵を倒し、彼を取り戻すのだった。
「そして二人は再会した。あの、いつも一緒にいた丘で」
そこまで読んで、茜はぱたんと台本を閉じた。
「……ふぅ」
……話がベタベタです。
今時、こんな展開じゃお客が喜ばないんじゃ、と心配するくらい。
「…でも、上月さんがなぜこれを好きだったのか。わかった気がします」
幸せになれるのだ、最後には。
引き離された恋人と再会して。
ドジだけど一生懸命に頑張るヒロイン。
努力は、報われるのだ。
「詩子も、たまには良いことを言いますね」
本人が聞いていたら間違いなくぶーぶー言うだろう。
「すみません。これ一冊、貸していただけないでしょうか」
その後すぐ。
茜は澪の見舞いに上月家へとやってきた。
「お見舞いですか……ありがとうございます」
澪の母はおだやかな感じの女性だった。
「きっと澪も喜ぶと思います」
二階の澪の部屋まで案内される。
「熱はあるんですか？」
「二日前まではあったんですけど、今は引いてます。大事を取って休ませてるんですけど」
「……」
「あ、ここです」
ドアにかかった丸いプレートに「みおのへや」と書いてあった。
「じゃあ、後でお茶持ってきますね」
「ありがとうございます」
たんたんたん、と澪の母は階段を降りて、台所に向かった。
「上月さん、入りますよ……」
そして、茜はドアを開けた。
『……』
薄暗い部屋。
電気もつけず、カーテンも開けていない。
隅にベッドがあり、澪はそこから魂の抜けたような顔で茜を見ていた。
『……』
「体調はもういいんですか？」
『……』
「いつから学校にこれるんです？」
『……』
反応はない。
「辛いかも知れませんけど……あなたには頑張ってもらいたいです」
ドジで、いつも失敗ばかりして……でも、いつも一生懸命な澪。
「プリティ澪の、ハッピーエンドが見たいです」
そんな彼女の幸せな姿が見たい。
諦めずに、頑張ってほしい。
努力が、報われてほしい。
「…名前は、思い出せませんでした」
茜は澪の前に、山葉堂のワッフルを出した。
「でも、あの人はこの世界にいました。私と、あなたと、彼と、三人で確かにワッフルを食べました」
『……！』
その言葉に、落ちこんでいた澪が大きく反応した。
茜は薄々感じていた。
澪の彼氏も、世界から消えたんじゃないか、と。
何度も記憶を掘り返し、ようやくワッフルを食べた事だけだけれども、思い出せた。
『…どうして……覚えてるの？』
「……私、記憶力いいですから」
茜は、ここ数年したことのない、穏やかな微笑を、見せた。
ぽたっ……
ぽたっ…
澪の頬を、また涙が流れた。
でもそれは
『ありがとう、なの…覚えていてくれて……』
喜びの、涙だった。
ビ―――――――ッ
「只今より、演劇部第十八回公演を開始します」
そして、舞台は始まった。
薄暗い体育館で、スポットライトを浴びた役者達が、輝いていた。
一人一人の動きが、努力の結晶だった。
「究極のマジカル☆ワード？！」
「そう、それはキミの心の中にあるはずだよ」
「心の、中に……」
「その想いを、言葉にしてぶつけるんだ！そうすれば……キミは誰にも負けない！」
「誰よりも、強く、素敵になれる！」
「その言葉は――――――
究極のマジカル☆ワードが体育館に響き渡った。
その自分ではない声に合わせ、澪は、心の中で、声を上げて叫んだ。
この想いが遠くの空に届くように。
大きな、大きな声で。
フアン……
その時、世界が少し揺れたような感覚があった。
「！」
茜は、唐突に思い出す。
そうだ。
澪と自分と三人で、一緒にワッフルを食べた少年。
イタズラ小僧のような、彼。
一旦思い出すと、どうして忘れていたんだろうという気さえしてくる。
そう、その彼の名は……
「折原…浩平……」
「そして二人は再会した。あの、いつも一緒にいた丘で」
舞台は、二時間という時間を感じさせないくらい、あっという間に終わっていた。
「なんでだろ…すごいベタな話なのに……涙が出てきた」
「ふぇぇぇ。よかったね、お母さん」
「…そうね」
友達と、両親と、感想を言い合いながら、観客は席を離れて行く。
出口に向かう波の中、茜は一人、舞台の袖へと向かった。
「上月さんはいますか？」
「あ、今、食堂に行っちゃったわ。緊張してお腹空いたんだって」
茜はおじぎをすると、食堂の方へと走って行った。
澪に伝えなければならないことがある。
自分が彼の名前を思い出せたということは、もしかして……！
澪は食堂にいた。
一緒に来た演劇部員はすでに席についている。
澪は、ふらふらした足取りで、うどんを運んでいた。
席にいる彼女の方に、手を振ろうとして、澪はつい横を向いた。
そこに。
「澪ちゃん、前っ！」
どんっ！
目の前の男子生徒にぶつかる。
うどんの器は、空高く跳んで彼にかぶさった。
『……！』
澪はその時、目の前の彼の顔を見た。
それは……一番会いたかった人。
「再会一発目がこれかっ？！」
うどんをかぶったまま、あの時そのままの姿で文句を言う彼。
そんな彼に、澪は何も考えずに抱きついた。
「…待っててくれたんだな……ありがとう」
『……』
…うんうん。
「あの時ちゃんと聞こえてたか心配だから、もういっぺん言う」
彼は澪を抱きしめ返す。
「お前に先越されてかっこ悪いけど……」
そして彼は、また究極のマジカル☆ワードを……素敵になる魔法を……唱えた。
「澪……好きだ」
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