使い慣れたブラシで、ゆっくりとその髪を梳る。
彼女の、小学生の時から伸ばしている長い黒髪。
自分の少し癖のある髪と比べると、少し羨ましくもなる。
乾かしたての艶のある髪からは、いつものリンスの香りがふんわりと広がっている。
「みさき」
「何？ 雪ちゃん」
背中を向けたまま、みさきはぽーっとした口調で返事をした。
「髪、切ったりしないの？」
「毛先揃えたりすることはあるけど…」
「そうじゃなくて、髪形変えたりさ」
「うーん、あんまり考えたことない」
みさきが少し首をかしげる。
「今度わたしの行ってる美容院、連れてってあげよっか」
「まあ、そのうちに…ね。それより、時間まだ大丈夫？」
「大丈夫よ。もう少しで終わるから、じっとしてて」
ちょっと動いたみさきの頭をちょん、と突いて、わたしは仕上げに取りかかった。
「はい、終わり。さっさと制服着ちゃってね」
みさきの肩を両手でぽん、と叩いて、わたしはブラシを鏡台に戻した。
「えー、雪ちゃん手伝ってくれないの？」
「着かたは昨日教えたでしょ。わたしが毎朝付き合える訳じゃないんだし。一人で着れるようにしないと駄目よ」
「うん…」
少しうなだれるみさき。
「ま、なんかあったら呼んでくれればいいから。というか早く着ちゃいなさいよ。そんな格好で」
朝起きて、シャワーを浴びただけのみさきはまだパジャマ姿で、
「はーい」
そのまま、みさきはボタンを上から外しはじめる。
「あのね…」
「何？」
「なんでわたしの居る目の前でいきなりパジャマ脱ぎ始めるのよ！」
もう今日から高校生なんだし、少しは考えて欲しいものである。
まあ、わたしとみさきの仲だし、もともとあまりそういうことに頓着しない娘ではあったけれど。
「別に私は気にしないよ？」
「そういう問題じゃないわ」
手すりを軽く掴みながら階段を下りて、わたしはおばさんの居るキッチンに顔を出した。
食器を拭いていたおばさんはこちらを振り向いた。やはり長くて綺麗な黒髪がふわりと広がる。
「ご苦労様、雪見ちゃん」
「いえ。全然そんな事ありませんよ」
それは、別に嘘でも何でもない、本心だった。
彼女と一緒に過ごすということに関して、わたしは何ら苦労を感じた事はないし、何より、彼女と一緒に居ることは心地よい事だったから。
「コーヒー、飲む？」
「ええ、頂きます」
頷いて、食卓のいつもの席に座る。
おばさんはキッチンに向かい、わたしは広いリビングでそれを待つ。
もう、幾度となく繰り返された光景。
ふわり、と白いカーテンが舞った。
わたしは窓に目を向ける。
カーテンの向こう。風に桜の樹が揺れて、白い花びらがひらひらと舞う。
「桜、綺麗に咲いたわね」
おばさんが、淹れたてのコーヒーとシュガーポットを持ってリビングに戻ってきた。
「ええ。天気も良いですし」
角砂糖は今は２つ。昔は幾つ入れてたっけ。
「入学式だものね。晴れてよかったわ」
「ですね」
コーヒーを口に含む。
熱い苦さが心地よい。
今日は多分、いい日になるだろう。
その手を離す、その日まで。
「ちょっと、待ちなさいよみさきー！」
「やだよー。今日はドラマがあるから早く帰るんだもーん」
わたしの先を、黒い髪と赤いランドセルを揺らしながらみさきが駆けてゆく。
このところ、毎週この日のみさきはこんな調子であった。
なんでも、４月から始まったドラマがとても面白いとかで、みさきは毎週それはそれは楽しみにしているのだ。
「別に早く帰ってもドラマが早く始まる訳じゃないのに」
「だって、待ちきれないんだもん…」
立ち止まって振り向くみさき。
「それに、今帰ればまだ学校で遊べるから」
追いついたわたしに歩調を合わせて、みさきはまた歩き始める。
「学校って、みさきがいつも遊んでるって言うとこ？」
「うん。うちの前の高校だよ。雪ちゃんもくる？」
「いやよ。遠回りだし。それに、見つかったら怒られちゃうもの」
「見つかるって、誰に？」
「先生とか、見回りの人とかいるでしょ？ 生徒の人だって残ってるかもしれないし」
「怒られてないよ。みんな優しいもん。それにね、夕焼けがとーっても綺麗なんだよ」
「はぁ…」
わたしは思わずため息。
きっと、この娘のことだから、見つかったら怒られるなんて事は考えてもいなかったのだろう。
高校の中で知らない先生に見つかっても、隠れるどころか挨拶しちゃったりしてそうだし。
「ま、いいけど」
それが、みさきという子なのだからしょうがない。
「じゃ、また明日ね」
いつのまにか、国道の交差点に着いていた。
ここから、わたしの家へは右へ、みさきの家へは真っ直ぐ。
「うん、ばいばい、雪ちゃん」
それから、数日経ったある日。
わたしが、母と遅い夕食を取っていたその時に舞い込んだ、一本の電話。
「もしもし、あら、川名さん……はい……え？」
そこで、母の声の質ががらりと変わった。
思わず、箸が止まる。
「はい……はい。NS病院ですね。……こちらも直ぐに行きますから……ええ、それではまた後で」
母が受話器を置いた。
「お母さん？」
「雪見。早く食べちゃって。出かけるわよ」
母は硬い表情でそれだけ、告げた。
「う、うん」
有無を言わさぬその言葉に、わたしは焦る気持ちを抑えつつ急いで箸を進めた。
タクシーの車内は暗く、料金表示の緑色だけが不気味に浮かび上がっていた。
「どうしたの？ みさきに何かあったの？」
「ええ…」
母は言いにくそうに視線を車外に向けた。
「みさきちゃん、事故に遭ったらしいのよ」
「へ……？」
背筋が凍りついた。
「……交通事故？」
「そうじゃないのよ、私も全部聞いた訳じゃないけど。なんでも、近所の高校の中で遊んでて、事故に遭ったって」
「そんな……」
近所の高校。みさきがいつも遊んでいたという所だろう。
「でも、とりあえず命に別状はない、って」
「……」
窓の外を、等間隔に立てられた街灯の光が流れてゆく。
早く着いて、とそれだけを願った。
「こんばんは、深山さん、雪ちゃん」
「こんばんは…で、みさきちゃん、今は？」
「ええ、さっき手術が終わって…今はＩＣＵに入って…」
「そう…」
おばさんはいつものように笑顔で話していたけれど、やっぱりその笑顔はどこかいつもとは違っていたように思う。
「あの、みさきは…大丈夫、なんですか？」
「ええ、まだ眠ってるけどね。大丈夫よ」
「良かった…」
私はほっと胸をなでおろした。
「それで、面会は、まだ…？」
集中治療室の前、人気のない廊下から扉一つを隔てたその向こうで、今もみさきが眠っている。
「ええ。まだ麻酔が切れていないから…意識が戻るまで、暫くかかるって話よ」
「そう…」
母たちが話し込んでいるのを背中で聞き流しつつ、その扉の向こうを見つめる。
早く起きなさいよ、みさき。
次の日、わたしは学校終わるとそのままみさきの入院している病院に駆けつけた。
昨日と同じみさきの病室の前に、おばさんが居た。
「こんにちは、おばさん。みさき、起きましたか？」
「ええ、さっき起きたとこ…会ってく？」
「ええ。勿論！」
「そう。それでね…伝えておかなきゃならないことがあるんだけど」
「はい？」
「あのね…」
おばさんは目を伏せて、小声で言った。
「みさきね、今、目が見えないのよ」
「えっ…」
「事故でね、神経が傷ついてるって…」
「それで…みさきは、また見えるようになるんですか？」
「まだ…判らないの。治る可能性もあるけど…」
その続きを…考えたくはなかった。
「みさき…」
幾つか、ドアを抜けた先、何人かの医者や看護婦が動き回る向こうに、ベッドに寝るみさきの姿があった。
「……」
どうやって声をかけていいのかわからないまま、わたしは立ち尽くす。
「みさき」
「お母さん？」
みさきの顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
「ええ。雪ちゃん、お見舞いに来てくれたわよ」
「雪ちゃん？」
その視線は……どこも見ていなかった。
「…みさき」
「あ、雪ちゃん。来てくれたんだ…」
「うん」
「あはは…失敗しちゃったね」
声が出せなかった。
「学校のなか、探検しててね…」
何を言えばいいのかわからなくて。
「いろんな教室とか部屋があってね、それで私…」
みさきが、そこで言葉を止めた。
「雪ちゃん……いるの？」
「…いるよ。ここに」
「見えない…わかんないよ」
みさきの焦点の合っていない見開かれた目から、涙が伝った。
「みさき…」
「ね、ホントにいるの？ 怖いよ…雪ちゃん…」
みさきの手が、わたしのいないどこかを探るように振られる。
私は、その手をゆっくりと握った。
「大丈夫…わたしはここにいるよ」
「雪ちゃん…」
『雪ちゃーん…』
「あら？」
おばさんが２階の方向を見上げた。
「なんか呼ばれちゃいましたね」
わたしは笑って、半分ほどに減ったコーヒーをソーサーに置いた。
「どうかな？ ちゃんと着れてる？」
部屋の扉を空けると、しきりに制服を気にしているらしいみさきが立っていた。
「あら、一応ちゃんと出来てるじゃない。偉い偉い」
わたしは言いつつ、制服のちょっと乱れている部分を直してゆく。
「よし、完成…へぇ、似合ってるわよ」
「そう？」
「ええ。綺麗よ〜」
初めての高校の制服姿。新鮮だけど、でもとても良く似合っていた。
「雪ちゃんもね」
「ありがと。ちょっと説得力に欠けるけど」
「そんなことないよ。私にはちゃんと判るもん」
「はいはい。そろそろ行くわよ」
みさきの手を握る。
「うん！」
しっかりと握り返してくる感覚。
あれから、わたし達はこうして、お互いを確かめ合ってきた。
結局、怪我が治り、退院する日になっても、みさきの目に光は戻らなかった。
「こんにちは、おばさん」
「こんにちは、雪ちゃん」
わたしは、小学校が終わった後にみさきの家に通うのが日課になった。
「みさき、起きてるー？」
「もう…こんな時間に寝てるわけないよ」
みさきはちょっと頬を膨らませてベッドから身を起こした。
「一昨日、寝てた子がいるけど」
「あ、あれはたまたまー！」
「はいはい」
話すのは、学校の事や友達のこと。勉強も少しだけ。
「でね、岩瀬ちゃんが…」
「へえ、荒木くんすごいね…」
「ね、みさき」
「何？ 雪ちゃん」
「一度でいいから、学校来ようよ。みんな会いたいって言ってるよ」
「うん…」
両手を握って、黙り込むみさき。
「ね、わたしが明日迎えにくるからさ」
「でも……やっぱり、怖いよ」
ぽつり、と。
もう退院して２週間になるが、みさきはずっとこの調子だった。
診察やリハビリで病院に行く以外は、ずっと家の中に閉じこもったままの生活。
どうしても恐怖感が拭えないのだと言う。
「でもさ、みさき、お医者さんも少しは外に出たほうがいいって、言ってたよね」
「うん、わかってるよ…」
「そうだ！ ね、みさき、これからちょっとだけ外に出てみようよ」
「えっ？」
「ちょっと、近所を一周してくるだけ。ね、そのくらいなら大丈夫だよね」
「でも……うん、わかった」
みさきは小さく頷いた。
「ね、一つだけお願いしてもいいかな？」
「何？」
「手、繋いできてくれる？」
「もちろん、良いわよ」
わたしは大きく頷いた。
わたしが先に玄関を開けた。
靴をなんとか履いたみさきがゆっくりと立ち上がる。
わたしは、差し出された手を握って、ゆっくりと引いた。
「ね、大丈夫だよね」
「う、うん…」
みさきは慎重に、一歩、一歩進みはじめる。
「あ、そこ段差になってるから気をつけてね…はい、OK」
そのまま、門まで移動して、敷地を出ようとしたところで、みさきは立ち止まった。
「どうしたの？」
「雪ちゃん…」
みさきは強張った表情を向けた。
「わかんない…なんか足が動かなくなっちゃって…」
「大丈夫だよ、家の前のいつもの道だよ」
「うん…でも…」
「……」
「ね、本当にいつもの道なんだよね？ 私、ちゃんといつもの所にいるんだよね？」
みさきは小声で前を見つめている。
「わかんないんだよ、全然……」
「みさき…」
結局、その日はそこまでだった。
みさきは何度も謝っていたけれど、そこまでみさきに恐怖感を与えてしまったのは…わたしだ。
次の日も、その次の日も、私はみさきを誘ってみたけれど、やっぱりみさきは門の前で立ち止まってしまう。
そして、土曜日。
「ねえ、雪ちゃん…」
「なに？ みさき」
いつものように部屋で話をしていた時、ふとみさきがこちらを真剣な目で見た。
「連れていって欲しいところがあるの」
「本当？ どこ？」
「うん…学校」
「小学校？」
「そうじゃなくて、うちの前の学校」
「え、でも…」
私は少しうろたえた。学校といえば、みさきが光を失った場所で、
「いいの？ 行ける？」
そこに連れて行って良いのか、少し迷った。
「うん、あそこなら、行ける気がするんだよ」
「みさきが行きたいのなら、良いけど…」
みさきの家と高校の門の間には、道が一本通っているだけで、それでもみさきが一番苦労したのは、その道を横断する事だった。
わたしは何度も左右を確認して、みさきと共にゆっくり、ゆっくりとその道を渡った。
「着いたわよ。ここが正門」
「うん、大丈夫。わかるよ」
「で、どうするの？ 暫くここにいる？」
「行きたいところ、あるから…こっち」
「え？ ちょっと待ってよみさき」
いきなりみさきの方から手を引かれて、わたしは慌ててみさきに続いた。
「ねえ、本当に大丈夫なの？」
「うん、なんとなく判るんだよ。こっちに歩いてくと昇降口があってね」
説明しながら、どんどん歩いていくみさき。
まるで、本当は目が見えているように。
「で、もうちょっと歩くともう一つ入り口があるの」
「あるわね」
校舎と体育館の間の渡り廊下のある部分。その校舎の扉はちゃんと開いていた。
「わたしはいつも、そっちから入ってたんだよ」
「そう……で、これからどうするの？」
「もちろん、入るんだよ」
「え？ でも…怒られるでしょ」
「平気…今日は土曜日で、人はほとんどいないから」
みさきはすぐに靴を脱いで、校舎に上がってしまう。
「靴はどうするの？」
「うん、こっちにスリッパが置いてあるから…」
みさきが指差す方向に、たぶん先生とかが使うのであろう玄関が見えた。
みさきは、そのままそちらに行ってしまう。
わたしも急いで靴を脱ぎ、みさきに付いてゆく。
机の並んだ教室、食堂、図書室。さすがに職員室には行かなかったけれど。
土曜日の夕方は誰も残っていなくて、わたし達は誰ともすれ違う事のないまま校舎を歩き回っていた。
「よく覚えてるわねぇ…」
「うん、自分でもびっくりしてるくらい」
久しぶりに見たみさきの笑顔に、わたしも嬉しくなる。
「そんなに、ここで遊んでたんだ」
「うん。三年生の時くらいから。知ってる先生とかもいるんだよ」
「よく追い出されないわね」
「うん。昔は怒られたりもしたけど、でも今は見られても何も言われないんだよ」
要するに、先生達ももう諦めているのだろう。
「で、これからどこに行くの？ そろそろ暗くなるよ」
窓の外を見る。日は春に比べると随分長くなったけど、それでも６時を過ぎたこの時間ではそろそろ暗くなってくる。
「うん、これで最後…」
階段を上がりきり、重い扉をなんとか開けた。
「屋上…？」
「うん」
みさきはそのまま、フェンスの張ってある屋上の端まで歩いてゆく。
目に痛いほどの夕焼けが、目の前にあった。
「綺麗な夕焼けね…」
「そっか、今日は夕焼けなんだ…」
みさきはじっと、夕焼けの方向を見つめる。
「ここから見る夕焼けはとっても綺麗でね…わたしはいっつも、ここから夕焼けを見てたんだよ」
わたしは何も言わないまま、みさきの横に立った。
「ね、雪ちゃん。夕焼け、綺麗？」
「ええ、とっても綺麗」
「そうなんだ…」
風が、わたしとみさきの長い髪を、優しく揺らして吹きぬけた。
「いい風だね」
「ええ…」
暫く、二人でそのまま夕焼けを見つめていた。
「私、ちゃんと歩けたんだね」
「…そうね。私のほうが追いかけたくらい」
「私ね、見えなくなってから、もう外に出れないんじゃないかって思ってた」
夕焼けは、そろそろ川向こうの山に沈もうとしていた。
「なんにも見えなくて、一歩先に何があるのか全然わからなくて、最初は家の中も怖くて歩けなかった」
川にかかる橋を、電車が渡っていく。学校の下の道で犬を散歩させている人が見える。
「でも、大丈夫だったよ。ここは変わってなかった」
みさきは、ここから何度この風景を見たのだろうか。
「雪ちゃん…私、明日、学校に行こうと思うんだ」
これからは、みさきの見るはずだった景色を、わたしが全部見てみようと思う。
「一緒に…来てくれる？」
「ええ。勿論よ」
みさきの手を両手で握りしめた。
「大丈夫、何か変わったことがあったら、わたしが全部教えてあげるから」
「ありがとう、雪ちゃん…ありがとう…」
きらきらと、風に乗って飛んでゆく光。
泣き顔を見られなかったのが、少し嬉しくて、悲しかった。
「じゃあ、行ってきますね」
「行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい。私も後で行くからね」
わたし達はおばさんに挨拶をして、家を出た。
空は所々に綿雲が浮いているだけの、いいお天気だ。
「ね、雪ちゃん。一つだけお願い、いい？」
「食事に関する事じゃなかったら、良いわよ」
「そ、そんな事じゃないよ」
「冗談よ」
「あのね、手、繋いで欲しいんだ」
みさきがおずおずと手を差し出してくる。
わたしは苦笑して、その手を握った。
「さ、行くわよ」
「道路渡るだけだけどね」
「良いのよ。気持ちの問題なんだから」
道路に出る。
もう目の前には、見慣れた校舎が見えた。
今日からは、わたし達の高校になる。
「もう結構みんな来てるみたいね」
「へぇ…あ、そうだ」
「何？」
「学校に行く前に、まわり一周してみない？ 裏に、桜が綺麗なところがあるんだよ」
「時間は…っと。まだ大丈夫か」
手首の時計を確認する。指定された時間まで、あと１５分といったところか。
「仕方がないわね。付き合ってあげるわよ」
「わーい」
飛び跳ねるみさきの手を引いて、わたしは学校の塀に沿って歩きはじめる。
桜の樹は、ちょうど学校の敷地を囲うように植えられている。
桜はちょうど今が満開の時期で、ピンクがかった白の花が、とても綺麗に咲き誇っている。
「綺麗だね…」
「そうね…」
校門の反対側、ちょうど屋上が見える位置で、みさきが立ち止まった。
「どうかしたの？」
「うん。手、離してくれるかな？」
「ん…」
繋いでいた手を、そっと離した。
「もう、大丈夫だから」
「大丈夫？」
「うん…ここからはね、もう、私一人でも大丈夫だから」
みさきは少しずつ、歩き出した。
「六年生のあの時から小学校を卒業して、中学校に入って、中学校卒業して、今日まで…」
わたしも、その後について歩き出す。
「ずっと、雪ちゃんが一緒にいて、手を繋いでいてくれたよね」
「ええ」
「凄く、嬉しかったし、心強かった。たぶん、雪ちゃんがいなかったら、私、今も家から出られなかったと思うよ」
みさきが少し立ち止まって、頭上の桜に目を向けた。
「ほんとに、本当に、雪ちゃんと一緒にいられて良かった」
わたしも立ち止まって、頭上の桜に目を向ける。
「でも……でも……時々、凄く怖くなるんだよ」
「怖い？」
「雪ちゃんはさ、ずっとわたしと一緒にいてくれたけど……本当にそれで良かったのかな…って」
ひらり、ひらりと桜の花びらがわたしとみさきの間に落ちる。
「私のせいで、雪ちゃんのやりたかった事の少しでも、奪っちゃったんじゃないか、って」
わたしは、そのまま桜を見つめつづける。
「本当にこれでよかったのかな、ってたまに思うんだ」
みさきは、そのまま話しつづける。
「ここの高校に来るのも一緒だったけど、雪ちゃんならもっといい高校にも行けたよね」
「はぁ……」
深く、ため息。
「みさき」
「うん…」
「みさきは、空を飛べる？」
「…ううん」
「そうね。わたしも飛べないわね。海の底で息も出来ないし、」
そこで、息を一つ切る。
「みさきに出来る事で、わたしが出来ない事も一杯あるよね」
みさきの前まで歩いてゆく。
「みんなそうだよ。誰だって、出来る事と、出来ない事があるわ」
みさきの横に立って、みさきの瞳を見つめる。
「みさきには見えなくて、わたしには見えるものがあるって、それだけの事じゃない？」
「でも……でも……」
「それにね、わたしがみさきとずっと一緒にいたのは、わたしが一緒に居たかったから」
みさきの手を握る。
「みさきと同じ学校に行って、みさきと同じところに遊びに行って、みさきと一緒に過ごして……」
「雪ちゃん…」
「迷惑だった？」
ふるふると首を振る。
長い黒髪が、ふわりと広がった。
「じゃあ、わたしはこれからも、みさきの隣にいるよ」
「本当に…本当に雪ちゃんはそれでいいの？ わたし、雪ちゃんの負担になってるかもしれないよ」
「そっちこそ」
「へ？」
「わたしと一緒にいて、負担になってたりするんじゃない？」
「そ、そんなことない！」
「じゃ、それで良いじゃない。わたしも、みさきの事を負担だなんて思った事、無いわよ」
ぎゅ、とみさきの手を強く握る。
「雪ちゃん…」
強く…強く、握り返される。
「こら、こんなところで泣くんじゃないわよ。そんな顔で入学式に出るつもり？」
「雪ちゃんが泣かせたんだよ…」
「人のせいにしないの」
みさきの頭を抱き寄せる。
「はいはい」
わたしはスカートのポケットからハンカチを取り出して、みさきの目を拭ってやった。
そのまま、みさきにハンカチを渡す。
自分の涙は、後で拭けばいい。
「校長先生の話、随分長かったよねー」
「わたしなんか、何度か欠伸が出そうになったわ」
ぞろぞろと、体育館を出る人の波に乗って歩く。
この後、クラス分けの発表を見た後、それぞれの教室に移動する事になっている。
「ねえ、手、まだ繋いでるの？」
「こんな人ごみの中で手離したら、迷子になるわよ」
「そんな事ないよ。私のほうがここに関してはずっと詳しいんだから」
「はいはい。そういう台詞は人とぶつかる心配のないときに言いなさい」
「うー」
「ほら、言ってるそばから」
前を歩くひとにぶつかりそうになって、わたしはみさきの手を引いた。
みさきの手。
ずっとずっと握っていた、わたしのより少し小さな手。
いつまでも握っていたいと思うのは、やっぱりわたしの我侭なのだろうか。
「でもねー。そんな事言ってて、みさきもそのうちに男の子の手なんて握っちゃったりしてねー」
「な、何でいきなりそうなるのー？」
「彼がいるから、雪ちゃんとは遊ばないよーなんて言われちゃうのね、そのうち…」
「そんな事言わないよー」
もし、いつかその時が来たら、わたしは嬉しがるのだろうか。
それとも…少し嫉妬してしまうのだろうか。
それを想像するのも、少し楽しい。
「大体ねー、全然気づいてなかったけど」
「なにー？」
「みさき、随分男の子に注目されてたわよ」
ぼっ、とみさきの顔が真っ赤になる。
「き、きっと雪ちゃんの気のせいだよ」
「まーなんて妬ましい。余裕ね川名みさき」
「それに雪ちゃんのほうが可愛いし、きっと雪ちゃんも見られてたよ」
「みさきに言われても、説得力がないわね」
「そんなことないよー」
「はいはい」
いつのまにか、人ごみはすっかりまばらになっていた。
「えーと、掲示板はどこだっけ」
「掲示板はね、こっち」
するり、と手を解いたみさきが、掲示板があるらしい方向に走ってゆく。
わたしは一瞬呆気にとられて、次第に笑みがこぼれてくるのを感じた。
上等じゃない。
向こうが手を離すのなら、もう一度追いかけて握るまでだ。
わたしは、まだまだみさきの手を離す気なんて、無いんだから。
桜の樹の下を駆けてゆくみさき。
「こらー、待ちなさいよみさき！」
桜の樹の下を追いかけるわたし。
「私が先に見て確認してあげるよー！」
「出来もしない事を堂々と言うなー！」
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