世界が反転した。
静から動へ。無から有ヘ。闇から光へ。そして、上から下へ―――。
文字通りの反転。自分の外の存在すべてが入れ替わった感覚についていけず、浩平は茫然自失のまま、空気を切り裂き続ける。
自然と頭が上向いて、地面を見上げる。
そこには色とりどりの花々が平穏と祝福を謳うように可憐に咲き誇り、また、青々と繁った木々が力強く己を主張するように悠然と生命の焔を萌やしていた。
『楽園』―――。浩平の頭の片隅にそんな言葉が思い浮かぶ。
そう。それは正しく楽園だった。かつてアダムとエバが神によって与えられた箱庭のような世界。皆が欲して止まない理想郷が今、自分の目の前にあった。
何となく、本当に無意識の内に今度は自分の足元に目を向ける。と、そこにはつき抜けてしまうような青空とゆったりと風に流れていく白い雲があった。
いつか夢で見た光景。曖昧な記憶の中から海にボチャボチャと落ちる羊たちの姿が思い浮かぶ。
あまりにも滑稽な情景。我ながらとんでもない事を言ったもんだ。それに、それだけならまだしも空を飛んだり泳いだり……。
そこまで考えて、彼はハッとした。未だにまどろみの中を徘徊していた意識を無理矢理覚醒させ、もう一度、頭上を見上げてみる。
すると、そこには怒涛の勢いで迫り来る雄大な大地の姿があった。
「なんじゃこりゃぁぁぁぁ！！！」
そう叫ぶ事だけが自我を取り戻してから地に接触するまでのほんの刹那の間にできた事だった。
そして、発現から実に数秒後、浩平は自ら『楽園』と謳った土地に頭から突っ込んだ。
歩いて帰ろう
カシャアッ！
カーテンがレールを滑る音が部屋の中に響き、それと共に漆黒の中にいた浩平は瞼越しの陽光により真紅の世界へと放り出された。
だが、彼は目覚めない。長年の努力の結晶かはたまた一種の才能というべきか。浩平は無意識の内に光を避けるように布団へと潜り込む。そして、僅かながらも覚醒しかけていた意識はまた深い深淵の谷底へと堕ちていった。
グー。
あまりにも間抜けな音が少女の闘争心をこれでもかというほど煽る。戦場の緊迫感というものか。ある種のそれに似た雰囲気が小さな部屋の隅々にまで行き渡っていった。
ガバッ！
少女が浩平から布団を引き剥がす。朝方の肌寒い空気に晒されて、浩平は身を縮ませるが反応はなし。そんな彼の様子にいい加減頭にきたのか少女は固く結ばれていた唇をゆっくりと開いた。
「こうへい〜。あさだよ。おきなさいよ〜」
ゆさゆさと体を揺らす。その行為に対して浩平は突然起こった局地的な地震にしばらくは必死に堪えていたが、徐々に意識を覚醒させられ、眠たげなくぐもった声で答えた。
「俺は昨日、３０メートル上空から落下する夢を見て全身打撲なんだ。だから、寝かせてくれ」
そう言いながら、浩平は瑞佳の次の言葉と行動が予想する。『夢なら大丈夫だよね』とか言って無理矢理叩き起こす。瑞佳ならそうするだろう。仮にも幼馴染みで恋人だ。彼にとってこの程度の予想など七瀬の次の行動よりもわかりやすい事だった。
さて、どうやって遊ぼうか。いきなり服を脱ぎ出して真っ赤に顔を染める瑞佳を眺めるのもいいし、折角の恋人なのだからおはようのキスをせがんで困らせるのもいいかもしれない。
寝惚けた頭をフル回転させ、次にとるべき行動を選択すると、浩平はすぐそばにいる恋人の言葉を待った。
「それ夢じゃないよ。怪我はしてないけど」
「なっ！？」
予想とはまったく異なる返答をされた上、さらに驚愕の事実をさり気なく聞いてしまった浩平は驚きの声と共に声のした方へ体を起こす。
そして、もう一度ひっくり返った。
「おっ！？ おまっ！？ おまっ！？」
驚きのあまり舌がまわらない浩平の様子を見て、少女は不思議そうに首を傾げる。
浩平が驚くのも無理はないだろう。浩平の目の前に立つ少女は紛れもなく彼の恋人その人である。だが、その姿に問題があった。浩平が見たその少女は……。
「何故縮んでるぅぅぅぅぅぅぅっ！！！」
彼の知っている幼馴染み兼恋人の少女と初めて出会った時の姿そのままだったからである。
「ちょ、ちょっとこうへい。落ち着いて……」
「目の前で恋人が幼児化してるんだぞ！！ これが落ち着いていられるか！！」
俺はペドじゃねえええええ！！ そう叫びかけた時、ガチャという音と共にドアが開いた。
「どうも騒がしいと思ったら、目を覚ましたみたいだね」
今度は幼児化した住井でも出てくるのかと思いきや、顔を見せたのは見覚えのない青年。恐らく、自分と同じ位だろうか。そう浩平の左脳は分析した。ちなみに右脳の見解は……。
「誰だお前っ！？ さては泥棒だな。待ってろ。今、警察通り越して自衛隊呼んでやるからな」
浩平の行動そのまんまだった。ちなみにその言葉を向けられた先では……。
「う〜ん。僕は泥棒じゃないけど……そう言えばここって電話あったっけ？」
などと微妙にボケた回答をおっしゃってたりする。
「わかった。これは夢だな。じゃあ、そう言う訳でおやすみ」
「ああ！ こうへい！！ 折角起きたのに寝ちゃダメだよ」
「ねえ、みずか。そう言えば、ここって警察いたっけ？」
いよいよ訳がわからなくなってきたこの場において、浩平は再び剥がされた布団を被り直した。今度はちゃんと目覚められますように。もしくは、せめてこれよりマシな夢の中に……というささやかな願いを胸に秘めて。
だが、結局その後、目が冴えて眠れなかった浩平はここが現実であるという事を確認し、あまりにもいい加減な神を呪った。そして、これが浩平の『えいえん』と呼ばれる世界での生活の始まりであった。
居間らしき部屋に通された浩平はふぅと大きく息を吐くとソファーに深深と腰掛ける。その後に続くように残りの二人も浩平の向かいの席に腰を下ろした。
「そう言えば自己紹介がまだだったよな。俺は折原浩平だ」
「わたしはみずかだよ」
「いや、それは知ってる」
「わたしだってこうへいの名前知ってたもん」
ギャーギャーと騒がしい二人。そんな様子に青年はお茶を啜りながら暖かい視線を送っていた。透き通るような自然な微笑を浮かべて。
そんな視線に気がついた浩平は未だに抵抗を続けているみずかとの交戦を一時停止させ、青年へと問い掛けた。
「そう言えば、お前の名前、まだ聞いてなかったよな」
その問い掛けに青年は思い出したようにああと手を打つと答えた。
「司だよ」
「苗字は？」
浩平にそう問われた司は皺を寄せた眉間に指を置きながら唸っている。何か不都合があるのだろうか。
そして、浩平が何となくその理由を探し始めた時、司は唐突に口を開いた。
「何だっけ？」
その言葉に浩平は思いっきりこけた。
「嘘吐けっ！！」
「いや、本当だって。僕は結構長くここにいるからね。ここじゃ苗字なんて必要ないだろ」
極々自然に、悪びれた様子もなくそうのたまう司に浩平は呆れを通り越して畏怖を感じた。
すげえ。俺のまわりは確かに馬鹿だらけだったが、こんな馬鹿にはあったことねぇ。
滅茶苦茶失礼な事のように聞こえるが、浩平にとって、それは存在意義を崩されるような衝撃であった。馬鹿も極めれば素敵な個性になる。そう思い、日々奇行に励んできた浩平には司こそが待ちわびた好敵手のように思えた。
「……くっ。貴様なかなかやるな」
「はい？」
まるでわかっていない表情の司と汗を垂らしまくって出会ったばかりの敵を睨む浩平。
そもそも勝つことに意味がないどころかマイナスだったりするこの勝負はこの時点で浩平の負けが確定していた。曰く、『天然は最強の矛であり、盾である』。
やがて浩平は諦めたのか項垂れながらさらに深く柔らかなソファーに腰を沈めた。その表情は初めての敗北に戸惑いを見せながらも、何処か晴れ晴れとしている。彼はこの対戦で敗北以外に何か大きなものを得たようだった。
「どうしたの？」
「……いや、世の中広いという事をこの身で思い知ったんだ」
ふ〜んと興味なさそうにみずかが頷く。この素晴らしき戦いを間近で見ながら、何の感慨も持っていないみずかに多少、憤りを感じた浩平であったが、制裁を加えてやろうと思った時、自分に訊ねなければならない事があったのを思い出した。
「ところで、だ」
えらく強引な切り返し。そんな浩平の言葉に二人が何か返せる筈もなく、無言で次の言葉を待つ。
「ここは何処だ？ そして、俺は誰だ？」
「こうへいはこうへいだよ」
「凄いな。もう名前を忘れちゃうなんて」
「違う！ 終わりのはシリアスな台詞に俺の本能が反応しただけだ！ 頼むから真面目に始めの質問に答えてくれ！」
先程のふざけた雰囲気など微塵も感じさせない浩平の様子を見て、二人は思わず顔を合わす。
そして、その問いにみずかは答えた。
「ここは『えいえん』だよ」
その言葉に頭が真っ白になってしまって、浩平は思わず外へと飛び出した。綺麗に並べられた靴を乱雑に履き、玄関を潜ると浩平は思いがけない光景にポカンと口を開ける。そこは大草原の中だった。彼らの家は草原の中に建っていて、こんもりと茂った森や小さな泉、そして小さな丘なんかをその場から一望することができる。取り敢えず、浩平は僅かに地面が盛り上がっただけの小さな丘へと駆けると、そこで躓いたように倒れ、そのままゴロンと仰向けに寝転がった。
ここは何処だ？ その問いを言った時、浩平はみずかが言う筈だったその答えを先に予想することができた。いや、既に知っていたというべきなのだろうか。ずっと憧れてきた、そしてずっと恐れていた何の変化もない世界。そこに今、自分はいる。
「ここが……えいえん……か……」
千切った草を手で玩びながら、そう呟く。
見上げた空は夢で見た光景、そのままの空だった。
飽きるほど空を見上げた浩平が微妙に帰り辛い気持ちを殺してドアを開けると、そこにはさっきのままの位置で静かにお茶を飲んでいる司の姿があった。みずかの姿は見えない。だが、つい先程までそこにいた事を証明するように湯気を昇らせた湯呑みが司のそれの隣りにポツンと置いてあった。
みずかは？ と、司に訊ねようとしたが、その言葉が喉を通り過ぎる前に司が言った。
「ちょうどいいタイミングだよ。もうすぐご飯だってさ」
そうかと生返事だけ返して、司の向かいの椅子に座る。
ずっと空を見ていたせいかもしれない。何となく気持ちが空虚だった。すべてが脱力した状態でぼんやりと司に訊ねてみる。
「なあ司。お前も外の世界から来たんだよな？」
「ん？ そうだよ」
テーブルの上に置いてあった煎餅を齧りながらあっさりとそう答えた。
「帰りたいとは思わないのか？」
「う〜ん。そうだね……」
思い出すように少しだけ間を空ける。そして、煎餅の割れる乾いた音が響くと話を先に進めた。
「ここに来た頃は帰りたかったな。けどね、その内どうでもよくなったよ。無駄な努力をするのにも飽きちゃったし……」
「そうか……」
諦めたようにそう呟く。司はここを出る為の努力を無駄な行為だと説いた。恐らくは司も探したのだろう。ここを脱出するために……それこそ必死に……。
そして、出口がないという事実を無理矢理自分に納得させるかのように浩平はゆっくりと言葉を吐いた。
「やっぱりないのか……。ここから抜け出す方法なんて」
帰れなくてゴメンと違う世界に住む恋人へ語り掛ける。
何時の間にか目に涙が溜まっていた。もうアイツに世話を焼かせる事もできないし、いつものように慌てて学校まで走ることもできない。今までの生活が、そして夢がガラガラと崩れ落ちていくような気がして、どうしようもなく悲しかった。
何やら自分の世界で悲劇のヒーローに浸っている浩平を前に司はのほほんとした顔で齧りかけの煎餅を食べきると、再びお茶を啜る。
そして、言った。
「あるよ。帰り道」
その瞬間、浩平の動きがピタッと止まった。軋むように首を司に方に回すと、微妙に涙の毀れた目でしっかりと司を見つめる。そして、その目で語った。『本当か？』と―――。
そんな浩平に司は首を縦に振って答える。その返事を待ってから、浩平は叫んだ。
「なんでそれを早く言わんーーーーッ！！」
「うわっ！？」
驚いて椅子から転げ落ちる司。そんな彼に一瞬で距離を詰めると浩平は首根っこを掴んで激しく揺らしながら怒鳴り散らす。
「で、何処だ！？ 出口は何処だ！！」
さらに激しく揺らしてくる浩平に司は目を回しながらも何とか指をその方向に向けることができた。その指の指し示す先は窓ガラス越しの深淵なる森。
「森だな！？ 森の中なんだな！？」
彼の問いに何とか首を振って答えると、司はその地獄から開放された。激しく咳き込みながらも指し示した窓ガラスに近づくと、そこには全力で疾走する浩平の姿が映っていた。
「あれ？ こうへいは？」
その声に視線を後ろに向けると、ちょうど食事の用意を終わらせたらしいみずかの姿があった。
「ああ。あそこにいるよ」
司が親指を窓の外に向ける。その意味にみずかも気がついたらしい。一つ大きなため息を吐くと、呆れたような表情で告げた。
「行っても無駄なのにね」
「……そうだね」
みずかの言葉に静かにそう相槌を返す。そして、司は再び暴走する浩平へと目を戻した。
みずかと司が遅めの朝食を摂っているその時、浩平はただ一人鬱蒼と茂った森の中を徘徊していた。彼の目的はただ一つ。現実の世界へと結ぶ出口を発見すること。だが、未だに目的のものは微塵にも発見できていない。
もう少し詳しく話を聞いとけばよかったな……。
後悔にも似た思いが浩平の中に満ちていくが、それでも彼は歩みを止めようとしない。瑞佳にもう一度逢う為に―――。その想いこそが彼のこの強行軍を支えていた。
と。
目の前にいきなり熊が現れた。
「幻覚か？」
そう呟いて、目をゴシゴシ擦っても立ちはだかる現実は微塵も揺らごうとはしない。
「いや〜、これは……」
クマったなぁ……。混乱のあまり旧世紀のギャグで誤魔化そうとした浩平であったが、すべてを言い終わる前にその鋭い爪の一撃によって意識を失った。
カシャアッ！
「こらー。こうへい。おきなさいよー」
ガバッと布団を捲る。だが、そうしても惰眠を貪らせれば天下一を自負する浩平が起きることなどあるはずもなく、その場で丸くなっている浩平からは朝の挨拶の代わりに規則正しく繰り返される寝息がみずかの耳に届く。
そんな浩平の様子にみずかは口元をへの字にしてその怒りを顕にする。そして、大きなボールを転がすように、未だ眠り続けている浩平の背中を思い切り押した。
ドスン！
万有引力の法則に従い、浩平の身体が硬い床に落ちる。
これには流石の浩平も目が覚めたようだ。しこたま打ち付けた腰を摩りながら、ゆっくりと立ち上がる。
「うう……。みずか。俺は今、熊と勇敢に戦って勝利する夢を見てたんだ。その興奮を胸に焼き付けたいからもう少し続きを見させてくれ」
そう言って、再び布団の中に潜り込もうとする。だが、その布団が浩平を包むよりも早くみずかがそれを奪い取った。
「何をする！」
「もう朝なんだから起きないとダメだよ」
「俺は熊殺しの浩平だぞ！」
「はいはい。けど、こうへい、熊にはしっかり負けてたよ。それも、あっさり」
「……それは幻だ。忘れろ」
「うん。わかったよ。だから起きよう」
「……そうだな」
う〜んと大きく伸びをする。そして、ベッドからゆっくりと立ち上がると恋人のそれに酷似したみずかの呆れ顔が視界に入った。
「……瑞佳」
タンスの中で寝た時に、裸で寝た時に彼女の見せた表情が次々とフラッシュバックする。
今ごろ何をしているのだろうか。多分心配してるだろうな―――。
そんな想いが浩平の中に募る。そして、早く逢いたいという純粋な気持ちも……。
「どうしたの？ こうへい」
その声に浩平は我に返る。すると、そこには僅かに表情を曇らせているみずかがいた。その彼女に何でもないと答えると最初は心配そうにしていたものの気を取り直したようににっこりと微笑む。
そんな彼女を見ながら、浩平は現実の世界へと帰る決心を新たにする。それともう一つ、何やらよからぬ事を思いつき、浩平は口元をニヤリと歪ませた。
浩平が居間に入ると既に食卓の上に朝食が置かれていた。トーストに目玉焼き。何とも朝らしい食卓。その素晴らしき光景に思わず浩平のお腹から軋むような音が鳴り出した。
「おはよう、浩平。今日はちょっと早いね」
振り向くとそこにはサラダを抱えた司が爽やかな笑みを浮かべてくる。そんな彼に挨拶を返すと、浩平は食卓の椅子に腰掛けた。それに続くように司も向かいの席に腰を下ろす。
そして、しばらくするとみずかも加わり賑やかな朝食が始まった。
「こうへい！ それ、わたしの卵だよ！」
トーストにイチゴジャムを塗っているみずかの隙をついて、浩平がみずかの皿から目玉焼きを奪う。憤慨しているみずかに浩平は勝ち誇った表情でゆっくりと戦利品を咀嚼する。
「はっはっは。所詮、世の中弱肉強食。隙をみせたほうが悪いのだよ」
ふんぞり返ってそんな事をのたまう。そんな浩平の言葉に歯軋りで答えるみずか。だが、どうやら隙を見つけたらしい。みずかは笑い続けている浩平に対して不敵に笑うと浩平の前のさらに手を伸ばした。
「ふ〜ん。じゃあ……、それ！」
ハッとして防御に入った浩平ではあったが、時既に遅く、みずかの手にはしっかりと浩平の領域内にあったものが握られていた。
「ちょ、ちょっと待て。いくらなんでもトーストを持っていくのは反則じゃないか」
「世の中弱肉強食だもんね」
「そうそう。弱肉強食」
「おいこら待て。司まで俺の皿に手を出すんじゃねぇ」
そんなこんなで激しくも楽しい時間が過ぎていく。
結局、その戦がみずか・司連合軍の大勝利で終わった後、浩平は項垂れながらも玄関の方へ歩いていった。
「あれ？ 今日も行くの？」
声を掛けてきたのはどうやら食器を台所に運び終えたらしい司。
「ああ。出来るだけ早く帰りたいからな」
靴を履きながらそう答える浩平に司は激励の言葉で返した。その励ましに手を振って答えると浩平は玄関の扉を開け、外へと出ていった。
「……こうへい、また行ったんだ」
その声に反応して司が振り返ると、そこには呆れた表情を浮かべているみずかがいた。
「そうだよ。彼もよく頑張るね」
「うん。何だか―――」
みずかが顔を何かを思い出すように上方へと向ける。そして、クスッと小さく笑うと先程の言葉に語を繋げた。
「昔のつかさみたいだよ」
司は答えなかった。彼はそのまま何も言わず、ただ只管に無機質なドアを見続ける。そんな彼をみずかも黙って見続けた。
結局、その日、浩平は木の弦に引っかかって宙吊りになっている所をみずかに発見された。本人曰く、『惜しかった』との事。何が惜しかったのか果てしなく謎ではあるが、取り敢えず浩平がここに来て初めて、自分からベッドに向かえたことだけ評価してもいいと思う。
カシャアッ！
その音と共に眩い陽光が浩平の部屋の中を隅々まで満たす。
「ほら、おきなさいよーっ！」
ガバッと思い切り布団を剥ぐ。と、何故かそこでみずかは顔を真っ赤にしながら剥がした布団を元に戻した。
「こうへい……は、裸だよ〜っ！」
慌てるみずかを見て浩平はニヤリとほくそ笑む。瑞佳にかました事をみずかにもかます。これこそが浩平が以前狙っていたよからぬ事の正体であった。
「ん？ えぇっ！？」
あくまでも驚いた様子で布団の中に収まっている自分の裸体を見る。そして、それと同時に驚きの声もあげる。そんな浩平の様子にみずかはあたふたしながら真っ赤に染まった顔をさらに赤らめた。
「みずか、お、お前……」
「ち、違うもん！ なんにもしてないもん！」
「ほう。なんにもとは……。では、何かするとはどういうことだ？」
「っ！？ そ、そんなこと知らないよ！！」
その言葉を残してみずかは浩平の部屋から走り去る。その様子に浩平は……。
「うん。下手したらこういう場合は場慣れした瑞佳よりもみずかのほうがいいかもしれん」
なんて事をほざいていたりする。ちなみにその日から、浩平の朝の悪戯は日に日に勢いを増していくこととなった。
いつも通りの賑やかな朝食の後、浩平は居間のソファーにもたれて、ゆっくりとお茶を飲んでいた。
「今日は行かないの？」
いつもとは違い、いつまで経っても家から出ようとしない浩平にみずかが声を掛ける。どうやらそれは司も気になっていたようで手にした煎餅を貪りながら、さり気なく聞き耳を立てていた。
「ん？ ああ。今日は休みだ。戦士にも休息は必要だからな」
そう言って、湯呑みを再び口元へと運ぶ。それに倣うようにみずかと司もズズズっと湯気立つ日本茶を啜った。
「で、今日は何かするの？ 用事がないんならちょっと僕に付き合ってほしいんだけど」
と、司が煎餅に手をつける。そして、それに倣うように浩平とみずかが……。
「ぬう」
「むぅ〜」
煎餅の残りは一枚。実質的には二枚あるのだが、そのもう一枚を司ががっちりとキープしている所から見ても、残り一枚と換算して間違いではないだろう。その一枚の両端を今、二人の人間が握っている。
「みずか。年寄りは労わるものだ。てことで、その煎餅は俺に渡すべきだろう」
「そうだね。だったら、その煎餅はわたしのものだよ。こう見えても、こうへいなんかよりずっと年上だもん」
「いや、生い先短い老人に貴重な食料を渡す訳にはいかん。ここは未来ある若者の俺が」
「多分、わたしよりもこうへいの方が早く死ぬよ。だから、これは私のもの」
両者の間に火花が散る。互いの手に力が入り、その間に揺れる煎餅が僅かに軋むような悲鳴を上げた。
「たかが煎餅ぐらいで喧嘩はよくないと思うよ」
幸せそうに煎餅を齧りながら司がそう言うが、そんなもんに説得力がある筈もなく、両者間の緊張はしだいに高まっていく。もはや彼らの中に一枚の煎餅を二人で分けるという譲歩は存在しない。
「かーん」
司の場違いなほどのんびりとした号令をきっかけとし、今ここに一枚の煎餅を巡る壮絶な戦いの火蓋が切って落とされた。
「仲がいいなぁ。二人とも」
煎餅を胃の中に収めた司は、家具が飛び交う戦場を器用に脱出しながら、交戦中の二人に対してそんなコメントを残す。
「まあ、ほどほどにね」
最後にそう呟くと司は二人の邪魔をせぬよう、静かに玄関の扉を開けた。
「こんな所にいたのか」
その声に司が振り返ると、何やら体中に生傷をこさえた浩平が齧りかけの煎餅を片手に立っていた。
「今回は勝ったんだ……」
「まあな。いつまでも全敗って訳にはいかないだろ」
そう言うと、浩平は残りの煎餅を口の中に放り込む。そんな浩平に司は苦笑して答えると、浩平も軽く笑い声を上げた。
「で、司はここでなにしてるんだ？」
「見てわからない？」
「温泉掘ってる」
「……違うよ」
呆れたようにそう呟くと、司は再び地面に鍬を振り下ろす。見ると、それなりの面積の土地が黒く染まっていた。
「これ、司だけで全部やったのか？」
「うん」
「へぇ……」
感心したように浩平が声を漏らす。司が耕したと思われる畑の面積はさほど広いものでもなかったが、一人でそれを行ったとすると話は別だ。
「何を育ててるんだ？」
「取り敢えず、胡瓜とかトマトとか……野菜ばっかりだよ」
「今度食わせてくれな」
「……うん。いいよ」
その瞬間、僅かに司の顔に翳がさした。いつもとは違う、微妙に寂しさの混じった笑みを浮かべている司を浩平は気にも止めずに話し続ける。
「いつからこんな事してるんだ？」
「さあ？ 忘れちゃったよ」
「じゃあ、結構前からしてるんだな。で、どうだったんだ？」
「……何が？」
「野菜だよ。野菜。どれくらい取れたのかと思って……」
そこまで言った時、ようやく浩平も司の様子がおかしい事に気が付いた。司は自分の耕した土地を眺めながら、ゆっくりと答える。
「……まだ、一度も収穫できてないよ。それどころか芽すら出してない」
「えっ！？」
「ここは永遠の世界。永遠に変化のない世界なんだよ。だから雨も降らないし、四季の変化もない。そんな環境で作物が育つ筈ないし……それにもしかしたら作物が育つというそれ自体も変化の中に囚われているのかもしれない」
抑揚もなく、感情を押し殺すように結論を述べる司。だが、司の瞳がその事の悲しさを告げていた。
「だったら、なんでお前はこんなこと続けてるんだよ？」
浩平が静かに訊ねる。浩平のその問いに、司は自嘲気味に微笑むと答えた。
「なんとなく……じゃダメかな」
「殴るぞ」
「ははは……。まあ、そんな事はどうでもいいじゃないか。そんな事より次は僕から質問、いいかな？」
巧いこと話題を反らされ、口篭もる浩平は司の問いにただ首を縦に振って肯定を示す。その浩平の返事ににっこりと司が微笑んだ。
「じゃあ、訊くけど……浩平はどうしてそんなに頑張れるんだい？」
「……何が？」
そう返しながらも浩平には司が何を訊ねているのかがわかっていた。そんな浩平を知ってか知らずか司は言葉を繋げる。
「もうわかった筈だよ。出口は確かにある。けど、そこに辿り着くことは出来ないんだ」
僕もそうだったからね……。
そう寂しげに司は言葉を紡ぐ。そんな司の話を真剣な表情で聞いていた浩平は不意に顔を緩めた。そして、しゃがんで畑の土を持つとその感触を楽しむように手で遊ばせる。
「俺さ、待ってる人がいるんだよ」
手にした土を眺めながら浩平は言う。
「そいつは俺の幼馴染みでさ、いっつも俺の面倒ばかり見て、心配ばっかして……」
浩平の言葉をただ黙って聴いていた司はある一つの単語の所で思いがけず顔を強張らせた。
「そんなあいつだから……きっとずっと待っててくれると思うんだよ。たとえどんなに時間が経ってもな。だから俺は早く帰らないといけない。あいつにこれ以上、無理させないためにも……」
それを言うと、浩平は土を畑へと還す。そして、大きく伸びをすると司に対して笑いかけた。
ちょっとクサすぎたな……。
最後にそう締め、浩平は元来た道をゆっくりと引き返していった。
残された司は先程浩平がしたように畑から土を取り上げた。そして、浩平と同じように土を捏ねるように手を動かす。土を見つめるその表情からはいつもの笑みが形を潜め、どこか無機質な装いを呈していた。
「僕にも……いたんだよ……」
掌からゆっくりと黒土が零れ落ちる。司の呟きが空に染み込むように消えていく。
「待っている……人か……」
そう呟いた司は引き締まっていた口元からゆっくりと力を抜いていった。いつもの表情。いつもの微笑み。いつもの司へと戻っていく。だが、結局最後までその微笑はいつも通りにはならなかった。
それからどれほどの月日が流れたのだろうか。いや、この世界に太陽暦なんて概念に意味があるのかどうかも怪しいが、ともかく呆れるほど膨大な時間が流れた。
浩平は相変わらず、毎日のように森へ向かい、毎回のようにみずかに担ぎ込まれて帰ってくる。みずかもそんな浩平に呆れ果て、憎まれ口をたたきながらも以前には見せなかった楽しげな表情を浮かべていることに司は気が付いていた。
そして、司は……。浩平と話したあの日以来、司は畑に出ることを止めた。では、今何をしているのかというと暇さえあれば丘の上に寝転がって空を眺めている。そんな司に浩平とみずかは不思議がった。何か悪いものを食べたのではないか。寝不足なのかもしれない。そう心配して声を掛けてくる二人に司はこう返した。何でもないよ、と―――。
そしてまた、この終わりのない世界に朝日が昇る。現実の世界とまったく変わる事のないそんな太陽に見送られて、今日も浩平は懲りずに森へと向かっていった。
「ねえ、つかさ」
不意にかけられた声に司は手にしていたカップを皿の上に戻す。一方、声をかけたその張本人はパタパタと小走りに部屋の中を駆けると、司の向かい、つまりはいつも浩平が座っている席に腰を下ろした。
「なんで……こうへいはあんなに帰りたがってるのかな？」
訊ねながら僅かに顔を俯ける。そんなみずかに司はもう一口だけ紅茶を口に含むと柔らかく微笑んだ。
「浩平にはね、待ってる人がいるんだよ。だから、諦めずに頑張れるんじゃないかな」
「わたしだって待ってるもん。こうへいのこと、いつも待ってるよ」
ぷぅーと頬を膨らませる。外見相応の可愛らしい仕草に司は思わず息を噴出した。
「そうだね。その辺は浩平に訊いてみないとわからないや」
「むぅー。つかさ……役立たずだよ」
急に矛先を変える少女に司ははいはいと軽く受け流して、飲みかけの紅茶を堪能する。まったく相手にされてないことを察したみずかはそんな司に対して、ますます頬を膨らました。
「……そう言えば、つかさも最初は帰ろうとしてたよね。それも、待ってる人がいたから？」
「うーん。どうかな」
一気に紅茶を飲み干す。そして、司は椅子から立ち上がると大きく伸びをした。
「たとえそうだとしても、僕がここに来てから随分経ってるし、もう……僕の事なんか忘れちゃってると思う」
そう言って、司は部屋を後にする。その表情はみずかの位置からは窺うことはできない。だが、ゆっくりとドアへ向かっていくその後姿には何処か泣いているような雰囲気が漂っていた。
「つかさ！」
みずかの声に司の歩みがぴたりと止まった。静閑とした部屋内にみずかの息遣いだけが微かに響く。
「つかさも、今でも帰りたいの？ あの世界に……すでに終わってるあの世界に……」
みずかの声が壁に反響して響く。そして、みずかはそのまま黙って司の返事を待った。ただひたすらに司の背中を見つめながら……。
司が振り返る。そして笑った。いつもの、司らしい笑顔。その表情にみずかはほっと胸を撫で下ろし、そしてつられるように笑った。
だが、その彼から漏れた言葉はあまりにも残酷なもので……。
「さあ。どうだろうね」
無機質な声でそうとだけ言い、彼は一人、玄関を跨いでいった。
閑散とする屋敷内。まるで生命の息遣いを感じさせないそんな部屋の中でみずかは一人、呆然と床にへたりこむ。
永遠の世界。変化のない世界。何も失うことのない世界の主たる彼女は生まれて初めて空虚な喪失感を感じていた。
ちなみに、その日の浩平はみずかに足首を持たれ、引き摺られながら帰ってきた。恐らくは司のせいなのであろうが、今日のみずかはちょっと機嫌が悪いようだ。その光景を丘の上で目撃した司は静かに浩平に合掌すると呟いた。ゴメンと……。
その日、浩平は珍しく自分から目覚めた。微妙に寝惚けた頭を左右に振るともう一度、枕へと飛び込む。
ぐぅー。
いびきをかく真似をしてみる。しかし、困ったことに眠れない。それでもしばらくは粘っていたが、次第に体が痛くなってきたので、浩平は起き上がるとコキコキと首を鳴らした。
「ふう。なんかこういう日は決まって雨が降っていたような気がするなぁ」
そんな期待に胸を膨らませながらカーテンを引く。しかし、この永遠の世界に雨なんぞ降る筈もなく、浩平の目に飛び込んできたのは焼き付くように差し込む陽光と大空の透き通るような蒼だった。
「くっ。つまらん。仕方ないな。寝るか」
そう言って、浩平は何故かタンスの中に潜り込む。実はベッドの上では無理でもタンスの中なら大丈夫かも、という浩平なりに頭を働かせた結論だったが、勿論、そんなことで状況が変わる訳がない。結局、浩平はタンスから這うように脱出すると、服を着替え、玄関の扉を開けた。
扉を開けると、爽やかな南風に乗って草の香りが漂う。草原を駆けるように吹くその風があまりに気持ちよくて、浩平は両手を広げ、思い切り胸に吸い込んだ。
そのままのんびりと歩き続ける。目的の場所がはっきりと決まっている訳ではなかったが、それでもなんとなくどこに自分が向かっているのか見当がついた。恐らくは自分がこの空を見上げた場所に、ただがむしゃらに走って辿り着いた場所に、自分は向かっているのだろうと―――。
目的の場所には先客がいた。僅かに盛り上がった丘の頂上のあたりに一人の青年が寝転がっている。そこに浩平は向かうと、先客たる彼に声を掛けた。
「よっ！ 司」
ただぼんやりと風に吹かれていた司は、その声の方に顔だけ向けた。
「……おはよう。浩平。今日は早いね」
浩平も司の横に寝転がる。柔らかな草の感触と陽光、そして吹く風のすべてが心地よかった。
そんなゆったりとした空間の中で浩平は静かに目を閉じる。睡魔こそはやってこなかったもののそれは何よりも勝る休息となった。
「ねえ。浩平」
不意に司が話し掛ける。浩平はそのまま目を瞑ったまま司に相槌を返した。
「例えば……友達が何処か遠くに行くとするよね」
「ああ……」
「そうしたら、残された人はどれくらい待っててくれるのかな？」
何やら不安げにそう訊ねてくる司。そんな司の言葉を聞いて、浩平は閉じていた目を薄く開ける。
目の前には何処までも大きくて、深く透き通った青空とその中に浮かぶ白い雲があった。何となく手を伸ばしてみる。しかし、届きそうだったそれを掴もうとしても、握った拳の中には何も入ってはいなかった。
「そうだな……」
馬鹿なことをした自分に何となく苦笑しながら、浩平は言葉を紡ぐ。そして、拳を握ったり開いたりしながら浩平はゆっくりと答えた。
「ただの友達だったんなら……待ったりはしないだろうな」
「……そっか」
それを聞いた司は何となくがっくりしながらも納得したように頷いた。そのまま浩平に倣って大空に手を伸ばしてみる。しかし、司の見たそれは掴むまでもなく、遠い、手の届かない存在に見えた。
「……けどな」
浩平がふわっと起き上がる。上体を起こして、それでも視線は大空へと向けながら、浩平は言葉を続ける。
「もしそれが……大切な人だったら、俺は絶対に待ってるぞ」
はっとして司が浩平の方を見る。何時の間にか、空を見つめていた筈の浩平がこちらの方に顔を向けていた。
「特に好きな人だったりしたら尚更だな」
はははっと浩平が笑い声を上げる。それにつられるように司も何時の間にか笑っていた。
いつもの微笑ではない心の底からの司の笑顔。そんな司の表情を浩平は今まで見たことなかった事に今更ながら気が付いた。
一きしり笑った後、浩平も司も腕を枕にして寝転がる。心地よい風が髪を揺らし、靡いた草が優しく頬を撫でる。そんな自然の暖かさに触れながら、司はゆっくりと閉じていた口を開いた。
「……僕にはね、二人の幼馴染みがいたんだ」
司の独白。今まで一切語られることがなかった司本人の話に浩平はただ黙って耳を傾ける。
「小さい頃からいつも一緒で原っぱで遊んだり、クリスマスパーティーで騒いだり……」
昔の事を一つずつ思い出すように語っている司は本当に楽しそうで……、浩平の口元も知らず知らずの内に緩んでいた。
しかし、その表情は唐突に歪んだ。
「けどね、それも大分昔の話だよ。今はもう忘れてしまっているかもしれない」
「……だったら思い出させてやればいいだろ」
寂しそうに語る司に浩平が呟くように声を漏らす。それを聞いて、司は一瞬驚いた表情をしたが、再び顔を緩め……。
「そうだね……」
どこまでも深い青空の元で司は再び手を伸ばす。そして、もう一度寝転がると、司は静かに目を閉じた。
永遠に届きそうにない大空。それが今は自分のすぐそばにあるように感じていた。
一人、家に残るみずかはただ静かに窓を眺めていた。窓ガラスに映るその表情は堅い。固く絞ったその唇にはいつもの愛らしさは微塵も存在せず、冷たい無機質な様相を呈している。
みずかはゆっくりと窓ガラスに手をかけ、そして下に滑らせる。何かを求めるように。そして、その何かに拒絶されたかのように。
「……行かせない」
ほつりと呟く。何処か虚ろな目で窓の外を見つめながら……。
みずかの視線の先には二人の青年。楽しげに未来を語っている。暖かな外の空気とは対照的に室内の空気は身震いするほどに冷たかった。
次の日、みずかは起こしに来なかった。
少し遅めに起床すると、浩平はもはや習慣のように着替えて外へと歩き出す。
途中、居間を通ったが、時間が遅いせいか誰もそこにはいなかった。それでも、食卓には浩平用と思われる食事が置いてあったので遠慮なく戴く。冷めたトーストはその場の静かな空間も手伝って、酷くつまらない味に感じた。
トーストを半ば無理やり胃の中に収めた浩平は静かに玄関の扉を開ける。そして、ゆっくりと外へ足を出した。
「遅いよ」
その彼はドアのすぐ横に凭れて浩平を見ていた。状況がまったく把握できていない浩平ににこりと笑いかける。
「先に行っちゃおうかと思ったよ」
次第に靄が晴れる。彼が、司が言った事が徐々に頭の中で整理されて明確な形を形成する。
そして、浩平は言った。
「行こうか」
「そだね」
そうして、二人は歩き出す。何度も行ったことがある場所だったが、浩平も司もその時は一人でしかなかった。だからかも知れない。今日はなんだかいつもと違う事が起こりそうな予感がしていた。
「……なんか遠回りしてないか？」
「まあね。けど、こっちの方が安全なんだよ」
ゆっくりと鬱蒼とした森を突き進む。あれから浩平と司は何度となく熊やら蛇やら蜂やら虎やらに追いかけられながらも徐々に森の中心部へと近づいていった。
「……の割にはなんかえらく罠が多い気がするんだが……」
「いや、僕もこんな所まで来たことないからね。ホント、浩平のおかげだよ」
快活に笑う司と怒りを隠しきれず拳を戦慄かせる浩平。そして、いい加減頭にきた浩平がその拳を司の頭に叩きつけようとした時、急に前を歩く司の笑い声が止まった。
「……浩平」
「ん？ どうした」
素早く拳をしまうと、浩平は司の見る方を向く。
目の前には見上げても先まで見えない大木。それを避けるように目を凝らすと、そこには不思議な建築物が見て取れた。
遺跡、という表現が一番的確なのであろうか。石によって出来たその建造物はその身から溢れんばかりの神秘性を醸し出している。
その建物を指差しながら、浩平は司に訊ねた。
「司……。あれがもしかして……」
「そうだよ。あれが……」
嬉しそうに司が声を上げる。だが、それを遮るかのように声が響いた。
「こうへいとつかさの帰り道」
はっとして振り返る。高く茂った草を掻き分けるように小さな人影が姿を見せる。その姿を見て、浩平はポツリと呟いた。
「……みずか」
「あれのちょうど真ん中に立てば、こうへいもつかさも元の世界に帰れるよ」
そう言葉を繋げる。俯いているためその表情ははっきりとわからないが、みずかの声は何処か感情のこもっていない、機械のような無機質さを持っていた。
「……けど、だけど、行かせないもん！！」
みずかの声に色が戻り、俯いていた顔を上げ、浩平と司を睨むように見つめる。
ふと気が付いた。その光景を司も驚いたように見ていたが、みずかの目からは涙が流れていた。頬を伝い、顎の先から地面へと落ちる雫を拭おうともせず、みずかは二人を見据える。
上からポタリと雫が垂れる。まるでみずかの心を表すかのように、この変化のない世界に降らない筈の雨が降り注いだ。たちこめた暗雲はそれまでの澄んだ蒼空を悉く呑み込み、その世界全体を薄暗いものへと変貌させた。
「……もう……ひとりは……いや……」
降り注ぐ雨の音に掻き消されそうなほどか細い声でそう告げる。
『こうへいなんかよりずっと年上だもん』
以前、みずかが言ったこの言葉が反芻するように浩平の頭の中に響く。
彼女がいつ、どのようにここに生まれたかは知らない。しかし、この何もない世界でみずかはどれだけの時間、一人で過ごしたのだろうか。想像すら出来ない。
「わたしだって……こうへいとつかさを、いつも待ってるもん……」
みずかの言葉が、そして心が、二人に鋭く突き刺さる。
『そんなあいつだから……きっとずっと待っててくれると思うんだよ。たとえどんなに時間が経ってもな。だから俺は早く帰らないといけない。あいつにこれ以上、無理させないためにも……』
浩平が司に言った言葉。それが重々しく圧し掛かる。確かに帰らなければ、瑞佳はずっと浩平の事を待ち続け、ずっと無理しつづけるだろう。だが、帰ってもそれは同じ。この永遠の地でみずかはこうへいやつかさを待ち続ける。いつまでも……たった一人で……。
「だったら、みずかも一緒に来ればいいじゃないか！！ 僕たちと一緒に！！」
司が叫んだ。その光景を呆気にとられて見ていた浩平も笑ってみずかに手を差し伸べる。
だが、そんな二人に……みずかは力なく首を左右に振った。
「……ムリだよ。わたしはここから離れられない」
「みずか……」
みずかの言葉に浩平がゆっくりと差し伸べた手を下ろす。
雨は徐々に激しさを増す。既に空を覆い尽くした暗雲からは時折、地響きのような雷鳴が轟いた。
出口はすぐそこにある。ずっと探しつづけていたものがすぐそこにあった。だが、二人は動けない。動けなかった。
「つかさがきて、わたしは一人じゃなくなった。こうへいがきて、わたしは朝の楽しさを知った」
まるで、楽しかったあの日々に想いを馳せるようにみずかはゆっくりと語る。そんなみずかの言葉を司と浩平はただ聞いている事しかできなかった。
「ここは『えいえん』。何も変わらず、何も失わない世界」
まるで詩を詠むように朗々と語りながら、みずかは胸に手を当てる。まるで自分がその世界そのものである事を主張するように。
「けど、わたしは失おうとしてる！ 大切なものを！！ 大切な人を！！」
みずかの叫びに呼応するように轟きが大きさを増す。
「それまでだったら大丈夫だったんだよ。孤独でない事の幸せも、みんなで食べる朝ごはんのおいしさも、わたしは知らなかったから……」
悲しげな顔でそう言って、雨に濡れ、顔に張り付いた髪をゆっくりと押し退ける。そして、叫んだ。
「けど、もう絶えられないもん！！ ひとりは嫌ッ！！ ひとりは嫌ッ！！ ひとりはいやぁぁぁぁぁっ！！」
みずかの叫び声と同時に辺りが激しい光に満ちた。それと共にやってきた凄まじい轟音と衝撃に浩平は後方に投げ出される。失いかける意識を何とか保たせるように目を開くと霞んだ視界の中に何となく自分の前を駆けていく人影が見えたような気がした。
「ぐあっ！？」
背中に鈍痛が走り、それをきっかけに浩平は失いかけていた意識を何とか取り戻す。
どうやら雷が落ちたらしい。辺りはその余波により炎が立ち上り、悠然とその存在を主張していた巨大な古木は儚くもその場に折れ朽ちていた。
「みずか！！」
その場所に、木が倒れたその場所にいた筈の少女の名を浩平は叫ぶ。まわりを見回してもその姿は見つからない、それどころか、先程まで自分の隣りにいた筈の司の姿まで見当たらなかった。
「司あああ！！ みずかああああ！！」
「……ここにいるよ」
その声は確かに浩平の耳に届いた。虚しく倒れ、燃え盛る大木の向こう側に司はいる。
「みずかは！？」
「大丈夫。気を失ってるけど、命に別状はないよ」
「そうか……」
ほっと胸を撫で下ろす。極度の緊張が解け、浩平は思わずその場にへなへなとへたり込んだ。
「ねえ浩平……」
司の声が聞こえる。姿は見えなくても、いつもの、穏やかなその声に浩平は相槌を打つと静かにその言葉の続きを待った。
「浩平だけ、先に行ってくれないかな……」
そんな言葉が自然と耳に入ってくる。力が入らず、何も考えられない浩平はその言葉に気だるそうに反応した。
「冗談言うなよ。お前も一緒に帰るんだろ……」
それを聞いてか司がふふっと失笑を漏らす。けど、その後、さっきよりも強い調子で司は言った。
「もう一度言うよ。浩平は先に帰ってくれ。一人でね」
「おい。こんな時に言う冗談じゃないだろ」
「だから、冗談じゃないんだ。どうせここからそこには向かえない。だから、せめて浩平一人でも先に行っててほしいんだ」
「……おいおい」
流石の浩平もこの時には司が本気でそう言っている事に気付く。そして、ゆっくりと立ち上がると辺りを見回した。
稲妻によって発生した火災は徐々にこちらにも魔の手を伸ばしていた。何時の間にか降っていた雨も止み、その炎はますます勢いを強めている。
「諦めんなよ！ なんか手はある筈だろ！！ どうにかして……」
「どうにかしても無理だよ。それにこんな状態のみずかを放っておく訳にもいかないしね」
「だったら、俺も……」
「ダメだよ！！ 僕らの努力を無駄にするつもり！？」
ぐっと浩平は口篭もった。頭では解っている。けど、それでも納得ができなかった。そんな浩平の心を見抜いたかのように司はゆっくりと話し始めた。
「一つだけ……頼み事をしていいかな？」
「……」
「今回はたまたまこういう結果になっちゃったけど、でも僕はいつか絶対に帰るつもりだ」
一言一言、それこそ一語一句に強い力を込めて司が話し続ける。浩平はそんな司の言葉をただ黙って聞き続ける。
「だから……、その事を、僕を待っていてくれるかもしれない人に、僕の大切な人に伝えて欲しいんだ」
もう忘れちゃってるかもしれないけどね。
そう言って、笑う司に浩平は問う。
「そいつの名前は何ていうんだ？ 名前も知らないんだったら探しようがないだろ」
まさか苗字みたく忘れたんじゃないだろうな。
そう言って、浩平も笑った。しばし笑い合う二人。その笑い声も次第に小さくなり、失われると司はクスッと最後に息を漏らす。炎と大木が邪魔をしてその姿は見えない筈なのに、浩平の目にはいつもの微笑を浮かべる司がしっかりと映った。
「忘れやしないよ。その名前だけは―――」
そして言った。
「その人の名前は―――」
その名をしっかりと脳裏に焼き付けると浩平は踵を返して遺跡へと向かった。へんてこな、いかにもインチキくさいその建物の中心に立つと、建物全体が仄かに光り始める。
そして、次の瞬間、浩平はこの『えいえん』という名の世界から完全に消失した。
それから色々な事があった。
呆然として、懐かしい自分の部屋に帰ってきた俺は何故か由起子さんにこっ酷く叱られた。
そして、その後いきなり抱き付かれた。
抱き付きながら泣いている由起子さんの頭を撫でると何故かまた怒られた。
学校に行くと、住井とか南とかにいきなり揉みくちゃにされた。
いくら担任が髭だからってお前サボりすぎたって、さんざんシバかれた。
その後、教室の中で瑞佳に泣き付かれた。
由起子さんのように泣いて、俺を抱きしめてくる瑞佳を俺もしっかり抱きしめた。
それを見て、茶化してきた住井を殴り飛ばしたのはご愛嬌だ。
ともかく色々な事があった。
色々な事が起きて、一日があっという間に過ぎていった。
そして、気が付けば放課後……。
俺は……彼女を屋上へと呼び出した。
「何か用ですか？」
浩平の前に現れた少女は嫌そうな顔をするといきなりそんな事をのたまう。そんな少女の様子に浩平は肩をすくめる。それを見た少女はさらに嫌そうに顔をしかめた。
その少女の名前は里村茜。浩平のクラスメートである。あの時、司が言った二人の少女の名前。その内一人は更々見当がつかなかったが、もう片方の名前が今、目の前にいる少女の名とピタリと一致したのである。
あの時、里村は雨の降る空き地でただ呆然と立っていた。それがその時の浩平にはまったく理解できなかったが、今ならわかる。あの時、里村はあの場所で司の事を待っていたのだ。それがわかると妙に因縁めいたものが感じられて、浩平は知らず知らずの内にクスッと噴出していた。
「用がないのなら帰ります」
「まあ待てよ。そんなに俺と屋上にいるの嫌か？」
「嫌です」
心底嫌そうな里村。そして、今にも踵を返して屋上から出ていこうとする彼女を何とか引き止めると浩平は大きく息を吸い込んだ。
そして……。
「司から伝言だ」
その言葉に里村は驚いてただその場で呆ける。そんな里村の反応を楽しみながら、浩平は次の言葉を繋げた。
「"もうすぐ"帰るってよ」
そう言って、浩平は踵を返す。里村もしばらくはその場で呆然と立ち竦んでいたが、我に返って浩平を追いかけた。
「それってどういうことですか！？」
そんな里村に追いつかれないように浩平はスピードを上げる。そして笑いながら、空を見上げ、遠い世界にいる親友に語り掛けた。
そうだろ……司……。
司は怒るだろうか。浩平が伝言の内容を少しだけ変えてしまった事を。
いや、彼ならば、どうせいつもの微笑みを浮かべて許すだろう。それにたとえ『いつか』のままで伝えたとしても帰ってくる時は変わらない。どっちに転んでも近い内に彼は自分とこの少女の前に姿を現すのだろうから。
見上げた空はいつか見た空のように何処までも大きくて、そして蒼く深く透き通っていた。
おわり。
結果のページ
戻る