澪とみさきと長森と
『げどう――っなの』
少女の叫び声……というか、鬼気せまるオーラが学校の廊下中に伝わる。
オレはその追跡者から逃げていた。
『ぜぇったいに許せないの――っ』
そう、追われている。激しく。
「畜生！ オレが何をしたっていうんだ！？」
走りながら後ろに向かって叫ぶ。
『何もしてないからなのっ』
といった半泣きの顔で迫ってくる。
そうか、納得。
掃除をサボった人とそれを追う人。
状況はきわめて単純だった。
しかし、捕まるわけにはいかない。
「あそこに身を隠すか……」
オレは中庭に進路を変え、手頃な植えこみに滑り込んだ。
キョロキョロ……
あぅあぅ……
キョロキョロ……
追跡者はしばらくあぅあぅしながら辺りを見渡した後、去っていった。
「ふぅ……間一髪」
「……一体、何してるの？」
後ろから女性の声がした。
「愚問だな。その言葉、そのまま返してやろう。お前、何で制服でこんな所にいるんだ？」
この学校を卒業したはずの長森が、なぜか制服姿で中庭に腰を下ろしていた。
「……新手のアルバイトか？」
そのような道に走るとは、お父さんは悲しいぞ。
「違うよ！ 遅れて来たうえに何言ってるんだよ！」
何！？ 遅れて来た？
……そういえば、何か約束があったような気がしないでもない。
…………
「おお、そういえばここで待ち合わせって約束だったな」
「はあ……どうせそんなことだろうと思ったよ」
長森は一際大きな溜息をついていつものように呆れていた。
いい加減付き合いも長いせいか、オレが待ち合わせを忘れても何も言わない。
どうせ憶えていたら憶えていたで、
『浩平大丈夫！？ 熱があるんじゃないの！？』
なんて言われるのだろうが。
「だいたい、制服だって浩平が着てこいって言ったんだよ」
「オレの奥底に潜む願望を汲み取って着てきたんじゃないのか？」
「はあ……浩平、私服は並んでてイヤだとか言ってなかった？」
そういえば、お前だけ私服は並んでて恥ずかしいから制服を着てこいと言った憶えがかすかに……
「まさか本当に着てくるとは……」
面白そうだから言ってみただけなのだが、久々に長森の制服姿を見るのも悪くない。
久々と言っても卒業してからまだ２ヶ月ほどなので、制服さえ着ればまだ現役の女子高生と変わりなく見える。
「お昼前に出たら寝坊して学校に登校してるみたいでとても恥ずかしかったよ」
「そんなに気になるなら今度からはオレと一緒に登校しろ。どうせ大学は土曜日休みなんだろ？」
「今度って……またやるの！？」
一度やればニ度やっても同じだ長森。そんなに嫌な顔をすることもないだろう。
「でもでも、部外者が入ったら怒られるよ」
「どうせ、髭だし気付かん」
「……先生、相変わらずなの？」
「こないだなんか、澪が掃除道具箱の中に閉じこめられているのも気にせず授業していた」
「はあ……」
む？ ここは笑うところだぞ？
「浩平、ダメだよそんなことしたら……」
「な、何故わかった？」
「そんなイタズラするのは浩平だけだよ。澪ちゃんもかわいそうに……」
言うまでもないが、澪を掃除道具箱に閉じ込めた主犯はオレだ。
退屈な授業に少しスリルを混ぜてやろうという目論みだったのだが……
髭の想像を絶する大らかさの前にあっさり破られてしまった。
まあ、掃除道具箱が何だかガタガタ震えていたのには、クラス全員が気づいていたのだが。
もちろん、授業終了後、解放された澪にスケッチブックでゲシゲシ殴られたのは言うまでもない。
ちなみに、長森はオレのいない間にクラブ間の交流を通じて澪と知り合ったらしい。
典型的なドジの澪を見ていると、生来の世話焼きの血が騒ぐようで、澪は長森のお気に入りの後輩だったとか。
「でも、安心したよ。浩平、今のクラスの子達とも仲良くやってるんだ」
「オレは環境に順応するのが早いんだ」
「住井君も元気にしてる？」
「おう、澪を閉じ込めた共犯はあいつだ」
「はあ……相変わらずだね。浩平も先生も住井君も」
そう。
もともと赤点スレスレの成績を取ってた上に、１年ほど学校を休んでいたことになっていたオレは３年生をやり直すことになったのだ。
で、何の因果か澪や前の担任の髭、素で留年した住井と同じクラスになっている。
「そういう長森は大学に慣れたのか？ 毎朝オレを起こしにくるところをみると随分暇そうだが」
「暇なんかじゃないもん。浩平、わたしが起こさなかったら来年も卒業できないから起こしに行ってあげてるんだよ」
まるで出来の悪い弟を叱るように怒る長森。
制服姿で久々にこの顔を見ると新鮮な感じがしないでもない。
「何っ、大学は暇なところじゃなかったのか！？」
「そんなのは一部の人だけだよ。わたしも七瀬さんもちゃんと毎日授業に出てるもん」
そ、そんな……代返を満喫していると思ってたのに。
「長森、もう起こさないでくれ。オレは永遠の高校生になる」
「浩平なんのために帰ってきたんだよ……」
「熱さも喉元を過ぎれば忘れるというやつだ」
「威張って言うことじゃないよ。……全然笑えない冗談だし」
確かに、一年も待たせた長森にこの冗談は酷だったな……少し反省。
「それで、今日はどこに行くの？」
これ以上オレにとりとめのない話をさせないためだろう。長森は今日のデートの目的に話題を変えた。
オレの扱い方をここまでわきまえてるのは、さすが幼なじみといったところか。
「行き先か？」
「うん」
期待に目を輝かせてオレを見る長森。
「オレの部屋」
「…………」
一瞬長森の思考が停止したのがハッキリとわかった。
漫画チックに言うと無音の世界の中、口から魂を出して真っ白になっているというところだろう。
「何のためにわざわざ制服を着てきたと思っているんだよ！」
が、色を取り戻すやいなや、七瀬ばりの剣幕で突っ込んできやがった。
「何のためって、そりゃあ制服の方が刺激的なものが……」
「嘘。お前だけ私服は並んでて恥ずかしいから制服を着て来い、って言ってたもん！」
ぐはっ、しまった。
「…………」
「わたしの勝ちだね、浩平」
勝ち誇ったようにオレの顔を覗き込みながら長森はほくそ笑んでいた。
まあ、どうせ今日は制服でオレの部屋に行くことになるだろうから、勝負には負けちゃいないんだがな。
「わかったよ。でもな、実は金欠なんだ。行くなら金のかからないところにしてくれ」
「金欠って……浩平、おばさんからお小遣いもらったばっかりじゃなかったの！？」
いくら付き合いが長いとはいえ、人の給料日まで覚えとくことはないだろう。
「住井との賭けに負けてなくなった」
「……何を賭けてたのかは訊かないでおくよ」
「いや、あそこで一万あればオレが勝ってたんだ！」
「もういいってば」
長森は呆れるを通り越して、肩で溜息をついていた。
しばらくぶりのオレの無軌道な学校生活は、長森には刺激が強すぎたらしい。
やはり、たまにはオレと一緒に登校してあの刺激に満ちた快楽と悦楽の世界を味わうべきだな、これは。
「うーん、じゃあ商店街で、お買い物に付き合ってくれないかな？」
むう、打たれ弱くはなっているが、立ち直りの早さだけは高校の時並のようだ。
「買い物に付き合うというと、米袋でも買うのか？」
「何で米袋なんか買わなきゃいけないんだよ……」
そうは言われても、男手が必要な買い物なんて荷物持ちしか考えられない。
「服を選ぶのに付き合って欲しいんだよ」
「服？」
野菜の聞き間違いじゃ……服、ふく……あっ
「わかった！ 大福だな！」
「はぁ？」
「『牛乳大福』とかいって、中身から搾りたての牛乳が出てくるタイプだな？ 通だな、長森」
「うぐ、その大福、賞味期限が短そうだね……。じゃなくて、なんで大福なんだよ」
「いや、長森なら牛乳は一日５リットルだし、牛乳大福なら１００個くらい食べるかと思って……」
それで荷物持ちにオレを付き合わせる、というわけじゃないのか！？
「わたしそんなにたくさん飲まないし、食べないもん！」
というわけじゃなかったようだ。
「ということは、服と言うと衣服のことか？」
「それ以外に何かあるの？」
「いや、ふくぶく……やっぱ、いい」
更にボケるのは馬鹿らしいのでやめた。
しかし、同い年の男女で一緒に洋服屋に行くっていうのは……
「まるでデートみたいだな」
「デートじゃなかったの？」
「おおっ、そうだった！」
「はあ……」
オレと長森の会話のオチっていつも長森の溜息だな。
「いや、お前からそんな洒落た台詞が聞けるとは思わなかったぞ長森」
普段オレを起こしにくる時も、平凡でぱっとしない服しか着てこない長森が一緒に洋服屋に行こうなどと言い出すとは！
今年の長森ビックリ大賞の第一候補決定。
「今までお休みの時以外、ほとんど制服だったから縁がなかっただけだよ」
多少自覚はあったらしい。長森は照れ笑いを浮かべながら弁解した。
「そういえば、在学中はクラブやってたんだったな」
「うん」
クラブやってると帰りが遅くなるものだから制服とパジャマだけでたいていが事足りてしまう。
もっとも、オレはクラブに行かなくても制服のまま寝たりするが。
「それで、もうすぐ夏だしそろそろ夏服から揃えておこうかなって。せっかくだし浩平に似合うのを選んで欲しいんだよ」
別にオレは長森がどんな服をして大学に行っててもそんなに気にはならないのだが……。
というか、こいつはどうやったって人並み以上、人並み以下の服装なんかできるとは思えない。
「やっぱり、こういうのは面倒くさいかな？」
うむ、そういうのは色ぼけカップルがやることで、オレの性には合わない。
ましてやペアルックなんて絶対嫌だ。
例えば、オレが『牛』の字のＴシャツ着て、長森が『乳』の字のシャツを着るとする。
普段は『牛乳』と読めるが、並びが変われば『乳牛』と読まれちゃうワケだ。
乳牛……そういえば長森の胸って結構揉み心地がいいんだよな。
右手を握っては開き、握っては開きあの感触を反芻してみる。
「ちょっと浩平、何かエッチだよ、その手つき」
「スマン……抑えていた欲望が解放されたんだ」
「一体今のどこにそうなる要素があったんだよ……」
それ以前に、『乳』の字のシャツなんてキワモノどこにあるのやら。我ながら、この解析不能の想像力には恐れ入る。
長森の胸はさておき、普段は面倒と答えるところだが、オレが服を選ぶとするなら、物は考えようだ。
ほっといたら人並みの格好しかしないであろう長森に変わった趣向の格好をさせてみるチャンスでもある。
「なかなか楽しそうじゃねえか、よし長森出撃だ！」
こんな面白そうなイベントを逃すなんてオレの信義に反する。
が、そんな乗り気なオレに対して長森は溜息をついてうつむいていた。
誘っとくだけ誘っといて溜息とは失礼なやつめ。
「浩平、何を期待してるのか知らないけど……水着とか着ぐるみは着ないからね」
「何っ！ ダメなのか？」
「はあ……当たり前だよ」
「一番手軽に自分を変えれる方法だと思うぞ？」
「変な方向に変わるのはゴメンだよ」
ちっ、そっちの方面は封じられたか。
まあいい。純粋に長森を着飾らせてみるのも一興だしな。
「よし、そうと決まったら行くか。鞄取ってくるから待っててくれ」
オレは背にしていた木から離れて小さく伸びをした。
「あ、ちょっと待って浩平」
「何だ？」
少し覗き込むような斜めの笑顔。
何か楽しいことを思いついたときの顔だ。
「浩平、お金ないんだよね？」
「おう」
「じゃあ、食堂で食べない？ あそこだったら、わたしもばれないと思うし」
食堂は部外者ＯＫなのでばれたところで問題はないと思う。
が、長森はこの悪戯っぽい思いつきにスリルを感じているのかとても楽しそうだった。
オレなら校長室で闇鍋をするとか、それくらい大それたことでないと到底満足できないが、長森にそれを期待するのは無理ってものだろう。
「その方が助かる」
「うん、浩平がいる間はたまにはこうやって土曜日学校に来てみるのもいいかな」
「ついでに授業も受けていけ。絶対に髭は気付かない」
「そんなわけないよ、って言えないところが怖いよ……」
全くだ。あれは明らかに大らかというレベルを超している。
「ところで浩平、どうしてこんな時間に中庭に手ぶらで出てきたの？」
「ん？」
オレが時間を見ようとポケットに手を伸ばしたところで、長森が手を差し出してくれる。
わきまえたものだ。
時刻は一時半を少し過ぎたところ。どうりで腹が減るわけだ。
「授業はとっくに終わってるよね？」
…………
「……それに浩平、何か中庭に隠れにきたって感じだったよ」
「しまった」
長森を見つけて約束を思い出しているうちに、中庭に出てきた理由の方をすっかり忘れていた。
「掃除当番すっぽかしたら澪に追っかけられたんで、撒いて中庭に出てきたんだ」
「浩平……わたしとの約束忘れてただけじゃなくてそんなことしてたんだ」
もはやかける言葉もない、と言わんばかりに呆れられてしまう。
「いや、本当ならこっそり教室に戻って掃除しておいてやるつもりだったんだが」
ちょっとからかうつもりが、かなり酷い仕打ちになっていた。
まあいいか……他の掃除当番の連中ほったらかしてオレなんか追っかけまわした澪も澪だし。
果たして……
長森と一緒に教室に行ってみると黒板とオレの鞄にそれぞれチョークとサインペンで
『みんな鬼なの！ 外道なの！』
と馬鹿でかく殴り書きされていた。
どうやら、オレを追っかけまわしているうちに他の掃除当番の連中にもすっぽかされて一人で掃除をして帰ったらしい。哀れな奴だ。
まあ、これだけ派手に八つ当たりをしてるところをみると、当人はもう怒りを忘れてるだろう。
からかわれて怒ってもすぐに忘れて許す、澪がクラスのマスコットキャラとも言われる所以である。
昼飯時から少し過ぎた時間だったので、食堂は割と人口が少なかった。
「何を頼んでもいいんだよな？」
「うん、浩平が無理に高いの頼もうとしても、ここにはそんなに高いメニューはないからね」
ククク……その甘い考えが命取りだ、長森。
「長森、お前が卒業した後、この食堂に裏メニューが追加されたの知ってるか？」
そう、オレも噂でしか聞いたことないが。
「えっ……浩平、もしかして」
明らかに動揺した表情でオレを見る長森。
「何を頼んでもいいんだよな〜？」
「だ、だめだよっ」
さらばっ、長森のサイフ！
「おばちゃーん、素うどん二つ！」
かけそば・かけうどんより安い裏メニューの素うどんを二人一緒にすすった後、オレ達は商店街にやってきていた。
「こうして二人で制服で歩いてると二年生の試験中に一緒に遊んだのを思い出すね」
「そうだな」
制服は恥ずかしかった、とか言う割には結構まんざらでもないようだ。
長森はさっきから終始笑顔で、オレに腕を絡ませながら歩いている。
そんなオレ達の姿は誰が見ても仲のいいカップルだ。
適当にあちこちの店を覗きながら商店街を歩き回り、気に止まった物があったらその店に寄る。
見慣れた商店街といえ、いつも全部の店をチェックしてるわけではないので、こうやってたまに見てみると面白い発見があったりするものだ。
途中、長森が懐かしさついでにクレープを奢ってくれたのもラッキーだった。
金欠も悪いことばかりではない。
「そろそろ目的の店に行かないか？」
ふと時計を見ると三時半を過ぎていた。
いい加減寄り道のしすぎだろう。これ以上のんびりしていたら買い物だけでくたくたになってしまう。
「ほんとだ、もうこんな時間」
長森も時計を見て驚いていた。
二人とも時間がたつのを忘れるくらい楽しんでいたということだろう。
「じゃ、服の店に行くか」
「うん」
オレは長森の手をとり先に歩き出した。
が、思いとどまって足をとめる。
「どうしたの？」
訝しげに俺の顔を覗き込む長森。
「洋服屋ってどっちだ？」
「…………」
よく考えてみればオレは男物の洋服屋しか知らない。
「もうっ、浩平ったらどこに歩いていく気だったんだよ」
「あ、いやすまん。お前が先に行ってくれ」
本当は女物の服が売ってる店を全く知らないわけではない。
が、住井ご推薦のあの店に長森を連れて行くわけには……なあ。
待てよ……長森の制服そこで売れば今月の負けを取り戻せるだろうか？
い、いかん、それだけは駄目だ！ いくら相手が長森でもそればっかりは……。
ぶんぶんぶんぶんっ
「何やってるの？」
「邪念を振り払ってるんだ、気にしないでくれ」
激しく首の運動をするオレに長森は？マークを浮かべていた。
「こんにちは、浩平君。奇遇だね」
ん？
右から誰か聞き覚えのある声に呼ばれた。
「あれ、先輩？」
振り返ってみると、そこに立っていたのは高校の屋上で知り合った盲目の先輩だった。
「久しぶりだね。この前高校の前で会ったのって、いつだったかな？」
「三日前だよ……挨拶だけならしょっちゅうしてるだろ、先輩」
意外なことに先輩の家は高校の目の前にあり、先輩の大学からの帰宅時間とオレの下校時間がかちあうため、顔を合わすこともしばしばである。
ま、会っても少し世間話するくらいだが……
「あれ？ そういや先輩、杖は……？」
よくみると先輩は盲人用の杖を持ってなかった。
確か、家の付近以外では使わないと歩けないって言ってたはずなのに……
はずなの……
じーっ
先輩の腰あたりから何か視線を感じる。
じーっ
かなり恨めしそうな目でこっちを見ている。
じーっ
ていうか澪だった。
先輩の背に隠れて、腰のあたりからじーっとこちらを伺って、もとい睨んでいる。
「浩平君、澪ちゃんに何かしたの？ なんか怒ってるよ」
「いや……ちょっと」
じーっ
まずい、日曜挟んでたらきっちり忘れてくれてただろうに。
仏の澪も数時間前の仕打ちぐらいはしっかり根に持っていた。
「浩平、まずは謝っておいた方がいいと思うよ」
たしかにここは長森の言う通りにした方がよさそうだ。
「あー……澪、掃除当番サボって悪かった。次の当番はオレ一人でやるから」
オレは頭を掻き、きまり悪そうな態度で、あさっての方向を見ながらそう弁解した。
じーっ
うっ、駄目か？
「浩平君、掃除サボったんだ。悪人だね」
人の気も知らないでのほほんと横で言ってのける先輩。
「だったら先輩は極悪人だ。初めて会った時は掃除当番サボって屋上にいたよな？」
「え、えっとあれは……」
じーっ
今度は先輩の腰にしがみつきながら先輩の顔を見上げるように睨む澪。
「あのね澪ちゃん、浩平も珍しく反省してるし、許してあげてくれないかな？」
珍しく、は余計だ長森！
が、長森に諭されて、澪は少し考えるようにうつむいた後……
スケッチブックを開いて何か書きだし、そしてオレに見せる。
『えっと』
いや、それは書かなくてもいいだろう……
ていうか、どう考えても紙の無駄だ。
『今度は一緒にやるの』
と、次のページをめくって嬉しそうにオレに見せた。
「ああ、そうだな。そっちの方が早く済む」
うんっ、うんっ。
澪はスケッチブックを閉じ、先輩にぴったりくっつきながら笑顔で頷く。
「覚えてたらな」
えぐっ
「浩平！」
「いや、もちろん冗談だ」
はぅ〜
「はあ……」
疲れたように肩を落とす澪と長森。大げさな。
澪のやつも、自分が『からかってください』オーラ出しまくってることに全く気付いてないから困ったものだ。
「ところで、浩平君の傍に誰かいるのかな？」
うんっ、うんっ。
澪、お前が頷いても先輩には見えてないって。
「あ、やっぱりいるんだ。女の人だよね？」
うんっ、うんっ。
ちょろちょろ。
再び頷くと、澪は何が嬉しいのか先輩のあっちこっちに掴りながらちょろちょろ動き回る。
「あ、瑞佳ちゃんだったんだ」
「こんにちは、川名先輩」
ニッコリ笑う先輩に礼儀正しくお辞儀して挨拶をする長森。
「なんだ、二人とも知り合いだったのか？」
初対面と思って、お互いに紹介しようと思ったが手間が省けて助かった。
「うん、大学の音楽サークルの先輩で同じ高校の先輩だからお世話になってるよ」
「へえ、先輩音楽サークルに入ってたんだ」
「笛とかの楽器は見えなくても使えるからね」
なるほどな……。確かに先輩向けだ。
昔いた、琵琶法師とかいう琵琶の弾き手には盲人が多かったというが、それの現代版みたいなもんだろう。
「浩平、川名先輩って凄いんだよ。腹筋あんまりやらないのに人並み以上の肺活量があるんだよ」
「…………」
「え、何？ 凄くなかった？」
いや、普通の人の十倍なら驚いてやれたが……
「先輩、まだコンパとかに参加してないのか？」
オレがそう言うと先輩はいじけたように下を向く。
「酷いんだよみんな、食べ放題のお店行く時以外は私を連れて行ってくれないんだよ」
いや、その方がサークルメンバーのサイフのためです。
「何の話？」
不思議そうに首をかしげる長森。
「気にするな。そのうちお前も伝説を目にすることになる」
「でんせつ？」
コンパ会場にされる店の方はかわいそうに……。次の日には食べ放題の看板おろすことになるだろうな。
「でも、どうして浩平君と瑞佳ちゃんが一緒にいるのかな？」
ぎゅーっ
先輩に嬉しそうに抱きつく澪。
「あ、恋人さん同士だったんだ」
うんっ、うんっ
なんだ？
さっきから何かおかしいような……
話の流れは不自然じゃないのに何か違和感がある。
ちょろちょろ、くいっ、くいっ
「へえ、二人とも幼なじみなんだ。お似合いだね」
うんっ、うんっ
「澪、お前さっきから先輩の周りをちょろちょろと鬱陶しいぞ」
びくっ
えぐえぐ
「浩平言い過ぎだよ……。だけど、澪ちゃんももう少し落ち着いた方がいいと思うよ」
ぐすっ
…駄目だこりゃ。何故か分からないが、長森の慰めにも関わらず余計に泣きそうになってる。
「えっと、浩平君あんまり澪ちゃんをいじめて泣かしちゃ駄目だよ」
「あ、いや。でも本当に視覚的に鬱陶しいんだ」
「私は見えないから問題ないよ。時々気付かずに蹴飛ばしちゃうけどね」
そんな物騒なこと笑顔で言われても……
先輩に蹴飛ばされたら小柄な澪はボールのように地面に転がることだろう。
ん、待てよ、『見えない』？
そこでようやくさっきからの違和感に気付いた。
そう、会話が自然すぎる。
ていうか、澪と先輩という組み合わせ自体がそもそもおかしい。
「なあ先輩、なんで澪と一緒にいるんだ？」
「仲がいいからだよ」
何の屈託もなく笑顔で答える先輩。横で澪も嬉しそうに頷いている。
そりゃ、仲がよくなけりゃ一緒にはいませんよね。
「じゃなくて、さっきから澪の様子が見えてるのか？」
オレの暴言は聞こえてるとしても、澪が泣きかけてることまでは見てなければ分からないはずだ。
「あ、わたしもさっきから不思議に思ってたよ」
と、横から長森。どうやら長森も自然な会話の流れに違和感を感じていたようだ。
「ひょっとして、先輩少し見えるようになった？」
「ううん、見えないよ。さっきも言ったけど……」
先輩の言葉通り、その目はいつもと同じようにまったく光を宿していない。
「おかしいな、さっきから先輩と澪が自然に意思疎通してるような感じがするんだけど」
ていうか、澪が見えてるものや知ってることが先輩に普通に伝わっている。
「あ、そういうことか。信じられないかもしれないけど、私は澪ちゃんとお話できるよ」
「え……マジ？」
うんっ、うんっ
マジらしい。でもどうやって？
オレ達が澪と会話する時は、澪のスケッチブックや仕草で言いたいことを理解している。
が、それは全部視覚によるものだ。
目の見えない先輩が、口のきけない澪とコミュニケーションを取れるとは到底考えられない。
「エスパー？」
何故か長森とハモってしまった。いや、何故かも何もそう思うしか……
「違うよ。うーん、実際にお話してみたらわかるかな？」
うんっ、うんっ
「じゃあ澪ちゃん、最近学校で浩平君何してた？」
ちょろちょろ、くいっ、くいっ
先輩の問いかけに対して澪はまたも先輩の周りをちょろちょろ忙しく動き回っては、やたらめったら先輩の服を引っ張って回る。
「浩平君、澪ちゃん掃除箱に閉じ込めたの？」
げっ、澪のやつなんてこと伝えてるんだ……
「そのまま、１時間も！？ ヒドイね」
どうやら本当に、しかも正確に伝わってるようだ。
澪はというと……やっぱり忙しそうに動き回っている。
どうやらその動作にヒントがあるように見える。
「そうなんだ、優しいんだね澪ちゃん」
うんっ、うんっ
なんか褒められてるし……。澪のやつ何を言ったんだ？
「あ、浩平君。澪ちゃんもう気にしてないから心配しないでいいよ」
『優しい』ってそういうことか？
「ところで、分かった？」
悪戯っぽく微笑みながら先輩が問いかける。
ううむ、分かるようで分からないような……
「澪ちゃんの足音の位置かな……？ 澪ちゃんあっちこっち歩き回ってたし」
オレが悩んでいると、長森が先に答えた。なかなか筋は通ってると思うがどうだろう？
「５０点」
『△』
先輩の採点と同時に澪もスケッチブックに△の字を書いて掲げる。
息ピッタリだ。
「うう、辛口だよ……」
そして当てが外れて残念そうな顔をする長森。
なんか……目的が、ややずれた気がするのは気のせいか？
「甘いな長森。ズバリ、匂いだ。今日オレに先輩から声をかけてきたのも俺の匂いを感じたからだ」
間違いない。食と嗅覚は極めて関係が深い。『食堂の帝王』と呼ばれた先輩なら異常嗅覚を持っていても不思議はないだろう。
「０点！ それじゃ私がまるで奇人変人みたいだよ」
『×なの！』
どうやら大外れだったらしい。どころか、逆に怒らせてしまった。我ながらいい推理だと思ったんだが……
「浩平、それ以前にその理由、澪ちゃんと何の関係もないよ」
し、しまった。確かに澪と何の関係もない。
「駄目だ、教えてくれよ先輩」
「降参？」
「ああ、降参だ」
先輩、人をじらすの好きだな……
「引っ張る位置だよ」
と言って、先輩は右手で左の手や袖をポイントしてみせる。
「位置？」
「うん、右手ならア行、左手ならハ行、右の袖ならカ行、左の袖ならナ行って感じでね」
ああ、なるほど。それで澪はあっちこっち先輩の周りを歩き回っては服を引っ張っていたのか。
タネを明かしてみると結構原始的かつ単純だった。
「そういうことか」
「でも、それって慣れるまで大変だったんじゃないですか？」
長森の言う通り、単純ではあるが結構根気のいることではある。
「うん、雪ちゃんって私の友達が色々考えてくれたんだけど、最初はなかなか覚えられなくて大変だったよ」
はぅ〜っ
先輩は口元に手を当てて、その頃のことを思い出すようにしみじみと言った。
その横で、澪が『大変だったの』と言わんばかりに体全体で溜息をつく。
「背中に文字を書くとか、そういうのも試したけどこれが一番だったんだ」
「ふーん、でも一体いつくらいから？」
「高校３年生の３学期くらいからかな。あ、浩平君を学校で見かけなくなった時くらいだね」
ズキリ……。心が少し痛む。長森以外の人にとってオレは１年間いなかったことになってるんだよな。
今更、もう終わったこととはいえ、やっぱり覚えていてもらえなかったという事実は堪える。
「浩平君どうしたの？ なんだか辛そうだけど」
我に返ると先輩と澪が心配そうにオレを見つめていた。
「あ、いや……なんでもないんだ」
「ごめんなさい川名先輩。浩平色々あってその頃とても辛かったんです」
そっけないオレの言葉に長森が弁解をしてくれた。
「そうなんだ……。ごめんね浩平君、嫌な事思い出させちゃったみたいで」
えぐえぐ
澪、ここで泣かれるとオレの方が困るんだが。
「あれ？ 先輩なんでオレが今辛そうって分かったんだ？」
澪はさっきから先輩にくっついたままで、オレの表情なんかを先輩に伝えたりしてないはずだ。
不思議に思って訊いてみると、先輩は困ったような顔をして口を開く。
「あ、うん。澪ちゃんとお話しているうちにね、最近は掴む力加減とかで澪ちゃんの気持ちが大体分かるようになったんだ」
「じゃあ、さっきのも？」
「澪ちゃんが少し強く私に掴ってる時は何か不安なことがある時だから、浩平君を見て心配してるんじゃないかなって」
そこで先輩は顔をあげて笑顔で言う。
「何でだか分からないけど、最近はほとんどそれで感じたことが合ってるんだよ。そう、まるで澪ちゃんの見てるものが私に見えるような感じかな」
「ひょっとして、先輩が今日杖を持ってないのって……」
「うん、澪ちゃんといれば、杖なんかなくてもどこでも歩けるからね」
やっぱり
以前杖を持って歩いている先輩に会った時、先輩は家の近辺以外を歩くのは怖いと言っていた。
ちょっと地面が低かったりして杖の先が地に付かないととても不安になるらしい。
僅か１０ｃｍの段差を降りるのも勇気がいるとか。
そんな先輩が杖もなしで街を歩くなんて、よっぽど澪を信用してるんだな……。
「それにね、杖を持ってると澪ちゃんが引っ掛かって転ぶから」
はぅー
オレは話に夢中になってちょろちょろ先輩の周りを周っているうちに、杖のことを忘れて見事に転ぶ澪の姿を思い浮かべる。
うむ、納得。
「周りがはっきりわかるのは澪ちゃんに触られてる時だけなんだよ。不思議だよね」
先輩は照れ隠しするかのように後ろを向いて独り言のように言った。
先輩の腰にくっついた澪までこっちに背中を向けているのは滑稽だったが。
しかし、それは不思議でも何でもない。というより偶然が生んだ思わぬ奇跡だった。
先輩と澪の会話方法を考えた先輩の友達、確か深山先輩とか言ったよな……その人もこんな結果は考えていなかっただろう。
あくまで会話の仲介役がいない時のためだけの代用手段のつもりだったはずだ。
だが、喋ることの出来ない澪はその分オレたちなんかより遥かにジェスチャーに長けている。
だから、ただ相手に触れるという行為に関しても、澪のそれは一般人のそれより多くの意味がこめられているのだろう。
基本的に触れることだけで世界を感じている先輩は、一般人が感じることが出来ない、いや、感じようともしないそんな澪の触れるという行為の機微まで読み取れるのだ。
先輩と澪だからこそ成り立つ特殊なコミュニケーションの形だった。
それはオレたちが相手の顔を見て口で会話する行為に決して引けを取らない物といえる。
いや、お互いに理解しあっているからこそできるという意味ではむしろ言葉による会話より純粋だ。
「澪、先輩といて楽しいか？」
うんっ、うんっ
だろうな……
「どのへんが？」
が、あえて訊いてみる。澪自身がどう思っているのか訊いてみたかったからだ。
ゴソゴソ……
澪はスケッチブックを開いてペンを走らせ始める。
書きながらも先輩にもたれてるのは、先輩が一人で立ってると不安になるのを知ってるからだろう。
『えっとね』
それは書かないでいいって……
『これを使わなくてもいいから嬉しいの』
澪はそう書いて、左手でスケッチブック抱えながら右手でスケッチブックを指差す。
「そうか、よかったな」
うんっ、うんっ
先輩が澪のおかげで世界を感じられるように、澪にとって先輩は触るだけで気持ちのほとんどを理解してもらえる唯一無二の存在なのだろう。
ぱっと見おかしなコンビだが、これほどお似合いのコンビも珍しいだろうな……。
「ところで、川名先輩と澪ちゃんはどこに行くつもりなんですか？」
話が一段落したところで長森が話題を変える。
「本屋さんだよ」
うんっ、うんっ
「川名先輩は点字のお勉強ですよね？」
「うん、やっぱりこれから色々困るからね」
「長森、お前何で知ってるんだ？」
「だから、サークルの先輩だって言ってるじゃない」
そうだった。オレより先輩とはよく世間話をしてるしてるんだよな。
「澪ちゃんは？」
「手話の本だって。なんだか私に影響されちゃったみたいで……」
うんっ、うんっ。
「スケッチブックがあるし、覚えてなくても困らないだろう、そっちは」
そもそも出来たところで、相手がわかってくれなかったら意味がない。
「私もそれよりは普通の勉強をした方がいいと思うんだけどね」
ぶすっ
先輩にまでそう言われた澪は、ふてくされて横を向いてしまった。
「もう、浩平ったら澪ちゃんのやる気挫いてどうするんだよ……川名先輩まで」
長森はいつもオレに向ける呆れ顔を先輩にも向けていた。
なんとなく、普段のサークルでのこの二人の姿が伺えたような気がする。
「ま、覚えて損なことでもないだろうし頑張れ」
オレなら住井との次回ビッグプロジェクトに備えて、危険物取り扱い免許の方でも優先するが……
「冗談だよ。一緒に頑張ろうね澪ちゃん」
うんっ、うんっ
『頑張るの』
よっぽど嬉しかったのか、澪はわざわざスケッチブックに大きく書いて見せた。
「じゃあ、私たちはそろそろ行くけど、瑞佳ちゃんたちはどこに行くのかな？」
「お洋服屋さんです」
「そうなんだ。足止めしちゃったみたいだね」
はぅー
揃って申し訳なさそうな顔をする二人。
「そんなこと……」
つられて長森も申し訳なさそうに口ごもる。まったく、こういうときは律儀すぎるのも考えものだな。
「気にしないでくれ先輩。さっきまでのんびりあっちこっち歩いてたところだし」
苦笑いしながら、なかなか次の言葉を切り出せない長森をフォローしてやった。
「そうなんだ。じゃあまたね」
『またなの』
二人は笑顔で背を向けると、本屋へと向かっていった。
しばらく二人が立ち去るのを眺めていたオレたちだったが、長森が呟くように口を開いた。
「なんだか凄いよねあの二人」
「そうだな……」
だけど、それはあの二人に失礼ってものである。
その『凄い』の上には暗に『障害があるのに』という言葉が付くからだ。
長森もそれはよく分かっているだろう。だからあの二人の前でそれを口には出さなかった。
とは言うものの、オレたちにあんなことが真似できるだろうか……
そう考えると、『凄い』と自然に言わずにはいられない。
いや、待てよ。オレたちにだってあるじゃないか。あの二人に負けないものが。
「甘いな長森。オレたちの方が先輩と澪より遥かに凄い事が出来るじゃないか」
「えっ！？」
何のことか分からずうろたえる長森の目をじっと見据える。
「あっ、分かったよ」
何のことか分かったらしい、長森はとても嬉しそうに頷いた。
『澪のやつ、お前の制服姿に何も言ってなかったな』
『そういえばそうだね』
『よっぽど似合ってるんじゃないか？ 明日から大学にもそれを着ていけ』
『嫌だよ。恥ずかしいもん』
『いや、制服は人気があるぞ。通なやつは３０を過ぎても制服だ』
『どういう通なんだよ……って、浩平お洋服屋さんに行くのが面倒くさくなったんだね？』
『その通りだ』
『はあ……威張って言うことじゃないよ』
そう、オレと瑞佳だけが出来る遥かに凄いこと……、それはアイコンタクトでの会話だった。
オレたちは日常会話くらいなら顔の動きだけでほとんど済ませてしまえる。
子供の時からずっと一緒だからこそできる特技だ。
『分かったよ。じゃあ今からどうするの？』
『今すぐオレの部屋』
『…………』
あ、固まった。どうやら全く意思がずれることなく伝わっているようだ。
「馬鹿っ！ こんなところで何てこと言ってるんだよ！」
「いや、言ってないって」
「はあ……、凄いのは認めるけど、内容が伴ってないところが浩平らしいよ」
もちろん、ただ一緒にいるだけでこんなことができるわけじゃない。
相手が自分の最高のパートナーだからこそはじめて可能になるのだ。
「長森〜、このままじゃオレ朝に長森が来た時にそのまま……」
「わぁっ、今度は本当に言ってるよ！」
パートナー……
それはお互いがかけがえのない人同士であること。
人間にとって最大の幸せはそういうパートナーに出会える事なのだろうな。
先輩と澪を見ていてそう思わずにはいられなかった。
そして、オレの傍には長森がいる。及第点の塊みたいな平凡なやつだが……
でも、オレはそんな長森の傍にいる時が一番幸せと思えるんだよな。
「もうっ、じゃあ明日お洋服選びを手伝ってね」
「おう、任せとけ」
しっかし……
２週間後の土曜日、髭はおろか他の教師まで長森に気付かず授業を進めてたのにはさすがのオレもびっくりしたぞ。
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