――――――幻想（ユメ）を、観た
「起きろ―――――――――――――ッ！！！」
突然、それまで見ていた夢の余韻を木っ端微塵に打ち砕いて、問答無用の叫び声と共に浮遊感が全身を支配した。
浮遊？バカな、コレはむしろ落下という現象――――
ドカッ！
衝撃
体がゴムマリのように床を跳ねる
布団を剥がされたことによって、全身が冷たい空気に包まれる
「いてぇぇぇっ！さみぃぃぃっ！ねみぃぃぃっ！」
「最後のは絶叫するようなことじゃないでしょうが！」
床に積んであったマンガで強打したのだろう、背中がジンジンと痛む。
打ち所が悪かったら背骨にヒビでも入っていたかもしれない、半身付随にする気か。
弁護人に殺意の有無を聞かれたら、首を二三回ほど縦に振りたくなるほど迷いのない動作で無理矢理起こされ、案の定、痛みが強すぎて寒さや眠気など完全に消し飛んでしまった。
くそ、朝のまどろみという至福の時間が一瞬で終了するなんて、なんだかとても損した気分だ
「てめっ、いきなりなにしやがるっ！」
仰向けの状態から跳ね起き（背骨が痛んだが我慢）下手人に向かって怒りを載せた水平チョップを放つ。プロレスなどではレスラーが頑張って受けているが、マトモに入ればかなり効く打撃。
だが、俺はまだ寝ぼけていたようだ。
起き上がりざまの大振りなど、そいつにとってはカモに等しかったのだろう、待っていたかのように手刀を受け流され奴はその勢いを体を屈めて増幅し、有体に言って合わせられ
合気
「兄さんが日直だから起こしたんでしょうがっ！！！」
見事な弧を空中で描き、俺の体は（かなりの衝撃と共に）ベットの上に頭から逆戻りした。
折原みさお、WIN！
夢を観た日
自己紹介をしておこう
俺の名は折原浩平、現在16歳の高校二年生。恋人ナシ、誕生日は3/24
ごく普通の学生だ―――と言うと、知り合いのほとんどから抗議が多数やってくる、何故か
確かに悪戯は好きなほうだが、そこまで言われるほどではないと思う。
家族構成は、叔母と妹が一人ずつ
叔母の由起子さんはとにかく忙しい人だ。
そしてまた、その忙しさに負けないだけの強さとブッ飛び度合いを有している。
誰にも言ったことはないが、俺はあの人にだけには勝てる気がせん。
そしてもう一人の家族、折原みさお
俺の妹、ということになっている
いや、別に義理というわけでもなく血の繋がった実の兄妹なのだが―――兄に対する敬意というものが普段の行動からカケラも感じられやしない。
口調は乱暴だし、何かあると病気療養のために始めた合気柔術（なんとか流）をむやみやたらにかけてくるし…伊達にセガールのファンじゃねえ。
ちなみに年子で、しかも同じ高校に通っていて、トドメにやたらと口うるさいと来ている。
んで、日直だからという理由で朝早くから叩き起こされ、通学路を連行されたりするわけだ。
「それじゃ、お勤めしっかりね」
「俺は囚人か、こらっ！」
「同じよ！あまりにサボりが多いから先生から頼まれてるのよ！掃除当番の時も迎えに行くから逃げんじゃないわよ！」
「なにっ…！？そういう話はまず俺か由起子さんに行くのが筋だろうが！なんで学年も違うお前がお目付け役なんだよ！」
「その由起子さんからの命令よ！私だってやりたかないんだからね！」
校門で罵声を交わしながら別れる。俺は自分の教室に、みさおは護身部の朝練に…それにしても騒々しい兄妹だ。
みさおの姿が校舎の角を曲がっていった瞬間に、このまま帰ってやろうかという考えが浮かんだが、致命的な忘れ物をしたのではあるまいし、また往復５kmを歩くのはあまりに馬鹿馬鹿しいので断念する。
時間なら充分に余ってるんだが…
職員室で担任の教師から鍵と日誌を受け取る。そもそも日直が来る時間帯としては異常なのだが、早朝出勤してきた担任と運良く鉢合わせることができた。
これで担任が来てなかったらと思うとぞっとする。
そうなったらいくらみさおの奴でも、ただじゃおかなかっただろう（まあその場合は下の戸から入ればいいだけの話か）
鍵を開ける、誰もいない教室に入るの初めてだった。
がらんとした寂しさが満ちた場所、空虚と充足という矛盾するはずの状態を、この時間のこの場所は過不足なく体現していた。
心の琴線に触れてくるような、原初の風景。窓から差し込む透明な光は、宙を漂う埃を雪の結晶のように浮かび上がらせている。
ふわふわ、ふわふわと、何かを呼び醒ますように
――――――とてもしあわせだった
「……うお」
はっ、と気がつくと、俺は扉にもたれかかるように倒れそうになっていた。
あの一瞬の間に寝ていたとは、寝不足は思った以上に深刻らしい。教室の隅にあつらえてある安眠所（別名:自分の机）にフラフラと足が向かいそうになるが、脳裏に柳眉を逆立てた妹の顔が浮かんだので日直の仕事を先に済ますことにする。
そういえば日直の仕事ってなんだっけ―――と今更ながらに考えながら、思いついたことをいくつか列挙してみた。黒板を拭く、チョークを交換する、花瓶の水を代える、机の整理…
どうせ時間は有り余っているので、片っ端から実行してみた。無論、俺なりの流儀を踏まえて、だが
それでも授業開始まで一時間ほどで、準備から隠蔽工作まで全て片付いてしまう。
クラスメートの一人でも捕まえて暇潰しでもしようかと思ってたが、どうやらそれも叶わないらしい。
全て、朝練の時間に合わせて俺を叩き起こしてくれた体育会系な妹のせいだ。
…二度寝しようとそう決めて、俺は教室の隅にある自分の机に突っ伏した。
時折聞こえてくる、朝練をしている運動部の掛け声を遠くに聞きながら
あの中にみさおの声も入っているのだろうか…と、ふと思った。
暗転
――――――それがにちじょうであることをぼくは、ときどきわすれてしまうほどだった
ゆさゆさ
（ん…？朝か…）
体が揺さぶられているのに気付いて、自分でも意外なほど素直に眠りから抜ける。
珍しくみさおが起こしに来たのかと思ったが、奴がこんな優しい起こし方をするなど有り得ないことに気付いて、夢現状態ながらも少々混乱した。
とりあえず、体を起こそうとして――――膝が動かないことに気付く
とりあえず、着替えようとして――――制服を着ていることに気付く
…そうだ、机に突っ伏して寝てたんじゃないか、俺は
ようやく顔を上げる。そこには何が嬉しいのか、ニコニコ笑顔の悪友がいた。
「おはよう、折原君」
「どわっ！何故見知らぬ美少女が俺を起こしに来るんだっ！？」
「はは、時々間違われるんだけど僕はれっきとした男の子だよ、一応」
「間違われるのかよ…」
確かにまあ、目の前のコイツは少女漫画に出てくるような端正な顔立ちはしてる。
が、性格的にはなかなかぶっ飛んだところがあり、俺の悪戯も好意的に受け止められるほどだ。
体が弱いらしく欠席も多いが、登校しているときはよくつるむ。まあ、親友と言ってもいい間柄だろう。
ヘンな奴だけど
「まあいい、それじゃたまには一緒に帰るか」
「なんでだい？」
「なんでってお前、俺が寝てて起こしてくれて周囲に誰もいないってことはもう放課後だろ」
「疑問形ですらないんだね、君は…残念ながら現在時刻は午前7:30、これから退屈な一日が始まるのさ」
「…は？」
肩を竦めて溜め息をついて見せる氷上
…そうか、そういえば今日は日直だからといって妹に叩き起こされ、囚人よろしく送り出されたんだっけな
一瞬で状況を忘れていた自分に感心する。
とついでに、教室に来た生徒第二号らしい氷上に戦果を確認しておく。
「そういえば氷上、入ってくるときは平気だったか？」
「入り口に塗り込められていた石鹸なら転ばなかったよ」
「なんだ、ハズレか。それじゃあ…」
「ひっくり返してあった花瓶には触ってないし、制服が挟まった用具入れも開けてないし、シャッフルされてた僕の机は見つけたよ」
「なにぃ…まさか『突然席替え大作戦』まで見破られていたとは！」
ちなみに亜種として、机の中身を総ざらいする『突然卒業大作戦』もある。
「それで今日はまた、なんで朝早くから悪戯の仕込みなんかしてるんだい？」
「いや、たまには日直の仕事をしなきゃならんかと思っただけだ」
妹に強制されたことは黙っておいたが、氷上には最高の冗談を聞いたかのように爆笑されてしまった。
案外見抜かれているのかもしれないが、ここで認めたら負けだ。なんとはなしにグラウンドを眺めてみると、朝練の終わった運動部が次々に引き上げるところだった。そろそろ教室にも人が溢れてくるだろう。
…ん？
部室に戻る連中に逆行して、すでに制服に着替えたみさおが玄関に軽やかに駆け込むのを発見した。
なにを急いでいるのやら
友人と下らない話をしながら時間を潰す、あるいは思いつきの悪戯で一時の無聊を慰める
俺は、そういった何の意味もない日常の過ごし方がなによりも好きだった。
だが、何故だろう…ふと、どうしようもなく寂しくなる時がある。
夕日の赤光に照らされるとき、冴え渡る青空を見上げるとき、転がり込むような眠りに就く刹那に
――――――そしてふと、かんしゃする
「……ん？」
氷上と最近ゲーセンに入った筐体のことを話していると、不意に廊下を駆ける足音が耳に入った。かなり遠いが、一直線に走ってくる。廊下の端にはこの教室しかないのだが
「どうしたんだい？」
「誰か走ってきたぞ。朝っぱらで時間は十分あるのに、随分せっかちな奴だな」
「…それ、みさお君じゃないかい？」
「そーいえば、日直の仕事やってるか確かめに来るって言ってたっけな」
「やっぱり彼女に引っ張り出されたんだね、君は…」
氷上の納得顔は無視して、みさおが来るとどうなるかを考えてみる。
トラップハウスと化した教室と普段の行動を鑑みるに、日直の義務を果たしたと思われるとは考えにくい。
結果として、朝練帰りで体が温まっている妹は護身の域を超えた攻撃衝動に身をゆだねると思われる。
やれやれ、癇癪持ちの妹を持つ兄は大変だ。
「うーむ、せっかく早起きをしてきたのに、一時間目は保健室だな」
「その見積もりには賛成したいんだけど…みさお君、大丈夫かな」
「いや、むしろ俺の心配をしてほしいんだが」
「そうじゃなくて…入り口の床には石鹸が塗りこめてあるんだけど」
「……こけるか？」
たたたたたたたたたっ……ガラッ！
「兄さん、日直の仕事ちゃんとやって…！？」
クラスどころか学年が違う教室に（大声で兄の文句を言いながら）問答無用で飛び込んでくるなどという芸当ができる少女というのは、俺の妹折原みさおしかいまい。
今回ばかりはその豪気さが裏目に出たようで、折原みさおは見事に足を滑らせ、宙を舞っていた
が、奴も伊達で超高校生級などと呼ばれてるわけではなかった。身に染み付いた動作だろう、自分の足が地面についていないと認知した瞬間に受身を取ろうと腕が伸びる。
「―――撥っ！」
床に手が触れる。驚嘆すべきバランス感覚と判断力で、みさおはそこから体勢を立て直してみせた。床に両手をつき、そこを支点に倒立。そこからさらに前方も確認せず、掛け声と共に肘のバネだけで跳躍して石鹸の範囲から抜けてみせる。危なげなく足元から着地、構えて気合
曲芸じみた動作、いきなりの不意打ちであったことを考えれば、我が妹ながら見事の一言に尽きた。
それは氷上も同感だったらしい。示し合わせたわけでもなく、二人同時に拍手をしていた
パチパチパチパチパチ
「武道家たる者の真髄の一端か…いや、いいものを見せてもらったな」
「新体操部顔負けだな。今度、県大会があるらしいから乱入してみたらどうだ？」
「―――――あんたの仕業でしょうが馬鹿兄貴！！！！」
結局俺は、必殺コンボ（投げて踏みつけるという、護身部所属者としてあってはならない攻撃）をしこたま食らい、見積もりオーバーで、二時間目に保健室で目覚めることになった（ちなみに運んでくれたのは氷上）
――――――ありがとう、と
「結局さ、兄さんは無神経なの。だからモテないのよ」
「待て。実の兄の喉元に、平気で踵を叩きつける奴に無神経とは言われたくないぞ」
「アレはほら、兄さんだから」
「俺でも誰でも、下手したら死ぬわ！」
「いや、だって…師匠の得意技だったし」
パタパタと、誤魔化し笑いをしながら手に持った牛乳パックを振るみさお
とりあえずその、狂人に刃物を持たせるような真似をしてくれた師匠とやらに文句を言いたかったが、もっと建設的なことで気を晴らそう。
俺はジト目―――と見せかけて、妹が右手に持つ弁当箱に箸（こんなこともあろうかと常備している割り箸）を抜き打ちで走らせ中身の一部を掻っ攫った。途端にみさおの口から迸る罵声。
うむ、いい気味だ。
ちなみに奪い取ったのは半分に切ったゆで卵。うむ、いい黄身だ。
「何すんのよ兄さんっ！」
「まあまあ、落ち着けよ。ほれ、俺のヤキソバパンなら少し分けてやってもいいぞ」
ばっ！
「………（はぐっ）」
「おわっ！全部食いやがったなてめえ！」
「（むぐむぐ）…ひいはんは、ふってもひひってひっはんへひょうは」
「せめて、そっちの弁当半分寄越せ！」
「…！」
突き出した箸を、牛乳パックを捨ててフリーとなった左手で受けられる。挟むように割り箸に絡められる指、張り詰める緊張感
ぎ、と割り箸に絡められたみさおの人差し指がわずかに動く。気付くと、割り箸がぴたりと吸い付いたように俺の手から離れない―――まさか、互いに座っているこの体勢から？
次の瞬間、俺の体はごろんと前転するようにコンクリートの上を転がっていた。一種の関節投げだ。
ようやくヤキソバパンを咀嚼し終わったみさおが、青空をバックに逆さまで視界に写る。
しみじみと溜め息
「…だからモテないのよ、兄さん」
「最強一年生のお前にだけは言われたかないな…だいたい、お前には関係のない話だろ？」
「あるじゃない、妹なんだから」
「そうだな…お前に投げまくられる姿を見て惚れるなんて酔狂な女子がいるとは到底思えないから、関係はしてるだろうな」
「ああもう、本当に、兄さんの世話をしてくれる酔狂な人はどこかにいないのかな」
「お前だって人のことは言えないだろがっ！」
「私は別に一人でも大丈夫だもの。心配なのは兄さんのほうよ」
俺とみさおは屋上の一角に陣取って優雅に昼食を摂っていた。
季節柄朝はまだ寒いが、日中ともなればそろそろ暖かくなってきている。本当は中庭あたりの方が快適なのだろうが…みさおの希望により普段は屋上で食事を取ることになっていた。周囲の目を気にせず兄に投げ技を食らわすためだろうと思っている。
叔母に似て豪気な性格のくせに、中身は計算高い奴なのだ。
いや、その辺も似たのかもしれないが
さっきから言っているモテるモテないの話は、みさおの口癖のようなものだ。
確かに俺には恋人がいない。
告白したり、されたり、といった色恋沙汰にはこの17年間とんと縁がない。
けど別に、それはそれで構わないと俺は思う。
他の学生のように焦るわけでもなく、運命の相手がいると夢想するでもなく、なんだろう、そんな相手なんか必要ないと思えるのだ。
馬鹿を言って盛り上がることができる友人と、緩やかな日常を提供してくれる場所と、なにより其処にみさおがいてくれるなら
――――――このしあわせなにちじょうに
…その妹からは、大根のように鈍感だとか子供だとか馬鹿だとか言われ続けているんだが、兄の威厳というものはいったいどこに行ったのだろう。
あまつさえ投げられるし
けれど、俺はみさおが強くなること自体は歓迎していた。
妹は守らないければならない、などと殊勝なことを考えるほど俺は自分を過信していない。
いや、俺は実際に『妹一人守れなかった』のだから
…？
なにを考えてるんだろう、俺は
「なにが心配だ。それは兄に向かって言う台詞じゃないぞ」
「そういうのは、一度でも私に勝ってから言ってよ。自分の身ぐらい自分で守れないんじゃ、心配で仕方ないもの」
「…無茶苦茶言うな、最強一年生。お前の場合は明らかに過剰防衛だ」
「だからなんなの、そのあだ名？時々、他の人からもそうやって呼ばれるんだけど」
「うむ、俺が広めた」
「……兄さん」
「あー、待て待て。そうやってすぐに俺の腕を掴んで関節投げを試みるから、そんなあだ名が定着するんだ。そのうち果たし状が来て校舎裏で
決闘しなきゃならなくなるぞ」
「10年前の学園漫画じゃないんだから…」
呆れた顔をしながら、みさおは掴んでいた俺の一の腕から手を離した。
やれやれ、堪忍袋の尾がミクロン単位の妹を持つと苦労する。
「とにかく、兄さんには早くいい人を見つけてもらわないと困るの」
「お前、よくそんなこと言ってるけど、具体的に誰かを紹介したりとか全く無いよな」
「え？」
「だから、そこまで言うのなら『俺を任せれるような相手』を探してみたらどうだ？」
「え、あ、う―――んと……」
その場逃れに適当なことを言うと、意外に盲点だったらしく妹は考え込んでしまった。
脳内で、そんな相手がいるのかどうか必死で検索しているようだ…というか、必死で検索しなきゃ見つからないのか、俺を任せれる相手というのは
なにか、妹の中で俺がどういう人間なのか想像できるような気がする。
まあ、会った女子を片っ端から『運命の相手』などと唆（そそのか）されてもうっとおしいだけだろうが
「………………部長とか」
「やめれ」
「あの人なら、兄さんの悪戯も笑って済ましてくれそうだし」
「夫婦喧嘩で死ぬわっ！」
なにしろ、護身部に入った理由というのが『こちらから攻撃すると相手を殺しそうになってしまうので』などという手加減が利かない人だ。
性格的にも肉体的にも大雑把な人で、骨折程度なら笑って済ますらしい
といっても凶暴というわけでもなく、豪快な笑いの似合うナイスな人である。
ちなみに、みさおの尊敬する人ベストファイブに入っている。
「う―――ん…でも、この近辺で私より強い人っていうと…」
「待て、なんで物理的な強さが大前提に入ってるんだよ！」
「えっ？」
きょとん、とした表情で顔を上げるみさお
その仕草は贔屓目抜きにしても確かに可愛らしいもので、妹を紹介してくれという話がよく来るのも頷けた。まあ、俺の普段受けている暴行を解説してやれば、ほとんどの奴が顔を青ざめて前言撤回するのだが
「なにか、お前がいつも俺をどういうふうに扱ってるのか如実に現れてるな」
「や、やだなあ…兄さんを預かる人は、私よりも強くないと…って、ただそれだけよ」
「お前の頭の中では、小姑と嫁の関係というのが、兄と恋人の関係と同じなのか」
兄貴というものは妹に恋人がいると発覚したら、その恋人と殴り合わなければならないらしい。
となると、みさおの選ぶ恋人というのも自分より強い相手だろうから…瞬殺されそうだな、俺
死因が『妹の恋人に殴り殺されて』などというのは…三面記事みたいで嫌だ。
「そうか、お前にも恋人ができるといいなあ」
「……兄貴、その同情に満ちた目は何？」
「なに、自分より強い相手にしか満足できないなら、ルックス的には望むべくも無いだろうなあ、と」
「…ほいさ」
「ごばっ！」
人差し指で喉を突かれて、俺は屋上のアスファルトの上を再びのたうちまわる羽目になった。
これもまた師匠の得意技だったらしいが…なんで合気柔術がそんなに殺人的なんだろう。
なんとか正常な呼吸を取り戻せたのは、15分後だった。昼休みなど、いくらも残っていない。
俺とみさおが二人きりで食事をとると、大抵こういうことになる。かたや負けず嫌いの皮肉屋、かたや癇癪持ちの格闘家、なんともおかしな兄妹だ。
それでも、俺たちは飽きることなく今日も屋上に来ていた。部活のせいで朝夕に会うことは少ないから、こうやってコミュニケーションをとることは極めて大事だと、少なくとも俺はそう思っていた。
みさおも同じだろう。
そして、そう思っている限り、二人はずっと仲のいい兄妹でいられるんだと、そう思う
――――――みずたまりをかけぬけ、そのはねたどろがずぼんのすそにつくことだって、それはしあわせのかけらだった
ギリギリで教室に戻ったつもりだったが、反則なことに既に教師が来ていて教卓に立っていた。
が、一時間目に黒板に記された文字を消そうと四苦八苦（チョークを濡らしておいたため）していたのでなんとか気付かれずに自分の机にたどり着くことができた。ビバ、最後列、そして俺の悪戯
一息ついてから、自分の机の上に一枚のプリントが置いてあるのに気付く。漂白された繊維の固まりの上層にインクで複雑な文字が記されている。一番上の文字は『二者面談』と読むことが出来た。
「ふたものつらたん、意味不明だな」
「にしゃめんだん、教師と親が、生徒および子供の進路について話し合うことだよ」
前の席の氷上からツッコミ。思わず口に出しただけだというのに、相変わらずマメな奴だ。
ついでに、朝のHRでの配布物だと、聞きもしないのに教えてくれる。いや、預かってくれていたのは氷上だろうから感謝せねばいけないだろう。
朝のHRは、みさおの暴行によって欠席している。日直の仕事をしておいたのに遅刻扱いとはこれいかに
二者面談か…
春休みに入ってから、時間を見て保護者に学校に来てもらう、という形のようだ。リストを見ると、俺の番は春休みに入ってすぐあたりの平日だった。出席番号順だから当たり前か
だが、俺たちの保護者といえば由起子さんだ。あそこまで忙しい人が平日に時間を空けれるとは考えにくい。なにしろ休日出勤が当たり前の人なのだから
教師に申請すれば時間の変更はできるらしいが、結局どの日でも無理になるだろう。
諦めでもない、虚しさでもない、ただそのことを客観的に理解し、俺はそのプリントを畳んでポケットの中に放り込んでおいた。
けれど何故だろう、一抹の寂しさが胸をよぎる。
――――――えいえんにつづくとおもっていた
何事も無く午後の授業が終わり、髭のHRも一瞬で終了する。
普通だったら掃除の時間なのだが、そんなものをする気などさらさらない。
薄っぺらな鞄を手にして、用具入れの方向から発生したガラガラという騒音及び悲鳴を尻目に教室を後にする。朝の仕掛けが、結局放課後まで手付かずだったのがなんとなく愉快だった。花瓶の方の成果は、教室掃除の氷上に後で教えてもらうことしよう、と思う。
愉快な気分のままで教室を出た瞬間、そこで待ち構えていた女子生徒に右手をつかまれた。
言うまでもなくみさおの奴だ。
「なんだ、俺のことを待ってるなんて、そんなに一緒に帰りたかったのか。まったく、手を繋ぎたいなんて何時までたっても甘えん坊だなあ」
「馬鹿言ってないで、さっさと行くわよ」
懐柔策は失敗し、問答無用で廊下を引っ張られる。いつのまにか関節を極められているようで、立ち止まろうとしただけで激痛が走るのは如何ともしがたい。
傍から見ると単に引っ張っているだけだろうが、実は非常に高度な技が使用されてたりする。これもまた日常茶飯事だ。
「おい、何処に連れてく気だっ！というか小指を捻るのはやめろ！」
「だって、こうやって連行しないと逃げちゃうじゃない。それに私言ったよね？掃除当番の時も迎えに来るって」
「だから何処に行くんだ！俺の受け持ちは、確か廊下だったはずだぞ」
「兄さんがあまりにサボるから、懲罰房送りになったのよ」
「懲罰…ってまさか、準備室かっ！？」
準備室、正式名称は社会科準備室。その名の通り、社会科の授業に使う教材を収めておく部屋だ。
だが、そこは準備室というにはあまりに汚かった。散らかり、雑然とし、狭すぎた。そこはまさに混沌だった―――と、体験談として聞いたことがある。そいつは三日ほど光を失ったとか
誰もが諦めるようなその散らかりようから、その準備室はいつからか懲罰房のように使われてきたらしい。『反省文か懲罰房か』というのは教師必殺の脅し文句
そういう場所に、俺とみさおは向かっているわけだ。
逃げよう、と思う
だが、みさおが離してはくれなかった。
「離せっ！俺はまだ死にたくないんだ！」
「この期に及んで逃げようたってそうは行かないわよ！」
「ま、待て、話し合おう。だいたいお前には関係ないことだろ？見逃してくれれば…一週間マックで奢り放題というのはどうだ？」
己の財布の中身、友人から借金できそうな額を見積もってのギリギリの提案。
借金を前提にしてるあたり、かなり捨て身だったが――――可愛い妹は、後味の悪い仕事をする組織のエージェントのように、ただ目を閉じて首を振るだけだった。
「何故だっ！？」
「――――私も、準備室の掃除を命令されてるもの」
「…なに？」
「一昨日たまたま、カツアゲされてる中学生を見かけて、不良を三人ノしたんだけど」
「それで相手の学校から苦情が来たのか」
「ううん、不良自体はどうしようもない奴らだから別によかったんだけど…投げ飛ばした弾みで、文房具店の窓ガラスを割っちゃって」
「お前、相変わらず後先考えずに突っ込むよな…」
「昨日になって、弁償か、反省文30枚か、準備室か、って先生から聞かれたんで」
「待て、弁償は無理としても、なんでそこで反省文書かなかったんだ？懲罰房よりはよほどマシだろうが」
「だって私は、反省文に30枚も書くような悪いことなんかやってないもの」
「胸を張って言うな」
ぼんやりと思い出したことがある。懲罰房は決して一人で使われることはない。
逃亡を防ぎ、互いに監視させるために、必ず二人以上で放り込まれるらしい。
そして、認めたくは無いが、俺の相棒兼監視役は、この最強一年生（別名：妹）のようだ。
絶対に逃げれん
むしろ俺は、こいつが『じゃ、部活の時間だから』などとほざきつつ出ていくのを止めれそうに無いという事実に絶望していた。
「さすがに休んでるけど、放課後は…」
「お、格闘バカのお前にしては珍しいな」
「誰が格闘バカよ…！なにしろ一週間で整理が終わらなかったら、今度は屋上を綺麗にするまで掃除しなきゃいけないんだもの」
「うげぇ…あのだだっ広い場所を、毎日掃除するのかよ」
あの場所の年季の入った汚れがそう簡単に落ちるわけが無い。春休みは潰れるだろう。
それだけは御免こうむりたかった。
…そんな馬鹿な会話をしてるうちに、件の準備室にたどり着いてしまう。
あたりに生徒が通りがかる気配もない、見捨てられた区域のようだった。
社会科準備室
その立て付けの悪い扉を開けて、まず最初にしたことは体の向きを変えることだった。
「帰ろう」
「逃げるな！」
首筋に腕を引っ掛けられ、刈り倒された。
「みさお…ダメだ、此処は。人の入ってはいけない領域なんだ。一緒に帰って一緒に風呂に入って一緒に寝よう」
「誰が今更一緒に風呂に入るか！」
手刀、立てようとした膝を払われて再び転倒する。
つくづく思ってたんだが、コイツ本当は空手家じゃないか？打撃が多すぎる
「無理だこんなの！散らかってるどころか、埋まってるじゃないか！土砂崩れが発生してるぞ！」
「だからって、逃げてもしょうがないでしょ！ほら、さっさと入る！」
「引きずりながら、んなこと言ってるんじゃねえ！」
――――――ずっとぼくは、しあわせのかけらをあつめていられるのだとおもっていた
いくら足掻こうと、結局妹に素手で勝てるわけもなく連行される。
準備室の中は薄暗く、天井に設置されている蛍光灯はとっくに寿命が切れていた。
開け放たれた扉から差し込む光は部屋の半分も照らせず、俺たちはまず掃除をする前に懐中電灯を発掘することになった。
ようやく見つけ出した大型懐中電灯で部屋を照らしてみると、恐るべき実態が次々に明らかとなる。
まず、床が木造である。
他の教室はリノウムになっているのに、何故かこの部屋だけが木の床だった。この校舎は20年前に改装したらしい。もしかしたらその時から…
いや、まさか
次に、社会科とは全く関係なさそうなものが無造作に転がっている。
巨大な木造定規、埃塗れの分厚い本、まだいい。壊れた一輪車、トランペット、おいおい。極めつけは理科室の人体模型、それが懐中電灯で照らされたとき、俺とみさおは二重奏で悲鳴をあげてしまった。
とにかくもう、準備室なんて生易しいものじゃない。封印されるべき倉庫だ、ここは
「帰ろう」
「爽やかに言ってもダメ！」
それでも渋々と片づけを始めた。
まずは、教材を全て外に出すことにする。
ギター、トランペット、人体模型、無線機、タイヤ、本、本、本、丸められた地図、地図、一斗缶、防災バケツ、空っぽの消火器、100式突撃銃（模型）…
もう何が出てきても驚かず、重いものから軽いものまで、俺たちはひたすらに力を合わせて持ち出し続ける。いつしか、感情が麻痺しつつあった。それはみさおも同様だろう。
「やあ、順調かい？」
「氷上…」
友人が来た。事情は担任から聞いているらしい。
手伝いを依頼したら引き受けてくれた。持つべきものは友情だと思う。
「頼むっ！手伝ってくれっ！」
「いいよ。その代わり、この前の麻雀の負け分はチャラということで」
「それじゃ氷上さん、この部分を持ってください」
「…なんだい、これは」
「多分、戦闘機のプロペラだ。二人じゃどう頑張っても持ち上がらないんで困ってたんだ」
「噂に恥じないものがしまわれてるんだね、この部屋は…」
「それじゃ、いいですか、持ち上げますよ。いっせーのーで！」
ベキャッ！
「言い忘れてたが、ここの床は木造の上に一部腐ってるようだから気をつけたほうがいいぞ」
「…そういうことは事前に言ってほしかったよ、折原君」
「どうなってる？」
「痛いね…右足が床板を踏み抜いてる…おまけに足首から血が流れてる、怪我をしたみたいだ」
「…兄さん」
「ああ、せっかく持ち上がったんだ、このまま引きずってくか」
「君たち、こういう時は息が合っているというか似てるね…というか、僕の心配は？」
「心配するな、後で先生に言っておこう。それが元でココが閉鎖されたら、毎日お見舞いに行ってやってもいいぞ」
「兄さん、早く引きずらないと氷上さんの体力が」
「ああ、そうだったな。それじゃ氷上、倒れてもいいがその場合はプロペラがお前を押し潰すから、できれば支えておいた方がいいと思うぞ、30秒ほど」
「…………鬼兄妹」
親友の協力のおかげで、なんとか大物を運び出すことが出来た。感謝の念に絶えない。
もっとも肝心の親友は、すぐさま保健室送りになってしまったが
外道だろうが良心が多少痛もうが、そうなるだけの価値があることを双方充分に理解していた。
とても辛かった…
それが絶望であることを俺は、ときどき忘れてしまいそうになった
そして、ふと涙する
負けねえぞ、と
この辛い闘いに
準備室と格闘することは、山を素手で崩していくようなものだった
永遠に終わらないと思っていた
ずっと俺達は、表層部分を往復してなければならないと思っていた
その先にある領域にたどり着くことはできないと思っていた
でも、終わるのは一瞬だった
それまでの苦労が嘘だったかのように、突き当たりの壁は現れた
とうとう暴かれた、準備室の最奥部
そこにはっ！
ゴロゴロと大根のように、先っぽが緩やかにとがった金属の円筒形が転がっていた
「………」
「………」
押し黙る俺とみさお
これを錆びた水筒と言える奴の目は節穴だろう。
流石に二人とも、それがどういうものかは知っていた。
模型と思おうにも、溢れ出る禍々しさ、存在感はその判断を許さなかった。
砲弾、あるいは不発弾と呼ばれるそれ
帰ることにした
――――――ずっとぼくはみずたまりではねまわっていられるとおもってた
片付けを黙々とこなしてるうちに、いつしか外は夕方となっていたらしい。
俺とみさおは押し黙って、夕日に照らされた通学路を歩いていた。
「兄さん、あの準備室…」
「言うなっ！」
ずっと以前のニュースで、戦時中の不発弾が爆発して重軽傷者が出たと流していたのを思い出した。
果たして、アレの存在を職員室に伝えるべきか…片付けの言い逃れとして処理されて終わりだろう
素直に誘爆させたほうが良いような気すらする。
とりあえず、あんな場所に出入りするのは絶対嫌だ。
「じゃなくて…準備室にプリントが落ちてたんだけど、これ兄さんの？」
「ん……あ、そうだな」
みさおが持っていたのは、四つ折にされた『二者面談』のプリントだった。
どうやら教材を持ち出すうちにポケットから落ちたらしい。見せる当てが無いながらも受け取って、再びポケットに入れておく。
「…やっぱり、由起子さんは無理だよね」
「まあ、由起子さんが忙しいのは俺たちを食わすためでもあるし、恨むのはお門違いだよ」
なにか寂しそうに呟くみさおを励ますように、わざと明るい声を出したが、どうやら効果は無かったようだ。
変わらず、俺の斜め半歩後ろを俯くように歩いている。
珍しいな…と思う。いつもは、俺の前を跳ねるようにして歩くのに
普段の、勝気で、元気で、強固なみさおではなく
寂しそうな、哀しそうな、飼い主を失ってしまって一人鳴く猫のような
みさおの泣き顔なんか見たくない、強く強くそう思う
俺たちに、両親と呼ばれる存在はいない。
昔は確実にいた。正確に言うと、今も片方はどこかで生きているのかもしれない。だが俺は、あんな存在をもう二度と母とは呼びたくない。
父親は俺たちが幼い頃に死んでいる。もう顔も覚えていない。
母親は、みさおの病状が悪化していくのに耐えきれなくて―――みさおを信じることができなくて、散々周囲に迷惑をかけてから姿を消した。
全てが終わった後に、ただ俺とみさおだけが残され、母方の叔母である由起子さんに引き取られたのだ。
…それでも、俺は
兄として、父として、みさおに愛情を注いでいけるのなら、ただそれだけで生きていけると思った。
みさおがいるのなら、ほかにはなにもいらない
――――――でも
「…心配すんな」
僅かに足を止め、す、と妹の頭頂部に手を置く
あ、みさおが僅かに声を漏らした
妹の頭を撫でるなんて、本当に久しぶりだった。
昔はいつも泣かせてしまっていたが、その度に母さんに怒られ、謝り、そして頭を撫でる。それでいつもみさおは許してくれるのだ。
今はもうみさおの方が強いので、水平チョップごっこで遊んでも泣くことはない（反撃を食らって俺が痛いだけだ）
「心配って…なによ、今は私の方が強いんだから」
「ははは、そうだな。みさおは強いもんな」
「子供扱いしないでよ。もう、腹立つなあ」
口を尖らせながらも、みさおは嫌そうな顔はしていなかった。
俺は良い兄で居続けていたつもりだし、みさおもそう思ってくれていたはずだから
…？
なんで『過去形』で考えてるんだ、俺は？
「ねえ、兄さん。私がなんで強くなろうと思ったのか、わかる？」
「ん…そりゃ、アレだろ。プロレスごっこで泣かされるのが嫌だった、からか？」
「違うよ、そんな理由で強くなるなんて無理だもの。特に私の場合は」
「それじゃあ…」
「気付いてるの？兄さんって、時々すごく寂しそうな目をするんだよね。なんでだろ、すごく楽しそうに笑うのに、でも心の底ではいつも何かに怯えてるの」
みさおが、ぎゅ、と自由になっている方の俺の腕を掴んだ。
下を向き、唇を噛んで
いつものように関節投げをかけるためではなく、離れていくものを必死で繋ぎとめるように
思い切り、青痣が残るほどに、強く、強く、強く
「あはは…私って、やっぱり子供だよね。守りたい、が即、強くなりたい、だもの」
「……馬鹿だな、お前は」
「お兄ちゃんが悪いんだよ。そんな目をされたら、他のことなんてどうでもよくなっちゃうもの」
「………」
「お兄ちゃんのことを守りたい、お兄ちゃんを脅かす全てのものから。それができるなら、他には何も要らない」
みさおは普段、俺のことを『兄さん』と呼ぶ
怒髪天に来たときは『兄貴』と呼ぶ。その場合は大抵、頭に『馬鹿』がつく
けれど『お兄ちゃん』なんて呼び方は、ここ数年聞いたことがなかった。みさおが武道をやり始めてすぐに聞かなくなった。
…ああ、また俺は、みさおを泣かしてしまったんだなあ、とぼんやり思う。
「心配するな、俺はどこにもいかない」
「ほんとう？」
「ああ、お前の二者面談の時にはちゃんと出てやるからな。それまで旅に出るわけにはいかないだろう」
「…お兄ちゃんって、相変わらず馬鹿だよね」
おにいちゃんて、あいかわらずばかだよね
「なんだと、こら！」
「や、やめっ、やめてよ兄さん！離してっ！イタタタタッ！」
ベアハッグごっこで遊んでやる。相手の体を持ち上げてしまえば、噛みつき以外ではまず反撃されない、最近発見した技だ。
と思ってたら耳に噛みつかれた。なんて妹だ、ったく
相手は相手で真赤な顔をしながら、年頃の娘に何てことするのよ、などとブツブツ呟いている。
さっき自分で子供と言ったくせに、もう前言撤回したのか。まだまだ根性が足りないな。
「だいたい、それに出るのは保護者なんでしょ？なんて言って先生に会うのよ」
「俺がみさおの保護者だって、堂々と言えばいいじゃないか」
「そんなの無理に決まってるって」
「いや、相手が髭なら可能かもしれないな。保護者が白熊でも気付かないんじゃないか？」
俺達は、笑いながら歩いていた。
最初は冗談のつもりだった言葉にだんだんと俺は本気になり、みさおも最初は文句を言いながらだんだんと乗り気になっていく。
なにしろ兄妹だ、行動のパターンはよく似ている。
童心に帰って、俺達は笑いながら歩いていた。
夕日に照らされた赤い道を、寺の鐘こそ聞こえないものの、帰路を緩やかに歩いていく。
「だいたい兄さん、私が小学生の時も同じこと言ってなかった？」
「おう、小学校のときの授業参観だな。俺はしっかり覚えてるってのにお前は忘れてたのか、薄情な奴…」
「あのねえ…そこまで言うんなら、どうなったかは憶えてるでしょ？」
「ああ、俺は――――――――
――――――お・れ・は？
――――――いや、ぼくは？
――――――どう、なったんだっけ？
あきかんをあしにしこんでいえにあったすーつをきてまじっくでひげをかいてぼくはみさおのびょうしつのどあをたたいたけどかんのおとのほうがおおきかったのもきにせずみさおはちいさなこえでぼくをまねきいれてじゅぎょうさんかんをはじめたぼくはなにをするでもなくかべにたってみさおをみていたぼくはみさおがくるしそうにせきをするのをみてかけよろうとしたけれどみさおはおとうさんはうしろでみているだけだといってぼくはなにをするでもなくかべにたってみさおをみていたぼくはくるしげにいきをするみさおをただなにをするでもなくいちばんとおいばしょでなにをするでもなくただこっけいなかっこうでみているしかなかったぼくはなんてむりょくなんだろうとおもったけどみさおがつらいとくちにするまではみていようとおもっていたぼくはくるしそうなみさおをなにをするでもなくただみていたただみていたただみていてとうとうみさおがくるしいといったしゅんかんにぼくはころびそうになりながらもかけよったぼくはてをにぎってせなかをさすることしかできなくてそんなぼくにたいしてみさおはさいごに
夕日に横顔を照らされて緩々と帰り道を歩くみさおが、ふと、俺の手をぎゅっと握って、俺に体を預けるように肩を寄せて、硬直してしまった俺を見上げて、自分の全てを預けきった蕩けるような笑顔で
ありがとう、と
――――――こわれるのはいっしゅんだった
暗転
目覚めるとそこはいつもの通り、自分の部屋だった
見慣れない部屋、薄暗い部屋、与えられたばかりの部屋
泣き疲れて眠ってしまったのを、叔母さんがベットに運んでくれたのだろう
いつのまにか、体には毛布がかけられていた
そこで、ようやく全てを理解する
かなしいユメを、みていたということに
ぼくは、みさおがいるのなら、他には何もいらないと思っていた
父がいなくても、母さんがいなくても、みさおがいるのならそれだけで、生きていけると思った
そんな幻想を見て
それでも、全ては夢だった
ぼくがいて、みさおがいて、共に成長し、ありきたりな日常を過ごしていて
充分にありえた筈の、幸せな夢で、だからこそ、目が醒めた今では途方もなく、悲しかった
みさおはいない、どこにもいない
死んでしまったのだから
空虚だった
途方も無く、空虚だった
―――――えいえんなんて、なかったんだ
…また、泣いた
ぼくはみさおと過ごした町を離れ、叔母さんのところへとあずけられていた
４月の陽光に映え、緑がきれいな町だった
でも、それでも、ぼくの涙は乾くことはなかった
どれだけ涙というものは流し続けられるのだろう
不思議だった
ぼくは毎日を泣いて過ごしていた
体中の水分を全て絞り尽くして、それでも涙は底を知らないように溢れ出た
全てが哀しみに向かっていくこの世界
全てを失ってしまったこの世界
全てが壊れていくこの世界
――――――どうしてぼくは、こんなどうしようもない世界にいるのだろう
「泣いてるの…？」
その日は、どこかの空き地で座り込んでいた
そこでもぼくは泣いていた。しゃくりあげるでもなく、喚くでもなく、ただ涙を流して
ぼくは口を開いたことがなかった。開いたとしても、鳴咽を漏らしただけだ
もう空っぽの存在、亡骸だった
けれど―――いつからだろう、隣には一人の女の子がいた
泣き続けるぼくの横で、飽きることもなく、同じ風景を眺めていた
いったい、その子が何を待っているのか、ぼくにはわからなかった
「キミが泣きやむの、いっしょにあそびたいから」
ぼくは泣きやまない
ずっと泣き続けて、生きるんだ
そしてこのまま泣き続けて、ぼくは死んでいくのだと信じていた
「どうして…？」
悲しいことがあったんだ
ずっと続くと思ってたんだ、楽しい日々が
でも、永遠なんてなかったんだ
ぼそぼそと、呟く
ぼくは、抱いていては一瞬たりとも生きていけない認識を抱いていた
死の幻影
もうぼくは、夢で見たような幸せな日常を送るなんて不可能だと知っていた
これから先、どれだけ時間があろうと、ぼくはずっと泣いていくことしかできないのだと、知っていた
ずっと、みさおと一緒にいられると思っていた
ずっと、みさおはぼくのことをお兄ちゃんと呼んで
そしてずっと一緒に遊んでいてくれると思っていた
けれど壊れるのは一瞬だった
もうみさおの笑顔を見て、幸せな気持ちになれることなんてなくなってしまったんだ
この地面も、空も、町も、命も、目に映る全てのものは、いっしゅんで壊れてしまうものだから
なにをしても無駄だということを
そんな恐ろしいことを、ぼくは知ってしまっていた
おりはらこうへいという存在もまた壊れて、涙を流すだけの機械になってしまったのだと
――――――けれど
「えいえんはあるよ」
彼女は言った
子供の言葉遊びだったにせよ
地獄に身をおいたことがなかったからにせよ
いっそ憎しみさえ憶えるほど簡単に、無自覚に
みさおだけがいればいいと思って悲しいユメまで観たぼくを、否定した
「ここにあるよ」
悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい
ずっと、みさおと一緒にいた場所にいたい
ぼくは、そんな幸せだった時にずっといたい
…たった、それだけ
そんな、誰よりもぼく自身が在り得ないと知っている望みを
あっさりと、なんでもないことのように
彼女は確かに、保証した
だから
「ずっと、わたしがいっしょにいてあげるよ、これからは」
闇の中、暖かい光を見つけた盲人のように、ぼくは手を、伸ばして
そこにある、救いを
やさしいあくまとめいやくをむすんだ
永遠の盟約だ
――――――そしてまた、罪深いぼくは
――――――ひとときの、幸せな日常（ユメ）を、観る
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