たいせつなひと
学校が面白いと思った事は、ついぞ無かった。
授業は退屈だし、クラスの男子は馬鹿な事ばっかりしてて、全然話にならない。
休み時間のおしゃべりが、学校におけるあたしの唯一の楽しみだった。
「ねぇ、知ってる？」
その日も、給食を突つきながら、あたしと仲良しの友達とおしゃべりをしていた。
親友の千代子が、パンを片手にあたしの顔を覗き込んで来る。
「ほら、始業式始まってすぐの時、小さな子がいたじゃない」
「いたっけ？」
正直言って記憶に無い。
「なんかほけーっとした子なんだけど、虐められてさ、ずっと登校拒否してたらしいのよ」
「ふーん」
そう言えば、そんな事があったような気がする。
気にもとめなかったから、全然覚えて無かったけれど。
「一時期ＰＴＡとか、職員会議でも問題になってたらしいわよ。何か知恵遅れなんだって」
「そういう子ってさぁ、普通、障害者学校とかに行かない？」
興味を惹かれたのか、加奈まで話に加わってきた。
「それが、親が何としても普通の学校に行かせたいって言ってさ。でも結局無理だったらしいのよ」
「なにそれ、ばっかみたい」
二人の話を聞くとはなしに聞きながら、あたしはパンを咀嚼する。
「ねぇ美亜、あんたどう思う？ そういう子って、やっぱ障害者学校に行かせてあげた方がいいわよね」
「そうね」
あたしは面倒臭そうに同意して、窓の外に目をやった。
「でもその子、虐められて学校に来なくなったんでしょ？」
「そうそう。クラスの真中で、すっごい大声で泣いてさぁ……」
「あたしだったら」
加奈の言葉を遮って、あたしは溜息混じりに言った。
「虐めなんかされたらぶっ飛ばしてやるけどな」
「あはは、そうよねー」
何でも無い日常。
何でも無い会話。
けれど、どこかその話は小骨のように、私の中に引っ掛かって。
「その子ってどんな名前？」
臆病者だ。
学校なんて詰まらなくて、嫌で当たり前だ。
その嫌なことから逃げ出したその子は、単なる臆病者じゃないか。
「えっとね……確か…」
椎名繭って名前だったと思うよ。
「はぅー……」
特大の溜息をついたあたしは、憂鬱げに玄関を振りかえった。
それを見咎めたお母さんが、眉を吊り上げる。
「何ですか、始業式の日に溜息なんかついて。しゃきっとしなさい」
「はいはい」
形だけ背筋を伸ばして、あたしは鞄を背負い直した。
今日から中学３年だ。
付け加えるなら、高校受験の始まりでもある。
「行ってきまーす」
おざなりな返事をして、あたしは家に背を向けた。
あたしの通う中学校は、家から歩いて１０分ぐらいの所にある。
家が遠い子は羨ましがるけど、近いからって必ずしも遅刻せずにすむという訳じゃない。
むしろ、その安心感が命取りで、実際何度寝坊して遅刻しそうになったかわかったもんじゃない。
幸いにも、始業式の日から遅刻、なんていう醜態だけは晒さずにすみそうだったけど。
あたしが校門に辿り付いた時、すでに沢山の人が来ていた。
桜の花弁がちらほらと舞う中で、みんな形だけは楽しそうに会話している。
あたしは親友の千代子や加奈の姿を探して、頭を巡らせた。
その時だった。
体育館の近くの桜の樹の根元に、随分小柄な子が立っている。
あたしが見ている事に気付いたのか、その子も視線をこちらに向けた。
どきり、と心臓が脈打った。
純粋な……まるで動物の目を覗き込んだような、曇りの無い瞳。
何となく引っ掛かりを覚えて、その子に話し掛けようと思った瞬間、その子のお母さんらしき人が駈け寄ってくる。
その顔を見て、ちょっと息を飲んだ。
まだ凄く若くて……しかも美人だ。
よく見れば、その小柄な子もかなり可愛い顔をしてる。
けれど、親子にしてはあんまり似てるようには思えなかった。
「美ーー亜っ♪」
「うひゃっ！」
いきなりぽんっ、と肩を叩かれて、あたしは反射的に跳びあがる。
「ち、千代子！ おどかさないでよ！」
「ごめんごめん。それより何してたの？」
好奇心旺盛に訊いてくる千代子に、あたしはそれが…とその親子の方に目を向けた。
「……あれ？」
「誰もいないじゃない」
さっきまでいたはずの親子は、影も形も見えなかった。
「おっかしいなぁ……」
「幽霊でも見たんじゃないの？」
「止めてよ」
「……って、もうこんな時間じゃん！ 早くしないと遅刻するって」
校舎の時計を見上げた千代子が、慌てたように走り出した。
仕方なく、あたしも彼女の後を追う。
名残惜しげに振りかえったあたしの前で、舞いあがった桜の花びらが、まるでカーテンのように視界をさえぎった。
校長の挨拶は相変わらず退屈で、始業式の感動もなにもあったもんじゃなかった。
ようやく長い時間が終りを告げ、あたし達はめいめいに割り振られた教室へと移動する。
新しい教室とはいっても、２年の時と何かが違う訳じゃない。
単に、階段を昇るのが大変で、窓際からの見晴らしがちょっといい、ってだけだ。
「はーい、みなさん席に着いてください。席順はこれから割り当てますから、適当に座って構わないですよ」
先生が入って来て、みんな言われた通りにてんでに席に着く。
その時、あたしははっと息を飲んだ。
先生の後ろからおずおずと教室に入って来たのは、あの桜の樹の下にいた女の子だったからだ。
その子はビクビクと教室の様子を窺い、先生の横でじっとしている。
「この子は椎名繭さんです。今まで事情があって、学校に来てなかったのですが、これからまた通う事になりました。
みなさん、仲良くして上げてください」
ざわめきが、まるで小波のように教室を伝わった。
（ねぇ美亜、あの子よ。去年登校拒否してた子）
私は黙ったまま、隣に座っていた千代子に頷き返す。
「それでは椎名さん、取り合えず空いている一番前の席に座って下さい」
「……うん」
彼女は言われるままに、おずおずと空いていた一番前の席に座った。
「それではまず最初に、席順を決めます。作っておいたくじがあるので、皆さんこれを引いてください」
用意のいい先生だ、と思いながら、あたし達は立ちあがる。
先生が黒板にチョークでマスを描き、その中に番号を振り分ける。
手にした紙を広げてみると、そこには「５」と書いてあった。
やった、窓際だ。
「ねぇ、千代子は何番？ あたし５番」
「えー！ 私２３番だよ。席離れちゃうね」
わいわいと騒ぎながら、各自自分がくじで引いた席に座っていく。
千代子も名残惜しげな顔をしながら、自分の席に走っていった。
「さて、あたしの席は…」
黒板に５番と書かれた場所に目をやったあたしは、ぎくりと身を強張らせる。
あたしのすぐ隣が、あの椎名繭という子だった。
繭は所在なげな様子で、じっと座っている。
あたしはなるべく目を合わせない様に、そろそろと隣の席に腰を降ろした。
「みゅー……」
そんな呟きが聞こえてくる。
彼女の事が気になって、先生の話をよく覚えていなかった。
「ねぇねぇ美亜、あんた災難だったわね。あの子の隣じゃない」
放課後、さっそくやってきた加奈が、開口一番そんな事を言う。
当の繭は、終りのチャイムが鳴るなり、一目散に教室を出ていった。
千代子の方は、さっそく始まった部活のせいで、繭の後を追うように教室を後にしてる。
「別にそんな事気にしてないわよ」
「ふぅん」
あたしは帰り支度をしながら、何となくざわざわした気分で席を立つ。
その時、からっぽの隣の席に、ぽつんと残された鞄が目に入った。
「あ」
「え？」
あたしの視線の先に目をやった加奈が、成る程、といった顔をする。
「あの子鞄忘れてったみたいね」
「……」
一瞬、頭の中で色々な事がぐるぐると回った。
「どうしたのよ、美亜」
あたしは無言のまま、繭の鞄を手に取る。
「ちょ、ちょっと……」
「先生、椎名さんの家はどの辺りですか」
あたしは加奈を無視したまま、先生に問いかけた。
先生は繭の鞄とあたしの顔を交互に眺め、困った顔をする。
「ごめんなさい、私もよく知らないの。確か３丁目の高校の近くだったと思ったけれど」
「そうですか……」
まぁ、始業式当日に、生徒の住所を全て知ってろというのは、酷な話かもしれない。
「ちょっと美亜、それ届けてあげるつもり？」
「何も入ってないみたいだけど、学校に置いとくわけにもいかないでしょ」
加奈は溜息ひとつついて、呆れたように首を振った。
「もう、美亜はお人よしなんだから。しょうがないから私が付いてってあげるわ」
意外な申し出に、あたしは目をぱちくりさせた。
「え、でも…」
「実は私、去年あの子の席の後ろだったのよ。まぁほとんど登校してこなかったけど。
だから、時々あの子の家に、プリントとか渡しに行ってたのよ」
「あ、そうなんだ」
あたし達の方で話が着いた事で安堵したのか、先生はすまなさそうな顔をしながらも、ほっと表情を緩める。
「そう、じゃあプリントも一緒に持っていってくれるかしら……えっと」
「あたしは美亜、こっちは加奈です」
「美亜さん、加奈さん、お願いしますね」
プリントを渡していた、という言葉通り、加奈は迷いもせずにどんどんと突き進む。
あたしは道順を覚えながら、途中の高校の方に目をやった。
「七瀬さんだったら、きっと似合うんだよ」
「そうかなぁ……」
あたし達の横を、女子高生がおしゃべりをしながら歩いていく。
彼女達の後姿をぼーっと見ていたあたしは、もう少しで加奈を見失う所だった。
結局、あたし達は２、３０分ほど歩いて、繭の家の前まで辿り付いた。
チャイムを鳴らすと、中から今朝見かけた女性が顔を出す。
「あら……加奈さん、久しぶりね。そちらの方はお友達？」
「ええ、まぁ。椎名さんが鞄を忘れていったので、届けに来ました」
あたしがそう言うと、彼女は申し訳無さそうに笑顔を見せた。
「そう、ごめんなさいね」
あたし達は鞄とプリントを渡すと、挨拶して家を出た。
「でも、随分若いお母さんだね」
「何でも、本当の母親じゃないんだって」
加奈は声を潜め、耳打ちするようにあたしに囁く。
「本当じゃない……って」
「さぁ、よくは知らないけど」
加奈と別れてからも、その言葉はいつまでも頭の中に尾を引いていた。
がしゃん、と音がした。
思わず振りかえったあたしは、そのままぎょっと目を見開く。
この中学は、給食が出る事で有名である。
小学校の時の例に漏れず、ここでも牛乳が出る。
あたしが目にしたのは、牛乳を服の上にこぼし、目を白黒させて咳き込んでいた繭の姿だった。
給食は基本的に、勝手にグループを組んで食べる。
あたしは千代子や加奈と食べるから、だいたい窓際の席を離れて、二人の場所に自分から移動する。
だから……繭が給食の時に孤立している事に気付いていても、見てみぬ振りをしていた。
けれど、さすがに今回はそれはできなかった。
「大丈夫？」
あたしは慌てて繭の席に駆け寄り、服に零れた牛乳を拭いてあげる。
繭は２、３度咳き込んでから、こくん、と頷いた。
見たら、あまり給食にも手を付けていない。
机を移動させる事もなく、ぽつんと独りで給食を食べていた繭は、小さな声でへいき、と呟いた。
あたしが顔を上げると、好奇の目で見ていた何人かの生徒が、そそくさと目を逸らすのがわかった。
何となく腹が立ったあたしは、牛乳が染みたハンカチを握り締めながら、彼らを睨み付ける。
あたしが席に戻ると、千代子が心配そうな目を繭に向けていた。
「……どうしたの？」
「あの子が牛乳こぼしたの、あっちの席に座ってた男子の仕業よ」
あたしは無言のまま、千代子が言う方向に目をやる。
中途半端に髪を染めた、いかにも不良っぽい奴。
そいつは仲間内で繭を指差しながら、へらへら笑っていた。
「やな奴」
ぽつり、と聞こえないように呟いた加奈の言葉が、あたしの気分をそのまま表していた。
同じような事は、次の日も起こった。
休み時間から戻ったあたしが見たのは、黒板に書かれた下手糞な繭の姿だった。
悪意たっぷりに書かれた繭の周りには、下品な文句がこれでもかと書かれている。
それを見た瞬間、かっと頭に血が上った。
「ばっかじゃないのっ」
あたしは聞こえよがしに大声を出して、黒板消しでそれをごしごしと消し去る。
繭は、きゅっと唇を結んだまま、じっと机の角を見ていた。
絵は消えても、繭が受けた傷は消えない。
繭への虐めは、少しずつエスカレートしていくようだった。
小学生並としか言えないような、馬鹿らしい虐めが、毎日のように起こる。
繭本人が何も言わないのをいい事に、奴らは調子に乗り続けた。
ものを隠したり、小突いたりするのは日常茶飯事で、酷い時にはノートや教科書をめちゃくちゃにされた時もある。
けれど、繭は何をするでもなく、あの澄んだ瞳で、ぼんやりと彼らを見るのだ。
それを見る度に、あたしは苛立ちが募るのを感じた。
何故何も言わないのか。
何故何もしないのか。
あたしなら、きっと抵抗するか……それとも……それこそ、学校に来るのを止めるだろう。
いや、多分あたしが選ぶのは後者だ。
こんな虐めを耐え続けて、学校に来る事はできない。
きっと学校に来たくないと言って……泣いて暮らすだろう。
けれど、繭は泣かなかった。
どれほど辛い目にあったとしても、顔が歪んだとしても、泣かないのだ。
２度目に繭が牛乳をこぼした時、あたしは意を決して彼女に話しかけた。
「繭、大丈夫？」
「うん」
繭はこくん、と頷くと、黙々と給食を口に運びはじめる。
あたしはしばらく沈黙してから、ねぇ、と声をかけた。
「あたしも横で給食食べていい？」
「……うん」
繭は澄んだ瞳であたしを見てから、小さく呟く。
あたしは加奈と千代子に目で謝ってから、自分の机を繭の前にくっつけた。
給食のトレイを置いて、一緒に食べ始める。
「……ねぇ繭、あなた食べ物は何が好き？」
「……はんばーがー」
そう言って、繭は小さく笑った。
ぽっと心が温まるのがわかる。
クラス中の視線が集まってるのにも、気にならない。
「ね、繭」
「みゅ？」
口の回りにソースを付けた顔で、繭がきょとんと顔を上げた。
「友達になろう、あたし達」
繭は一瞬きょとんとした目であたしを見てから、うんっ、と大きく頷いてくれた。
繭の事、家族の事、そして自分の事。
喋りたい事は沢山あったし、訊きたい事も沢山あった。
繭は決して饒舌じゃないけれど、それでもしっかりとあたしの話を聞いて、答えてくれる。
不思議な気持ちだった。
学校は詰まらない場所だったし、唯一の楽しみは友達とのおしゃべりだけだったはずだ。
けれど、繭と接している内に、それが少しずつ変わっていくのがわかる。
クラスの雰囲気も、少しずつ繭に対して打ち解けていった。
千代子も、そして加奈も、加えて、繭と話しをするようにもなった。
虐めは相変わらず続いていたけれど、確実にその数は減っている。
そんな時に、事件はおきた。
派手な音が響いた。
クラス中の全員が、その音の方を振りかえる。
次の時間はクラスの移動があって、全員がその準備に追われていた所だった。
床中に教科書や筆記用具が散らばり、繭はその真中にへたり込んでいた。
「けっ、ばっかじゃねぇの？」
あいつだ。
いつも繭を虐めていた、不良のリーダー格の男。
奴は落ちた教科書を土足で踏みながら、嘲るように繭を見下ろした。
そしてへらへら笑いながら、繭のものらしきノートをひらひらさせる。
それを見ただけで、何があったかわかった。
「……うぅっ」
クラス中が、シンと静まり返っていた。
「美亜っ！」
千代子の焦った囁き声と共に、あたしの腕が強く掴まれる。
その拍子にようやく、自分が痺れるほど強く拳を握り締めていた事に気付いた。
もう我慢出来ない。
「いい加減にしなさいよ、あんた！！」
ねっとりとした熱い塊が込み上げてきて、あたしは振り絞るように叫んだ。
奴は一瞬ぎょっとしたようにあたしを見てから、すぐさま目を逸らす。
「ちょっと……！！」
けれど、あたしが一歩踏み出すより先に、奴が吐き捨てるように叫ぶ。
「ムカツクんだよてめぇは。おら、泣いてみろよ！」
繭の顔が、ぎゅっと歪む。
泣く、と思った。
けれど、彼女はきゅっと唇を結んで、立ちあがった。
そして、静かな目で奴を見据えると、ゆっくりと床に散らばった教科書を集め始めた。
誰もが、何も言えなかった。
その時ようやく、あたしは繭の事を誤解してた自分に気付いた。
この子は強い。
あたしが考えていたよりも、もっとずっと、心が強い。
辛い事にも、苦しい事にも耐え、逃げずに真正面から立ち向かえる強さだ。
だから……
その時ようやく、奴はクラス中が自分を見詰めている事に気付いたようだった。
「な……なんだよてめぇらは！」
一瞬、虚勢の仮面が剥がれ、そいつの顔が歪む。
それまで、そいつと一緒になって繭を虐めていたやつらも、何も言わずに俯いていた。
痛いような沈黙の中で、そいつは真っ赤な顔で歯軋りする。
だが、すぐさま顔を背けると、逃げるように教室から飛び出していた。
息を詰めてその対決を見ていた教室の人間は、誰もが大きく安堵の息を吐く。
繭はそいつが落としていったノートを拾い上げると、ちょこちょことドアに向かった。
そこでようやくチャイムが鳴り響き、クラスの全員が、あたふたと移動しだす。
そんな中であたしは繭に歩み寄ると、後ろからぎゅっと抱き締めた。
繭はびっくりしたように振りかえって、あたしの顔を覗き込む。
「みゅー？」
「ん」
きょとんとする繭に、あたしは照れくさくなって腕を放した。
「繭は強いね」
「はぇ？」
それから、クラスの雰囲気は劇的に変わった。
教室の誰もが、繭をクラスの一員として認めたのだ。
「繭、今日は何して遊ぼっか」
「けんぱ！」
繭の要望通り、あたしは校庭の片隅に、足で円をいくつも描いていく。
学校が終わると、繭とあたしはよくこうして遊ぶようになった。
「美亜〜〜っ、なに繭ちゃんを独り占めしてるのよ〜」
あたしが円を跳んでいると、いきなり加奈が跳びかかって来た。
調度跳んでいる瞬間にぶつかられ、あたしはまともにバランスを崩した。
思わずすっ転んだあたし達を見て、繭はくすくすと笑う。
「何が独り占めよ！ 調子良いんだから」
「１人よりは２人、２人よりは３人で遊んだ方が楽しいわよ。ねっ、繭ちゃん」
「うんっ」
加奈はよーしパパ跳んじゃうぞー、何て言いながら、繭と一緒になって円を跳び回る。
その後ろを、繭もぴょんぴょんと飛び跳ねた。
まさか中学生にもなって、けんぱをするとは思わなかった。
けれど、それが何故か楽しい。
加奈だって、普段なら絶対にこんな遊びをしようとは言わないだろう。
「繭、けんぱ好きなの？」
「うんっ」
繭は汗でびっしょりになった顔で、にっこりと笑う。
「浩平といっしょにあそんだから」
『浩平？』
あたしと加奈は異口同音に呟く。
「浩平って誰？」
「あ、わかった、彼氏でしょ！」
加奈が嬉々としてそんな事を言い、あたしを呆れさせた。
「あのね……いくらなんでもそれは……」
とその時、繭がこくん、と頷いたのをあたし達は目撃してしまった。
『……うそっ！？』
自分で言ったにも関わらず、加奈とあたしは大仰に仰け反る。
「恋人同士……」
「マジでっ！？」
「じゃ、じゃあき、き、キスとかした事あるのっ！？」
何故か妙に興奮した様子で、加奈が繭に詰め寄る。
「ううん」
「そ、そうだよね。いくらなんでも、キスはまだだよね」
何となく安心しながらも、ぽけーっとしてる繭の表情を見ている内に、不安が込み上げてきた。
「……しかし、浩平か」
「ロリコンね」
一言で切って捨てた加奈に、あたしは慌ててその口を塞ぐ。
「ちょ、ちょっと！」
「繭ちゃんと恋人同士、何て臆面もなく言える奴は、ロリコン以外の何だって言うのよ」
説得力があった。加奈にしては。
「浩平のおかげ」
「え？」
小さく呟いた繭に、あたし達は驚いたように彼女を見た。
「いまこうしてるのも、ぜんぶ浩平のおかげだから」
「……」
大切な……本当に大切な宝物を、そっと手に取るように、繭は優しげに囁く。
あたし達は思わず、口をつぐんだ。
繭はあんまり、自分の事を話そうとしない。
それが話したくないからなのか、話すことが出来ないのかはわからない。
けれど、数少ない繭の言葉の中には、本当の気持ちが篭っている。
「会いに行こう！」
いきなり、加奈がそんな事を言い出した。
「はぇ？」
「ちょ、ちょっと加奈……」
加奈は真剣な目で頷くと、厳かに告げる。
「その何某浩平とやらが、毒になるか薬になるか、この目で確かめなきゃ気がすまないわ」
「で、でも今どこにいるのか……」
「そりゃあ、恋人同士って言うぐらいだから、繭ちゃんが知ってるでしょ」
加奈の言葉に、繭は僅かに困ったように眉根を寄せた。
「わかるよね、繭ちゃん」
「………うくー」
繭は僅かに逡巡してから、小さく頷く。
繭に連れられるままに辿り付いたのは、以前繭の家に行く時に通った高校だった。
思わず躊躇うあたし達を他所に、繭は堂々と中に入っていく。
「ちょ、ちょっと加奈……」
「……う」
さすがに、高校に入るのは勇気がいる。
だが、あたし達がこうしている間にも、繭はどんどん中に入ってしまった。
それを見て、あたし達は大慌てで後に続く。
中学校とそれほど変わらない筈なのに、中の雰囲気は驚くほど違っていた。
怖気づくあたし達を他所に、繭はすたすたと廊下を歩いていく。
やがて、３年、と書かれた教室を見付けると、繭はさっさと中に入ってしまった。
「ま、繭っ！？」
「おや？」
泡を食うあたし達の上から、いきなり笑いを含んだ声が降って来た。
見れば、高校の制服を着た男子生徒が、笑みを浮かべながら見下ろしている。
「中学生がこんな所で何をしてるんだ？」
「え、えと、それがあの」
「みゅーっ」
あたふたするあたし達の前に、ぴょこん、と繭が顔を出す。
そのとたん、彼は相好を崩した。
「おぉ、繭ちゃんじゃないか。久しぶりだな」
「うんっ」
「長森さんや七瀬さんに会いに来たのか？ それならさっき２人で部活に行ったぞ」
「……うー」
高校生と平気で会話する繭に、あたし達はカルチャーショックに陥っていた。
彼以外にも、廊下を歩く人や、教室の中からぞろぞろと人が出てきて、繭に話しかける。
「おお、繭ちゃん、帰って来たのか」
「可愛いーっ」
「こっちのふたりは、繭ちゃんの友達かい？」
「うんっ」
繭は一通り最初の人と話しをすると、ぺこりっ、と頭を下げた。
そして、固まっているあたし達の手を取って、集まってきた人達に、ばいばい、と手を振る。
「おぉ、また来いよ！」
階段を降りて、彼らの姿が見えなくなってから、あたし達はようやく溜息をついた。
「はぁ……繭、あなたやっぱり凄いわ」
「ほぇ？」
きょとんとした顔の繭は、いじらしくなるぐらいいつも通りだった。
長森さんと七瀬さんという人にも会った。
彼女達も、繭が来た事に物凄く喜んでいた。
長森さんは、満面の笑顔で。七瀬さんは、繭に髪を引っ張られながらの、泣き笑いで。
けれど結局、浩平とかいう人は見当たらず、誰に聞いても空振りに終わった。
それでもあたし達にとっては、大きな驚きと発見の連続だった。
季節は巡る。
繭と共に過ごす季節は、様々な驚きと喜びを、あたし達にもたらしてくれた。
繭は折原浩平の事を話してくれた。
拙く、幼い、それでも一生懸命な口調で。
「たいせつなひと」
本当に心の底からそう言える人。
それが、羨ましかった。
「すると、繭が学校にこられるようになったのも、その彼氏のおかげなんだね」
「うん…」
「いろんなことを教えてもらったんだね、そのひとから」
「うん」
「でも、繭の彼氏なんて聞いたら驚いたけど、どんなひとだったのかなぁ。興味あるなぁ」
「うん…」
折原浩平。
繭の大切な人。
あたしは、繭とその人の話をする。
会った事の無い、繭の恋人の話をする。
繭が見せる笑顔が、繭の存在が、あたしを、あたし達を変えていく。
学校はもう、つまらない場所じゃなかった。
繭を助けてあげたくて…繭の笑顔を見たくて…けれど、それだけじゃなかった。
「繭と友達になりたかったの、べつに同情とかじゃなかったんだよ」
繭は強かった。
いつでも、どんな時でも。
あたしには無かった。
苦しみに耐え、いつも真正面から立ち向かっていく強さが。
「立派だっておもったからだよ。見習いたいって思ったからだよ」
救われてたのは、あたしの方だった。
学校が面白いと思った事は、ついぞ無かった。
授業は退屈だし、クラスの男子は馬鹿な事ばっかりしてて、全然話にならない。
休み時間のおしゃべりが、学校におけるあたしの唯一の楽しみだった。
繭と出会って、あたしは変わった。
あたしだけじゃない、クラスのみんなも変わった。
千代子も、加奈も、みんなみんな。
繭と共にある事で、繭と一緒に歩む事で。
だから、会いたいな。
繭の大切な人に。
繭を大切に思う人に。
……繭を導いた人に。
「ねぇ、繭っ、次の学校いっても、一緒に遊ぼうね」
「うんっ」
あたし達が校門に辿り付いた時、すでに沢山の人が来ていた。
淡いピンクの花弁がちらほらと舞う中で、あたしと繭は、ゆっくりと桜並木を通りすぎる。
今日は卒業式。
この１年の終わりの日で、そして、あたし達の中学校の生活の終わりの日でもあった。
「ぜったい。約束だよっ」
「うんっ」
繭は卒業証書の入った筒と、鞄を手に、笑顔を見せる。
１年分の思い出いっぱい
あなたと、あたしと、みんなと。
ずっとずっと、友達でいよう。
「椎名、卒業おめでとう」
声がした。
「……？」
繭がゆっくりと振りかえる。
舞散る桜の花弁の向こうに、笑顔を見せる人がいた。
「大人になったな」
穏やかなその微笑に、はっと胸が打たれる。
ああ、とあたしは思った。
この人なんだ。
大切な人。
ずっと見守ってくれる人。
繭と……輝く季節を、ともに歩いて行ける人。
そして、繭は輝くような笑顔を見せてこう言った。
「おかえり、浩平」
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