朝。
まだ誰もいない教室のドアを開ける。
そこはがらんとしていて、静かだ。
教壇の前に立ち、黒板を見る。
放課後の掃除のおかげで、綺麗になった黒板。
そこに黒板消しを持って。
ぺたん。
と真っ白い後をつける。
降ったばかりの新雪に足跡をつけたくなるような、ガキみたいな心理だ。
「………」
とりあえず跡をつけたままにしておくのもなんなので、それを綺麗に消してから窓の傍へ。
朝来たばかりの教室は空気が篭っていてなんだか気だるい感じだ。
空気を入れ替えるためにがら、と窓を開く。
春になったといっても、早朝の空気はまだ冷たくて痛い。
「はぁー」
息を吐くと真白で、それもすぐに消える。
ただ、そんな無意味な行為ばかりを繰り返し、朝のHRの時間を待つ。
それがオレの日課だった。
「日課」
「………」
そうして、自分の席に座りながらぼーっとしているとやることが無い。
そんなときは色んなことを考える。
オレは今どうしてこんなことをしてるんだろう、とか。
確かにそこには何かの意味がある。
面白いとかつまらないとか、まあ少なくとも感情は存在するのだ。
しかし、その意味や感情にしたって一瞬で消えてなくなってしまうものなんじゃないか。
ただ、自己満足に浸っているだけの。
「あら」
と。
誰かが教室にやってきたらしい。
まあ、もしかしなくても朝早く学校に来るのはこの瞬間のためだったりもする。
「おはよう、美坂」
オレはそんな挨拶をして。
「おはよう、北川君」
美坂はそう答える。
それはまあお決まりだが一番楽しい時間なのだ。
これで今日もいい日になりそうだ、と。
―だからといってそれ以上のことがあるわけでもない。
ちらりと美坂のほうに目線を向けると、なにやら難しそうな本に目を通してたりする。
「………」
邪魔するのも悪いと思って、視線を逆方向に向けながらまたぼーっと色んなことを考える。
悲しいけど、これも日課だったりする。
まあ、考えることは昔から結構好きだった。
ただ。
考えを人の伝えるのは下手…というか苦手だ。
特に女の子が相手となるとそれは顕著になる。
多分、今美坂に声をかけたとしても。
「なあ、美坂」
「なに？」
「………あー、いや、その」
なんて。
会話が止まってしまうこと請け合いなのだ。
そういえば昔から要領が悪かった。
とっつくのは早いのに、いつの間にやら取り残されたり。
例えば、こんな話。
「よし、花見に行くぞ」
「はい？」
土曜日の昼休み。
相沢の唐突な提案に美坂が素っ頓狂な声を上げていた。
「花見ってやっぱり桜だよね？」
「あたりまえだ。他に何があるんだ」
水瀬のやや天然な言葉を、ため息混じりに返す相沢。
「まあ、確かに桜…綺麗だよな」
オレは窓を開け、校門の傍に生えた桜を眺める。
雪の多いこの街にも、ようやく春の訪れを感じさせる暖かい風が吹き始めていた。
「だろ？ いい提案だと思わないか？」
「まあ悪いとは言わないけど。唐突過ぎない？」
ため息混じりの美坂。
「思い立ったが吉日、善は急げと言うだろう。桜が散る前にその美しさを目に焼き付けておくのもまた一興だ」
「…なんだか祐一らしくないこと言ってる」
「なんだと？」
「あー。うん、それでいつ行くんだよ相沢？」
不満げな相沢の言葉を遮って正面へと移動する。
「んー。明日」
「明日ぁ？」
それはいくらなんでも急すぎるんじゃないだろうか。
「思い立ったが吉日と…」
「はいはい。わかったわよ」
まったく仕方ないわね、と言わんばかりの美坂。
「しかし相沢、そんないきなりで弁当とかはどうするんだよ」
「そのための香里と名雪だろう」
「その発言は男女差別だと思うわ」
「じゃあ香里は俺や北川の作った弁当が美味いと思うのか？」
「大したものは出来ないけど、いいの？」
ここまでくると美坂も水瀬も反論しない。
多少強引であれど、相沢は人が本当に嫌だと思うようなことはしないからだ。
「全然構わないぞ。なあ北川」
「ん…もちろんだ」
水瀬や美坂の弁当が食えるなんて願ったり叶ったりである。
「はあ、仕方ないわね…まったく」
「早起きちゃんとできるかな…うー」
二人も言葉はさておき、楽しそうな表情だった。
「じゃあ北川先発隊は場所取りを任命するぞ」
「おう…ってこら」
ノリで頷きかけたのだが、ろくでもないことを言っていることに気付いた。
「相沢、おまえ発案者なんだからそれくらいやれよ」
「何を言ってるんだ北川。俺は発案、香里と名雪は弁当。北川だけ役職が無いだろう」
「そうだよ北川君」
「運が悪かったと思って諦めるのね」
揃ってみんなオレの敵であった。
結局、花見の場所取りはオレがやることになり、朝早くから桜の木の下へ座っていた。
…ところが楽しみにしすぎてなかなか眠れなかったのがいけなかったのか、オレは場所を確保したまま居眠りをしてしまったのだ。
目が覚めたら美坂たちが作ってきた弁当はすっかり空。
結局、オレはひとりだけ空しくコンビニ弁当を食べた。
桜は綺麗だったけど、悲しかった。
こんな経験はたくさんある。
信号で重い荷物を持って困っているばあさんがいた。
オレは善意で「手伝いましょうか？」といい、ばあさんも喜んでくれた。
そこまではいい。
ところがその荷物が予想以上に重かったのである。
オレはかろうじて荷物を運び、ばあさんが去っていくのを見送った。
―翌日は見事に筋肉痛。
なんだかオレは色々と要領が悪かった。
好きな子がいるのに、なかなかきっかけが掴めず、いつまでも友だちのままの関係でありつづけたり。
そんな自分が時々嫌になる。
そう。
特に今回がそうだった。
でも、それはただの噂話だったんだ。
相沢と美坂が付き合っている、という噂。
オレは思い切って驚いて美坂に聞いた。
それはもう、本当に唐突に聞いてしまったんだけど。
「なあ美坂。ほんとに相沢と付き合ってたりするのか？」
話の脈絡も無く、オレと美坂しかいない教室にそんな言葉が響いていた。
口の中はカラカラで、今すぐにでも水を飲みに行きたい。
けど、美坂は黙ったまま。
「………」
静寂が、痛い。
「なんだ。知ってたんだ」
そう。答えは。
オレが最も望んでいなかった答え。
見ると。
美坂は少し恥ずかしそうに微笑んでいた―
愕然とした。
相沢は転校してきてほんの僅かで、美坂の心を掴んでしまっていたのだ。
オレがどんなに頑張っても掴めなかった。
ほとんど最初から諦めていた美坂の心を。
きっかけは、本当にごく些細なことだったと思う。
一目ぼれというわけじゃ無かった。
本当に何気ない、日常の一コマ。
例えば髪を掻き揚げる仕草とか。
そういう仕草に目を惹かれていて。
たまたま、美坂の落としたっていう財布を拾ってやったのが決定的な要因だったろうか。
「ありがとう、北川君」
何より、クラスメイトの一人でしかなかった俺の名を覚えてくれていたことが嬉しかった。
そして、その笑顔がとても綺麗だったんだ。
それから時々だけど水瀬とも話すようになって、美坂ともまあ、それなりに話したりしていたんじゃないだろうか。
体育祭の応援旗を作るために放課後に残って作業したこともあったし、文化祭ではクラス委員を一緒にやった。
ただ、それはやっぱり友だち程度の付き合いだったんだと思う。
それから相沢が転校してきて。
いつの間にか美坂は、恋人として相沢と付き合うことになっていた。
理由はわからなくもない。
相沢は男のオレから見ても、まあ、美形の部類なんじゃないだろうか。
それに美形じゃないとしてもそれを補う、なんていうか心の強さがある。
オレは出来ないことがあったら、割とあっさりと諦めてしまうほうだ。
美坂のこともそうだった。
オレなんかと美坂が釣り合うはずも無い。
そう思って最初から、友だち関係以上を目指していなかったのだ。
しかし相沢は違った。
困った人は放っておけず。
無理だろうがなんだろうが必死でそれにぶつかって。
そしていつの間にか事件を解決してしまっていた。
要するに、あいつは物語の主人公だったんだ。
うらやましいな、と思ったこともある。
嫉妬に近い感情を抱いたこともある。
だが、いつの間にかすっかり忘れていた。
やっぱりどこかで諦めていたんだ。
相沢は相沢、オレはオレ…と。
強引に女の子の気を引こうとしたって、見苦しいだけだ。
そう無理に自分に言い聞かせ、諦めていた。
友だち以上に、踏み切ろうとしなかった。
相沢は人の心が理解できるやつだ。
自然に女の子の気持ちを掴み、いつの間にかその魅力に取り込まれてしまう。
そんなところに美坂も惹かれたんだろう。
美坂が相沢に惹かれ、相沢が美坂に惹かれた。
それは必然だったのかもしれない。
どうしてオレは駄目なんだろう。
なんで相沢ばかりもてるんだろう。
そういうネカティブな思考に陥ったこともある。
しかし深く悩んだって仕方ない。
自分は自分だし、きっとオレの魅力だってどこかにあるんだろう。
そう信じたかった。
そう信じようということを言い訳にして、やっぱり自分を諦めていたんだ。
オレは地味で目立たない、いてもいなくても変わらないような。
そんな人間なんじゃないか―
「北川君」
「ん？」
放課後。
美坂と相沢が付き合っていることを知ってから二週間後くらいだろうか。
そんな憂鬱なことを考えながらため息をついている俺に向かって、美坂が声をかけてきた。
「あれ、どうしたんだ美坂？」
オレは何事もなかったかのように聞き返す。
相沢と一緒に帰るんじゃないのか、と言いかけて止めた。
「今日、一緒に帰らない？」
美坂がそんなことを言ってきたからだ。
「そりゃ、もちろんOKだ」
考えるよりも答えが先だった。
こんな機会をみすみす逃すほどバカではない。
「そう。ありがとう」
そんなオレに礼を言う美坂。
「まあ、気にしないでくれ」
頷きながらも内心はかなり驚いていた。
オレから美坂を誘ったこともあったけど、大抵は断られていたし、そんなことが続いていつのまにか誘うのを止めていたからだ。
それが美坂から誘ってくるなんて。
一体何があったんだろう。
「じゃ、行きましょうか」
そんなオレの戸惑いとは対照的に、美坂はにっこりと微笑んでからきびすを返す。
見慣れたウェーブのロングヘアーがふわりとなびいていた。
「最近、どう？」
「え？」
商店街に向かう途中、美坂がそんな事を聞いてきた。
「そうだなぁ。まあ、いつもどおりなんじゃないか」
いつもどおりと言いながら、既にそれが嘘だと自分で気付いていた。
オレは美坂が相沢と付き合っている、と聞いた瞬間から近づくのを避けていたのだ。
遠慮していたんだろうか。
いや、やっぱり怖かったんだろうな。
事実を知るのが。
美坂と相沢が付き合うようになってどんなことをしているのか…と。
考えるだけでぞっとした。
そこには「オレ」がいないのだ。
付き合っていることを知ってからは、余計に美坂と疎遠になった気がする。
水瀬や相沢とも、以前のように接することは出来なくなっていた。
嫉妬に狂ってしまいそうな自分と、それでも一緒にいたいというジレンマ。
そんな自分が嫌で。
でも、美坂や相沢の幸せを、邪魔したくは無かった。
だからオレは気持ちを隠していた。
「いつもどおり、ね。北川君らしいわ」
美坂は俺の言葉にくすくすと微笑んでいた。
「…どういう意味だよ」
「言葉通りよ」
そう言って笑う顔は以前よりも輝いていた気がした。
「………」
「どうしたの？ 北川君」
「いや、なんでもないさ」
やっぱり恋をすると女の子は綺麗になるってことなんだろうか。
嬉しい反面、どこか空虚な気持ちだった。
それはオレによってではなく、相沢によって作られた新しい美坂の魅力なのだから。
「それで、どこに行くんだ？」
そんな空虚な気持ちを誤魔化すように、美坂に話し掛けていた。
「そうね」
少し小首を傾ける美坂。
「百花屋でどうかしら？」
「ああ、ＯＫだ」
百花屋、か。
昔、デートに誘おうとメニューをチェックしたこともあった。
自分の思い出に、ただ苦笑いをしていた。
「ご注文は？」
「あたしコーヒー。北川君は？」
「あ、うん、オレもコーヒー。あ。砂糖二つ追加お願いします」
「かしこまりました」
ウェイトレスは軽く会釈をし、去っていった。
「北川君って意外と甘党？」
「砂糖二つくらい普通だろ？ 美坂こそブラックで飲む気か？」
「砂糖は頼まなくてもセットでついてくるのよ」
「ん、そうなのか」
やっぱり普段入ったことの無い店だと無知が露になってしまう。
「…北川君はミルクとかたくさん入れそうな気がしたんだけど」
と、無邪気に笑う美坂。
「お子様だってか？」
「違う？」
「一応否定しておく」
確かにオレはお子様かもしれない。
好きな相手に告白すら出来なかったんだから。
「ふふ」
美坂は水の入ったコップをぴん、と軽く弾いた。
「そういえば北川君と一緒に帰るのなんか初めてだったわね」
「それどころかこんな店入ったのも初めてだぞ」
オレは苦笑した。
「北川君が誘ってくるときって大抵都合悪いんだもん」
美坂も苦笑いをしていた。
「昔の話か？」
「そう。部活がある日に限って誘ってくるのに、暇なときは誘ってこないの」
「ひょっとしてタイミング最悪だったか？ 俺って」
「ええ」
それはそれでショックな反面、どこか安心した。
てっきりオレと帰るのが嫌で断ってると思ってたのに。
「美坂が暇そうなときに声掛けたつもりだったんだがなあ…」
「見る目が無かったってことね」
「だったら部活休みのときに誘ってくれりゃよかったのに」
「…女の子から誘わせる気？」
美坂は少し顔を赤らめた。
「…それもそうか」
美坂はこれで案外恥ずかしがりだったりするのだ。
そこも結構魅力的だったんだけど。
「今日は美坂から誘ってきたくせに」
「…なんとなくよ」
美坂は少し間を置いてそんなことを答える。
その態度はどことなくぎこちなかった。
「相沢と…なんかあったのか？」
オレは思わずそんなことを聞いてしまった。
言い終えた瞬間、慌てて口を押さえる。
だが、それはやはり正しかったんだろう。
美坂は相沢の名前が出た途端に顔を曇らせていた。
「なんかあったみたい…だな」
「………」
俯く美坂。
「なあ」
解決できるかわかんないけど、話してみろよ。
いつもだったらオレはそう言っていたんだろうか。
偽善的に。
それが美坂の好感になるかもしれないと思って。
美坂は既に相沢と付き合っているんだ。
仲がこじれたんだったら、放っておけばいいじゃないか。
そうしたらオレにもチャンスが巡ってくるかもしれないぞ。
だったら。
言えばいいじゃないか。
相沢の悪口でも、なんでも。
「なあ、美坂」
オレはもう一度名前を呼んだ。
「…何よ」
言えば、いい。
「美坂…オレでよかったら相談に乗るぞ」
「え？」
「ケンカしたんだかなんだか知らないけどさ」
やっぱりオレはバカかもしれない。
「相沢だってホントはいいやつなんだぜ。オレより美坂の方が知ってるだろ？」
自分が不利になるようなことを言ってるんだから。
「…ケンカ」
「あ、やっぱケンカしてたのか？ 謝っちまえよ。あっさり許してくれるさ」
でも、これでいい。
嫌なやつにはなりたくない。
これで、いいんだ。
「相沢君と北川君、ケンカしてたんじゃ…ないの？」
「は？」
いきなりの言葉に、オレは思わずマヌケな返事をしてしまった。
「え…だって。北川君最近全然話してないじゃないの」
「いや、それは…そうなんだけど」
それは相沢じゃなくて美坂を避けていたからで。
「相沢君、さびしがってたわよ」
「相沢が？」
「ええ。相棒がいなくなったって」
「相棒…ねえ」
確かにちょっと前までは相沢と色々やってたけど。
だいたいオレは罪をなすりつけられる側だった。
女子更衣室ののぞきとか。
相沢がやろうって言い出したのに。
「まあ、ケンカはしてない」
なんだかんだいって、相沢は友だちなのだ。
悪友かもしれないけど。
「そう。よかった。あたしの心配しすぎだったのかしら」
「ほんとだよ。まったく」
オレは苦笑いをする。
美坂は鋭いけど、恋愛感情に関しては全然疎いと思う。
「お待たせしました」
「あ、どうも」
会話の少し途切れたところに、届けられるコーヒー。
「北川君」
「何だ？」
美坂はミルクを注ぎながら俺のほうを上目遣いで見ていた。
「あたしのこと好きじゃなかった？」
「な、な！」
オレはがたんと椅子から崩れ落ちそうになった。
「…いきなり何言い出すんだよ、美坂」
はぁ、と息を吐く。
まるで『恋愛感情に関して疎い』と思っていたことを読み取られたかのようだ。
「あのね北川君」
「ああ」
「あたしって鈍い？」
「…何に関してだ？」
「全般的に」
「それは…まあ」
美坂は全般的に考えると普通の人よりも洞察力があると思う。
ただ唯一の例外を除いて。
「鋭いほうだと思う」
「そう」
かちゃかちゃとコーヒーを混ぜ合わせ、一口。
「…なら。やっぱり薄々気付いてたっておかしくは無いでしょう？」
「………」
気付かれていたんだろうか。
やっぱりオレの気持ちは。
「でも、あたしはあたしで精一杯だったから…」
美坂は申し訳なさそうな表情でオレを見つめていた。
「それは俺も知ってた」
「…そう」
知っていながらオレは何もしなかった。
美坂の妹のことも薄々気付いていながら触れることが出来なかった。
見ていながら見ないふりをしていたんだ。
美坂の辛そうな顔を見たくなくて、演技でもいいから笑顔を見ていたかったから。
それでも…偽りの笑顔ではなく、相沢は本当に美坂を助ける道を選んだ。
だから美坂も相沢を選んだ。
「北川君」
「何だ？」
「…ひとつだけ教えて」
「ああ、いいぞ」
「さっきのはあたしの推測だから。あたしのこと、本当はどう思ってたの？」
「そうだな」
今更隠すことも無いだろう。
オレは美坂に言いたかったことを、ひとつひとつ口に出していた。
「ね」
「…ん」
百花屋で支払いを済ませた後。
レシートをしまうオレを美坂が見つめていた。
「ありがとう」
「気にしないでくれ」
レシートは上手く入らなかったのでくしゃくしゃにして強引に入れてしまった。
「北川君の言葉もっと早く聞いてたら、あたし北川君になびいてたかも」
「そりゃ…痛すぎだろう」
ただ苦笑いするしかなかった。
「あはは」
そんなオレの顔に合わせて笑う美坂。
「…でも」
「でも、なんだ？」
ふいに、悲しそうな表情で。
「ちょっと遅すぎたのよ」
「だろうなあ」
オレは遠く、空を眺めていた。
夕焼けは綺麗だった。
「でもね」
視線を戻すと、美坂はまた微笑んでいた。
「北川君、いい人だと思うから」
「慰めの言葉なんかいらないぞ」
「正直な気持ちよ。ただ、いい人すぎただけ」
「…そうか」
やっぱりオレは要領が悪いらしい。
「あと」
「…いや、もうフォローはいいぞ」
負け犬に情けは無用。
つっけんどんに振られたほうが諦めもつくってもんだ。
「違うのよ」
「…違う？」
「ええ。北川君があたしを見ていてくれたように」
ふいに美坂は顔を赤らめた。
「そう。北川君を見てくれてる人だって、いるのよ」
「いるのか？」
「ええ」
こくりと頷いた。
「北川君が何かをしてきたことは無駄じゃないわ」
「？」
「…わかるわ。すぐに。きっと」
「そうかなあ」
「そうよ」
美坂はふいに背を向け、一言こう言った。
「だからこれで最初で最期」
「最期？」
「次会うときは、お互い笑顔で…ね」
美坂は振り返らなかった。
その顔はどんな表情をしていたのだろうか。
オレにはわからなかったけど。
「ああ。もちろんだ」
オレは力強く頷いた。
そして美坂はそのまま喧騒の中へと姿を消していった。
夕方の街を歩いていた。
いつもと同じように一人で。
でも、いつもとは違い、なんとなく寂しかった。
唐突にうずくまって泣き出したくなるような。
迷子の子供が母親を探しているような心境。
「………」
意味も無く、ベンチに腰掛ける。
待ち合わせる相手もいない。
ただ、一人座るだけのベンチ。
地面には、伸びきった影が黒く覆い被さり始めていた。
オレがここに座っていることに意味はあるんだろうか。
誰からも相手にされない、虚無な存在なんじゃないか。
それはあたりまえのことなのかもしれないけれど。
誰かが好きだっていうのは感情の押し付けなんだろうか。
そうなのかもしれない。
オレは誰かと一緒にいたかった。
それは美坂だったし、相沢だったのかもしれない。
ひとりは、さびしかった。
だれかといっしょに、いたかった。
だから、だれかをすきになって、いっしょにいたいとおもうのは、おれはたいせつなことだとおもった。
人が人を求めることはあたりまえのことなのに、凄く難しいことなんじゃないか。
誰かにその存在を求められることは、生きている実感だった。
―だとしたらオレは生きているのだろうか？
「…なんてな」
考えすぎるのはオレの悪い癖だ。
美坂にフられた。
それだけだってのに。
「辛いなあ…」
思い出したら、また涙が出そうになってきた。
「………」
俯いて、軽く顔を拭う。
涙はまだ出ていないようだった。
「北川君」
顔を上げる。
「…美坂」
美坂だった。
「今日くらいね」
そう呟いて、手を差し出す。
「？」
「だからー…もう。このままじゃあたし凄いヤな女じゃないのよ」
「美坂？」
「何よその『らしくない』とでも言いだげな顔は」
「いや…」
同情されてるんだろうか。
「言っておくけど、同情とかじゃないからね」
と、ムキになって反論する美坂。
そういう姿を、一番美坂らしいなと思ったオレは、なんだか急におかしくなった。
「はは…」
「何よ急に笑い出したりして…頭でも打った？」
「いや、そうだな」
しっかりと、立ち上がった。
「それじゃあ」
美坂と逆方向に振り返る。
―せめて最後くらい格好よく。
「また明日、学校で」
って。
こんなときでもそんなセリフしか出てこないオレは。
どこまでも小市民っていうか。
―でも、美坂が。
「ええ、もちろんね」
そう頷いてくれたから、いいってことで―
朝。
誰もいない、がらんとした教室の扉を開く。
「よう」
そこには先客がいた。
「相沢？」
何でおまえ、と聞く前に。
「名雪は陸上部の朝練で、何故か俺まで朝早くから出る羽目になった」
と端折った事情を説明してくれた。
「めずらしいこともあるもんだなあ」
「怖いぞ。目を閉じたまま全力疾走するいとこの少女」
「怪談にでもなりそうだな」
なんてバカな話をしながらいつもの日課で窓を開けようとする。
「空けるのか？ 寒いだろ」
相沢がそんな声をかけてきた。
「バーカ。空気を入れ替えないと空気が綺麗にならないんだよ」
そう返しながら窓をひとつひとつ空けていく。
「へえ」
相沢は感心したんだかしないんだかわからないような声を出した。
「毎日やってんのか？」
「まーな」
「うわあ、なんか似合わねえ」
「どういう意味だよ」
まあ自分でもらしくないとは思うけど。
「そうかー。この教室がいつも爽やかだったのは北川のおかげだったのか」
「遠まわしな嫌味か？」
相沢が言うとどうもそう聞こえてならない。
「いや、感心してる」
「ふーん」
まあどうでもいいけど。
「あ、そうそう」
そうだ。
いきなりの登場で驚いたけどこいつには言わなきゃいけないことがあったんだ。
「なんだ？」
キッと相沢を睨みつけて、ドスの効いた声で。
「オレの惚れた女を不幸にしたら、ぶっ殺す」
言い切った。
「………」
相沢はオレの言いたいことがわからなかったのか、暫く沈黙していたが、
「任せろ。絶対幸せにしてやる」
なんて。
悔しいくらいの笑顔で、そう答えてくれた。
「おし」
ぴしゃり、と窓を閉じる。
空気の入れ替えはもう十分だろう。
曇った空気は消え去ったんだから、それはもう教室の中は爽やかに―
「だ―――――！ ちくしょう！ やっぱむかつくっ！ 一発殴らせろ―――！」
まあ、けじめってのはつけなきゃいけないだろう。
オレの拳が相沢の頬に炸裂する音と、相沢のクロスカウンターの音が、それこそ爽快な音を立てて響いていた。
「………」
「………」
で。
オレと相沢しかいない教室は静まり返っていた。
教室に生徒が集まってくるのはチャイムが鳴る１０分前くらいなのである。
時計はゆうゆう２０分前以上を指していた。
「なー、北川」
「あん？」
そっぽを向いたまま相沢の言葉に答える。
「とりあえず、すまん」
「…何がだ？」
「いや、なんとなく。香里のこととか」
そりゃなんとなくじゃなくて具体的過ぎだろう。
「気にするな」
まあ、すぐに忘れるってのは無理だけど。
いちおうけじめはつけたんだし。
「そうか」
「ああ。学食で奢ってくれりゃ、それでいい」
「…おう」
弱みに付け込むような作戦だが、これで今日の昼飯代は浮いた。
「じゃあ、今日の昼ご飯は美坂チーム集合かしら？」
と。
聞きなれた声が教室に響いた。
「よう。香里も早いんだな」
「あたしは大抵この時間よ。相沢君がおかしいんじゃないの？」
「それに関する責任は全て名雪にある」
「そうかもね」
相沢と短い会話を交わす美坂。
「………」
そして会話が途切れたと同時に、美坂はオレを睨みつけた。
「北川君。最近挨拶してくれないのね」
なんて、わざとらしく呟く。
そういえばここ数日、挨拶もろくにしてなかった気がする。
なるほど。
オレの挨拶は美坂の日課にもなってくれていたらしい。
なら、少なくともこの朝という時間に。
オレの存在は意味のあるものなんだ―
「…おう！ おはよう美坂！」
自分でもやりすぎじゃないかってくらい声を出して挨拶をして。
「ええ、おはよう、北川君」
美坂がそう答えてくれる。
今日は久しぶりに、いい日になりそうだった。
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