ねえ、祐一君。
ボクは祐一君が好きです。
いつも笑っている祐一君が好きです。
いつも楽しそうで、幸せそうな祐一君が好きです。
そんな祐一君で居てほしいから。
だからボクはその道を選びます。
大きな代償を支払って。
残酷な代償のHappiness
無意味な日常。
朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、家に帰って、寝る。
そんな当たり前の日常をただ無意味に過ごしている。
２週間前のあの日から俺はもう何も感じなくなっていた。
周りで起こる事全てに意味が無かった。
今日も学校へ行ったが、授業などは何も聞いていなかった。
ただ自分の机に座っていただけで、何もしていなかったのだ。
そして、そんな無意味な学校が終わった帰り道、俺は商店街を歩いていた。
別に商店街に用事は無かったが、あまり早く家には帰りたくなかった。
俺は行く所も無く、ただ商店街を歩いている。
もうすぐ春が訪れるというのに外気はまだ肌寒く、商店街にはあまり人が居ない。
まるで今の俺の心の中がそのまま映し出された様な光景だった。
あの日から………彼女が居なくなったあの日から、俺の心の中には何も存在しなくなった。
ただ暗闇だけが広がっていた。
「祐一君っ!!」
歩いていた時、不意に後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。
俺への呼び方から推理すると犯人は一人しかいない。
だが、今の俺は誰とも話したくなかったので無視することにした。
しかし、俺はここで一つ重大な事を見落としていた。
こいつは無視された位じゃ絶対引き下がらない奴だったのだ。
「ねえ、祐一君っ!! 聞こえてないの!? お〜〜い、ゆ〜いちく〜〜ん!!」
周りの視線も構わず大声で俺を呼ぶ。
このままではうるさいし、何より周りに注目されるので、俺はとりあえず後ろを振り向いた。
「あ、祐一君。 やっと気付いてくれた」
あゆは、やっと俺が気付いてくれたので嬉しそうな顔をした。
「どうしたんだ、あゆ。 食い逃げに失敗して俺に助けを求めに来たのか？」
「うぐぅ、あの日から食い逃げはしてないよ」
「そうか分かった!! 練りに練った食い逃げプランが上手くいかなかったのだろう？ それで俺に作戦参謀を……」
「違うよぉ!! ちゃんとお金払ってるもんっ」
あゆは怒りながら言った。
「ほ、ホントか？」
「うん、本当だよ。 もしかして祐一君疑ってない？」
「もちろん疑っているぞ。 実は今、誘導尋問中だ」
「うぐぅ、ひどいよぉ」
あゆは怒りながら否定するが、それならそのお金は一体どこから手に入れているのだろう?
食い逃げする位だから親から貰ってはいまい。
まさか、四次元ポケットならぬ四次元羽バッグで……
「祐一君、少し元気になったね。 よかった」
「えっ!?」
そこで俺はハッとした。
確かに、あゆに会って俺は少し元気を取り戻したようだ。
今までなら俺お得意のからかいも全く無かったのに。
「あの日の祐一君は凄く悲しそうだったから………ボクもつらかったよ」
そう彼女が居なくなったあの日、俺はあゆに会ったのだ。
そうだ………あの時に俺は……
「ごめんっ、あゆ!!」
俺は、まるで上司に謝るかの様に、あゆに謝った。
「えっ、どうしたの急に？」
「俺、あの時お前に酷い事言っただろ？」
俺はあの時、悲しさのあまりあゆに八つ当たりしてしまったんだ。
俺の事を本当に心配してくれた、優しいあゆに……
「ううん、いいよあの事は。 祐一君はあの時誰よりもつらかっただろうし。 だからボクの事は気にしなくていいよ」
「ありがとう、あゆ」
俺は心から礼を言った。
だが、ここで俺は再びハッとした。
俺は今あゆのおかげで元気を取り戻せている。
でもそれはすなわち、俺が彼女の事を忘れつつあるってことじゃないのか？
その考えが頭を横切り、俺は恐ろしくなった。
「わりぃ。 俺もう帰るわ」
そう言うとあゆは悲しそうな顔をしたが、俺は一刻も早くこの場を去りたかった。
早くあゆから離れなくては、このあゆの優しさに甘えてしまいそうだったから。
そして俺があゆに背を向けて５メートル程歩いた時、あゆが俺に向かって言った。
「ねえ、祐一君。 もう一度真琴ちゃんに会いたい？」
なに………何を言っているんだ、あゆ?
「もう一度あの時間を取り戻したい？」
「あゆ、いい加減にしろよっ!!」
俺は振り向いて怒鳴った。
「会いたいに………決まってるだろ」
俺だって何度もそれを望んだ。
でもそれは叶わないんだ。
叶わないから今までその気持ちを封印してきたのに……
俺は再びあゆに背中を向けた。
すると、再びあゆが質問をしてきた。
「ねえ、真琴ちゃんはどうやって祐一君に会いに来たの？」
「あゆ……」
今度はもうあゆを振り返らなかった。
そして俺はあゆに失望した。
まさかここまで人の気持ちが分からない奴だったとは……
「ねえ、答えてよ。 あの子は何かを代償にして祐一君に会いに来たんじゃないの!?」
「………ああ、そうだよ。 あいつは自分の記憶と命を代償にしてやって来たんだ。 俺なんかの為に……」
そこまで言った時、俺は泣きそうになったが、なんとかこらえた。
「同じだよ」
再びあゆが言う。
「何が………何が同じなんだよ？」
俺にはあゆが何を言いたいのか分からなかった。
「人は自分の願いを叶える時、同時に何かを犠牲にしているんだよ?」
………あゆ、そんな事はとっくに知っているよ。
だから、俺はあいつが戻ってくるならどんな代償でも払ってやる。
ずっと、そう思っていたよ。
「それに誰かを深く愛するってことは、同時に同じくらい自分を愛してくれている人を傷付けるんだよ？」
あゆが今度は結構な早口で言った。
そのあゆの言葉で俺は再びあゆに顔を向けた。
「どういう意味だ、あゆ？」
俺が尋ねると、あゆは一瞬悲しそうな顔をして俯いた。
「ううん、何でもないよ。 それでっ」
あゆは元の表情に戻り、俺の顔を再び見た。
「祐一君は真琴ちゃんに会いたいでしょ？」
「あぁ、さっきも言ったじゃないか」
「うん。 だから、祐一君のその願いも、何か代償を支払えば……」
それは………あゆの言いたい事は、つまり……
「もう一度、真琴に会えるのか？」
俺の問い掛けにあゆは黙ったままだった。
「なぁ、会えるのか!?」
俺はあゆに近づき、両手であゆの肩を掴んで聞いた。
藁にも縋る思いだった。
だが、普通ならそれは不可能なはずだ。
それでも、俺は希望を捨てられなかった。
「明日の朝、奇跡が起きる丘に来て」
あゆがそう言った。
俺がどれほど望んでも叶わなかった事があゆに叶えられるはずが無い。
はずが無いけど……
「分かった!! 必ず行くよ」
俺は何故かそれが叶う気がした。
あゆなら何とか出来るかもしれないという………根拠は無いが確信はあった。
「それからねっ!!」
帰ろうとしていた俺をあゆが引き止めた。
「どうしたんだ、あゆ？」
「………ボクね………探し物が見つかったんだ。 だからもう祐一君には会えないと思う………そ、それだけだからっ」
そう言ってあゆは俺に背を向けて帰っていった。
あゆ………もう会えないのか。
俺にはそれがひどく悲しかった。
しかし同時に、真琴に会えるという喜びもあった。
そして、俺は淡い期待と、心にいつまでも残る寂しさを抱きながら水瀬家に帰った。
名雪と秋子さんは俺が少し元気を取り戻していたので、安心したようだった。
翌日の朝。
俺は目覚まし時計よりも早く起きた。
絶対に寝過ごしてはいけないので名雪に５個も時計を貸してもらって、それもかなり早い時間にセットしたのに……
とりあえず、俺は目覚まし時計を止めて出掛ける用意をする。
かなり時間は早いと思うが、俺は少しでも早く真琴に会いたかったので、目的の場所に行くことにした。
奇跡が起きる、ものみの丘へ……
俺は誰にも会うこと無く、ものみの丘の入り口に到着した。
そして、何の迷いも無く、俺は頂上を目指した。
俺は２週間前にこの丘の事をあゆに話した。
天野が言っていたように………ここは奇跡が起きる場所なのだ、と。
もし、今日再び真琴に会えるのなら、俺はその言葉を完全に信じる事が出来る。
俺は期待に胸踊らせて、迷うこと無く頂上に辿り着いた。
そして、休みもせずに真琴を探した。
「お〜〜い、どこにいるんだ真琴ぉ〜〜!!」
大声で呼んでみたが、返事は返って来ない。
「………早く来すぎたかな？」
そうであればいいが………俺は一抹の不安を抱かずにはいられなかった。
しかし、そんな不安も一気に無くなった。
俺と真琴が最後に座っていた場所……
そこに誰かが座っていたから。
「ま、真琴っ!!」
俺は一目散に走り寄った。
そこに座っていたのは……
「………あゆ……」
斜め後ろ姿だったが、それは間違い無くあゆだった。
俺は少しガッカリしたが、まだ希望を捨てるには早過ぎる。
この後あゆが真琴の居る場所へ連れて行ってくれるかもしれない。
「おい、あゆ。 早く真琴に会わせてくれよ」
そう言って俺は、座ったままのあゆの肩をつかんだ。
その時に、あゆがいつもの赤いカチューシャを着けていないのに気付いた。
そして、あゆがゆっくりとこちらに顔を向ける。
「えっ、何言ってるの祐一………あゆって誰？」
………………なんだって？
「いや、そっちこそ何言ってるんだよ、あゆ。 大体なんで今日に限って俺のこと呼び捨てなんだ？」
一瞬訳が分からず、俺は素であゆに聞き返した。
「あぅ〜 さっきから何言ってるの祐一？」
おいっ、お前の口癖はうぐぅだろうが。
他人の口癖まで横取りしちゃまずいだろ？
「それに、真琴は前から祐一のこと呼び捨てにしてたでしょ!!」
そりゃ、真琴は呼び捨てにしてたがな。
「どうしたんだ、あゆ。 モノマネ大会にでも参加するつもりか？」
そもそも、あゆの声で真琴語を話されると微妙に笑えるんだけど……
「別に真琴は誰のモノマネもしてないでしょ!! それにさっきから、あゆって誰なの？」
おいおい………何なんだよ、これは？
一体何が起こっているんだ？
「あ〜ぁ、なんかお腹空いちゃった。 ねぇ祐一、肉まん奢ってよ」
お前の主食はたい焼きだろうがっ!!
「ほら、祐一早く行こっ」
そう言って………あゆが走り出した。
俺はそれをしばらく、まるで人事の様に呆然と見ていたが……
「ねぇってばぁ〜〜祐一ぃ。 祐一が居ないと肉まん買えないよ〜〜」
そう言われて、俺は訳も分からず………あゆに着いて行って丘を下った。
「う〜ん、おいしぃ〜〜。 ほら、祐一にもあげる」
そう言って………あゆは袋から肉まんを一つ取り出し、俺の手の上に置いた。
ちなみに、ここは商店街にあるコンビニの前のベンチである。
俺と………あゆは座りながらコンビニで買った肉まんを食べている。
「あとは、真琴の分ねっ」
彼女は俺の金で買った肉まんの４分の３を死守していた。
いや、そんな事より問題は……
「ほら、たい焼き屋が営業開始するようだぞ。 買ってやろうか？」
俺は道路を挟んだ向かい側の歩道にある、たい焼き屋を指差して言った。
「えぇ〜、真琴あんまり甘いの好きじゃない。 それならそのお金で漫画買ってよ」
おかしい………明らかに変だ。
俺は丘でこの少女に会ってからここまで、普段使わない頭をフル活用して考えた。
まず、ここにいるのは紛れも無くあゆだ。
だが声は同じでも、言動や口癖、それに仕草などはあゆの物ではない。
では一体誰の物なのか？
それに当てはまるのは俺の知る限り真琴だけだ。
というか、世界中探してもこんな少女は他に居ないと思う。
つまり外見があゆである事を除けば、他は全て真琴なのである。
では、なぜこんな事になってしまったのか？
俺はただ真琴に会いに来ただけだ。
昨日、あゆが商店街で言ったとおり、ものみの丘に来ただけだ。
そう、昨日あゆが商店街で言った……
あゆが………商店街で………
「そ、そういえばっ!!!」
「あぅぅっ！？ ど、どうしたの急に？」
ビックリして俺の顔を覗き込む………少女。
「えっ、いや………後で本屋に行こう」
俺は適当にごまかした。
「えっ、漫画買ってくれるの！？ やった〜〜〜!!」
なにぃ、漫画を買うとは一言も言ってないぞっ!?
だがまあ、それは良いとして……
そう、昨日商店街であゆは言った。
『人は自分の願いを叶える時、同時に何かを犠牲にしているんだよ？』
まさか、その代償っていうのが………あゆ？
あゆを代償にして、真琴が再び戻って来た。
しかし、それでも代償が少なくて、真琴の心だけしか呼び戻せなかったっていうことか？
そんなバカな話があるのだろうか？
それに、俺にはもう一つ分からない事があった。
じゃあなぜ、あゆが代償なのだろう？
これは俺の願いのはずなのに、なぜあゆが代償にならなくてはならないのだろうか？
そこから先は、ほぼ核心に迫っていたに違いない。
だが、隣の少女に袖を引っ張られて、俺の思考は一時中断した。
「ねぇ、食べ終わったし、早く本屋に行こうよ」
「………あぁ、行こうか」
今は考えても何も分からない。
俺は少女と一緒に本屋に向かった。
本屋で適当な少女漫画を買った後、俺は彼女をゲームセンターの前まで連れてきた。
「なぁ、あれ撮らないか？」
俺はゲーセンの外に設置されているプリクラ機を指差して言った。
「うんっ、撮りたい」
彼女が嬉しそうに言った。
「なぁ、あれ撮った時の事覚えてるか？」
そこで俺はさりげなく探りを入れてみた。
と言うのも、俺はまだこのあゆが真琴だと確信することが出来なかったからだ。
だが、本当にこのあゆが真琴なら、プリクラを撮ったことを忘れているはずが無い。
「うん、覚えてるよ。 忘れるはず無いじゃない」
………まさか本当に………本当にこの少女は……
「名雪と秋子さんと、それに祐一と一緒に撮ったから」
真琴………なのか？
「それに………一人で撮った時の事も……」
そこで、彼女の表情が曇った。
「そ、そうか。 悪かったな。 思い出させてしまって……」
真琴が一人でプリクラを撮った時は、本当に寂しい思いをしただろう。
でも、これからはそんな思いはさせない。
「じゃあ、俺と一緒に写ろう」
「うんっ」
彼女はとたんに笑顔になり、それで俺も嬉しくなった。
だが、いざ撮ろうとした時、俺はある事に気付いた。
真琴は自分の今の姿を認識しているのだろうか？
以前の真琴だって鏡くらいは見ていただろう。
もし、自分の姿が全然知らない人………あゆの姿になっていることを分かっていなかったら……
「ねぇ、どうしたの祐一？ 早く撮ろうよ」
彼女が俺の袖を引っ張って画面の前に連れていった。
よし、こうなったらちゃんと自分の姿に気付いているか確かめてみよう。
「分かった分かった。 ほら、お前も早く来いよ」
そう言うと、彼女は画面の前まで来た。
画面には俺と………嬉しそうなあゆの顔が綺麗に映っていた。
「よし、じゃあ撮るから画面をよ〜く見るんだ」
「うんっ」
彼女は確かに画面、そして自分の顔を見ているのだが………変化は無い。
「ほら、もっとちゃんと見ろよ」
「見てるじゃない」
少しだけあゆの顔が怒った顔になった。
しかし、それ以上の変化は無い。
「おいっ、ちゃんと見てるのか!? 実は盲目でしたぁ、なんて言うのはナシだぞ」
「もうっ、なんなのよぉ!! ちゃんと凝視してるじゃない。 早く撮ってよ!!」
どうやら無駄に怒らせてしまったようだ。
「あ、あぁ………悪かった。 じゃあ撮るぞ」
「うんっ」
出てきたプリクラには満面の笑顔と、どう見ても写真には不似合いな困った顔が写っていた。
すっかり日が暮れて、俺と真琴は水瀬家の前まで帰ってきた。
プリクラを撮った後、俺達はそのまま夕方までゲームセンターで遊んだ。
そこで遊んでいても、やはりこの少女は真琴だった。
最初は俺も色々と疑っていた。
だが、これまでの彼女の仕草や言動、そして過去にプリクラを撮ったのを覚えていることから俺はこの少女を真琴と思うことにした。
完全にそう思う事が出来た後は、俺にとって楽しい時間ばかりだった。
姿はあゆでも、真琴が戻ってきたのだから。
「じゃあ入ろう。 名雪と秋子さんも待ってるだろうしな」
「えっ………う、うん」
俺は水瀬家の扉を開けた。
「ただいま〜」
俺が帰ってきたので、リビングから名雪と秋子さんが出てきた。
「祐一おかえり〜〜〜」
「おかえりなさい、祐一さん」
エプロン姿の二人が出迎えてくれた。
おそらく、夕食の用意をしていたのだろう。
台所からは、なにやら良い匂いがしてきた。
そしてそこで、俺は真琴がまだ家の中に入っていないことに気付いた。
久しぶりだから緊張しているのか？
「おい、どうした？ 早く入って来いよ」
俺は扉の外の真琴に言った。
「え、誰かいるの？」
名雪が聞いてきた。
「あぁ、お前もびっくりするぞ。 なにせ……」
そこまで言って、俺は重大な事に気付いた。
あいつは心の中が真琴といえども、外見はあゆなのだ。
いきなり、ここにいるあゆは実は真琴なんだ、と言ったところで二人が混乱するのは目に見えている。
ああもう、いくら真琴が戻ってきて浮かれていたからって、こんな重大な事を忘れるなんて……
そして、俺が心の中で四苦八苦しているうちに、真琴が家の中に入ってきた。
「あ、あゆちゃ……」
「ただいま名雪、秋子さんっ!!」
「………えっ？」
名雪の言葉を遮って発せられた、（二人から見れば）あゆの言葉に予想通り二人は困惑の顔を浮かべている。
「ど、どうしたの？ あゆちゃ……」
「ほらほら、いつまでも玄関にいたら寒いだろう？」
今度は俺が名雪の言葉を遮って、靴を脱ぎ、家に上がった。
そして、真琴に聞こえないように小声で二人に話し掛けた。
「ちょっと色々あって、あいつ今は真琴なんだ」
俺がそう言うと、二人は………特に名雪は驚いた表情をした。
「事情は後で話します。 だから今はあいつを真琴と思って接してやって下さい。 お願いだから……」
俺は懇願するように頼んだ。
「どうしたの？ そんな所で立ち止まって……」
そうこうしている内に、真琴が靴を脱ぎ終えて上がってきていた。
「いや、なんでもないよ。 真琴、とりあえず先にお前の部屋に行くぞ」
そう言って、俺は真琴が何かを言う前に、無理矢理押し込む様に真琴をに階段を上がらせた。
その際、真琴に気付かれないように二人に目配せした。
よろしく頼みます、という感情を込めて。
「違うよ祐一………その子は……」
俺達が２階に着いた時、名雪が発した言葉を俺が聞く術は無かった。
俺と真琴が２階に上がってすぐ、真琴は立ち止まっていた。
「どうしたんだ？ 早く行ってくれよ。 後ろが困ってるだろ」
「後ろには祐一しか居ないでしょ」
そう言って、真琴は左右に分かれている廊下を左に進んだ。
だが、そっちには俺の部屋しかない。
「おい、どっち行ってるんだ？ 俺に夜這いでもするつもりか？」
すると、真琴の動きがピタッと止まった。
「えっ………そ、そんな訳無いじゃないっ!! 誰が祐一なんかを……」
真琴はあわてて引き返して来た。
「へぇ〜、そうだったのか。 残念だなぁ〜」
俺がそう言うと、真琴は少し俯いたまま右側の廊下を進んで行った。
そして………手前にある部屋のドアノブを握った。
「ふ〜〜ん。 実はそうだったのかぁ〜〜」
俺はわざとらしく真琴に言った。
「な、なにが？」
「いや、まさか名雪にまで夜這いをしようとは思ってもみなかったぞ」
そこで、真琴は自分がドアノブを握っているドアを見た。
そこに掛けてあるプレートには『名雪の部屋』と書かれている。
「ななな、何言ってるのよぅ!! そんな事する訳無いじゃないっ!! 普通に考えて分かるわよっ!!」
「でも真琴に普通は通用しないからなぁ。 これを知らなければ常識人とは言えないぞ？」
「そんな事を知ってる方が非常識じゃないの？」
「う〜ん、それもそうだな」
そんなやりとりを経て、ようやく俺達は真琴の部屋に入った。
真琴がいなくなって２週間が経っていたのに、部屋はあの頃のまま何も処分されていない。
いつ真琴が帰ってきてもいいように、あえて片付けなかったのだろう。
俺は名雪と秋子さんに感謝した。
「で、真琴を部屋に連れてきてどうするの？」
真琴が聞いてきた。
「そりゃあ、うら若き男女が二人っきりで部屋ですることと言えば一つしか無いよなぁ〜」
俺は確実に妖しい目をしながら、じりじりと真琴に近付いていった。
「な、何考えてるのよ祐一？」
「もちろん、健全な青少年が考える事だ」
俺はさらに近付いていって、真琴はベッドの奥に追いやられた。
「ちょ、ちょっと祐一、本気？」
「聞くまでも無い。 さぁ早く服を脱げっ」
そう言って、俺は真琴の肩に手を掛けた。
「あぅ〜〜待ってよ祐一。 し、下には名雪と秋子さんが……」
真琴は顔を赤くして抵抗した。
「なんだ？ 着替えをするのに名雪と秋子さんが居たらまずいのか？」
「……………えっ？ き、着替え？」
真琴はきょとんとしていた。
「そうだぞ。 他にナニをするというのだ？ この変態っ」
すると、真琴の（本来はあゆの）顔がさらに赤くなった。
本当にこいつはからかうと面白いな。
「ゆ、祐一が変な事言うからでしょ!! だ、大体、男女二人っきりで部屋ですることじゃないでしょうがっ!!」
真琴は半分怒気を込めて俺に言った。
「それより真琴。 お前少し期待しただろ？」
真琴は照れ隠しの為なのか、俺に背を向けた。
「し、しないわよっ!! それより、もう着替えるから」
「そうかそうか、名雪と秋子さんも待ってるだろうから早く済ませろよ」
「………………」
「ん？ どうした、固まったままで……」
「祐一が居たら着替えられないでしょ!!」
そう言って真琴は俺を外へと押しやった。
「覗いたら承知しないわよ」
真琴が顔だけをドアから出して言った。
「秋子さんみたいに了承してくれよ」
「ダメッ!!」
俺に念を押してから真琴はドアを閉める。
俺はドアの前に座った。
さっきの前半のやりとりは冗談だったが、真琴に着替えてほしいというのは本当だった。
さっきまでの真琴は、もちろんあゆの服を着ていた。
いくら中身が真琴でも、外見や服があゆではなにかと戸惑ってしまう。
だから、あの服は早く着替えてほしかった。
「ふぅ〜〜、なんだかあゆには申し訳無いな」
本当に今更になって思うが、なぜこのようなことになったのだろう。
商店街でのあゆの言葉から推理しても、まだ分からないことはある。
そういえば、今日のあゆはいつも着けていた赤いカチューシャを着けていない。
確かに真琴はカチューシャを着けないが、それだけの理由じゃないような気がする。
それは良くとも悪くとも取れる違和感として、俺の心に貼り付いていた。
それに、どうして真琴は自分の姿を分かっていないのか……
「祐一、待った？」
俺が色々考えている間に着替えが終わったようで、真琴が出てきた。
真琴はいつも着ていた服を着ている。
まあしかし外見はあゆなのであって、あゆがこういう服を着るのは新鮮で………まあ正直可愛かったりもするが……
「よしっ、じゃあ早くリビングに行こう。 名雪と秋子さんも待ってるだろうし」
その気持ちを悟られては絶対によろしくないので、俺は早々に階段を下りた。
リビングでは、秋子さんが臨機応変に真琴の分の夕食も作っていてくれて助かった。
名雪はまだ煮え切らない表情を浮かべていたが、真琴にそれが気付けるはずもなかった。
夕食はなんとか無事に終わって、俺は真琴を最初に風呂に入るように勧めた。
その俺の言葉を素直に聞き入れて、真琴は今風呂に入っている。
その隙を縫って、名雪と秋子さんが俺に近寄ってきた。
「祐一さん。 あれはどういう事ですか？ 本当にあのあゆちゃんが真琴なんですか？」
「ねぇ祐一。 説明してよ」
秋子さんと名雪が交互に質問をしてくる。
「あぁ、俺もその事について今の内に話しておこうと思ってたところだ」
そして、俺は真琴が風呂から上がってくる前に話さなければならないので、簡潔に今までのいきさつを話した。
昨日の商店街でのあゆとの会話。
ものみの丘での邂逅。
そして真琴との商店街での出来事……
全てを話し終えてから、俺は真琴をもう一度この家に住ませてやってほしい、と頼んだ。
「了承」
さすがに物分りが良く、非科学的な事も共に体験した秋子さんはすぐに事情を理解して、了承をくれた。
だが、名雪は……
「違うんだよ!? あれはあゆちゃんなんだよ!？ 気付いてよ祐一……」
そう言ってなかなか認めようとしなかった。
もうすぐ真琴が風呂から上がってくる頃だったので、俺は早口で話した。
「確かにあいつはどう見てもあゆだ。 でも、あゆが犠牲になって真琴を呼び戻したんだ。 だから……」
そして、次の言葉に強い意志を込めて言った。
「だから、犠牲になってくれたあゆの為にも俺はあの真琴を幸せにしたいんだ。 分かってくれ」
そう言って半ば強引に名雪を認めさせようとした。
名雪は俺に顔を見せないように俯いて言った。
「……………うん、分かったよ。 祐一がそこまで言うなら……」
そして、名雪はリビングから出て行こうとしたが、立ち止まった。
「祐一………あゆちゃんを………幸せにしてあげてね」
その言葉の直後に真琴が風呂から上がってきて、名雪は２階に行った。
ここにいるあゆは真琴だって言ってるのに………名雪、本当に分かってるのか？
とりあえず、真琴に先に寝るように言ってから俺は風呂に入った。
いつもよりも、お湯が温かい気がして、心地良かった。
「祐一、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
俺が風呂から上がって、真琴の様子を見に部屋へ行った時、真琴は居なかった。
もしや………と不安が過ぎったが、それは一瞬で無くなった。
真琴は俺が来るまで、ずっと俺の部屋で待っていてくれたのだ。
俺はかなり嬉しかったが、豊富な経験でその感情を巧みに隠した。
だが真琴は両手を広げて、似合ってる？と聞いてきた。
あの時と同じく、あゆの姿でかえるのパジャマを着ていたのでかなり新鮮で可愛かった。
そして、不覚にもその気持ちが顔に出てしまったらしい。
散々からかわれてしまった。
まあその点の復讐はまた今度……
その後、俺と真琴は当然のように一緒に寝るのだった。
何分か経って、真琴は寝たらしく静かになった。
そこで、俺は今日の出来事を改めて考えることにした。
まず、なぜあゆの心にそのまま真琴の心が移ったのか。
昨日、あゆは商店街でこう言った。
『人は自分の願いを叶える時、同時に何かを犠牲にしているんだよ？』
この言葉が真実なら、俺の願いの代償になったのは………あゆ。
もう、あゆに会うことは出来ない………あゆと話すことは出来ない。
それが俺の願いの代償なのだろう。
そこまで考えて、不意に俺の目頭が熱くなった。
もう、あゆと一緒に商店街でたい焼きを食べることは無いのか。
そう考えた時、俺は無性に寂しくなった。
そういえば、あゆはこんな事も言っていた。
『誰かを深く愛するってことは、同時に同じくらい自分を愛してくれている人を傷付けるんだよ?』
そうか、俺はあゆを………いや、もしかしたら他の誰かをも傷付けていたのかもしれない。
でも、俺は真琴を想わずにはいられない。
だから、俺はあゆの外見を持った真琴を絶対幸せにする。
それが、俺の為に自分自身を代償にしてくれたあゆへの唯一精一杯の感謝なのだ。
絶対に、二度と真琴に寂しい思いはさせないと誓うよ。
「ずっと一緒にいてね」
不意にあゆ………いや、真琴が言った。
おそらくは寝言だろう。
だが、俺はその寝言にも心の中で律儀に返答した。
あぁ、ずっと………永遠に一緒にいるよ。
ねえ、祐一君。
人は自分の願いを叶える時、同時に何かを犠牲にしているんだよ？
ボクはいつも楽しそうに笑っている祐一君が好きです。
いつも祐一君には笑顔でいてほしい………それがボクの願いです。
でも、それには真琴ちゃんが必要なの。
ううん、真琴ちゃんでないとダメなの。
でも、真琴ちゃんを呼び戻したらボクは居なくなっちゃうから……
だから、ボクは最後に祐一君と一緒に居たいです。
一緒に楽しく過ごしたいです。
そう願っていました。
でも、その願いにも代償が必要なの。
だからボクは自分の心………ボクの気持ちを代償にしました。
自分の本心を偽って………沢渡真琴としてでも祐一君と一緒に居たかったから。
ボクの演技、結構上手だったのかな？
祐一君も最初はなかなか信じてくれなかったけど、最後には本当にボクが真琴ちゃんだと思っていたし……
やっぱり、プリクラを撮ったことを覚えていたからかな？
ボク、商店街で起こったことは全部知ってるんだ。
だけど水瀬家には入ったことは無かったから、真琴ちゃんの部屋を間違えた時は焦ったよ。
それに、名雪さんは本当はボクが演技していることに気付いていたみたい。
やっぱり、名雪さんも祐一君が大好きだったから気付いたんだよね？
名雪さんもボクと同じように思っていたはずだよ。
真琴ちゃんの代わりになれたら、ってね。
えへへ、ごめんね名雪さん………ボクだけ抜け駆けしちゃって……
………分かってる。
本当は分かってるの………こんな事しても虚しいだけだって。
でも、最後に祐一君と一緒に過ごせて楽しかったよ。
だから、もう悔いはありません。
そしてボクのもう一つのお願い。
いつも楽しそうに笑っている祐一君でいてほしい。
その願いの為に支払う代償は、７年間眠っていたボクの『命』
それから、ボク………月宮あゆについてのみんなの『記憶』
それで、本当の真琴ちゃんが戻ってきます。
みんなの記憶の中からボクは消えちゃうから……
祐一君もボクの事忘れちゃうから……
だから、あのカチューシャだけは、病院に居る本当のボクの元に置いてきました。
祐一君からもらった………あのカチューシャだけは……
朝にはボクは消えちゃってると思うけど、でも真琴ちゃんはすぐに戻ってくるから安心して。
祐一君はもう、寂しい思いをすることはないよ。
ボクはそれを一番に望んでいるから……
うぐぅ。
悲しいよ、祐一君。
ほんとはすごく悲しいの。
ボクの事、忘れないでほしい。
もっと祐一君と一緒に居たいよ。
でも、祐一君が一番に望んでいるのは………ボクじゃないんだよね？
祐一君のためなら、ボクは消えちゃってもいい。
忘れられてもいいから。
だからね、祐一君……
ボクの最後のお願い叶えて下さい。
ボクは朝には消えちゃうから……
だから、それまでは……
「ずっと一緒にいてね」
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