雪解け水
――日常なんて脆く儚い――
授業終了を告げる無機質なチャイムの音が聞こえた。
「ふぁ〜あ、今日もやっと終わったよ」
「うにゅぅ……」
始まるときはとても憎たらしく思うチャイムが終了時にはとてもありがたく聞こえる。
調子がいいな、とは思うがみんながみんなそんなもんだろう。
「二人してよくそんなに寝られるわね」
豪快にあくびをかます俺と、寝ぼけた名雪を見た香里が呆れたように呟いた。
「う〜ん、むにゃむにゃ……。あ、美坂、そ、そんな。うぅ」
顔を高潮させて馬鹿な寝言をほざいている北川。
「……」
香里は無言で北川に肘を叩きこむ。ゴツン、といかにも痛そうな音が教室に響いた。
――当たり前である事が幸せだなんて聞きなれた言葉ではあるけれど、とても実感なんてできなかった――
「おい、名雪。掃除まだかよ〜」
「もうちょっと待ってて」
「早くしてくれよ」
「うん、がんばるよ〜。よいしょ、よいしょ……」
「ったくしょうがねぇな」
「あ……」
「ほら、とっと片付けるぞ」
「うん！」
二人で教室の中を掃除した。
西日が教室の中を赤く染めていた。
名雪がオレンジ色の笑顔を俺に向けていた。
でも……すぐに寂しそうな表情になって
「明日はあゆちゃんと会うの？」
と、俺に訊いてきた。その時には一瞬見えた寂しそうな顔は消えていた。
――実感できた時には全てが手遅れ。「当たり前」は、ほんの小さなきっかけで壊れるのだと――
「よっ、お待たせ。遅れてごめん」
「うぐぅ……遅いよぅ」
「ほら、機嫌直せって。折角たい焼き買ってきたんだからさ」
「物でつろうとしてる……」
ジト目で俺を睨みつけるあゆ。
「いらないのか？」
「うぐぅ……いぢわる」
「ほら」
「……」
「いらないなら俺が食うぞ」
「た、食べるもん！」
「美味いか？」
「……」
「？？？」
「美味しいね、祐一君！！」
ぱぁっと明るく笑うあゆ。
――ひとたび壊れてしまったのなら、取り戻すことがどんなに困難なのかを――
「あ〜、それじゃ今度の課題の提出期限は次の授業まで。テーマはこの街の歴史だ。くれぐれも忘れないように」
そう言って初老の歴史の教師は教室を出ていった。
先生がいなくなった途端に教室はざわめきに包まれ、吹きあがる不満の声。
「時間ねえじゃねぇかよ〜」
「次の授業までだと！？」
「ねぇねぇ、一緒に図書館いかない？」
「あー、ダルいな……」
「おいおい、俺はこっちに越してきたばっかりだぜ？」
「がんばろうね、祐一♪ 今度の日曜日はみんなで図書館行こう」
「はぁ〜、全くタイミングわりぃよなぁ……」
――俺は何もわかっちゃいなかった――
「ふぅ、どうも図書館の空気は合わないな」
「おいおい、相沢。おまえも手伝えよ」
「あ〜、少し休憩したらな」
「私達は向こうの机で始めてるよ〜」
「わかった。しばらくしたら行くよ」
少しの間ぼうっとしてみる。頭上にはとてつもなく広い天井が広がっていて少し落ちつかなかった。
ふと、視界に入った椅子に置かれている見開きの新聞紙。たぶん誰かが片付け忘れたのだろう。
なんとなく気になって新聞を覗きこんでみた。
……七年前の新聞？ ここいら辺の地方紙だな。
駅の改装、動物園のオープンなど、のどかな内容の紙面だった。
たったひとつを除いて……。
少女が街はずれの大木から転落……？
転落した月宮あゆちゃん(10)はすぐに病院に運ばれましたが、意識不明の重態……。
この事件により、自治会が大木を切り崩すことを……。
……。
――俺の日常は崩れていく――
突如訪れた目覚め。
静寂の中で時を刻む時計の音だけが鳴っていた。
視界は暗い。目が慣れるまで少しの時間を要した。時計を手探りで見つけて、文字盤を除きこむ。
午前５時半。
三十分位しか寝ていなかった。
なかなか寝つけない中で、ようやく訪れたまどろみだったがすぐに目が覚めてしまったらしい。
ここ最近まともな睡眠をとれていなかった。
……あんなもの、見なければよかった。そうすれば、俺は何も知らずにいられたのに。幸せだったはずなのに。
例えそれが偽りだったとしても。
俺はあゆの事件を忘れていたらしい。
思い出したのは一週間前。
辛すぎる現実から目を背け、記憶を封じ心の安定を図った。
客観的に見ればそれも仕方ないだろう。俺もほんの１０歳の子供に過ぎなかったのだから。
だから思い出せなかったのだ。この街の一切の記憶を。
だから嫌だったのだ。この街に戻ってくることが。
だから嫌いだったのだ、降り積もる冷たい雪が。
このままベッドにいてもたぶん寝られないだろう。
どうせもう五時だし、起きてしまうか。
俺は温もりを残すベッドから躊躇いなく抜け出て、手早く着替えキッチンへ行った。
まだ五時半では家の中でもかなり寒い。ここは北国でしかも冬。早くエアコンが効くように願う。
エアコンのスイッチを入れて、コンロの前に立つ。冷蔵庫からだした牛乳を火にかけた。
コーヒーをカップに用意し、ホットミルクができるのを待つ。
……。
気が重かった。冬だから日の出も遅い。暗い闇が支配している外の世界。その暗さもあってか、さらに気は沈んだ。
そんな中、雪がわずかな光を反射して白く輝いている。
できたホットミルクでカフェオレを作って飲んだ。
少しは落ちつくかとも思ったがそんなことはなかった。まだ心がざわついている。
考えても俺にはどうしようもない思考のるつぼ。俺はその流れに捕らわれ、もがいている。
夜はゆっくりと白み始めていた。
登校途中。
「祐一、大丈夫？ 調子悪いなら学校休んでいなよ」
「ああ、平気だよ。ほんの少し、体調が悪いだけだ」
「ならいいけど……無理しないでね？」
朝、起きてきた秋子さんは一発で俺の体調が悪いことを見ぬいた。最近は慢性的な睡眠不足でろくに休めていない。
眠れぬ夜を迎えてから一週間。そろそろ体調に影響してきてもおかしくはなかった。
さらには今の精神状態が体調に影響しているのも明らかだった。
足に感じる雪の感触を踏みしめながら名雪と歩く。
自分の足が鉛にでもなったようだ。重い足取りを名雪に気づかれないように自分を奮い立たせる。
そういえば昔はここからでもあの大木が見えたはずだ。
木に登ったあゆが、この街を見渡していたはずだから。
「ねぇ、祐一。やっぱりなにか悩みとかある？」
「……」
「今日の祐一おかしいよ。お母さんが起きる前に起きていたんでしょ？ ちゃんと寝たの？」
「……」
名雪に俺が抱えている悩みを話すかどうか迷う。
名雪はあゆと会ったことがある。わりと仲もいいと思う。
コイツにも俺と同じ気持ちを味あわせることになってしまう。だから今まで話さないでいた。
……でも、もう限界だった。
俺は限界まで追い込まれている。精神へのストレスが体調にまで現れるほどに。
「あゆ、いるだろ？」
俺は静かに話し始めた。
「うん。月宮あゆちゃんだね」
「七年前、あんまりおまえと遊ばなかったのは覚えているか？」
「うん、祐一はいつも一人でどこかに出かけてた……」
昔のことを思い出して表情を曇らせる名雪。もう七年も前のことなのに今にも泣き出しそうだ。
「……え？ 祐一、昔のこと思い出したの！？」
「ああ、少しな」
次の言葉を吐き出すのに少し躊躇う。
「おまえのことをほったらかしにしてあゆと遊んでた」
「……！！」
名雪の顔が驚愕に染まる。
やりきれない思いを必死にこらえているように見える。
でも、これが本題ではないことをコイツは悟っている。
「俺達は街のはずれにある大木のある場所でよく遊んでいた。」
「たしか、もう、切られちゃったんだよね……？」
「あゆはよくその木に登っていたよ。その日も本当に普通の日だった。俺が自分の街に帰ってしまう日だったけど、俺は必ずあゆと再会できると信じていた」
「でも、その木は七年前に切られたって聞いたけど？ 確か、子供が木から落ちちゃって、危ないからって」
「ああ、そうだ。木は切られた。その落ちた子供っていうのが……」
俺はカラカラになった喉を湿らせるように、唾を飲み込み、
「落ちた子供は……あゆ、なんだ」
自分の身を引き裂くような思いで、やっとしぼり出した。
あゆの死を認めてしまった。いや、頭でそうだと分かっていても、心のどこかで否定していた。
それを、俺は口に出すことで本当に認めてしまった気がした。
あの時の光景が蘇る。
その日は少し遅れたんだ。
「遅いよ、祐一君っ」
少し拗ねたような顔をしたあゆが木の上で待っていた。
俺が声の方に目を向けたのと同時に突然の突風が襲ってきた。あまりの強さに思わず目を閉じた。
耳に聞こえる風の唸り声。狂暴な自然の姿だった。
目を開いて空を見上げるとあゆの体が宙を舞っていた。
色の失われた世界で、音も無く地面に放り出されたあゆの小さな体。
夕焼け。赤い雪。冷たい雪の感触と、冷たい雪のように熱を失っていくあゆの体。
「……あはは、落ちちゃったよ」
か細い声がかろうじて耳に届く。
赤い死のカーペットが雪の上に広がっていた。
「祐一君が何度も危ないって言ってくれてたのに、ね……」
俺は首を振って、声にならない声でただ泣いていた。
視界は涙で滲んでしまい、あゆの顔がぼやけて見える。
「約束……。また、会えるよね……？」
なのに、なぜかあゆは笑顔でそう呟いた。
伸ばされた指を必死に掴み、俺は指切りをしようとして、あゆの指と自分の指を絡めた。
まるで、それがあゆの命を繋いでいるのだといわんばかりの強さで。
あゆの全てがこの手にあるのだと思えた。
そして、指切りをしようとして……。
あゆの手は地面に落ちた。
「そんな……だってあゆちゃんは、元気でいるじゃない」
「だって、おかしだろ！？ この街に私服の学校なんて無いって言ってたのは名雪じゃないか！？」
「そうだけど……」
「考えてみれば。、俺達『今の』あゆの事、何も知らないじゃないか！ どこに住んでいるのかも、住所とか電話番号とか、家族とかさぁっ！ なんで知らない！？ 答えは簡単だよ、あゆにはもう何も無いんだ！！」
「祐一……」
肩で息をしながら俯いた。とてもじゃないがこんな顔、人には見せられない。
自分の声が耳に残っている。
もう何も無い……。嫌な言葉だ。
「悪い、名雪。俺、今日学校休む！」
「あ、祐一！？」
呼びとめる名雪を無視して全力で走った。名雪は追ってはこなかった。
冷たい空気を切り何も考えずにただ走っていた。
辛い現実を振りきるように。
そんなことをしても七年前と同じようになるだけなのに……。
また、俺は記憶を封じてしまう？
それもいいかもな。今のままじゃ気が狂いそうだ。
何も見ず、何も聞かなければ、何も感じないで済むんだ。
そうやって駅前のベンチでうずくまっていた。
何時間もずっとそのままで。
「祐一君？」
「え……？」
声をかけられて顔を上げるとあゆが立っていた。
「あ、あゆ！？」
「こんにちは。祐一君学校は？ もしかしてサボりぃ〜？」
いつもいぢめられている仕返しなのか、俺の弱みを握ったとでも思っているのだろう。
嬉しそうでいて、どこか不敵な笑みを見せた。
「お、おまえこそサボりだろ！？」
「ボクの学校は好きなときに登校していいんだよ」
「そんな学校あるか！！」
いつもの調子で突っ込んで気がついたが、あゆの学校の存在。
名雪も首を傾げていた。本当は実在しない学校なのだろう……。
だとすると、やっぱりあゆは……。
「何奢ってもらおうかなぁ〜？」
あゆは俺を強請ろうとしているのか、ヨダレを垂らしながら虚空を見つめている。
……たぶん、いや絶対たい焼きだ。
ただ、今の俺はそんなあゆを見ても少しも笑えなかった。
不安しか沸いてこない。
もしもあゆが……だったら。
駅前の雑踏の中。電車のアナウンスが空しく響いた。
雪が降りそうな天気だった。曇天の空はまるで俺の心理描写みたいで……。
「あゆ！」
「え？ な、何？」
たまらなくなってつい、大きな声を出してしまった。あゆは目をぱちくりとしている。
「七年前のこと、覚えているか？」
「うん、少しは……」
「何を覚えている？」
「えっとね、祐一君と始めてあった時のことでしょ。一緒に遊んだこと。このカチューシャを貰ったこととか」
そう言ってあゆは自分の頭を指した。確かに見覚えのある赤いカチューシャ。
まだつけていてくれたのか……？
ただ、今の俺には嬉しさよりも先に一層強い不安が沸き起こる。
――七年間も同じカチューシャをつけていたはずなのに、新品同様に見える――
「……」
「あゆ……、街外れの大木のこと、覚えているか？」
「大木って何の事？」
どこかで期待していた。
あゆは七年前の事件を覚えていて、それでも病院でなんとか一命を取りとめる。
その話しを俺がきまずそうに話して、あゆは「あの時は心配かけちゃってゴメンね」って苦笑いをしながら昔の話に花を咲かせる。
そんな安っぽいシナリオを思い描いていた。
けど、現実には冷たい壁がそびえたっていた。
「いや、いい……」
「？？ 元気無いよ？ 具合でも悪いの？」
「本当になんでもないんだ、悪いけど少し一人にしてくれ……」
「う、うん……。でも早くおうちに帰ったほうがいいよ？」
「ああ、少し落ちついたら帰るよ」
「うん、じゃあね。気をつけてね」
「ああ……」
……。
……。
それからどこをどう歩いたか覚えていない。
気がついたら辺りはすっかり暗くなっていた。
体の芯までをも凍らせるような寒さは、この街が俺を拒絶しているように思えた。
気がついたら家の玄関に立っていて、名雪が俺を見て驚いている姿がかろうじて認識できた。
そのまま意識は混濁していき、気を失った。
翌日、俺は秋子さんや名雪に止められつつも学校に行った。
「体の調子は大丈夫か、相沢？」
「あんまり無理しない方がいいんじゃない？」
「祐一、何言っても聞かないんだよ。まだ調子悪そうなのに……」
教室に入るや否や北川と香里が心配そうに声をかけてくれた。
名雪の機転で昨日の俺は体調不良で欠席ということになっている。
実際体調は悪いのでちょうどいい。
「ああ、だいぶマシになったから心配ないよ」
とりあえずそう言っておいた。本当はなに一つ解決していないのに。
ただこれ以上二人に心配をかけたくはなかった。
香里と北川は顔を見合わせていた。
程なくして一時間目の教師が教室に入り、退屈な授業が始まる。
シャープペンがノートの上を走る音、チョークが黒板を叩く音。それ以外の音はほとんど聞こえない。
そこにモノがあるだけの空っぽな世界に見える。
きっとこれも、いつもなら何も感じない授業風景なのだろう。
空虚な世界に見えるのは俺の心がそうだから。静かな教室が一層それを引き立てている。
俺はあゆのことを考え続ける。
死んだはずのあゆが俺の目の前に現れた。
どうして？ 俺がこの街に戻ってきたから？
いや、それだけじゃないはずだ。何か意味があるはずなんだ。
この街に帰ってきた俺に会うためだけにあゆが現れたとは到底思えない。
俺が色々と考えているうちに授業はどんどん進んで行き、いつのまにか昼休みになっていた。
食欲は全然わかないので屋上にでてまたぼうっとしていた。
この季節、屋上には身を切るような冷たい風が吹き込んでいてとても寒いはずだ。
なのに俺は特に寒いとも感じず、ただあの大木があった森をずっと眺めていた。
……。
……。
どれほどの時間がたったのだろう？ 随分長い間ここにいた気がする。
段々と意識がはっきりとしてくる。途端に寒さが痛みを伴って襲ってきた。
思わずうずくまる。その時、不意に屋上のドアが勢いよく開いた。
「祐一！！」
「相沢君、まさかずっとここにいたの！？」
「おいおい、サボるなら俺にも一言声かけろよな。秘密のサボりスポット教えてやったのによ」
どうやら授業の間もずっとここにいたらしい。名雪、香里、北川の三人が各々まくし立てながら近づいてきた。
が、振り向いた俺の顔を見た途端、三人の顔色が瞬時に変わる。
「ちょっと、顔が真っ青じゃない！！」
「祐一、祐一！？ 大丈夫！？」
「とりあえず保健室に連れて行こう。ほら、相沢、つかまれよ」
「ああ……」
なにがなんだかよくわからないうちに北川に肩を担がれる。
北川に肩を借りてもほとんど体の力が入らず歩くのもやっとだ。気分も悪い。
大木のあった森は未だに気になるが三人に連れられて俺は屋上を後にした。
「ったく何やってるんだよ！ そんなになるまで屋上にいたのか？ そんなに歴史の授業が嫌いか？」
「やっぱり最近の相沢君おかしいわね。何があったの？」
「……」
「……」
意識が朦朧として正常な思考ができない。
こうなった原因はすぐにわかる。他に思い当たる節もない。俺が気に病みすぎているせいだ。
名雪は事情を知っているはずだが何もしゃべらなかった。
やがて保健室に着いた。俺はすぐにベッドに寝かされる。
「俺、保健の先生を探してくる」
保健室は無人だった。北川が先生を探しにいくらしい。
独特のにおいが漂う、白い部屋。
俺にとっては清潔さを感じるよりも精神的に障るものがある部屋だ。
閉じ込められているような錯覚にとらわれる。
気になることは色々あった。
とても眠れないと思っていたのに、体のほうは正直なものですぐにまどろみの中に落ちていった。
……。
……。
夢を見た。
七年前の、俺とあゆがまだ楽しくいられた日々の夢。
「……だから、これはみっつまで願いをかなえる人形なんだ」
「誰が叶えてくれるの？」
「俺。だから俺にできないことは叶えられない。さぁ、なんでも願いをいってくれ」
「う〜ん、それじゃあね……。ひとつめのお願いです」
一呼吸置き、やがて決心したように口を開いた。
「ボクのこと忘れないで下さい……」
白く霞む夢の中で、あゆの少しだけ悲しそうな笑顔が光に溶けていった。
「……それで、何があったの、名雪？」
「え？ な、なんのこと？」
「とぼけないで。あの相沢君がただの風邪なんてひくわけないじゃない。もっと別の何かがあるんでしょう？」
「……とても信じられる話しじゃないよ？」
「それでも聞きたいわね」
「そうだなぁ。馬鹿は風邪ひかないもんな」
いつのまにか北川が保健室のドアの所に立っていた。
「北川君、先生は？」
「ダメだ見つからない。ま、体調の方はそんな酷くもないだろ。寝てれば直る。」
「そうね……。ただ今回がたまたま発見が早かっただけよ？ 今度こんなことになった時はもっと酷いことになるかもしれないわ」
「そうそう。というわけで、相沢に何があったんだ？」
二人は名雪の方を見つめる。本当に祐一を心配している気持ちがはっきりとわかる眼差しだった。
「わかった、話すよ。先に言っておくね。これから話すのは本当のこと。嘘でもごまかしでもないからね？」
二人が頷く。
「私も祐一に聞いただけなんだけど、確か七年前の冬。祐一が遊びに来ていた最後の年に……」
名雪の顔は真剣だった。
いつも寝ぼけていて、いつも眠たがっていて……。
そんなイメージを払底するほどの真剣さ。その真剣さの中にほんの少しの寂しさが見えた。
だが、二人は何も言わずに淡々と語る名雪の話しを聞いていた。
――30分後――
「……とてもじゃないけど、信じられる話しじゃないわね」
「ああ。俺も霊感なんかないからなぁ」
「やっぱり信じられないよね……」
「名雪もその話しを相沢君から聞いたのよね？ どうして名雪はすんなり信じられたの？」
名雪は一瞬驚いたような顔をした。が、すぐに穏やかな顔になって
「だって、祐一が言ったことだもん。それに、あの時の祐一の目を見れば分かるよ。本当のことだって」
「そう、ね……」
「木から落ちた女の娘かぁ」
北川がポツリと呟いた。
「ああ……。俺の目の前で落ちたんだ」
「祐一！」「相沢君！」「相沢！」
三人の顔がいっせいにこっちを向いた。
ベッドからまだ少しだるい体を起こす。ベッドのきしむ音がいやに大きく聞こえた。
「みんな、迷惑をかけてごめん。……名雪、二人に話しちまったんだな」
「うん……ごめん。でも、香里も北川君も本当に祐一のことを心配してくれてたんだよ？」
「ああ、わかってるよ。別に怒ってるわけじゃない」
「相沢、その話本当なのか？」
北川が鋭い視線を俺に向けてくる。いつもふざけている北川が、だ。
俺は少しの間をあけ「本当だ」とだけ言った。
「……俺はどうすればいいんだろう？ 七年前に死んだあゆが再び目の前に現れて……。しかもあゆ自身は自分が死んでいることを知らないだなんてな……。それでも、ただ俺に会うためだけに現れたとは思えない」
俺がそこまで言い切ると今まで黙っていた香里が口を開いた。
「……普通に考えたら、幽霊の話に普通って言うのも変だけど……なにか未練があって現れたと考えるのが妥当じゃない？」
「未練か……」
何かてがかりはないのだろうか？
あゆが心残りにしているもの。思い出せ、思い出すんだ。
頭の中にある、俺が思い出せた範囲であゆとのことを思い浮かべる。
その時、ふとこちらを覗いている格好の名雪と目があった。
――え？――
突然、脳裏に浮かんだ白い光景。
フラッシュバックして次々と流れていく。
ビデオを巻き戻しているような、写真のスクリーンを次々と回しているよう光景だった。
悲しい白で満たされた光景。子供の泣き声だけが響いている。
底の見えない絶望に囚われた少年。絶望した少年に拒絶された少女。壊れた雪ウサギ。
振り続ける雪は景色を飲み込んでいく。しかし、少年と少女の間にある「溝」は埋めてはくれなかった。
不意に浮かんだ記憶の断片。今までと何か違う感じがした。
いや、共通点はあった。
……悲しさが染み込んだ雪の気配だけは今までに見た夢やイメージと同じだった……。
まだ俺は七年前の出来事を思い出しきっていないのか。
そのもどかしさは焦りや苛立ち、やがて弱かった自分に対する怒りへと変わっていった。
俺はいつまで弱いままなんだ。七年前と何一つ……たったの一つも変わっていない。
「そう言えばあゆちゃん、何か探し物しているんじゃなかった？」
俺から目を逸らした名雪が慌てながら言った。まるで俺から目を逸らしたことをごまかすような言い方で。
香里と北川は「それだ！」と頷きあい名雪が詳しいことを話し始めた。
「あゆちゃんは商店街で何か失くしたものを探しているんだって」
「たぶんその失くしものを探すためにでてきたのね。」
「で、その失くしものを俺たちが探してやればいいんだな」
「うん、そうなんだけど……」
名雪が言いにくそうに口ごもる。俺はそんな名雪をただ見ていた。
「何を失くしたのかわからないんだって」
「何ぃっ！！」
「これは難しいわね……」
途方にくれる北川と眉間にしわを寄せる香里。
「祐一、その失くしものの心当たり、ない？」
心当たり、か……。あの夢は……。
「ああ……あるぞ」
「え！！ 何！？」
「天使の人形だ」
そうだ。あゆの探していたものはたぶんアレだ。
俺は詳しい話を三人に教えた。
七年前にあゆとゲームセンターで遊んだこと。そこのクレーンゲームにあった天使の人形のこと。
俺が取って、「願いを叶えてくれる人形」としてあゆにあげたこと。あゆが最後の願いを残してタイムカプセルに埋めてしまったことを。
話しているうちに段々と名雪の表情が曇っていくのに気がついた。一瞬、話を中断しようかとも思ったがここまで話してしまったので香里や北川が続きを促すのが目に見えたので最後まで話した。
「……と、言うわけだ。埋めた場所は商店街の奥の並木道のどこかとしか言えない。……そんな雲を掴むような話だ。それでも手伝ってくれるのか？」
「あなた一人で探せるわけないでしょ？」
「なおさら頭数が必要なはずだよな」
どこに埋まっているかもわからない。
しかも雪が積もった上から掘り出さないといけないのに、それが当然と言わんばかりに二人は軽く返事をしてくれた。
ほんの少しだけ視界がぼやけた。
それを悟られないように礼を言うと北川に「泣くやつがあるか。友達だろ？」とからかわれた。
人との出会いをこんなに嬉しく思ったことはなかった。誰かに自慢したくなるような友達というのも初めてだった。
「そういう二人なんだよ」
名雪が耳元でそう呟き、微笑んだ。
さっき見えた悲しそうな表情は今は微塵も感じられなかった。
「ここの並木道のどこかに埋まっているんだ」
ホームセンターで道具をそろえた俺たちは商店街の奥にある並木道にいた。
「たぶん、どれかの木の根元にあると思う。……みんなよろしく頼む」
「さぁって、それじゃぱぱっと終わらせますか」
「それじゃあ、はい北川君。がんばってね」
「っしゃー！ 美坂、俺はヤルぜぇ！！」
なにやら異様な盛り上がりを見せている北川。それを見てどことなく楽しんでいる香里。
……北川も大変だな。
「祐一ぃ〜」
二人を眺めていると名雪が話しかけてきた。手には針金とスコップに手袋といういでたちである。
「がんばろうね。ふぁいと、だよ〜」
「おう！ そうだな！」
名雪に威勢良く返事をして俺も作業に取り掛かった。
……もしかして北川達と同じようなことしてるか？
そんなことを感じつつも穴掘りを始めた。
作業はまず木の根元に針金を刺し、手ごたえがあったら掘ってみるというもの。
木の根元に複数の針金を刺さないといけないし、掘り返してもただの石や木の根だったりするので作業は難航した。
……。
……。
もう何時間位掘っただろうか？
手足の感覚は寒さで麻痺をし始め、日もすっかり沈んでしまい周囲は暗かった。
並木道に沿って立っている街灯が心もとない光を発している。
その光を雪が反射してかろうじて木の根もとの確認ができるだけだった。
さすがに口数が減ってきている。皆の顔には疲労の色が滲んでいた。
今は休憩をしているが他のみんなにはそろそろ帰ってもらわないとだな。
後は俺だけでやるしかない。
「んー、結構見つからないもんだな」
「当たり前でしょ。何本の木が立っていると思ってるのよ」
「うにゅう、眠くなってきた……」
「と、言うことはそろそろ九時ね」
「水瀬が時計替わりか……？ それにしてももう九時か」
「うーん、眠いから早く終わらせようー」
「そうね」
三人はそう言ってまた当たり前のように作業を再開する。
それを見た俺の胸に熱いものがこみ上げてくる。
ありがとう、と言う言葉がちっぽけに思える。本当になんとお礼を言っていいのかわからない。
作業する手に力がこもった。
そして……。
「おい、あったぞ！ 相沢っ！」
北川が嬉しそうに声を張り上げる。
「これだろ？」
そう言って手に持っているビンを見せてくれた。
割れたビンの中に泥だらけの天使の人形がはいっていた。
羽や天使の輪はとれてしまっていたが、確かにあの人形だ。
七年前と変わらぬ笑顔のままでこっちを見ている。
「あった……」
そう呟くのがやっとだった。
……久しぶりだな、おまえ。あ〜あ、こんなに汚れちまって……。
笑みがこぼれた。懐かしさと嬉しさが一緒にこみ上げてくる。
「祐一、この子私が直してあげようか？」
「できるのか？」
「うん。ほとんど作り直しってことになっちゃうけど」
「直せるならよろしく頼む」
「任されたよ〜」
「それじゃあ私達はそろそろ帰るわね」
「俺も帰る。送っていくよ、美坂」
「相沢君、ここからが本番よ。がんばってね」
「しっかりやれよ」
二人はそういい残して歩いていった。
「私達も帰ろう」
「ああ、そうだな」
あゆが探していた天使の人形。
こいつのためにおまえは現れたのか？
「最後の願いは未来の自分か、それを必要としている誰かの為に残してあげたいんだ」
あゆの幼い声が頭の中で響いた。
――翌日――
「じゃあ行って来るよ」
名雪に直してもらった天使の人形を携えて俺は玄関をくぐろうとした。
「待って、私もいくよ」
名雪がコートを羽織って階段から降りてくる。俺は少し躊躇ったがここまで手伝ってくれたこともあるので一緒に行くことにした。
目指すのは街の外れ。俺とあゆで作った『学校』へ。
道の途中、緊張している俺を気遣ってか名雪が話しかけてきた。
「祐一、大丈夫？」
「ああ、平気だ」
「……その人形を見せたらあゆちゃんはどうするのかな？」
「たぶん、昔のことを思い出すと思う。木から落ちたことも含めて」
「……祐一はそれでいいの？」
不安げな表情で俺を見つめている。
「ああ。放っておくわけにはいかないしな。どっちみちこれを掘り出した以上、持ち主に返さないと」
「あゆちゃん、消えちゃうのかな？」
「たぶんな。目的を果たせばこの世界にとどまっている必要なんかない」
「でも祐一がいるよ」
突然、名雪が静かだが力強い口調で呟いた。
「お、俺は今まであゆのことを忘れていたんだぞ？」
「しょうがないよ、辛かったんだから……。抱えていたら心がバラバラになっちゃいそうなくらい辛かったんでしょ？」
「……確かに辛かった。でも忘れていた言い訳にはならない。結局俺の弱い心が原因だったんだ」
それきり俺たちの会話は途切れた。
二人とも無言で白い街並みを歩いた。
やがて街外れの森が見えてくる。まだ昼間を少し過ぎたくらいなのにそれは薄暗く、怪物の口を連想させた。
ぽっかりと口を開けて人が来るのを待っているような。
もちろんそんな訳もなく、ここはただの森だった。
鬱蒼と茂った木々の間を縫うようにして歩き、しばらく立つと視界が急に開けた。
あの大木があった、森の中の広場。
俺とあゆの『学校』
「祐一、どうするの？」
名雪が不安そうに聞いてきたがそれには何も答えずに大木の切り株の上に腰を降ろした。
「ここで待つ。きっとあゆは来る」
根拠はなかったが不思議な自信があった。
そう……俺たちはまた会うと約束したのだから。この場所で……。
……。
……。
真上にあった太陽が西へ傾き、辺りを朱色に染めるころ。
雪を踏みしめる音が近づいてくる。待ちわびた訪問者が現れた。
「祐一君、名雪さん……」
訪問者は怯えたような、不安そうな眼差しでこちらを見つめている。
「今度はあゆが遅刻だったな」
「……ごめんね」
「おあいこだよ」
「うん……」
静寂。
名雪はもう随分長い間言葉を発していない。
「……天使の人形、見つけてくれたんだね」
「ああ。これがあゆの言ってた探し物だろ？」
「うん……。そう」
「まだ最後の願い聞いてないもんな」
俺がそう言った瞬間、名雪が泣き出したように思えた。
実際、俺は名雪に背を向けていて表情が見えるわけでもすすり泣きが聞こえてきたわけでもないのに。
空気が……名雪の気配が泣いているように思えた。
そういえば昔から泣いてばかりだったな。
俺がからかって、泣いて。泣きながら俺の後を着いてきて……。なんだ、今も何も変わっちゃいない。
そんなことを思っていると、唐突にあゆが口を開いた。
「お待たせしました。ボクの最後のお願いです」
「……」
「……ボクのこと忘れてください」
「え？」
「あゆちゃん？」
何をいっているんだ、あゆ？ おまえのことを忘れろって？
「あ、ちゃんと言うとね……七年前の出来事を全て思い出した上でボクのことを忘れてほしいんだよ……」
淡々と語るあゆ。その冷静さが逆に怖かった。
たぶん自分の感情を無理やり押し付けているのだろう。両手は拳を握っていて細かく震えている。
「祐一君には辛いこともかもしれないけど……。でも、もう一人いるんだよ。祐一君とボクの他に、悲しみに埋もれてしまった人が」
そう言うとあゆは名雪の方を向いた。
「ね、名雪さん？」
「……わ、私……なんのことかわからないよ」
「もういいんだよ、押さえつけてなくて。祐一君だってもうわかってるよね？」
俺の方を向く二人。じゃああの時の記憶の断片は……。
白い景色。壊れた雪ウサギ。
「雪ウサギ、だな。俺が壊してしまった」
「祐一……」
「すまん、名雪。俺……俺、名雪の気持ちを踏みにじった！」
俺は自分の悲しみだけで精一杯だった。俺を慰めようとしてくれた名雪が差し伸べてくれた手を払い、雪ウサギを壊した。
その時の俺の中には絶望だけが果てなく続いていた。
全てがどうでもよかったんだ。
「でも、じゃあなんでっ！？ あゆのことを……？」
あんなに心配していたんだ、とまで言い終わる前にすぐに名雪が言葉を被せてきた。
「だって、祐一、あゆちゃんしか見えてなかっただもん！！ 叶わない想いならいっそ手の届かない所に行って欲しかった！！」
「そんなことないよ、名雪さん」
「え……？」
あゆはその小さな手で名雪の頬を伝う雫を拭った。
「祐一君も気づいてるよ。誰が一番好きな人か……。七年前も、それよりもっともっと前から二人は一緒にいたんでしょ？ そしてこれからも二人はずっと一緒にいられる……。ボクとは違うね」
そういうと掠れた声でアハハと笑った。
「ボクと一緒にいたのは、大事な人を失くしちゃったボクのことがただ心配で少しの間一緒にいてくれただけ。祐一君がずっと気づかなかっただけで、ボクと会うずっと前から名雪さんのこと好きだったんだよ」
あゆは泣いていた。
そして……。
「だって、祐一君はいつも名雪さんのこと考えてるもん」
その言葉と同時に森中に羽が、羽の嵐が吹いた。
あゆは泣き顔のまま薄く光っている。翼を広げて、空へ。
「じゃあね、祐一君、名雪さん。二人とも仲良くね」
「あゆ！」
「あゆちゃん！！」
「……さようなら……」
あゆは羽に包まれ、風が止むと消えていた。
元の静寂を取り戻した『学校』に一枚の羽が落ちてきた。
それは風に乗り、ゆらゆらと揺れながら切り株の上に落ちて溶けるように消えていった。
バカだな、俺……。
あゆにここまでさせないと自分の気持ちにすら気がつかないだなんて……。
大馬鹿野郎だよ！！
俺は名雪の手を握り締めた。
「祐一……？」
当然のように名雪は慌てている。
「あゆの為にも、俺は本当の気持ちをおまえに伝えなきゃいけない……」
「祐一……」
俺の、本当に好きな人。
この街にいた時はいつも一緒にいてくれた。
俺の後を一生懸命追いかけていて……。
俺が落ち込んでいたとき慰めようとしてくれた。
俺は悲しみのあまりその想いを踏みにじってしまったけど……。
――でも、本当は――
「名雪、ずっと……ずっと好きだった」
目を見開き、驚いた表情の名雪。涙は途切れることなく流れ続けていた。
たぶん、俺も泣いてる。この涙は……なんだろう？
悲しみ？ 嬉しさ？
その答えは、多分両方。
「……私も、祐一のこと好き……」
七年間の想いは今、伝えられた。
深い雪の中で埋もれてしまい、ずっと気がつかなかった大切なこと。
それは雪解け水が流れるように、今ようやく流れ始める……。
とある病院の一室。
部屋の中で動くものは少女にいくつも取り付けられた管の先にある機械の表示だけ。
その他の動きはない。カーテンの揺らめきも、人の気配も、空気の流れさえも。
その静寂を破ったのは部屋の中央にあるベッドの上で横たわっている少女。
無表情な顔が少しづつではるが、ゆっくりと変わっていく。
それは微笑み。
優しさと暖かさに満ちた、この世で一番優しい微笑みだった。
そしてその病室の全ての動きは消えた……。
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