最後の奇跡
プロローグ
ドンドンドンドンドン。
「おい、名雪！ いつまで寝てるんだ。そろそろ起きろ！」
部屋の外からいつもの通り、扉を叩く音と祐一の大声が響いてくる。
「……うにゅ……」
そして名雪がそのくらいで起きるはずが無いのもまた、いつものことだった。
ジリリリリリリリピピーピピーピピージャーンジャーン。
名雪の部屋のそこかしこに置かれた無数の目覚し時計もまた、セットされた時刻になったらしく一斉に鳴り始める。
「くー…………」
騒音の見本市になったような部屋の中で、猫の足型模様のパジャマに身を包んだ名雪はしかし安らかな寝顔を見せ続けている。
母親の腕の中で眠る赤ん坊のように穏やかに閉じられた瞳は、まるで開く気配がない。
「おい！」
廊下から呼びかける祐一の声が一層大きくなった。
「さっさとその目覚まし止めないと近所迷惑だろ。大体なんで毎朝そんな中で寝てられるんだお前は！」
「ん……」
ごそごそ……。
祐一の声に反応したように、名雪は小さな寝返りを打ったが――。
「――けろぴー……」
一緒に布団にくるまっている大きなカエルのぬいぐるみを抱き寄せると、名雪はむにゃむにゃと呟いた。
「すー……」
そのまま再び寝息を立て始める。
ドアの向こうでは、祐一はもはや叫び疲れていた。
「あ〜〜、もういいかげんに起きろ！ 一緒に出かけるって言ってたのお前だろうが！」
「………………え」
気持ちよさそうに閉じられていた名雪の目が、ようやく開いた。
１.
「しかしお前、ホントにイチゴサンデー好きだよなあ……」
ゴールデンウィークに入ってから急激に軽くなった財布を振りながら、祐一は嘆息した。
「うん。わたし百花屋さんのイチゴサンデーだったら、毎日でもいいよ」
上機嫌の名雪は、いつものようにとろとろとしたのんびりな口調で祐一に答えた。
「でもさあ、いくらなんでも食べすぎだぞ、最近」
「だって、暖かくなってきたから冬よりもっと美味しいんだよ」
「そうは言っても、連休に入ってからほとんど毎日じゃないか」
「わたしはいいよ」
「おれが良くない。金を払う方の身になれ」
「でも、おいしいよ」
相変わらず３メートルくらいずれた答えを返しながら、まるでこの世の幸せを独り占めにしたような顔で名雪は微笑んだ。
「……はあ」
恋人にこんな反応を返されるたび、祐一は苦笑しながらため息をつくしかない。
（やっぱ末期症状だよな、おれも……）
この笑顔を見ただけで、どうでも良くなってきてしまうのだ。香里や北川に冷やかされるのも無理ないと自分でも思う。
「わかったわかった、もういいよ。まあ、これで借りも減っていってるわけだしな。あとどのくらいだ？」
「イチゴサンデー、７つ」
「なにっ！」
祐一は思わず立ち止まった。
てく、てく、てく……ぴた。
「……どうしたの、祐一？」
５歩くらいそのまま歩いてからようやく気づいた名雪が、祐一の方をふり返りながらのんびりと訊ねる。
心から怪訝そうな顔をしている名雪に、祐一は詰め寄った。
「全然減ってないじゃないか！ どういうことだ！」
「当たり前だよ」
ほわんと微笑みながら名雪は歩み寄ってくる。
何がだ、とジト目で見つめる祐一の耳に、名雪の顔がそっと近づいてきた。
「だって……借りなんか無くっても、デートの時は男の子がおごってくれるのが当たり前だもん」
ほんのりと頬を赤らめながら甘えるようにささやく。
その声が可愛くて――道の真ん中だというのに、祐一はどきどきしてしまった。
「だから――祐一はまだわたしに、イチゴサンデー７つ分の借りがあるんだよ」
ちょっと恥ずかしそうに笑いながら言う名雪に、祐一も諦めたような笑顔を向けた。
「わかったよ。クラスの奴らと一緒に行ったときとか、デートじゃないときに少しずつ返すことにする」
「うんっ」
いつもどおりの穏やかな午後。
ゴールデンウィークで学校も無く、部活が休みの日はどこへともなく出かける。
買い物をして、イチゴサンデーを食べて、雪もなくなって気持ちのいい陽射しが降り注ぐ中、他愛もない話をしながら大好きな人と並んで歩く――。
これから何が起こるかなんて考えないくらい、幸せだった。
だからその時、名雪は何が起きたのか理解できなかった。
交差点をわたっていた時、びっくりするほど大きなキキィーーッという音に、隣を歩いていた祐一が急に叫んだ。
「危ない！！」
その声が聞こえるのと同時に、名雪は祐一の手で後ろに向かって突き飛ばされた。
しりもちをついて呆然とする名雪。
「えっ？」
ドンッ！！
名雪が座り込みながら見つめる前で、名雪を突き飛ばした格好のままの祐一の姿が激しい音とともに突然掻き消えた。
代わりに名雪の視界を横切ったのは、急ブレーキの音を響かせる自動車だった。
「――！！」
はっとした名雪が横を向いた先で――。
自動車に突き飛ばされた祐一が宙を舞って地面に叩きつけられる様は、まるで悪夢の中のワンシーンのようにゆっくりと――本当にゆっくりと、名雪には見えた。
周りに大勢の人が集まってくる。救急車を呼んだ人がいたらしく、サイレンの音も少しずつ近づいてきた。
雪の上でなくとも良く映える真っ赤な水たまりの中で、うつぶせになった祐一はぴくりとも動かなかった。
道路に広がる鮮やかな赤を、名雪は呆然と見つめていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
……理解したくなかったのかもしれない。
ほんの数分前まで続いていた幸福な時間が、こんなにも突然――あっさりと砕け散ってしまったことを。
目の前のどろりとした赤色は、少しずつ広がっていく。
名雪に感じることができたのは、漠然とした感覚だけだった。
それは２か月ほど前の――母親が車にはねられたと聞いたときに抱いた、心が壊れてしまったような虚無感によく似ていた。
何の感情も映し出さない名雪の顔を、静かに涙だけが伝った。
２.
祐一は目を開くと、辺りを見回した。
初め、祐一は雲の中にいるのかと思った。
どこまでも続いているようなただ真っ白な空間に、祐一は浮かんでいた。
右を見ても、左を見ても、自分の姿以外何も見えない。
月並みだとは思ったが、天国か何かを連想させるような光景だった。
なぜ、こんなところにいるのか――。
夢の中のようなおぼろげな意識の中、考える。
「……」
しかしまるであらゆる記憶を失ったような、この不明瞭な白い景色にも似た薄ぼんやりとした思考しかできない。
頭に霞がかかったように、何も思い出せなかった。
自分のこと――友だちのこと――家族のこと――何もかも。
ぼうっとして何も考えられず、何も思い出せず……記憶喪失にでもなったようで、祐一は途方に暮れた。
それでも――何かを、忘れているような気がした。
それだけは絶対に忘れてはいけない、本当に大切なものだったという、おぼろげながらも確信に満ちた感覚。
それは――。
「――祐一君」
不意に背後からかけられた声。
懐かしい声だったような気がした。
祐一はその声にひかれるようにふりむく。
後ろにいたのは、羽の生えたリュックをしょった小柄な少女だった。
「あゆ……」
この町に引っ越してきてすぐ、商店街で後ろからぶつかってきた少女――
（……いや、違う）
思い出した。
幼いころ、泣いていたのでたい焼きを買って慰めてやった女の子。
その後も、毎日一緒に遊んだ少女だった。
７年間閉ざされてきた、祐一の淡い初恋の記憶――。
彼女と再会したこの間の冬にも思い出せなかったその記憶が、今よみがえった。
「祐一君、やっと思い出してくれたんだね」
「ああ」
微笑む少女の顔を見ていると、不思議なほどに心が穏やかになった。
ガラにもなく、あゆに笑い返す。
祐一の胸には、大切なものを思い出すことのできた満足感が広がっていた。
しかし――。
（――！？）
それは、ほんの一瞬だった。
しかしその感覚は、それでも祐一の動きを凍りつかせるのに充分だった。
あゆの顔を見つめていた時――。
目の前の少女とは違う笑顔が、一瞬心に浮かんだのだ。
祐一は改めてあゆを見た。
その屈託ない笑顔は、祐一の望んでいたものに思えた。
しかし、さっきのあの一瞬の感覚を思い出すと――記憶の奥から、どこか無視しがたい違和感が湧き出してくる。
自分が望んでいたのは――本当に必要なのは、別のものなのではないかという違和感だ。
そしてその感覚は、あゆに声をかけられる直前に感じていたことに直結していると、祐一は気づいた。何か、本当に大切なこと――絶対に忘れてはいけないことを思い出せないような焦燥感が、祐一の心の隅で小さく、しかし無視しがたいほどに強くくすぶっていた。
しかし――。
「……あゆ」
心の深いところが発する、「違う」という警告を振り払い、祐一はあゆに駆け寄った。
顔を思い出せない女の子が、祈るように自分を見つめているような微かなイメージが脳裏をよぎった。
この数日間、名雪はほとんどつきっきりで祐一のそばに座っていた。
この病室から出た――いや、祐一の眠るベッドの脇のイスから離れたことすら、数えるほどしかない。
秋子や医者たちが心配して何度も休むように言ったが、名雪の意思は固く、今では何も言わなくなっている。
祐一の意識は、あれから一度も戻っていない。
幸い怪我は思ったほどではなく、初日の手術が成功した段階でほぼ安心の状態になった。
しかし車にはねられたときに頭を強く打ったらしく、脳への影響の方が大きかった。
怪我はもう大したことがないのに、いつまでたっても意識が戻らない。
これ以上はもう、病院でもどうしようもないらしい。
黙っていれば意識が戻るかもしれないが、突然心臓が止まる可能性もある――それが医者の言葉だった。
そのいずれかの瞬間を見逃すまいとするかのように、名雪は祐一のそばを離れようとしなかった。
「祐一……」
名雪の手がそっと伸び、祐一の顔に優しく当てられた。
事故の瞬間のショックを脱したあと、初め名雪はひどく取り乱し、泣きながら自分を責めていた。
――わたしのせいで……わたしのせいでっ、祐一がっ！――
秋子が必死になだめる横で、手術中のランプの灯った部屋の前の長椅子に腰かけて涙を流し続ける名雪の姿は、痛々しかった。
しかし涙に暮れていた名雪は、ふと思った。
これでは、あの時と何も変わらない――と。
あの時――秋子が交通事故にあった時も、自分はただ悲しみに押し潰されていることしかできなかった。そんな名雪の姿を帰って来た秋子が見たら、すごく悲しんだだろうに。
そして、祐一も。
名雪が部屋でふさぎこんでいた間の祐一は、今思い返してみると自分に負けないくらい、辛そうだった。
自分のことを本当に心配してくれていたのだと、今の名雪にはわかる。
だから、今度はもう泣いてはいけない、と思う。
祐一が心配するから。
あの時励ましてくれた祐一が、戻ってきて悲しい思いをしないように、今度は自分ががんばらなくてはいけない――そう、名雪は決心したのだった。
祐一の頬に当てた手をそのままに、名雪は何も答えてくれない祐一に話しかけた。
「祐一……」
潤んだ瞳で祐一の顔を見つめる名雪の声は、震えていた。
「まだ、７つ分貸しがあるって……言ったばっかりだよ……」
泣いてはいけないとは思っていても、涙がこぼれてしまうことはあった。
「だから…………ダメ、だよっ……」
３.
その夜、祐一の容態が急変した。
心拍数が急速に下がり始めた。
秋子と名雪が心配そうに見守る中、祐一の傍らの機械に表示される線の上下動は、少しずつ小さくなっていく。
懸命に最後の手を尽くす医師たちの顔にも、次第に諦めの色が現れてくる。
震えながら祐一を見守りつづける名雪の手を、秋子が自分も震えながら握りしめた。
７年前のようにたい焼きを食べながらふたりが辿り着いた先は、山の中の開けた空間だった。
見上げるほどに高い１本の大きな木を中心に、広場のようになった場所。
「覚えてるよねっ、祐一君」
「ああ」
そこはふたりだけの学校だった。
「この場所に来るのも、本当に久しぶりだよな」
祐一は雪に包まれた木々を見回した。
ほかに誰も知らないような、秘密の場所。
「祐一君といっしょの学校に通いたい」というあゆの願いを聞いた祐一は、ここをふたりの学校と決めたのだった。
「そういえば……次に会う時は、ここで会おうって言ってたんだな」
「あ……」
あゆは驚いた表情を浮かべると、泣き笑いのような笑顔で祐一を見た。
「覚えてて、くれたんだ……祐一君」
「ああ」
照れて赤くなった頬を隠すようにそっぽを向きながら、祐一は短く答えた。
「べ、別に、そんなに大したことじゃないだろ？」
「だって……祐一君、昔のこといろいろ忘れちゃってたみたいだったから」
あゆは安心したような笑顔を浮かべた。
「ねえねえ祐一君。今度こそいっしょにあの木に上ろうよ！」
あゆのミトンが、広場の真ん中の大木を指した。
チラッとその木のてっぺんを見て、祐一は渋面になる。
「お前な……俺は高いところがダメだって、言っただろ」
７年前にすでに何度も言ったことだ。
「えーっ！？ 祐一君、まだそんなの苦手なの？ なんだか子どもみたいだよ」
「お前にだけはそんなこと言われたくないっ！」
すかさず言い返す祐一。
「大体、木登りとかするのだって子どもだろうが。おまえの方が似合ってるぞ、それは」
「うぐぅ、ひどいよ！」
あゆも怒鳴り返す。が――。
不意にシュンとなった。
「……ボクね。前から一度でいいから、あの景色を祐一君といっしょに見てみたかったんだ」
「……え」
からかいモードに突入していた祐一は、気勢をそがれて言葉をつまらせた。
「あそこから見える街の景色――すごくきれいなんだよ。……なのに祐一君、いつも下で待ってるだけなんだもん」
うつむく少女の小柄な身体は、いつもよりももっと小さく見えた。
「祐一君にも見せてあげたいのに……祐一君と、いっしょに見てみたいのに……」
「あゆ……」
祐一は気まずそうに頭をかいた。
（そこまで言われるとなあ……）
高いところを我慢するのも、１回くらいならかまわない。
「……わかったよ。今日だけだぞ？」
祐一が言うと――。
「えっ、いいの！？」
あゆはパッと顔を上げ、わーい、と手を上げた。
さっきまでの声音が嘘のように、飛び跳ねんばかりにはしゃいでいる。
「お・ま・え・は〜〜！」
祐一の声は震えていた。
樹上に吹く風は、心なしか下よりも冷たい気がする。
「ほらっ、見てよ！」
「ああ……」
あゆに言われるまでもなく、祐一は木の枝に座って眺める景色に見入っていた。
夕焼けに染まる町並みは、見慣れたいつもの学校や商店街などと同じ物とは思えないくらい奇麗だった。
「この景色をね、祐一君といっしょに見たかったんだ……」
微笑みながら呟くあゆに、祐一は答えた。
「……これから、いつだって見てやるよ」
「えっ？」
赤く色付く眼下の光景に目をやったまま、祐一は続ける。
「あゆのしたいこと、おれにしてほしいこと……なんだって叶えてやる。７年間会えなかった分まで、全部さ」
どこまでも優しい声だった。
あゆは黙って下を向く。
「これから時間はいくらでもあるんだから」
「これ、から……」
「……あゆ？」
祐一はあゆに向き直る。
あゆの顔にはなぜか、悲しそうな表情が浮かんでいた。
「……ごめんね、祐一君」
あゆはうつむくと瞳を翳らせた。
「ボク……もう、行かなきゃいけないんだ」
「行くって……どこに！？」
「……遠い、ところ」
漠然とした、それでいて不吉なものを感じさせる言葉だった。
「だからボク、もう祐一君には会えないんだよ」
普段の元気さからは想像もできないような、沈んだ声であゆは言った。
「そんな……そんなのってないだろ」
祐一は絞り出すような声を出した。
「なんとか、なんとかならないのか？ 本当にもう……」
祐一はすがるようにあゆを見る。
「それは……」
少女の横顔は苦しげだった。
「……ボクはもう、ここにはいられないんだよ。それはどうにもならない。――でも……」
あゆはまっすぐに祐一を見据えた。
「あゆ？」
祐一を見上げる大きな瞳が、求めてはならない願いを訴えかけるようにかすかに揺れる。
「祐一君が、ボクといっしょに来てくれるなら……それなら……」
「それなら、できるんだな」
ためらうように言葉を途切れさせるあゆに、祐一は自分でその先を続けた。
あゆと離れずにすむ。
この少女と、永遠に暮らすことができるのだ。
「……祐一君は、本当にそれでいいの？」
あゆの瞳は戸惑いに揺れていた。
「ああ」
「だって……だって祐一君は……」
今にも泣き出しそうな顔のあゆ。
「祐一君が、本当に好きなのは……」
しかし――。
あゆは苦しそうに、ぎゅっと強く瞳を閉じた。
その先の言葉は――その人の名前だけは、どうしても言えなかった。
わかっていたから。
それを言ってしまったら――思い出してしまったら、祐一は自分と一緒には来てくれないことを。
「……本当に、ボクでいいの？」
「ああ」
祐一は優しく答えた。
その優しさが、あゆの中の罪悪感を激しく揺さぶる。
（ボクでいいはず無い……ボクはわかってる。本当ならそんなこと、絶対に言うはずないって！ ……祐一くんは思い出せていないだけで……）
なのに自分は、それを隠したまま……。
ずるいと思った。
自分がこんなに身勝手な人間だったとは思わなかった。
――いや、今ならまだ間に合う。
祐一に『あの人』のことをちゃんと思い出させて、自分と一緒に来てはいけないと言えば、それでいい。
あゆも大好きな『あの人』や、祐一自身のことを考えれば、そうしなければいけない。
いけないはずなのだ。
それでも――。
あゆは潤んだ目で祐一を見上げ、そして――その願いをついに、口にしてしまった。
「ずっと……ボクと一緒にいてくれる？」
その言葉に、祐一は――。
機械に映し出されていた微かに波打った線が、まっすぐになった。
「――！！」
祈るように手を組んで見つめていた名雪の身体がこわばった。
祐一の目や手首を何か調べた看護婦が、無言で首を横に振る。
「……ご臨終です」
担当医が疲れたような声を漏らした。
「うそ……」
虚ろに瞳を見開いた名雪は、物言わぬ祐一の身体に近づいた。
「うそ……だよね、祐一」
名雪の目には、今にもこぼれそうに涙がたまっている。
「お願い……お願いだから、目、開けてよ。ねえ……」
すがるように言いながら、名雪はベッドに横たえられた祐一の体を軽くゆすった。
――何も、答えてはくれなかった。
いつも名雪の言動に呆れたり、ちょっと怒りながら朝の弱い名雪を起こしに来たり、意地悪に名雪をからかったり、時にはすごく優しかったりした、祐一の声――名雪の一番好きな声は、発せられなかった。
「……うっ！」
秋子が、顔をおおって低い嗚咽の声を漏らす。
それを聞いて、名雪の瞳にたまっていた涙が堰を切ったようにあふれ出た。
「嫌だよ、そんなの……やだ……お願い、返事してよ……祐一……ゆういちいいいいっ！！」
あとからあとから湧いてくる涙を、名雪はもう止められなかった。
崩れ落ちるようにして、名雪は横たわる祐一の胸に顔を埋めた。
「名雪……そろそろ、祐一さんを……」
真っ赤な目をした秋子が、ようやく泣き声をやませた名雪の肩に手を置いた。
祐一の遺体を、病室から霊安室へ運ばなくてはならない。
しかし――。
顔を上げた名雪は祐一の方を向いたまま、秋子に背中を向けて首を横に振った。
「ダメ、だよ……」
涙声で呟くように言う。
「祐一は……死んだりしないよ……」
「名雪…………」
秋子は娘の背中と、動かない祐一を交互に見つめた。
「気持ちはわかるけど、祐一さんは……もう……っ……」
秋子は再び声を震わせる。
しかし名雪は、じっと祐一の顔を見つめている。
「だって……言ったもん……」
「え……？」
秋子は怪訝な目で娘を見た。
「祐一は……約束してくれたもん……ずっと、わたしのそばにいるって……どこにも行かないって…………祐一のこと支えにしていいって、言ったもんっ……！」
ぎゅっと閉じた目から、また涙が流れ落ちていく。
「だから……祐一は死んだりしないよ……わたしを置いて、いなくなったりしないよぉっ！！」
「名雪……」
名雪の叫びを聞いた秋子はうつむくと、医師に向き直った。
「先生……一晩だけ、お願いできませんか？」
「水瀬さん……」
「お願い……します」
秋子は深々と頭を下げた。
「……わかりました」
４.
冬を過ぎたとは言っても、深夜の病室は暗い雰囲気もあいまってやはり寒かった。
祐一が意識不明だった時と同じように、名雪は黙ってベッドのかたわらに座っていた。
時折、大好きな人の存在を確かめるように祐一の身体に触れてみる。
――ぞっとするほど、冷たかった。
名雪をいつも安らかな気持ちにしてくれる温もりはもう、そこにはない。
「っ……」
また涙がこぼれそうになってしまう。
名雪はそっと、祐一の枕もとに置かれた目覚し時計を手にとった。
その白い時計は、以前から名雪のお気に入りの目覚ましの一つだった。
しかし今では、大切な――本当に大切な思い出の詰まった、何にも換えられない宝物だ。
時計の裏側には時間を合わせるネジだけでなく、録音と再生のボタンもついている。
しかし名雪がそのうちの片方のボタンを押すことは、決してない。これからも多分、ずっと。
――あれは証拠だから、消したらだめだよ――
自分自身の言葉が脳裏によみがえってくる。
「……目覚ましに使うなって、言われただけだもんね」
ぽつりと呟くと、名雪は再生のボタンを押した。
『名雪……。
おれには、奇跡は起こせないけど……』
目覚ましから流れ出てくる声。
それは、毎日聞き慣れた声。
大切な人の、声――。
数日間、聞きたくて聞きたくてたまらなかった声だ。
『――名雪のそばにいることだけはできる』
今も聞くだけで嬉しくて――懐かしくて、心の底から温かになって――。
そして胸が締め付けられるほどに、切なかった。
その声の持ち主は今も名雪の目の前にいるのに――なのに、その声はひどく遠い場所にあるように感じられる。
『約束する』
悲しいほどに、遠くに。
『――おれは、ずっとここにいる。
もう、どこにも行かない。
おれは……名雪のことが、本当に好きみたいだから……』
そしてシンと静まり返る室内。
目覚し時計に録音された音声が途絶えた。
病室は再び、押しつぶされそうな重い静寂に閉ざされた。
名雪はぎゅっとまぶたを閉じ、零れ落ちそうになっていた涙を押し戻してから――。
一度目を開き、今度はそっと目を伏せると、目覚まし時計を胸に抱きしめた。
「祐一……言ったよね。この言葉、信じていいって……」
あの駅前のベンチで祐一が言ってくれたことだった。
――祐一に、甘えてもいいかな？ ……祐一のこと、支えにしても、いいのかな？――
――名雪は女の子なんだから、強くなくたっていいんだ――
「……わたし、ダメなんだよ。祐一がいてくれないと、ホントにダメなんだから……」
目覚ましを枕もとに戻した名雪は、祐一の顔を上からまっすぐに覗き込んだ。
「だから――」
曇りのない瞳で、どこまでもまっすぐに見つめる。
「――行かないで。お願い……」
ずっと名雪のそばにいること――。
祐一が約束してくれた証拠は、ちゃんと思い出の目覚し時計に中に残っている。
穏やかさを秘めた目で、名雪は祐一を見つめた。
「戻ってきてくれるよね、祐一。わたし……信じるよ」
それはあの日に誓った、少女のささやかな決意――。
彼を信じることで――何の疑いも不安も無く愛する人を頼ることで、名雪はあの時、母親を失うかもしれない恐怖を乗り越えることができた。
その決意が、名雪を支えてくれた。祐一を信じぬくことで、今まで笑顔でいられた。
だからもう一度、名雪は信じる。
「祐一が言ってくれたから……頼ってもいいって、信じていいって、言ってくれたから。
だからわたし、いなくなったりしないって信じるよ……」
まだ少し涙を浮かべた名雪の瞳は、不安や心細さで揺れている。
それでも――彼女の目にはもう、迷いは無かった。
「帰って、くるよね……祐一」
夜風に当たりたくて、秋子は病院の玄関から外に出た。
明るく輝いているはずの月や星は、黒く厚い雲に覆われていて見えなかった。
建物の方へふり返り、見上げてみる。
一つだけ、こんな時間にも関わらず明りの灯っている病室があった。
名雪はまだ、そこにいる。
祐一が帰ってくるのを一途に信じて……。
「秋子さんっ」
聞き覚えのある声に、じんわりと浮かんでいた涙を慌ててこすってふり返る。
息を切らして走り寄ってきたのは、娘の友達の美坂香里と、その妹の栞だった。
「祐一さんは……祐一さんの容態は、どうなんですか？」
そう言われて、秋子は祐一の容態が急変したことを、心配してくれていた何人かのクラスメートに電話で知らせていたことを思い出した。
「……」
栞の問いかけに、秋子はすぐには答えることができなかった。
「祐一さんは……」
先を続けるのが、押しつぶされそうなほどに息苦しい。
「ついさっき、息を……息を、引き取りました……」
「そんな……！」
「……！！」
香里と栞が思わず息をのんだ。
そして香里は、なぜかこの場にいない親友のことに思い至った。
「秋子さん、名雪はどうしたんですか？」
秋子はまた、ふり返って明かりの漏れる病室を見上げた。
「名雪はまだ、祐一さんのそばについています……」
「……名雪……」
香里も同じように、病室の窓を見上げた。
「あの子、言ってました……祐一さんは、どこにも行かないって約束してくれたんだ、って……」
秋子はふたりに背を向けたまま、肩を震わせ始めた。
「でも……私だって信じたくないけど、祐一さんは、もう……。
なのにあの子は……それでもっ……」
それでも名雪は、祐一の言葉を信じて、待っている。
死んでしまった祐一が、戻ってきてくれることを……。
そしてずっと自分のそばにいてくれることを……。
「いくらなんでも、そんな……奇跡みたいなこと、起きるわけが……」
「――違いますよ、秋子さん」
「……えっ？」
どこか諭すような落ち着いた声に、秋子は涙に濡れた顔を向けた。
そこには栞が、この場には不釣り合いなほどに穏やかな微笑みを浮かべていた。
「私も、今までずっとそう思ってました。
奇跡なんか起きるわけない、起こらないから奇跡って言うんだ、って――そう思っていたんです」
栞は静かに目を伏せた。
そのまぶたの裏に彼女が見ているのはおそらく――生きることを諦めていた、昔の彼女自身の姿。
「でも、祐一さんは言ってくれたんです。
起きる可能性がほんの少しでもあるから、だから奇跡って言うんだ、って」
秋子は戸惑うようにうつむく。
「……でも、そんな……」
「――私はその言葉、今でも信じてますよ」
栞は小さく笑って言った。
「だって――私が今、ここにいること。それこそが、本当に奇跡は起きるんだ、っていう何よりの証拠ですから……」
胸にそっと手を当てて、３か月前の誕生日までは生きられないと言われていた少女は穏やかに言った。
「……栞、ちゃん……」
栞を見つめる秋子。
「だから、祐一さんが一番大切に想ってる人が――名雪さんが、心から願えば――」
（本当はそれが、私だったら良かったのにな……）
今も祐一を信じて待っているであろう名雪のいる病室を見上げる栞の瞳には、確かな希望が宿っていた。
そしてわずかな羨望も。
「奇跡だって、起きると思うんです」
５.
「あれだよ」
祐一とあゆの前には、眩しい光の柱がそびえていた。
その光は見上げても頂上がわからないほど、高く高く伸びている。
そのまま天へと続くように。
「本当に、いいんだね……祐一君」
祐一は無言でうなずいた。
あゆの顔が一瞬、罪悪感にゆがむ。
しかし自分に言い聞かせるように、その表情をしまいこんだ。
「うん……わかった。じゃあ、行こう。いっしょに」
ちょっと前に立ち、ミトンの手を差し出すあゆ。
祐一はその手を取ると、ゆっくりと光に向かって歩き出した。
（これで、いいんだよな）
確認するように、祐一は心の中で自問する。
これでいい。
それこそが、祐一にとって一番大切なことなのだから。
（一番……大切な？）
本当にそうだろうか。
何か、他にあったのではないだろうか。
何とひきかえにしてもかまわない、本当に大事なことがあったのは覚えている。
それは本当に、あゆだったのか。
今祐一が手を握っている少女が、本当にそうだったのだろうか。
（……何を考えているんだ、おれは）
祐一は思考を振り払う。
何度自分の心を掘り返してみても、間違いないのだ。
祐一の心をとらえて離さない女の子の存在は、疑うべくもない。
『祐一……』
その娘のことを思えばほら、いつだって自分を呼ぶ声を思い出すこともできる。
「……えっ？」
祐一は思わず呟くと、驚愕に目を見開きあゆの手を離して立ち止まった。
（ちが……う？ これは……あゆの声じゃ……）
『祐一……』
また、聞こえた。
さっきの声も、そうだった。これは祐一が記憶の中から思い起こした声ではない。
誰かが今、間違いなく祐一に呼びかけているのだ。
『祐一……』
その声にこもる必死で、強くて、そして誰よりもまっすぐな想い。
祐一に向けられるその想いは、覚えがあった。
それはそう、いつからか祐一の心の一番深いところから離れなくなってしまった、あの少女……。
『祐一……』
何度目かの呼び声。そして――。
「――！！」
ついに祐一の心に、その女の子の姿が浮かび上がった。
その少女の笑顔、泣き顔、怒った顔、眠っているときの無防備な顔……。
一つ一つが現れては消え、そして祐一は気づいた。
自分の本当に大切なもの。彼女の笑顔を見ているだけで温かになり、泣いていたらどんな苦労をしてでも涙を止めてあげたいと思っていた、本当に大好きな女の子は――。
「名雪ーーーーっっ！！」
必死に呼びかけてくる少女の声に答えるように、祐一は力いっぱい叫んだ。
今までどうしても思い出せなかったことを、彼女にわびるかのように、強く。
「祐一、くん……」
背中からかけられた声に祐一は我に帰り、一瞬のためらいの後に振り返る。
あゆの笑顔は、すべてを悟っていたかのように落ち着いて――そして諦めと、許すような穏やかさを滲ませていた。
「あゆ。その……」
その笑顔が一層祐一の胸を詰まらせるが、それでも懸命に言葉を継ごうとする。
「……ごめん。俺は――」
「……ううん。いいんだよ。祐一くんが謝ることじゃないよ」
あゆは小さく首を横に振った。
「謝らなきゃいけないのは、ボクの方。ボク、わかってたのに……祐一くんが大好きな人は誰なのか、わかってたはずなのに……」
あゆの目には大粒の涙が浮かんでいる。
「なのにボク、あんなこと頼んじゃって……もしホントにそうしちゃってたら、祐一君も名雪さんも……。ボク、嫌な子だよね……ごめんなさい……」
あゆはその場に膝をつくと、声を押し殺して泣き始めた。
「……泣くなよ、あゆ。お前は悪くないよ……なんにも……」
祐一はしゃがむと、あゆを抱いて優しく頭を撫でてやる。
「……でも、ごめん。俺はお前と一緒には行けない」
祐一は辛そうに、しかしはっきりと告げた。
「あいつが待ってるから……俺は帰らなきゃいけない。いや、帰りたいんだ……名雪のところに」
「……うん」
あゆはうなずくと、立ち上がった。
「……俺、ちゃんと戻れるのか？」
不安そうに尋ねる祐一に、あゆは今にも崩れそうな笑顔を向けた。
「うん……だって、ちゃんとお願いしたからね！」
「お願い……？」
問い返す祐一の前で、あゆが眩しい光に包まれる。
そのままどこか他の場所に運ばれるように、祐一の意識は遠くなっていった。
（あゆ……）
最後の一瞬に見えた、白い天使の羽。
あゆが光に包まれた時――思わず目を閉じるその瞬間の光景は現実なのか幻なのか、祐一にはわからなかった。
カツン、カツンと、自分の靴が立てる規則的な音だけが香里の耳に響く。
やがて辿り着いた病室からは、わずかに開いた扉の隙間から蛍光灯の明かりが漏れていた。
そっと、中を覗いてみる。
彼女の無二の親友は、ベッドに横たわる人影にすがるようにして顔を伏せていた。
泣き疲れて――あるいはこの数日の疲労で、眠ってしまったようだ。
香里は彼女を起こさないように静かに扉から離れると、廊下の壁に背を預けてため息をついた。
――諭すべきなのだろうか、彼女に。
死んだ者は帰ってはこない。そんなことを信じていても現実がわかったときに辛くなるだけだ――と。
しかし――。
「あたしも、知っちゃったのよね……」
ありえないと思っていた出来事が、実現すること。
諦めるしかできないと思っていた残酷な「現実」に亀裂が生じ、そこから眩しい希望の光が射すこと。
奇跡も――起きるかもしれないことを。
だから――。
「名雪……」
香里は病室の方を向くと、穏やかに口を開いた。
「叶うといいね……あなたの７年越しの想いと、そして――心からの願いが」
そして病室に背を向け、香里は歩きだした。
夢の世界の住人となっている親友に毛布でもかけてやった方がいいかと思ったが、やめておく。
（相沢君の役目を奪っちゃ、ヤボってもんよね）
いつの間にかひどく楽天的になっている自分がおかしくて、香里は吹き出した。
「うっ……うっ……」
名雪の耳に流れ込んでくる、嗚咽の声。
「誰……？」
小さな女の子の泣き声に、名雪はゆっくりとそちらへ近づく。
どこか聞き覚えのあるその声にひかれるままに進んだその先にあったのは、小さなベンチと、そして――。
「！！」
息を呑んだ名雪の前で、その女の子は寒さと涙に小さな肩を震わせていた。
「うっ…………ぐすっ……」
２本のみつあみに髪を結んだ少女の足元には、崩れた雪うさぎが散らばっている。
「あ……あ……」
名雪の心によみがえる、７年前のあの日の記憶。
置き去られ、無残に砕け散ったのは雪うさぎと――幼い少女の心。
「祐一……ゆう、いち……」
小さな女の子の呼び声は届かないことを、名雪は知っていた。
来てはくれない――もう、いなくなってしまう――。
雪の舞うベンチに背を向ける男の子の姿と、血だまりの中で身じろぎもせずに倒れ伏す少年が――重なって見えた。
「や、やだ…………」
遠ざかる少年の姿に、名雪は泣きながら必死に手を伸ばした。
「行っちゃやだっ。祐一、置いていかないでぇ！」
名雪の絶叫にも耳を貸さず、少年の姿は薄れていく。
「ゆ、祐一……うっ、ひっく……」
両手をついてがっくりとうなだれた名雪の背中に、
「ダメだよ、泣いてちゃ」
懐かしさを感じさせる少女の声がかけられた。
優しく慰めてくれるようなその響きに、涙で頬を濡らした名雪は振り返った。
「あ、あゆ、ちゃん……」
「久しぶりだね、名雪さん」
あゆが水瀬家に姿を見せなくなって、もう数か月になる。本当に久しぶりだった。
名雪はあゆの姿を見ながら、ためらいがちに声をかけた。
「今まで、いったいどこに……それに、その……」
呆然とする名雪の目には、あゆの全身は半ば透けて見えていた。
そんな名雪の問いには答えず、あゆは口を開いた。
「名雪さんは、ちゃんと笑っていてくれないとダメ。名雪さんが泣いてると、祐一くんが悲しむから……」
「祐一……が？」
涙をいっぱいにためた瞳を見開いて見つめてくる名雪に、あゆは力づけるように――それでいて少しだけ寂しそうにうなずく。
「うん……だから名雪さんは、笑っていて。でないと、ボクのお願いが叶わないよ」
「あゆちゃんの、お願い……？」
「そう！」
あゆは小さな天使の人形を取り出した。
「このお人形は三つまで、ボクのお願いを叶えてくれるんだよ。もう全部叶えてもらったんだけど……。
でも、だから、祐一くんは戻ってくるよ。名雪さんのところに」
名雪は怪訝な顔をした。
「願いは全部……したのに？」
「うん。ボクがあの時にした、最後のお願いはね……」
願いを託した天使の人形、それを大事に胸に抱え直して、あゆは答える。
「『祐一くんが、幸せになりますように』……それが、ボクの三つ目のお願いなんだ」
手の中の人形に、慈しみのこもった笑みを向けるあゆ。
まるでそれが、祐一であるかのように――。
「だから、祐一君も名雪さんも……どこかに行っちゃったりしないんだよ。名雪さんといっしょにいること――それが、祐一くんの一番の望みなんだから」
あの冬に、祐一の身の回りで起こった、様々な出来事。
例えば交通事故で意識不明になった女性が息を吹き返したり――不治の病をわずらっていた少女が回復したり――他にも、いろいろなことがあった。
『祐一が幸せになる』――祐一の身の回りに起きた奇跡は、すべてそのため、祐一が悲しまないようにするためのものだったのだ。
「本当……なの？」
名雪は揺れる瞳で、じっとあゆを見つめた。
「わたしといっしょにいることが、祐一の……」
「うん、そうだよ。名雪さんだって、わかってるはずでしょ」
名雪を力づけるように、あゆはにっこりと微笑む。
「でも、それだけじゃダメだよ。隣にいるだけじゃなくて、名雪さんがいつでも心から笑っていること――それが、祐一くんにとって何よりの幸せなんだよ」
「……大丈夫だよ」
確かめるように言ったあゆに、名雪はしっかりと顔を上げて答えた。
「祐一がそばにいてくれれば……わたしは、いつでも笑顔でいられるから」
それは名雪のいつもどおり柔らかな、心からの笑顔だった。
あゆは満足したように、大きく一つうなずいた。
「よかった……祐一くんも名雪さんも、もう大丈夫だね。これで……」
「あゆちゃん……？」
痛いほどに純粋な微笑みを浮かべるあゆの姿が名雪の前で――少しずつ少しずつ、薄れていく。
「あ、あゆちゃんっ！？」
消え行くあゆの姿に、名雪は慌てて叫んだ。
「ちゃんと、笑顔でいてね、名雪さん。……祐一くんのこと、お願いします……」
「ま、待って、あゆちゃん！！」
名雪は必死に呼びかけた。
「あゆちゃんのお願い、祐一が幸せになることなんでしょ？ だから栞ちゃんたちも……だったらあゆちゃんも、いつか帰って来れるよね？ でないと祐一悲しむんだから、ちゃんと、また……」
ぽとっ。
小さな天使の人形が、地面に落ちる。
「また、会えるよね……」
最後の瞬間に微笑みながらあゆがこぼした涙は、名雪の見守る前で純白の雪へと吸い込まれていった。
エピローグ
「おい名雪、起きろ」
「…………んん」
いつものように頭上から声がふってくる。
目を開くほどにはとてもいかないが、それでも１パーセントくらいは戻った意識の中で、名雪はぼんやりとその声を聞いていた。
視界は真っ暗でも、暖かな太陽の光が身体に降り注いでいるのがわかる。もう朝になったらしい……名雪にとってはさして珍しいことではないが、昨夜はいつの間にか眠ってしまったようだ。
「やっぱり起きないなあ。ここじゃ家と違って、あの大量の目覚ましも無いしな……それでも座ったままで、そんなによく寝るなよ」
「うにゅう……」
無意識に、ウトウトとした声で謎の言葉を呟く名雪。
言われてみると、たしかに自分は横になっているのではなく、イスに座ってどこかに突っ伏して寝ているということが感触でわかる――これも実は、普段から時々あることだった。
（でも……毎朝毎朝そんなふうに言わなくってもいいのに……）
本当に意地悪だよ、と内心口を尖らせ、もう一度意識を眠りへといざなう。名雪にとってはほとんど本能的な行動だった。
「まったく、何日かぶりに起こしてやってるってのに、相変わらずだな。少しは感激でもしろよ」
同時に、ほっぺたをぷにぷにと引っ張られる。
「…………ぅん」
（前にも……たしか同じことされたなあ……）
しゃべるのと同じで至極のんびりとした思考を、名雪は目を閉じて半ば眠ったまましていた。
（いつだっけ……１か月くらい、前かな………………わたしもだけど、祐一ってホント子どもっぽい…………えっ？）
ひっかかりを覚えた名雪の意識が、急速に目覚めていく。
「おっ、やっとお目覚めか？」
あまりにも聞き慣れた声……
しかしその声が聞けず、ずっと泣いていたのではなかっただろうか。
この何日かずっと、こんなふうに起こされることはなかったのではないだろうか。
名雪はがばっと上半身を起こすと、目を開いた。
窓から差し込む朝日に、目が焼かれそうに眩しい。
その光の奔流の中に――少年がベッドから身体を起こして座っていた。
名雪が心から望んだ光景。
もう二度と帰らないかと思った幸福が、目の前に再びあった。
「あ……」
まばゆい朝の光とともに――奇跡は少女のもとへ、たしかに舞い降りた。
「ひっく……ゆ……」
名雪の顔が歪み、次の瞬間には彼女は目の前の少年の胸に飛び込んでいた。
「ゆういちっ！！」
力強く抱きとめてくれる感触と、昨晩とは違う温かさ。
目の前にいる祐一が夢でも幻でもないことを確かめるように、名雪はひたすら祐一の胸に涙をすりつける。
もう二度と離れまいとするように、その手は強く祐一の背に回されていた。
「よかった……祐一……祐一っ……！」
微笑みながらも後から後から涙を溢れさせる名雪は、それ以上しゃべることもできなかった。
今はただ、大好きな人の温もりだけを感じていたかった。
「名雪……ごめんな、心配かけて。それと……ありがとう、名雪」
名雪の必死の呼びかけのおかげで、祐一は戻ってくることができたのだ。
「ぐすっ……ゆう、いちぃ…………もう、わたしを置いて、どこかに行ったりしないよね？ わたしと、いっしょにいてくれるんだよね……？」
涙声で名雪は、懸命に言った。
「約束しただろ、前も――俺はどこにも行かない。ずっと……ずっと、名雪のそばにいるよ」
泣きじゃくる名雪をしっかりと抱きしめながら、祐一は優しくささやきかけた。
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