「おーい、そろそろ出発するぞ。早くしないと置いていくぞ、あゆ〜！！」
「うぐぅ〜！ 待ってよ〜！！」
もうすっかり夏も本番。俺達は高校生活最後の夏休みをエンジョイする為、俺と名雪と香里と北川、そしてあゆと海に行く事にした。
……とりあえず受験というやつは、しばらく忘れてよう。
こうして俺達は、いまだに準備の終らないあゆを水瀬家の玄関で待っていたのだが。
２階のあゆの部屋からは、焦ったあゆの声が聞こえてくる。
「相沢君も余裕ねえ。あたし達って、考えてみたら今年は受験生よ。あゆちゃんは除いてだけど」
既に出発の準備を終えている香里は、俺にそんな事を言う。
「はいはい。３年間通じて学年トップの香里先生には、あまりそんな心配はいらないんだろうけどな」
「まあね。でも、勉強なんて結局毎日の積み重ねだけよ。積んでないから慌てるだけでね、北川君みたいに」
そう言って香里は、ちらりと北川の方を見た。そこには、度のきつい眼鏡をした北川の姿。
「まさかお前がここまで頑張るとはな〜。良く続いてるよ本当」
「ほっとけ、相沢」
３年に上がってから、北川は急に猛勉強をし始めた。まぁ、無論北川が急に勉強する事に目覚めた、なんて事があるわけもなく。
何てことはない。ただ単に香里と同じ大学を受ける為という不純な動機のせいだ。
「で、北川。この間の模試はどうだったんだ、第一志望の医科大は？」
「……何もきくな、とだけ言っておこう」
前途は多難だな、北川……。
「そういえば、名雪は陸上で推薦だよな。いいよな〜、一芸に秀でてるってのは」
名雪は陸上県大会での成績が認められて、既に推薦での合格が決まっている。羨ましい話だ。
「わたしは好きで走ってただけなんだけど、やっぱりちょっと嬉しいかな。でも、これでひょっとしたら祐一だけ浪人生、なんて事あるかもしれないよね」
う。にっこりと笑ってさらりと嫌な事をいってくれるな、名雪。
まぁ名雪が推薦でもう合格が決まってて、香里が落ちるわけなんかまず無いんだから……やめよう、せっかくこれから海に行くって言うのに、嫌な事考えても仕方がない。
「あゆ、何やってんだ！ もう予定の時間を１０分以上オーバーしてるぞ！ これ以上遅いと本当に置いて行くぞ〜！！」
とりあえず話題をそらす意味も含めて、まだ来ないあゆを呼ぶ。
「うぐぅ！ そんなのいやだよ！ ボクを置いていかないでよ〜！」
泣きそうな声があゆの部屋から響いてくる。
多分、あゆの事だから半泣き顔になってるんだろうな。
ドタドタドタ……。
お、あゆのやつ、やっと用意できたか。
「うぐ……うぐぅ……ごめんみんな、遅くなっちゃって……」
あゆは、小さな体には大きすぎるリュックを背負って息を切らせながらやってきた。
「うぐぅ〜、ボクを置いて行こうとするなんて酷いよ！ 祐一君のいじわる〜」
もう半年くらい同じ屋根の下で暮らしてるおかげで、かなり見慣れた半泣き顔のあゆ。
「あら。そんなに急がなくても大丈夫よ」
しかし、そのあゆの言葉を遮ったのは以外にも香里だった。
「え？ どうして、香里さん？」
「相沢君があゆちゃんおいて行くわけ無いじゃない、心配する事無いわ」
「ぐあ……どういう意味だ香里」
「言葉どおりよ」
う。まあ、それは確かにそうなんだが。しかし、こうやって言われると凄く恥ずかしいぞ。
「あ、あはは……」
あゆの方を見ると、やっぱりあゆまで照れてるし。
「一本取られたな、相沢」
北川はそう言って俺の横でにやにや笑っている。
「やかましい。香里とお前も俺たちと似たようなもんだろうが」
「ぐっ！ そこでそう返し技を持ってくるか、相沢！？」
北川と香里は、３年に上がってから付き合い始めた。もっとも恋人というよりは、端から見てる俺の目からすると、香里の尻にしかれているという感じもするが……。
「なに二人で馬鹿やってるのよ……ほら、早く行かないとバス出るわよ？」
「仕方がない、勝負は痛み分けだな相沢」
「おう。しかし決着は向こうでつけるぞ、北川！」
そんな馬鹿なことを言いあう俺と北川。横では名雪が、にこにこしながら俺たちを見ていた。
北川とのこんなやり取りも、今ではすっかりお馴染みの光景となった感じだ。
その時、秋子さんも上から降りて来た。
そっか。ひょっとすると秋子さん、あゆの荷作りを手伝ってくれてたのかな。
「みんな気をつけて行ってきて下さいね。後、何かあったら連絡するようにお願いします」
「あ、はいわかりました。じゃあ、行ってきます。ほらあゆ！ バスの時間やばいんだ、いつまでそんな所で赤くなってんだよ、さっさと行くぞ！」
「う、うぐぅ〜、待ってよ〜！ あ、秋子さん行ってきま〜す！！」
左手をぶんぶん秋子さんに振りながら、あゆは慌てて俺の側に走り寄ってくる。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
そんな俺達を微笑みながら見送る秋子さん。
その時、なぜか秋子さんは名雪の顔をじっと見ていた。
「……お母さん。行ってきます」
そして、名雪の秋子さんへの挨拶はいつもなんかよりも、ずっと真剣で。
「行ってらっしゃい、名雪。……後悔だけはしないようにね」
俺はこの時、この二人のやり取りがどういう意味を持っていたのか、まだ知らなかった。
こうして俺たちは、高校生活で恐らく最後となるだろう１泊２日の海水浴に出かけた。
ずっと伝えたかった思い
どうにかバスに間に合った俺達は、バスに揺られながら行く事２時間。ようやく目的地に到着した。
じっとりと汗ばむほどの陽気。照りつける太陽。そして、大勢の人でごったがえす海辺。そのどれもが、今が夏である事をはっきりと教えてくれる。
そしてザザーン……と聞こえる、波しぶきの音をバックに佇む俺。
我ながら、ちょっとクールで渋いポーズを取っているな……と、そう思ったとき。
「わーーっ！ 海だよ、祐一君っ！！ おっきいね〜！！」
どっから見ても子供にしか思えないような声で、俺の周りではしゃぐあゆが、そんな俺の雰囲気をぶち壊しにした。
「ええい、あゆ！ 子供じゃないんだからそんなはしゃぐな、恥ずかしいだろっ！」
「えっ？ 海っていったらまず『海だーっ！』って叫んで走り回るもんじゃないの？」
一体どこでそんな知識を覚えたんだお前は。
「とりあえずやめてくれ。一緒にいるのが恥ずかしくなる」
見ると、まわりの連中がくすくす笑っているのが聞こえてくる。くっそ、やっぱりあゆと一緒に海に来ると、こういう展開になるのか。
「泳ぐのもいいけれど、先に旅館に荷物を置いてからにしましょう」
「そうだな。ん、水瀬はどうした？」
そう言って北川が名雪の姿を探す。
「う〜、ごめん。わたしちょっと車酔い……」
「あらら。名雪ったらバス停でふらふらしてるし。ほら名雪、旅館に行って荷物置いてくるわよ」
「了解だよ〜」
何ていうか、名雪はやっぱり名雪だな。
「おーい。あゆもはしゃいでないで行くぞ〜」
「あっ、うんっ！」
そして俺達５人は旅館まで歩く。歩いているうちに、名雪の車酔いも大体治ったのだが、ひとつ問題があった。
この手の海沿い旅館というやつは基本的に、高いほど海岸に近くて、安いほど海岸から遠い。
で、俺達高校生が……といっても一人は違うが、そんな高い旅館に泊まれるわけもなく。可能な限り安い所で海岸から近い所を選んだわけなんだが。
旅館のパンフレットにあった、徒歩１０分と書いてあるのを信用した俺がバカだった。確かに１０分だ。ただしこのバカみたいな上り坂が無ければ。
「……うぐぅ〜。ま、待ってよ〜……」
で。やっぱり予想通り、あゆは一番遅れていた。
「はぁ。すまん、みんな先に行っててくれ。俺はあゆを見て来る」
「うんそうだね。あゆちゃんにあの荷物は辛いよ、きっと」
香里はともかく俺や北川まで結構はぁはぁいいながら登ってる坂を、名雪はまるで苦も無く登る。さすが体育会系だな、名雪。
「そ、そうね……あゆちゃん大変そうだし……見に行ってあげて、相沢君」
「そうだな、美坂は俺が見てるから」
そして、登って来た道を降りる俺。
「う……うぐぅ……みんな速いよ〜」
「お前が遅すぎるんだ」
「うぐぅ……」
見るとあゆの顔は汗だらけで、どう見てももう限界に見えた。
そうだよな、何せあれだけの荷物だ。普通の道歩くだけでもかなりきつそうだったもんな。
「仕方が無いな、ほれ貸せ」
「え？ な、何を？」
まだ少し荒い呼吸のまま、不思議そうに俺の方を見上げてくるあゆ。
「バカ、決まってるだろそんなの。荷物だよ、お前の荷物」
それだけ言ってあゆの荷物を背負う俺。
「わっ！ え、えと……あ、ありがと祐一君……」
またしても顔を赤くするあゆ。う、何ていうか抱きしめたくなるのをこらえるのが大変だ……。
「ほうっておいたら日が暮れるからな。ほらあゆ！ 荷物ないんだから、急げよ！」
「う、うん！」
そういって俺の側を歩くあゆは、笑顔だった。
「しかしやけに重いぞ、この荷物。何が入ってるんだよ？」
「あ、中にスイカが入ってるんだよ。後でみんなでスイカ割りしようねっ！」
なるほどスイカか……っておい。
「ただでさえ重たいって言うのに、そんなもん入れてくるなっ！」
とりあえず俺が、横にいたあゆの頭を殴ったのは言うまでもない。
それから、旅館に荷物を置いて俺達は海に出た。まあ、香里はかなり坂上りできつそうだったから、少し休んでから来るらしい。まあ、北川も一緒に残ってたりするが。
引き止めたりするのは野暮ってもんだろう。
「とりあえず……と」
海岸近くの更衣室でさくさく海パンに着がえて女性陣を待つ俺。
「祐一。お待たせ〜」
先にやってきたのは名雪だった。
おぉ、流石にスタイルがいいというか何と言うか……ビキニがよく似合ってるな。周りの男連中がじっと見てるぞ、名雪。
そして。
「うぐぅ、ど、どうかな祐一君？」
遅れてやってきたあゆはワンピーススタイルの水着を来て俺の前に現われた。
……とりあえず俺が見て思ったこと。
「無いな」
「え？ な、何が？」
「胸が」
なんつーか、ここまで無いと男の子とレベルが同じだ。
「うぐぅ……絶対に言うと思ってたけど、祐一君いじわるだよ〜！」
「わ、祐一それってすっごく失礼な事だよ」
そんな俺の言葉にあゆと名雪が二人して抗議の声をあげる。
むう、仕方がない。ここはやはり……。
「なぁ名雪。嘘をつく事はいい事か？ それとも悪い事か？」
俺は気軽に名雪に尋ねたつもりだった。
できればここで、『嘘をつく事は良くない』と名雪に言ってもらい、その後であゆの胸が大きいか小さいかを尋ねて、名雪を慌てさせてやろうと思ったから。
「…………」
けれど、何故か名雪はじっと考えこんで、なかなか言葉を続けなかった。
「お、おいおい名雪？ 何も別にそんなに深く考え込まなくても……」
流石にそんな名雪の様子を見て、あゆも不安そうな顔になる。
「名雪さん……？ ぼ、ボク胸が小さいのなんて少ししか気にしてないし……その、あんまり気にしないでいいよっ」
その時名雪はようやく口を開いた。
「……嘘でも笑っていたほうがいい時って、あるんだよ。それに本当の事を言ったら、自分も相手も傷つけちゃう事もあるし。だから、嘘をつく事が悪いことだなんて……わたしははっきりは言えないと思うな」
ゆっくりと、でもそれでいてちょっと悲しそうに名雪は話す。
俺の知っている、明るくて天然でちょっとずれたような感じの、俺の良く知っている従姉妹としての名雪の姿はそこにはなかった。
俺もあゆも、何て名雪に声をかけたらいいかわからなかった時、丁度香里と北川がやってきた。
「ごめんなさい、ちょっと着替えに時間がかかって……あら？ どうしたの三人ともそんな所で」
香里が俺たち三人の様子を見て、不思議そうな顔をする。
「何でもないよ、香里〜。じゃあみんなそろったし、泳ごうか」
そう言う名雪の顔は、もういつもの名雪だった。
「おい相沢。ひょっとして水瀬に何かやったのか？」
「人聞きの悪いこと言うな、何もしてないぞ俺は」
北川がそっと俺に尋ねてくる。ほんの一瞬の間だったが、北川も名雪の様子がおかしい事に気がついたようだった。
「そっか。でも水瀬がああいう顔するのって滅多にないからな」
そう言って北川は香里の方に歩いていった。
いくら考えても答えの出ない問いに、俺は袋小路に迷い込んだような気分になった。
「ほら祐一君！ 泳ごうよっ！」
「あ、ああそうだな。よし、行くぞ〜！」
あゆに声をかけられて、俺は我に帰った。そうだな、遊ぶときはちゃんと遊ぶことに集中しないとな。それが俺のポリシーだ。
「わ〜い、海だよ〜っ！！」
早速あゆは海に飛び込むと泳ぎ始める。
バシャバシャと水しぶきをあげながら泳ぐあゆは、結構速かった。
「何だあゆ、お前泳げたのか」
何ていうのか、てっきり泳げないんじゃないかって思ってたせいかかなり意外だ。
泳げないと思って、あゆと事前に一緒に泳ぐ約束をしてたせいかかなり悔しい。俺的にはあゆの両手を持ちながら『うぐぅ〜、離さないでよ〜！』とかがやりたかったっていうのに。
「うぐぅ！ これでもボクの名前はあゆだもん！ 泳げなかったら、何だか名前負けしてるみたいで恥ずかしいよっ」
ぷーっ、と頬をふくらませて反論するあゆ。
う、やっぱりかわいい……。
「俺としては、浮き輪でぷかぷか浮かんでるあゆを想像してたからな。そうすればどこからどう見ても子供に見えるだろ？」
だから、そんな俺の動揺がばれないように、ついついまた、からかってしまう。
俺も素直じゃないよな、我ながら。
「うぐぅ、祐一君のいじわる〜！」
ん？ そういえば名雪がいないな。どうしたんだ？
「あゆ、名雪はどこに行ったか知らないか？」
「あ、名雪さんだったら取ってくるものがあるから、ってもう一回更衣室のほうに行ったよ」
「取ってくるものって、何だそれ？」
名雪だとサンオイルとかか？
「あ、祐一にあゆちゃん。お待たせだよ」
「わっ！ 名雪さんっ！！」
「げ！」
やってきた名雪の手には、でっかい浮き輪が握られていた。
「久しぶりに登場だよ、わたしのけろりん」
名雪がけろりんという浮き輪には、まわりにカエルの柄が踊っている……。
「なあ、名雪。その手に持っている物体は、何なんだ……」
ききたくはなかったがあえてきく俺。ひょっとするとあれは浮き輪などではなく、何か俺の知らない海水用具なのかもしれない、という期待を持ちながら。
しかし次の瞬間、俺の期待は粉々に打ち砕かれた。
「あ、わたし泳げないから、浮き輪持ってきたんだよ。でね、この子の名前が、けろりん、っていうんだよ〜」
あ、頭が痛い……。
駄目だ、周りの人間の視線が痛すぎる。
「バカ！ さっさとそんなもん置いてこい、恥ずかしい！」
あゆが使うならまだしも、名雪がそんなもん使った日には目立って目立って仕方がないだろうが！
「わたし、けろりんと一緒に泳ぎたかったのに……」
「却下だ却下！ 俺がお前に泳ぎを教えてやるから！」
「えっ……。ほ、本当、祐一？」
一瞬戸惑ったような顔を浮かべた後に、名雪は凄く嬉しそうな顔をした。
「うぐぅっ！！ ゆ、祐一君はボクと一緒に泳ぐんじゃなかったの！？」
「あ〜、とりあえずお前は泳げるみたいだから一人で向こうで泳いでてくれ。ほら名雪！！ さっさと置いてこいって！！」
「けろりん……うん、でもわかったよ」
そう言って、俺は名雪の手を引っ張って浮き輪を置きに戻った。
あゆが寂しそうな顔をしていたのはちょっと、いやかなり胸が痛んだが……。
「わ、わっ。祐一〜、離したらいやだよ〜」
名雪の両腕を持ちながら、俺は泳ぎを教える羽目になっていた。
くそ、まさか名雪が泳げないなんて思わなかった。
「うぐぅ……」
そしてあゆはと言うと……こっちの様子をちらちら見ながら拗ねている。何ていうのか目でわかる。
『祐一君、名雪さんばっかり見ててボクの事ほったらかし……』
という感じの目だ。
ここは何とかしないと……。
「あ、あゆ！ とりあえずこの後はお前の方に行くから、何したい？」
「えっ？ いいの？」
その俺の言葉に、ようやくあゆがまともに俺の方を向いたとき。
「わっ、わっ！ 祐一離さないで、わたしおぼれちゃうよ〜！」
「うわっ！ 名雪、抱きつくなっ！！」
よりにもよって、このタイミングで名雪が俺に抱きついてきた。
う。どんどんあゆの機嫌が……目なんてもう、涙目になってるし。
「うぐぅ！ 祐一君なんて知らないもん！！」
「おい！ 待てってばあゆ！！」
それだけ言って、あゆはばしゃばしゃ水音を立てながら遠くへ泳いでいってしまった。
くそ、早くあゆを追いかけないと。
でも。
「祐一〜、助けて〜」
いくら何でも、名雪を放って置いて溺れられた日には寝覚めが悪くて仕方がない。第一、イチゴサンデー何個分になるか見当もつかない。
「名雪、いったん休憩だ。岸まで行くぞ」
「う、うん」
仕方がないから俺は、一度岸まで戻って名雪を置いてからあゆを探すことにした。
「ねえ祐一。祐一がわたしとお母さんの家に来てから、もう半年以上になるんだね……」
浜に戻る時、俺の横にいる名雪が話しかけてくる。
そうか。俺が名雪の家に居候し始めて、もうそんなになるんだな。
「祐一は卒業したら、どうするの……？」
卒業したら、か。
「そうだな。とりあえず大学生になれたら一人暮らしの為のアパート借りて、バイトとかも始めようかと思ってるかな。後は、留年しない程度に勉強しようかとか」
もっとも一人暮らしって言ったって絶対についてくる奴がいるから、正確には二人暮しだが。
その俺の言葉を聞いて、名雪は悲しそうな顔をした。
「そっか……そうだよね。大丈夫だよ、うん。きっとなれるよ……」
そう言うと、名雪は下を向いて俯いてしまう。
その言葉は凄く寂しそうで。俺は名雪に声をかけずにはいられなかった。
「なあ名雪。どうしたんだよ、今日のおまえちょっと変だぞ？」
「……あ、あのね、祐一！ わたし……」
その時俺たちは浜に着いた。
「じゃあ名雪。ちょっと俺あゆのやつ探してくるから、それまでちょっとここで待っててくれないか？」
「……うん」
何か名雪が言おうとしていたのは気になったが、あんな感じで走って行ってしまったあゆの事が、今の俺には気になって仕方がなかったから。
「おーい、あゆ〜！」
名雪に浜茶屋で待っててもらうように伝えた後、おれはあゆを探しに出た。
しかし、あゆの姿はなかなかみつからない。
「お、何やってるんだ相沢？」
かわりにジュースを２つ手に持った北川が見つかった。
「いや、あゆの奴を探してるんだけど見かけなかったか？」
「あゆちゃんか？ 俺は見かけなかったけどな。でも、もう昼だし上がって来るんじゃないか？ とりあえずみんなが集まったら、全員で何かするか」
その北川の言葉に、近くの店の時計を見てみるとそろそろ１時になろうとしていた。
確かにあゆの事だから腹がへったら、むくれてても戻ってくるとは思うけれど。
「絶対に一発であゆがみつかる方法はあるんだけどな、一応」
「へー、そんな方法があるんなら使えばいいじゃないか？」
俺の言葉に北川がそう言う。
確かにあれを使えば一発だ。ただし、その後にあゆが怒るのは目に見えてるからな……。前にデパートで使ったときは半日口きいてくれなかったし。
「それは諸刃の剣なんだ、とりあえず最後の手段にしておく。で、北川は誰と何をやってたんだ〜？」
分かっていてあえて聞く俺はかなり意地悪な奴だと思う。
「う。だ、誰とだっていいだろ？」
「そうだよな〜。うーん、いいねぇ……反応が初々しくて」
北川を冷やかすとおもしろい、それは確定事項である。
「ほ、ほっとけよ相沢！ ほら！ あゆちゃん探すんじゃなかったのかよ！？」
顔を赤くしながら、北川は俺を追い払おうとする。
ふっ、甘いな北川。あゆならば、謝って午後からあいつと一緒に遊べば機嫌も直る。伊達に恋人をやってるわけじゃないぞ。
しかし、北川をからかうベストタイミングなどそう何度もあるわけじゃない！
「そういえばただの着替えにしては、随分と香里とお前がやって来るの遅かったよな、北川く〜ん？ ぜひともそこの所をゆっくりと聞かせて欲しいもんだなぁ……」
「こら相沢！ お前絶対に、以前からかったこと根に持ってるだろ！」
俺の言葉に北川が非難の叫びをあげる。
「いやだなぁ北川。あゆの人形をさがしてくれたお前の事を根に持つ訳なんか無いだろ？ ただ、色々と俺とあゆの仲について心配してくれたお礼を、俺もぜひしようかと思ってだな……」
「嘘だー！ それならなんでお前は目が笑ってるんだ！ 別に俺と香里は何も」
そこまで言って、はっと北川は口を押さえたがもう遅い。
「ふっふっふ、北川。『香里』か〜。普段から美坂って呼んでるお前が『香里』とはな〜。さあ、とっとと吐いてもらおうか？」
その時、海岸にスピーカーの音が響いた。
『迷子の連絡です。相沢祐一君、相沢祐一君、お姉さんが探しています。至急更衣室そばの迷子センターまで来て下さい。繰り返し迷子の連絡です――』
一気に俺の目の前が真っ暗になった。
「あいざわゆういち？ なんだ、お前と同じ名前の奴っているもんなんだな」
そんなわけあるか！！ こんな事やる奴は一人しかいない！
俺は北川を放って、迷子センターとやらまで全力で走った。
そこにいたのは。
「あ、祐一君早かったね？」
俺の方を見てにこにこ笑う女の子の姿が一人。やっぱりというか、犯人はあゆだった。
「だめだよ祐一君。こんな年で迷子になっちゃったら恥ずかしいよ？」
何と言ったらいいか……いつものあゆの笑顔が、今は悪魔のほほえみに見えるのは何故なんだろう。
「こ……」
「こ？」
「こんのどバカーーっ！！」
俺はあゆの耳のそばであらん限りの声を張り上げてやった。
「うぐぅーーっ！？」
「どうもすいませんでした、こんな事で……」
「いえ、でもあまりこういう事はしないで下さいね。他にも迷子のお子さんはいますから」
「はい。良く言って聞かせますので」
結局俺は、あゆの代わりに迷子センターの人に謝っていた。
「うぐぅ……耳が痛いよ〜」
あゆは耳を押さえてうずくまっていたが、自業自得だ。
それからしばらくして、俺とあゆは迷子センターを出た。
「あのな！ 何考えてあんなバカなことしたんだよ？」
その俺の言葉に、あゆはうぐぅ、と視線をおろす。
「だって。祐一君たら名雪さん見てばっかりでボクのことほったらかしなんだもん。だからその、ちょっと……うぐぅ」
なんていうのか、俺の予想通りの行動だったらしい。
しかしこんな風にやきもち妬くなんて、発想が子供っぽいというか何というか。
「そ、それに祐一君、前にボクと一緒にデパートに行ったときにおんなじ事やったもん！ だから、その仕返しだよっ！！」
あぁ、以前やったな。
週末で混んでるデパートに買い物に行った時、あゆの姿を見失ったもんだから『１２歳くらいの女の子です』とかやって貰って。
「ああ、そういえばあったよな。あの後、デパートの迷子センターの人に素で『気をつけるんだよ』とか言われてたっけ」
この年になっても迷子放送が使えるのは便利だって思ったもんだった。その後あゆは、半日拗ねっぱなしだったけど。
ついつい思い出して笑ってしまう俺。
「うぐぅ〜、笑わないでよ〜！！」
「しかしなあゆ。あの時は本当にお前は迷子だっただろ。こういう海とかではただでさえ迷子が多いんだから、こういういたずらは感心しないぞ」
つーか、恥ずかしいから二度とやらんでくれ、お願いだから。
俺にも悪い所があったからあんまり強くは言えないが、頼むからやめてくれ。
「ごめんなさい……」
あゆは素直にあやまった。こう言うところは、本当あゆらしい。
俺はあゆの頭に手をやって髪の毛をくしゃくしゃ撫でた。
「うぐぅ……」
恥ずかしそうにしながら顔を赤くするあゆ。
こういう何気ない仕草もかわいいと思ってしまう俺は、ある意味病気なのかもしれない。
「ねえ祐一君……名雪さんの様子、気にならない？」
しかしあゆのその言葉が、俺を現実に引き戻した。
「やっぱりあゆもそう思うか？」
「うん。名雪さん、祐一君に何か言いたい事があるんじゃないのかな……」
あゆもそう思うって事は、やっぱりそうなんだろうか。
その時。
「ねえ、祐一君……。ボク、祐一君とずっと一緒だよね……。祐一君の側にいるのはボクでいいんだよね……」
不安げな顔で俺の方をじっと見るあゆ。
「ボク、名雪さんと違って背も低いし胸も小さいし、子供っぽいし、ドジだし、料理も下手だし、その……」
消え入りそうな声でぽつぽつとつぶやくあゆの姿が、去年俺たちの学校で見たあゆの姿に重なった。
「やっぱりバカだな、お前」
そう言って俺は、もう１回あゆの頭を撫でる。
「うぐぅ……バカじゃないもん……」
そんな時、あゆの腹の音がぐ〜っと鳴った。
「なんつーか、色気無いぞあゆ」
「うぐぅ、おなかすいたときには音が鳴るのが普通なんだもん！」
ぷ〜っと頬を膨らませて怒るあゆ。
そうだ。あゆはやっぱりいつだって笑っていないとな。
「調子出てきたじゃないか。あゆはそうじゃないとな」
そして俺たちはゆっくりと海辺へ戻ろうとした時。
「あ、祐一君……その……」
あゆは、顔を赤くしてちょこちょこ俺のほうに近づいて来た。
「ん？ どうしたあゆ？」
「ボクこっちに来る時は荷物重たくて、それどころじゃなかったけど……」
もじもじしながら、あゆは俺の側にやってくる。
「ボク、祐一君と手を繋いで歩きたいな……」
それだけ言うと、視線を落としてうぐぅと俯くあゆ。
そんなあゆが、俺にはもうどうしようもなくいとおしく感じて。
か、かわいい……。
俺はそう思わずにはいられなかった。
「えっと、駄目かな……うぐっ！」
返事の代わりに俺は力強くあゆの手を握ってやった。
「えっと、だな。これはその……そう！ 見知らぬ土地であゆが迷子になったりしないように、という考えで、その……」
とっさに何か言い訳を考えてしまう俺。
でも、俺まで顔を赤くしながら言ってるんだから、我ながら極めて説得力の薄い説明だと思う。
「えへへ。祐一君の手、あったかいね……」
でも俺の側で嬉しそうに、それでいて恥ずかしそうに歩くあゆを見てたらそんな事どうでも良くなってしまった。
「……」
「……」
無言で手を繋いで歩く、俺とあゆ。
他人が見ても、今の俺たちは間違いなく恋人同士に見えたと思う。今この瞬間、俺たちは間違いなく幸せだった。
この後、名雪のいる浜茶屋に戻って皆で昼飯を食った後、皆で浜でビーチバレーをやったり、あゆを砂で埋めて遊んでみたり、北川と泳ぎの競争をしたりした。
けれどどうしてだろう。別にいつもと名雪の何が違う、と言葉で言えるわけではないけれど何かが違うような気がする。
そんな違和感を残しながら、気がつくと空は赤くなっていた。
「もう夕方ね。そろそろ旅館に戻りましょうか」
「いや〜、これだけ泳いだのって久しぶりだ」
「ボクくたくた……お腹すいたね〜」
その時名雪が俺たちのほうを見て、言った。
「うん。そろそろ夕ごはん出来てるかもね。じゃあ行こう」
けれど、俺は名雪になんて声をかけたらいいか分からなかった。名雪がそもそもなんで悩んでいるのか、そもそも悩んでいるのかどうかすら分からないのだから。
それでも、俺たちは何事もなく旅館に……着くはずだった。
「うぐぅ……この坂忘れてたよ〜！」
そうだ。すっかり忘れてたけど、旅館までの最後の道のりは丘になっていて全部上り坂だったんだ。
「うぐぅ。ボクもう疲れちゃって……」
道のりの途中であゆはすっかりへばってしまった。
しょうがないな……。
「ほれ。おぶってやるから背中に掴まれよ」
名雪や香里や北川のいる前でこんな事言う俺はかなり恥ずかしい奴だと思う。しかし、他人に冷やかされるのが怖くて、後にひけるか！
「えっと。もしかしてボク、子供扱い？」
おんぶというのが子供っぽく思ったのか、あゆは拗ねたような顔になる。とはいえあれだけ疲れて、へろへろなあゆにこの坂はどう考えたって辛い。
「いいから、四の五の言わずにさっさとおぶされよ。夕飯が遅くなるだろ！」
「う、うん」
俺の背中にかかるあゆの重さは、思ったより軽かった。
「ラブラブだな〜。どうだ美坂、ここは俺たちも……」
「相沢君も大胆ね。ん？ 北川君、今あたしに何か言ったかしら？」
「いえ、何も……」
北川のアプローチはあっさりと香里にいなされていたが。
「うぐぅ、恥ずかしいよ……」
「何だ、それなら降りるか？」
試しにきいてみる俺。すると、あゆは首をぶんぶん横に振った。
「恥ずかしいけど……でも祐一君のせなか、あったかいね……」
そして名雪は俺とあゆの方を黙ってみていた。
その時。俺は名雪との昔の事を思い出した。
そうだ。小さい頃に名雪が俺と一緒に遊んでて、そして足を捻った名雪を俺がおぶって頑張って家に帰ったんだっけ。
しかしすぐに、そんな感傷にひたってる場合ではなくなった。
「ぐぁ、まさかこんなに坂を登るのが辛くなるとは……」
「ゆ、祐一君？ ボクやっぱり降りる？」
「いやいい……」
恋人をおんぶして歩く、というある意味少女漫画のようなシチュエーションなのにも関わらず、俺は全く別の事を考えていた。
もし今度海に来る事があれば、そのときは絶対に坂のある旅館は選ばないと。
「ごちそうさま〜！」
旅館に戻ってから、俺たちは全員同じ部屋に食事を運んでもらって夕飯を食った。
安い割に料理の味はまずまずだったな。
「あ、わたしおふろ行ってくるね〜」
少し眠そうな感じでぽわぽわしながら歩く名雪。今は……９時か、なるほど名雪はそろそろ寝る時間だもんな。
「さてと、それじゃあ俺も入ってくるかな」
「あっボクも後で、はいってこよ〜っと。あ、香里さんと北川君はどうするの？」
あゆが振り返って二人に尋ねる。
「あ、あたしは近くで花火大会あるっていうからちょっと見て来ようかと思ってね」
へ〜それは知らなかった。しかし、夏の海で花火……ベタだな、香里。
「じゃあ俺はもちろん、エスコートとして同行だな」
「別に北川君はお風呂に入ってても良いけどね。じゃあ行きましょうか」
一見つれないような香里の言葉だったが、それでも香里はちょっとだけ嬉しそうな顔をしていた。
「あっ花火だったらボクも行きたい、行きたい〜！」
花火と聞いてあゆが顔をほころばせる。
しかしいかんな、あゆ。そういう事をすると馬に蹴られて死んでしまうんだぞ。
「ほれ。いいからさっさと風呂入って来いよ。いいかげん少し汗くさいぞ？」
本当は全然そんな事ないが、さすがにあゆも女の子なだけある。
「ええっ！ うぐぅ〜ボクおふろ入ってくる〜！！」
見事に効果てきめん、あゆは慌てて名雪の後を追って風呂へ走っていった。
「さてと。というわけで邪魔者は去ったわけだ、頑張れよ〜」
可能な限りにこやかに、香里と北川を送り出す俺。
「相沢君、その笑みは何なのよ一体……」
「お前がそういう顔する時は大抵何かたくらんでるんだよ……」
不満そうな顔をしながら二人は出て行った。とはいえ流石に俺も、他人の恋路を邪魔するような野暮な真似をする気はない。
とりあえず、俺も風呂に入るか。
そう思って俺も、タオルを持って部屋を出た。
旅館の周りにあるものをぶらぶらと眺めながら風呂場の方へ向かう俺。
しかし、この手の旅館って、置いてあるものはどこも似たりよったりなんだよな〜。宴会場にみやげ物屋、そしてなんでか知らないけど、風呂の側には大抵……。
と思ってると、案の定あるゲームコーナー。
子供が何人か遊んでるのを横目で見ながら通り過ぎようとした時、俺の目に懐かしいものが飛び込んできた。
「クレーンゲームか……」
それをじっと見てると自然と、昔あゆの為に頑張って人形を取ろうとしていた事を思い出す。
「よし、ここは一丁あゆの為に１個取ってみるか！」
しばらくして……。俺は敗北感に打ちのめされていた。
「一回に何個も取れる奴って、絶対に人間じゃない……間違いない」
あれから７……いや８年たったにもかかわらず、俺は相変わらずド下手だった。
「風呂入ってこよ」
結局、財布の中がこれ以上軽くなる前にとっとと撤退する俺。くそ、なんだか凄い情けないぞ。
脇に置いておいたタオルを持って男湯へ向かう。
割と男湯の方は空いていたおかげで、俺は、ゆっくりと風呂につかっていた。
「あ〜、いい気分だ……」
我ながら年寄くさい台詞だと思うが、疲れてる時に風呂に入ると自然に出てくるから不思議だ。俺にしてはかなり長めに風呂に入ってから男湯を出る。
すると、のれんをくぐった時にばったりと名雪に出会った。
「あ、祐一。祐一は今からおふろ？」
「いや、俺の方も今あがった所だ。にしても、俺より早く入ったろ名雪は？」
「女の子はおふろって、ゆっくりはいるものだよ〜」
そう言ってにっこり笑う名雪。その体からは風呂上りのシャンプーのいいにおいがして……って、何を考えてるんだ俺は。
そんな風にちょっとドキドキしている俺をよそに、名雪は俺に話し掛けてくる。
「祐一。今日祐一わたしにきいたよね。嘘をつくことは良いことか、それとも悪いことかって」
「あ、ああ」
どうやら真面目な話らしい。それも、今日一日名雪の様子がおかしかった原因のようだ。名雪は下を向きながらぽつぽつと話をする。
「わたしの答え、やっと出たんだ……。凄く悩んだよ。今日一日悩んじゃったよ」
「そんな悩む事じゃないだろ。あれはただ、あゆの胸をからかう為の……」
その時、名雪は顔を上げた。
名雪は……泣いていた。
「わたし自分の気持ちに嘘つくの、もう疲れちゃったよ。わたしね……ずっと言えなかった事があったんだ」
「お、おい名雪！？」
泣いている名雪に俺は戸惑った。けれど、名雪が凄く大事な事を、今までで一番大事なことを言おうとしているのはわかった。
「わたし、祐一の事が、昔からずっと好きだったんだよ……」
俺は驚いた。正直、名雪が俺に対してそんなことを思ってただなんて。
「ごめんね。本当は黙っていようと思ったんだ、祐一にはあゆちゃんがいるんだもん。だけど、言えないままで抑えてたら……今言えなかったら、何だかずっと言えない気がしちゃって……それって凄く後悔すると思ったから……」
そう言って、ごめんねと言って悲しそうに微笑む名雪。その顔には涙が伝って、見ていて凄く辛かった。
「名雪、俺は……」
俺は何て名雪に言えばいいんだろうか。名雪がここまでずっと溜めてた思いを、俺が断るだなんて事をしていいんだろうか。
その時だった。
「ゆ、祐一君……名雪さん……」
俺と名雪の後ろ、風呂の入り口から声が聞こえた。
それは俺のききなれた声で。間違え様のないあゆの声だった。
「あゆ、あゆだよな？」
そっと俺が後ろを振り向いた時、俺の目には涙目になったあゆがぷるぷると体を震わせる姿がうつっていた。
「待てあゆ！ これはその、違う。いいか、落ち着いて俺の話を……」
「ぼ、ボク……ボクっ！！」
俺の話を最後まで聞かず寝巻き姿のままで、あゆは泣きながら俺と名雪の側を走り抜けて外に出て行ってしまった。
やばい、誰が見たって今のを見れば誤解する。ましてや今日一日の名雪のおかしな所に気がついていたらなおさらだ。
でも、その時玄関でドスンという大きな音がした。
「う、うぐぅ痛いよ〜！」
「いたた……。もう、あゆちゃん！ 前はちゃんと見て歩きなさい。それとこういう所は走っちゃ駄目よ」
香里とあゆが玄関で正面衝突していた。
「あゆ！」
「あゆちゃん……」
俺と名雪も追いつく。俺を見てあゆはなおも逃げようとするが、入り口に北川がいるせいで外に出られないようだった。
「うぐぅ……」
そんな俺たち３人を見て、香里がため息をつく。
「何だか複雑な事情がありそうね。こんな所で話をしても仕方がないわ、部屋に戻りましょう。ほら、名雪行くわよ」
まだ泣き顔の名雪の側について、香里は部屋に戻る。
「ほら、あゆ……」
そして俺はまだ頭を抑えているあゆに手を伸ばす。
あゆはふるふると首を横に振っていたが、それでもじっと俺があゆを見ているとそっと手を俺のほうに伸ばしてきた。
「ごめんあゆ。俺……」
「ううん。ボクの方こそごめんなさい……。ボクはもっと祐一君のこと信じてあげないといけないのに……」
けれど、それでもやっぱりあゆの涙は止まらなかった。仕方なく、俺はそのままであゆを部屋に連れて戻る。
「で？ 一体何がどうなったのよ？」
おでこをちょっと赤くした香里が俺の方を見て尋ねてくる。
「いや、その……名雪が俺に……」
「名雪が何なのよ」
う、凄くいい辛い。第一俺が言ってもいいんだろうか……。
「名雪がその。俺の事を好きだって……」
そう言ってちらりと名雪の方を見ると、名雪は耳たぶまで真っ赤にして俯いていた。
「なるほど、ね。名雪がようやく８年越しの思いを打ち明けた時にそれをあゆちゃんがきいちゃって、それで走ってきた所をあたしとぶつかった、っていうわけ？」
何ていうか、香里の言葉は見事に的を射ていた。
「図星みたいね……。で？ 相沢君はどうするつもり？」
「どうするって」
「当たり前じゃない。名雪は相沢君にやっと思いを伝えたわけ。で、あゆちゃんは相沢君の事が好きなのなんて確認するまでもないわよね。だから、後は相沢君次第よ」
その香里の言葉に、あゆの、名雪の、そしてついでに北川の視線が俺に集中する。
「何だ？ もしかして俺はみんなのいる前でそれを言うわけか？」
しかし、それに対する香里の言葉は無情だった。
「当たり前でしょ！ 名雪がどんな思いで言ったって思ってるのよ。名雪は少なくともあたしが知り合ってからずっと、相沢君の事見てたんだから」
「ええっ？ 香里、どうして知ってるの？」
香里の言葉に名雪が驚きの声をあげる。
「あのねぇ……初めてあんたから同い年のいとこの話きいたときに気がついたわよ。凄く嬉しそうに話すんですもの」
香里が苦笑いをする。流石に親友、良く見てるんだな名雪の事。
「ほら。相沢君！」
うっ。これほどきつい状況に追い込まれた事は流石に無いぞ、俺の人生でも。
でも、いくら考えたって俺の気持ちは最初から決まっている。誰が何と言ったっておれの気持ちは変わらないんだから。
俺は一度大きく深呼吸した。
「すまん名雪！ 俺はあゆが好きだ！ 世界中の誰よりあゆが好きなんだ！ だから……俺はお前の気持ちには応えられない」
言った、言ってしまった。
正直名雪や香里からは、ビンタを食らっても仕方が無いと思うくらいの気持ちで言った。
恐る恐る顔を上げてみると。
「ありがとう、祐一。わたし、断られても祐一の思いがききたかったんだ。だから、わたしはそれだけで満足だよ」
「そうね。もしその場しのぎで名雪が好き、なんて言おうものならあたしは相沢君を殴ってたかもね」
俺はそういう二人の笑顔を見て、強いと思った。
俺が名雪や香里の立場なら、笑顔でいられるんだろうか。
「えっと、祐一君……」
あゆはすっかり真っ赤でゆでだこ状態だった。
うわ、考えてみたらあゆの事忘れてた！
「祐一君ありがとう。ボク……嬉しいよ」
そう言うと、あゆは俺のほうに来ると目をつぶった。
何だ、何だ！？ 神は俺にまた試練を与えるつもりなのか？
「頑張れ相沢。俺は応援してるぞ」
北川！ てめー絶対楽しんでるだろ！
「祐一、ふぁいとっ、だよ」
名雪はもうすっかりいつもの名雪だった。いや、これはある意味いじめなのか？
「女の子をあまり待たせるものじゃないわよ、相沢君」
結局俺は観念した。
いや、俺だってキスをしたくないわけじゃない。ただ、よりにもよってこの面子の目の前でキスする羽目になるとは……。
「祐一君……」
「あゆ」
そっと俺はあゆの唇をふさぐ。
色んな意味で、初めての次に忘れらないキスだった。
翌日、俺たちは荷物を持って旅館を出る俺たち。
「あゆちゃんごめんね、わたし……」
名雪とあゆは、旅館の玄関で一緒に話をしていた。
「ううん。名雪さんの気持ちはわかってたから……だから気にしないで。ボクね、本当は祐一君の気持ちも知ってたんだ……でも、名雪さんと祐一君が一緒にいるの見てたら不安になっちゃって……」
「あゆちゃん……」
うわ、お願いだからこれ以上恥ずかしい事を俺の後ろで話すのはやめてくれ。
その時あゆのリュックを見ながら俺はある事に気がついた。
「ん？ そういえばあゆ……何か忘れてないか？」
「え？ 忘れてるって何が……？ あっ！ うぐぅ〜！」
あゆのリュックの膨らみ、スイカ割りの為に持ってきたスイカがそのまま忘れて入りっぱなしになってたんだから。
「うぐぅ、せっかく持ってきたのに〜！」
「どこかでこういうオチがつくんだな、お前の場合」
そんな俺とあゆを見て、名雪は笑った。
「うん。やっぱりお似合いだよ、あゆちゃんと祐一。だけど、もし祐一が大学落っこちちゃったら、もう１年祐一はわたしの家だよ〜」
「うわ、縁起でもないぞ名雪！ 昨日は、きっと受かるって言ってただろ！？」
「えへへ。これくらい思ってもばちは当たらないかな、ってね」
そう言ってにっこり笑う名雪。多分、これは名雪なりの優しさだと思うから。
「そんな事いう口は、この口か〜！？」
「ふぁめへよ、ゆういち〜。いはいよ〜」
だから、俺も名雪の頬を広げてみたりする。
「わっ祐一君！ 駄目だよそんな事したらっ！」
そんな時、北川と香里がやってきた。
「面白そうな事してるわね、相沢君」
「おう、香里もやるか？」
そう言って俺は名雪の頬から手を話す。
「ひどいよ〜。香里、わたしいじめられてたんだよ〜」
間違いなく今回の旅行は楽しかった。胸をはってそういえると思う。
「あっ！ もう一つ忘れてたよ！」
「何だあゆ。まだ何かあるのか？」
あゆは何やら自分のかばんをごそごそさせていた。
「ちょっと待っててみんな……あっ、あった！」
そう言ってあゆが取り出したのは立派なカメラ。
「あら？ あゆちゃんカメラなんて持ってきてたの？」
「うん、香里さん。実は秋子さんが持たせてくれたんだ。でもすっかり忘れてて」
そう言って笑うあゆ。
「相変わらずドジだな」
「うぐぅ、絶対に言うと思ったけど、祐一君いじわるだよ〜！」
でもせっかくカメラがあるんなら写さないと損だ。俺は旅館に戻って中の人に声を掛ける。
「すいませ〜ん。写真一枚取っていただけませんか？」
「ええ。いいですよ」
そう言って旅館の人は、快く応じてくれた。
「よし、それじゃあ取ってくれるそうだからみんな並べ〜」
「あたしは別にどこでもいいけどね。名雪の側でいいかしら」
「俺は……とりあえずじゃあここで」
そう言って香里の側に行く北川。何ていうか、想像どおりだよな。
「わたしは、祐一のうしろがいいな〜」
名雪はそう言って俺の後ろに立つ。
そして……。
「ボクは……祐一君の側、かな」
あゆは俺の側に照れた顔をしながら、そっとやって来る。とりあえず、俺は何も言わずにあゆの手を握る。かなり恥ずかしい奴だと我ながら思うが、この際気にしない。
「何ていうか、新美坂チームの記念撮影、って感じだな」
北川が不意にそんな事を言った。何ていうか俺も同感だ。
「最初は何故にチーム？ って思ったけど、結構いい響きだよな、チームって」
「だろ？」
多分俺たち５人は、卒業してもこんな感じなんだろうな。
「いいですか〜、取りますよ〜」
『お願いします〜』
今回は本当に色々な事があったけれど、でも本当に楽しかった。俺は横にいるあゆの手をしっかりと繋ぎながら、皆の顔を眺めた。
みんなも本当にいい笑顔をしていた。
カシャッ
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