空も海も、何処までも蒼く澄み渡っている。
夏の日差しは灼け付く様に降り注ぎ、火照った肌を優しい潮風がそっと撫でていく。
「ああ、ここは……楽園だ」
僕に背を向けて、足を投げ出す様に座った相沢が言った。その隣で、こちらは寝そべってやはり僕に背を向けた北川が、ああ、と間延びした声で返事をする。
海を見下ろす小高い丘の上で、僕等はさっきからぼんやりと変わらない景色だけを眺めていた。僕は二人の後ろ、やや離れた所にある大きな岩の影で、日差しを避けるように片膝を立てて座っている。
不意に吹いた横風が、僕の膝の上に開かれたノートのページをぱらぱらとめくる。僕はその風が収まってから、やや緩慢な動きでページをめくり返し、もともと開かれていた最初のページに戻す。
「なあ、そう云えば久瀬は？」
ごろりと寝返りをうった北川が、僕と眼が合うとそんな事を尋ねてきた。僕は無言のまま、首だけをゆっくりと巡らせてそちらを見遣る。つられて北川が、それと何時振り向いていたのか相沢が、僕の視線の先に顔を向けた。
白い砂浜に、力無く蹲る遠い小さな人影。小さすぎてよく判らないが、恐らく何度も両手で砂を叩き付けているのだろう。そこからもう少し先の岩場になっている辺りで、澄み切ったブルーの海の上に奇怪なオブジェが突っ立っている。
先端が尖った、白い柱。その周囲には大小の泡が沸々と湧き立っていて、そしてその白い柱は少しずつ、少しずつ海中に没して行くのだ。無論、そんな細かいところまでこの距離から見える訳が無い。さっき近くで見ていた時と、状況があまりに変わっていない事からの推測だ。
「……かのタイタニック号は」
突然、真面目くさった表情で相沢が口を開いた。
「その処女航海に於いて、巨大氷山に激突し沈没した」
「……違うって説も、あるらしいぞ〜」
Ｔシャツの裾を捲って、海パンのゴムの下を掻きながら北川が混ぜっ返す。しかし相沢は一切動じる事なく、両手を大きく広げて力説を始めた。
「原因なんか、問題じゃあ無いんだよ。問題はな、それによって、数え切れない程の人命が失われてしまった、と云う事だ」
「つまりどう云う事？」
僕が聞き返すと、相沢はうむと大きく頷いて、重々しく言葉を続ける。
「つまりだ。同じ処女航海に於ける沈没と云う末路を辿ったにせよ、無数のかけがえのない命を奪ったタイタニック号に比べて、彼女はなんと立派であるか……とまあそんな事が言いたい」
成る程、と声を上げて、北川がムクリと起きあがった。
「そうだな、彼女は誰一人として傷つけなかった……俺達は全員無傷じゃないか！ 素晴らしい……有り難う」
相沢と北川は二人して、感動の眼差しをその白い柱……沈み行く真新しい大型クルーザーの白い船腹に注いでいる。
「久瀬はそうは思っていないと思うけどね」
付いていけなくなった僕は、インクが半分程残ったボールペンを持ち、手元のノートに視線を落とした。その寸前、砂浜でずっと愕然としていた久瀬が立ち上がり、猛然とこちらに走り出したのを視界の隅に捉えて、僕は小さく息を吐く。
「何か、怒ってるみたいに見えるけど？」
相沢にも北川にも、勿論久瀬にも視線を向けず、何も書かれていないノートの紙面を眺めながら僕は淡々と言った。ふうむ、と相沢が溜息混じりに唸る。
「久瀬も人間が小さいなあ。この感動を理解できないとは……なあ、北川」
「ああ。全くだな、相沢」
ちら、と上目遣いに一瞬見上げた二人は、顔を見合わせて大笑いしていた。その笑いが多少おさまるまで待って、僕は開いていたノートの表紙を音を立てて閉じる。
「あのさ」
二人の顔に交互に視線を向けて、静かな声で言う僕。相沢と北川はピタリと笑いを納め、鏡に映したような左右対称の動きで振り返ると、僕の顔をまじまじと見た。
「「なんだ？ 斉藤」」
意味もなくハモる二人の眼を見返すと、僕は少しだけ身を乗り出し、ゆっくりと首を傾げながら……提案した。
「そろそろ、慌てない？」
一瞬の沈黙。僕等の間を、種類の判らない海鳥の鳴き声が通りすぎる。
「はは……それもそうだな」
北川がそんな言葉を呟き、相沢は小さく肩を竦めてゆっくりと息を吸った。そして……
「……う、うわあああああああっ！！」
「そ、遭難したあああああああっ！！」
二人揃って突然飛び起きると、両腕を振り回して叫びながら走り出す。何やら怒鳴り散らしながら走り寄り、間近まで来ていた久瀬の両脇をすり抜けて、相沢と北川は白い砂浜へと猛然たるダッシュで駆けて行った。そんな二人を、慌てて方向転換した久瀬が拳を振り上げながら追いかけて行く。
小さくなっていく三人を見送り、僕こと斉藤貴之は大きな溜息を吐いて……それから、指の上でくるりとボールペンを一回転させると、膝の上のノートの表紙に「遭難日誌」と書き付けた。
楽園日記
８月１０日（木）
僕等の遭難生活の始まりの日
この日誌の始まりの日
すっかり日が落ちて、人工的な光が全く存在しない砂浜は真っ暗になっていた。沈む船からどうにか持ち出した荷物を傍らに積み上げて、周囲から枯れ枝を集めて焚いた小さな火を囲むように、僕等は皆一様に無言のまま座り込んでいる。
ただ、悲壮感とかそう云ったものは無かった。船が座礁してから完全に沈むまで結構な時間があったから、大抵のものは運び出せたし、その中には出発前に持たせて貰った弁当なんかもあったからだ。今になって良く考えて見れば、座礁した状態から相沢が強引にスクリューを廻して脱出しなければ、沈没とまでは行かなかったのかも知れない。まあ、済んでしまった事ではあるけれど。
とりあえず腹にものを入れようと北川が提案し、僕等は焚き火を囲んでそれぞれ缶詰をつついた。さっきまで怒鳴り散らしていた久瀬も、タコさんウインナーを一人で綺麗に平らげてからは随分大人しくなって座り込んでいる。人間腹が減ると怒りっぽくなるものだが、どうやらこれは逆も真なり、らしい。
「さて、どうするかなあ」
不意に沈黙を破って、組んだ両腕を頭の後ろに廻した相沢が、誰に言うともない調子で呟いた。その声に、思い思いの姿勢で楽にしていた全員が身を起こし、焚き火を中心に向かいあって姿勢を正す。
「どうするも何も、船は沈んじゃった訳だし……なんとか救助を待つしか無いんじゃないのか？」
「ああ……お爺様に何て言えば良いんだ」
人差し指でこめかみを掻きながら、常識的な意見を述べる北川の向かいで、体育座りの久瀬が頭を抱えて丸くなり呻いていた。
「ねえ、あの船って幾らぐらいするの？」
僕はふと興味をもって、隣の久瀬に尋ねて見る。久瀬は膝の間に顔を埋めたまま、ちらりと片目だけで僕を見て、絞り出す様な掠れ声で言った。
「大体……１億７千万ぐらい」
「げっ！」
「マジかよ……」
質問した僕ではなく、さり気なく耳を傾けていたらしい相沢と北川から驚きの声があがる。普段耳にする事の無い金額に、僕もまた一瞬言葉を失った。
「ああ……あの水の下にいちおくななせんまん……」
もはや完全に水面下に消えたクルーザーが、さっきまで必死に舳先を覗かせて居た辺りを見つめて、北川が指をくわえている。
「凄いな。やっぱり金持ちなんじゃないか、久瀬ん家って」
茶化す様な表情で、相沢が肩を竦めた。
「幾らなんでも、１億７千万のものを子供に与えちゃ駄目だろ」
「……だから、僕のじゃない」
俯いたままの久瀬が、皮肉っぽい口調の相沢に向かってぽつりと呟いた。
「え？」
「だから、あのクルーザーは僕のでは無いんだよ！ あれはお爺様が買い換えたばかりの船だ！」
がば、と身を起こした久瀬は泣きそうな表情で、半ば叫ぶ様にそう言った。
「つまり、それを勝手に持ち出した訳か」
「……幾ら何でも、あんな大型クルーザーを買ってもらえる訳は無いだろう……」
振り返った北川の呆れ顔に、久瀬の言葉は尻すぼみに小さくなっていく。
「え？ だって『船舶免許を取ったお祝いに貰った』って言ってたじゃないか」
僕は思わず聞き返した。う、と言葉に詰まり、一瞬僕を見てすぐ視線を泳がせる久瀬。
高校三年生に上がって生徒会長を辞めた久瀬は、大学の受験勉強の傍らでせっせと船舶免許の受験勉強もしていたらしい。六月が誕生日の久瀬はもう１８歳で、免許の取得資格を持っている。学校を休んでまで試験を受けに行き、その異様な熱意で一発合格してきたらしいが、つまりそれはこの夏休みに間に合わせたかった、と云う事なのだろう。
「つまり、あれはハッタリだった訳だろ。『倉田さん、僕の船でクルージングに出掛けませんか？ 二人っきりで』ってのは」
「『二人きり』なんて、そんな事は言ってない！」
鼻を鳴らしてあの時の久瀬を真似る相沢に、久瀬が顔を赤くして食って掛かった。僕の記憶では、確かに『二人きり』は言ってはいなかった……全身からひしひしと伝わって来てはいたけど。
そもそも僕等が海に出る事になったのも、純白のクルーザーを駆る久瀬が倉田先輩の別荘にやって来たからだ。
久瀬克弥が一学年上の倉田佐祐理さんの事を好きだと云う事は、少しでも彼の周囲に居た事がある人間にとっては常識だ。直接訊くと、久瀬は猛烈な勢いで否定して最後には怒り出すのだが、傍から見ているともうどうしようも無い程にバレバレなのだ。
僕は一年生の時に久瀬と同じクラスだったから良く知っている……つまり、彼はその頃からずっと倉田先輩一筋であり、しかも未だその想いを本人に伝えていない。一途と言うか不器用と言うか、天の邪鬼と言うか優柔不断と言うか……まあ、良くも悪くも久瀬は『お坊ちゃま』な訳で。
「大体僕は、クルージングに行くつもりだったんだ！ それを君等が強引に海釣りに変更したんだろう！」
倉田家別荘の桟橋に立った久瀬が誇らしげに掲げた、ぴかぴかの「小型船舶操縦士免許」を横からさっと掠め捕ったのは、彼にとっては不幸な事に相沢だった。高校生活最後の夏休み、相沢を始めとして北川、水瀬さん、美坂さん、そして僕は倉田先輩の別荘に招待され、泳いだり喰ったり泳いだり喰ったりとそりゃもうやりたい放題の真っ最中だったのだ。主に相沢が。
もっとも、僕はおまけみたいなものだ。倉田先輩からお誘いの話が出た時、たまたま僕は北川に用があって一緒に居て、それで一緒にどうかと尋ねられたのでＯｋした……まあそんな感じで。
冬には雪に覆われる様な街に住んでいる僕にとっては、海沿いの別荘で過ごす夏休みなんてなかなか出来る事じゃない。僕は相当ラッキーなチャンスを手に入れた筈だったのだけれど、海で遭難までセットとは思わなかった。
「なんだよ、お前だってノって来たじゃないか」
「それは、君に挑戦されたからだ！ どっちがより大きいマグロを釣るか勝負だって！」
唇を尖らせる相沢に、久瀬がさらに興奮の口調になる。
ちなみに、マグロはその体重が数百キロあり、相応の設備と腕がないと、とても釣れない。
「佐祐理さんに良いとこ見せたくて話に乗ったんだろ〜」
「なっ……！ そ、そう言う事じゃない。プライドの問題だ！」
久瀬は完全に相沢にからかわれていた。久瀬にとっては、自分が呼べない倉田先輩のファーストネームを気軽に口にする相沢が、どうにも癪に障るらしい。以前から、相沢の彼女である川澄先輩を巡るごたごたで対立していたが、その問題が一応の解決を見たらしい現在でもこの二人は仲が悪い。
険悪、と云う程ではないのだが、とにかくすぐ口喧嘩になるのだ。そして、口の悪さなら誰にも負けない相沢に、お坊ちゃまの久瀬が勝てる訳が無い。
別荘では、二人が喧嘩をしそうになると倉田先輩が悲しそうな表情になり、倉田先輩の親友である川澄先輩がその度に相沢にチョップを喰らわせて居たから随分静かだったのだが、ここへ来て抑制が外れたのか二人の言い争いはどんどんヒートアップしてきている。
「大体、免許持ってんならしっかり操縦しろよ！」
「『１キロや２キロどうって事無いだろ』とか言って僕に２０海里線を越えさせたのは君だろう！」
久瀬の免許は『二級小型船舶操縦士』。航行が許されているのは海岸から２０海里……約３７Ｋｍ辺りまでだ。それ以前に、久瀬は船舶免許を取ったばかりの初心者である事も忘れてはならない。
「ま、最終的にはクルージングも海釣りも無くなっちゃって、ついでに船まで無くなっちゃった、と」
肩を竦めた北川が、ぎゃあぎゃあと言い争いをしている相沢と久瀬を眺めて頭を振った。僕はそれに頷いて同意を示す。
「ＧＰＳレーダーぐらい使いこなせる様になっとけっての！」
「だからって、陸が見えたら真っ直ぐ突っこむ事は無いだろう！」
……相沢と久瀬の言い争いは、焚き火が小さくなって消えてしまうまで続いた。横を見ると、荷物から引っ張り出したらしいレジャーシートを広げた北川が、もう知らんとばかりに寝る体勢に入っている。
僕もその近くで横になり、睡眠をとる事に決めた。もう夜も大分更けている。何か行動するにしても、全ては明日からだ。
色々あって疲れている筈なのに、
色々考えてしまいなかなか寝付けなかった。
溜息と共に見上げた夜空は信じられない程澄み切っていて、
信じられない程綺麗な星々が瞬いていた。
８月１１日（金）
人間には、衣・食・住が必要だ。
とりあえず、僕等には着るものは少しだがあり、食べるものも当てがない訳ではない。
足りないのは、住むところだ。
その雨は通り雨だったようで、ほんの僅かに頬を濡らしただけで止んだが、それでも僕等に雨ざらしの恐怖を抱かせるには充分だった。
「とりあえず、拠点が必要になると思う」
真顔の北川が、僕等を見回してそう言った。僕と相沢は頷いたが、久瀬はどことなく訝しげな顔だ。
「クルーザーにはＧＰＳレーダーが付いてたんだ。僕たちの行方不明が続けばその消失点を捜索に来るんじゃないか？」
「問題は、それが何時かって事だろ」
何時もと違って真剣な様子の相沢が、真っ直ぐ久瀬を見て言う。それはそうだけど、と口籠もる久瀬。
「この砂浜に、なにかメッセージを残しておけば良いんじゃないかな。それから、雨風を凌げそうな場所を探しに行く」
僕がアイディアを出すと、久瀬もそれならばと納得し、僕等は転がっていた枯れ木で砂浜に大きな『ＳＯＳ』を彫った。そこに石やら木切れやら、色んな物を詰め込んで消えない様にしてから、僕等は砂浜を後にした。
「コレで、少し歩いたら港かなんかあってさ、漁師のおっちゃんとかに『ナニしてんだお前等』とか言われるオチだったらいいなあ」
出発前にみんなを元気づけようとしたのか、北川がジョークを飛ばす。だけど、それは現実にはならなかった。海岸沿いに半日程歩いて、僕等は元の砂浜に戻ってきている。
「やっぱり島か。それも無人島……最悪だな、こりゃ」
疲れた顔の相沢が、空を仰いで溜息と共に言う。無人島なんてそうそうあるもんじゃないと思っていたのだが、久瀬によると地図にも海図にも載っていない無人島は、この程度の規模なら結構あるそうだ。途中、船着き場の残骸みたいなものを発見したので一瞬期待したのだが、この島に人が居たのはやはり過去の事らしい。
更に悪い事に、島を一周する間に観てきた海上に、ほかの陸影は無かった。完全に孤立した無人島……僕等の運勢も、どうやら最悪だ。
「今度は島の中の方に行ってみるか」
案外元気な北川が、視線を島の中央に向けながら言った。華奢で色白な為にひ弱に見られる事の多い北川だが、毎日バイトで鍛えられているせいか結構タフだ。それに、多分この４人の中で一番運動神経が良いのも北川だろう。とにかく身軽なので、島を周回する間も時々大岩や木によじ登っては、周囲を見回す役目をかって出ていた。
「おい、まだ歩くのか？ す、少し休んだ方が良いんじゃ……」
久瀬は疲れ切っていて、言うが早いか砂浜に座り込んでしまった。僕は思わず足を止めたが、既に内陸へ向けて歩き出している二人は振り返りもしないで歩き続けている。
「お……おい！！」
砂浜に手をついたまま、久瀬が声を荒げた。昨日と同じように両手で砂を叩き、二人の背中に怒鳴りつける。
「僕が休もうって言ってるのが、聞こえないのか！」
相沢と北川の歩みが、ぴたりと停まった。久瀬は完全に癇癪を起こしている。普段はここまで我が儘な人間では無いのだけれど……
困ってしまって、足を投げ出した久瀬とじっと動かない二人を交互に見る僕。
不意に相沢が、全身で振り返った。その顔には一片の表情も浮かんではいない。無表情のまま、座り込んだ久瀬の目の前までやって来た相沢は、冷たい眼でへたり込んだ久瀬を見下ろす。久瀬がごくりと唾を飲み込む音が、ここからでも聞こえた。
「相沢？」
そのまましばらく、じっと動かずに居る相沢がどうするつもりなのか判らなくて、僕はつい声を掛ける。と――――突然相沢は、久瀬が放り出した荷物をひっ掴んでくるりと方向転換すると、「そりゃ！」と叫んで走り出した。振り向くと北川も、げらげら笑いながら森の中へ姿を消していく。
「な……」
ぽかんと口を開けていた久瀬の表情が、見る見るうちに強張っていく。
「お前らぁ！ 僕を身一つで置き去りにする気かぁ！」
そう叫んだかと思うと、久瀬は跳び上がるように立ち、砂を蹴って猛然と走り出した。わはははと高笑いをあげながら逃げる相沢を追い掛けて、拳を振り上げた久瀬が怒鳴りながら走って行く。
僕はしばらくそれを見ていて、溜息をついた。これじゃ昨日の再現だ。仕方無いので、僕も自分の荷物を背負い直し、三人のあとを追い掛けて走り出す。
何故だか少しだけ、僕も笑っていた。
ちなみに、少し内陸に入ってすぐ、僕等は結構ちゃんとした鉄筋コンクリートの建物に巡り会い、そこを拠点にする事にした。何に使われていた建物かは良く判らなかったが、無人になってからは久しい様子で、中にはガラスの破片やら何やらが散乱していたものだから、その日の午後は掃除に費やされて終わってしまった。
相沢と北川と僕は黙々と、久瀬はぶつくさと文句を言いながら、箒の代用である葉の茂った枝を握っていた。
人間って、自然に帰りたいとか何とか言っても
やっぱり壁と天井と床に囲まれていると安心する生き物らしい
学校ではこれほど真剣にやった事が無い掃除の後
疲れ切った身体を横たえた僕は急速に眠りに落ちていった
でも
あの信じられない程綺麗な星空が見えないのはちょっと残念だなと
瞼が閉じる直前に、ふと思った
８月１２日（土）
相手が意外な事まで考えて行動している事に、驚かされる事はよくある
だけど、その意外さが３６０度一回転して、たまたま上手く嵌ってしまうなんてヤツは
この世の中でそうは居ないだろう
例えばこの、相沢祐一みたいに
眼が覚めてしばらく、元は真っ白だっただろうけど今は所々黒く薄汚れている天井を眺めていた僕は、ふと違和感を感じて起きあがった。
違和感の正体はすぐに判った。４人並んでごろ寝している僕等の一番端、僕から見ると北川を挟んだ向かいに寝ていた相沢の姿が無い。
「どうした、斉藤？」
僕が起きあがる気配で眼が覚めたのか、片目だけをうっすらと開いた北川がちょっと掠れた小声で尋ねてきた。僕は無言で抜け殻の寝床を視線で指す。
ん、と首を廻した北川も相沢が居ないのに気付いて、ありゃと声をあげて起きあがる。その頭を見て、僕は少しだけ吹き出しそうになってしまった。
北川の殆ど金色に近い栗色の髪は、見た目通りやはり髪質が柔らかいのか、寝癖で四方八方へ爆発しながらも全体的にはしょんぼりと垂れている。枝垂れ柳みたいな形で膨れあがった髪の毛の天辺で、どうしてそれだけは崩れないのか一房だけの癖毛はしっかりと立っていた。
そんな頭をぼりぼりと掻きながら、北川が立ち上がる。どことなくとろんとしていた眼は、二・三回首を振っただけで普段のそれに戻った。
北川が相沢を探して周囲を見渡している間に、僕もまた立ち上がっていた。二人が動く気配と物音で、一番熟睡していたらしい久瀬がやっと眼を覚ます。
「ん……何？」
久瀬が眼を擦りながら起きあがる頃、僕は部屋の入り口のドアが開いているのに気付いていた。頷きあった僕等は、ぞろぞろと３人連れ立って建物の外へ出て行く。
外に出ると、そこには気持ちの良い朝の光景が広がっていた。眩しく煌めく朝日が木陰を貫いて差し込み、真夏の森の木々は鮮やかな緑の葉を繁らせている。空気はやや冷たく、澄んだ感触は夜の名残。静謐の中に溶け込んだ、そよ風の微かな声。
そんな中、建物の前庭に転がっていた丸太に座って、朝日に眼を細めながら一冊の本に眼を落とす相沢の姿があった。
こうしてみると、やっぱり相沢は同姓の僕からみても格好良い奴だと思う。一年生の女子などからの人気を集めるのも頷ける、アイドル系ともまたちょっと違う端正な顔立ちだ。見た目だけなら、理知的な容貌とも言える。
ただ、それは黙っていればの話だ。発想がエキセントリックな上に口の悪さが天下一品な為、迂闊に近づくと精神を汚染される……とは北川の弁だ。一番近くでいつもつるんでいるくせに、酷い言い様だ。でも、相沢の中身が変人なのは確たる事実で、相沢に告白した女の子がその変人ぶりにショックを受けて、走り去っていくのを僕は何人も目撃している。
「おーい相沢、何読んでんだ？」
北川の間延びした声で、僕は現在の状況に関係ない方向に流れていた思考を引き戻す。ぞろぞろと庭に出てきた僕等に気付いて、相沢は顔をあげて「おう、おはよう」と本を持つ手を掲げた。
文庫よりやや小さなサイズのその本はシンプルな装丁で、表紙にはタイトルだけが印刷されている様だ。ここからではその内容が判らない。興味を引かれたのか、北川が相沢に近づいていく。僕と久瀬も一瞬視線を見交わして、その後を急いでついていった。
「お前、そんな読書家だったけ？」
「いや、たまたま良い本があってな」
苦笑しながら覗き込む北川と共に、僕等はその表紙に書かれた小さな黒字を凝視する。そこにはこう書かれていた。
『遭難者必携！ 無人島サバイバル！』
「……」
「……」
「……」
北川は半眼になって、僕は口をぽかんと開けて、久瀬は眼を点にして。僕等はしばらく、言葉が無かった。
「どうだ」
なぜか爽やかな笑顔で感想を求める相沢。
「アホかっ！ なんでこんなの用意してんだお前はっ！！」
いち早く立ち直った北川が、相沢に鋭くツッコむ。流石、相方。僕と久瀬は溜息を吐いて、揃って両腕をだらりと下げて脱力した。
「うーん……いや、出発前の買い物の最中にな、本屋で見つけたんだ。いざと言う時に必要になると思って」
そう言えば、水瀬さんと美坂さんが水着を買いに行ってる最中、相沢は姿を消していた。荷物持ちの北川は『うまく逃げたな、あいつ』とぼやいていたが、まさかこんな代物を入手していたとは。やっぱり、相沢の思考回路は計り知れない。当初の予定では、海沿いの別荘でのバカンスだったのに、なんでそこまで想定してるんだ。
「はあ……多分、その本を実際に活用するのはオレ等が初めてだよ。作者に感謝しとけ」
「ああ」
疲れた顔で肩を叩く北川に、相沢は至極真剣な顔で頷く。
「でも、ラッキー……って言い方はおかしいかも知れないけど、その本は役に立つよ」
少し考え込んでいた僕は、顎に手を遣りながら一人頷いた。正直、僕等にサバイバル経験なんて無い。この本は、僕等が救助を待つまでの、大きな助けとなるだろう。
「なるほどな……じゃあ、今日やる事を決めて、分担しよう。相沢、ちょっとその本貸せ」
やる事が決まると、北川の行動は素早い。相沢が差し出したサバイバル本をぱらぱらと捲り、必要だと思われる項目をピックアップしていく。こう言う手際の良さも、北川の特長だ。働いている店でアルバイトチーフを務めていると言う話も、あながち伊達では無い。
数分の話し合いの末、相沢・北川が外に出て食材を探してくる事。僕と久瀬が、ここに残って飲料水確保用の設備と竈の設営をする事に決まった。
……なんだか、こうなってくると少しうきうきしている自分がいる。何となく、キャンプみたいで楽しい。それは相沢と北川も同じだったようで、準備をする間もどことなく楽しげな様子で、「期待してろよ」と笑いながら出かけていった。
だけど、一人だけ……久瀬はなんだか、浮かない表情だった。
「どうしたの、久瀬」
僕が尋ねると、竈用の岩を一つ積んだまま動きを止めていた久瀬は、「いや、何でもない」と呟いてまた動き出した。その後ろ姿がなんだか不安定に揺れている様で、僕は声を掛ける事さえ躊躇われて、ただじっと岩を抱え上げる久瀬の背中を見ていた。
その日の夕食は、素朴なのに豪華だった
相沢北川コンビのやる事は、やはりそつがない
新鮮な魚と、何処から手に入れてきたのか大量の椎茸は
充分に僕等の腹を満たした
なんだか、本当にサバイバルしてるなと
その時初めて実感した様な気がする
８月１３日（日）
釣りと云うものは一部の特別な方法を除けば、じっと待っている時間が一番長い
じっと海を眺めていたりすると、人間色んな事を考えてしまうもの
それが、悩みを抱えた人間なら尚更だ
「なあ、斉藤」
不意に、岩に腰掛けた久瀬が話しかけて来る。
今日は僕と久瀬が食料到達の当番になっていた。もともと僕等は釣りの為に海に出たから、釣り道具だけは立派過ぎるほど良い物が揃っている。最新鋭の新素材で作られたと云うロッドは物凄く軽くて、釣りは小さな頃に父さんに連れて行って貰ったきりの僕は驚いた。あの頃は子供だったからそう感じたのかも知れないが、釣り竿ってもっと重い物だと思っていたからだ。
「なに？」
岩場から釣り糸を垂らして上機嫌の僕は、フロートの揺れから視線を外さずに答えた。視界の隅に、何やら躊躇う様にあちこちを見回している久瀬の姿が映っている。
「僕は、役立たずか」
「はあ？」
やがて意を決したかの様に、真剣な表情で僕を真っ直ぐ見つめる久瀬が、少し震えた声でそう言った。僕はと言えば、突然で予想外な問いかけだったため、やや間抜けな声で答えてしまう。
ふと、視線が合う。僕らは無言のまま、しばし見つめ合った。
「……ここへ来て、僕は全然役にたっていない。正直、北川があんなに頭の切れる人材だとは知らなかったし、相沢の行動力には圧倒されっぱなしだ……」
視線をそらせた久瀬は、目を伏せてぼそぼそと言葉を綴った。
「僕は……久瀬家の長男として、人の上に立つべく育てられた。人を纏め、人を導く指導者であれと説かれて育った。でも、僕はここへ来て使われるばかりだ。纏めているのは相沢だし、導いているのは北川だ。僕は……僕は何なんだ？ 何をしてるんだ？」
正直、驚いた。久瀬がこんな風に人を評価するなんて、一年生の時には考えられなかった事だ。僕が無言のままじっと聞いていると、久瀬はゆっくりと首を振って力無く項垂れる。
「人の上に立つって、どう云う事なんだ？ 僕が今までしてきた事はなんなんだ？ 久瀬家の力はここには届かない。届かなくなったら、僕はまるで駄目だ。僕は……僕自身は、なんて弱いんだろう。ここへ来てずっと、助からなかったらどうしよう、死ぬ様な事になったらどうしようって、そんな事ばかり考えてる。相沢達の様に、この状況を受け止めて力強く生きるタフさが、僕には無いんだ。そんな人間に人が導ける訳がないじゃないか……」
頭を抱える久瀬。僕はしばらく、そんな久瀬にかける巧い言葉を探していたが……見つからなかったので、素直に浮かんだ言葉だけを言う事にした。
「あのさ……僕、さっきまでは久瀬の事ちょっと馬鹿にしてたかも知れない。所詮コイツはお坊ちゃまだってね」
波間に揺れるフロートを見つめたまま、僕は淡々とそう言った。隣で、久瀬が顔を上げる気配がする。
「でも、今はちょっと見直した。久瀬って、ちゃんと自分の事見つめられるヤツなんじゃないか。確かに今、君は役立たずだね。みんなの食糧確保の為にやってる釣りだって放り出して、一人でうじうじ悩んでる」
う、と久瀬が呻く声がした。久瀬用のロッドは岩場に放り出されたまま、まだその釣り針は一度たりとも海水に飛び込んではいない。
「でも、久瀬はここに来て、ちゃんと自分が無力なんだって知ったじゃないか。ああ、君は無力さ。家の力無しじゃなんにも出来なかったね、今までは」
僕はくるりと首を巡らすと、精一杯下品で乱暴な笑顔を浮かべてみせる。
「でも、始めは誰だって無力なんだよ。産まれた瞬間からなんでも出来るヤツなんていない。みんな、過酷な世界に打ちのめされて、自分の無力さを思い知って。それから、だんだんと強くしぶとくなっていくんだ。君は少し、ぬるま湯に浸かりすぎてたんだよ」
歯を見せて笑う僕なんて、滅多に見れるものじゃないぞ。特別公開のお宝映像に、久瀬はぽかんと口を開けて見入っていたが、しばらくして小さく、本当に小さく唇の端を歪めて笑った。
「なんだよ、失礼だな」
僕は笑いながらそう言って、再びフロートに視線を移す。隣で久瀬がもぞもぞと動き出す気配がしたが、知らん顔で水面を見つめ続けた。
不意に。
「そりゃああああああっ！」
間の抜けた掛け声と共に、僕の脇を小さなプラスチックの塊が飛んで行った。僕のそれと色違いのフロートは、僕のより大分先の海面に飛び込んで、やれやれとでも言いたげに、ひょこりと波間から浮かんで来て揺らめいていた。
「イシダイ！」
相沢が呻く
「それも２匹もか！」
北川が驚く
物凄い力で岩場を引きずり回され
転んであちこち擦りむいた僕等は
それぞれ誇らしげにその縞模様の魚を掲げて見せた
その日の焼き魚は、昨日よりかなり旨かった
……様な気がする
８月１４日（月）
僕等のサバイバル生活も、なんだか板に付いてきた気がする
だけど、凝り性の相沢は満足していない様だ
今日もせっせと何かを準備している
「干物？」
呆れた声を上げる僕に、相沢は大真面目な表情で頷く。
今日の僕は、初めて釣りに行った日に大量に釣れたウミタナゴを、干物にしようと企む相沢に付き合わされていた。
北川と久瀬は、山菜を探してみようと山の方へ行ってしまい、僕と相沢が留守番なのだ。
「ほら、今まで救助は来てない訳だし、何時も魚が釣れるとは限らないだろ。保存食だよ、保存食」
などともっともらしい事を言っているが、実際の所例のサバイバル指南書に書いてあった事に興味を引かれて、試してみたいだけだろう。
両手にウミタナゴを二匹ずつぶら下げた相沢にじりじりとにじり寄られて、僕は結局その作業を手伝う事になる。
干物づくりそのものは、意外と簡単だった。捌いて開きにした魚を、ショウガと塩を溶かした水に漬けてから干すだけだ。
魚を捌くのは相沢の仕事。一昨日も昨日も、釣った魚は相沢が捌いていた。驚いた事に、相沢の荷物からは包丁もショウガも飛び出した。僕等はなんでそんな物を持っているのか不思議がったが、更に醤油が出てきた事で一斉に納得したものだ。つまり、相沢は最初から海で釣った魚をその場で捌いて刺身で喰うつもりだったのだろう。魚の捌き方も、事前に特訓を受けてきたらしい。自分のやりたい事に対する熱意と云う部分では、相沢は恐ろしい程の情熱家だ。その変人ぶりと言い、間違いなく相沢は芸術家タイプだろう。
しかしいったい何時から海釣りを企んでいたのか？ 倉田先輩の別荘に船が無い事は知らなかったらしいから、久瀬の登場は相沢にとってはまさに言葉通り、渡りに船だったのだろう。
例えそれが、天敵・久瀬克弥であっても。
「そう言えば、相沢って……」
実際の所、久瀬をどう思っているのだろう。僕が聞いた限りでは、相沢と久瀬が正面切って衝突したのは二回。川澄先輩が退学になった時、相沢が生徒会室に乗り込んだのと、その後しばらくして倉田先輩が生徒会に入る事になった時に久瀬が演説めいた事をした時だ。どちらも相沢が久瀬の胸倉を掴み上げ、暴力事件寸前まで行く騒ぎだったらしい。
その後、川澄先輩を巡る問題は解決……と言うか当人が卒業してしまい、久瀬もまた生徒会を離れた為、二人の間に火種そのものが無くなった。それ以降は特に派手な喧嘩がある訳でもなく、顔を合わせれば皮肉の浴びせ合いばかりしていて、傍から見ると冷戦状態とも取れる関係なのだけど。
「久瀬の事か？」
どう切り出すべきか迷った僕が、沈黙したまま魚をロープに吊す作業を続けていると、徐に顔を上げた相沢の方からそんな言葉が飛び出した。
僕が驚いて振り返ると、相沢は「やっぱりそうか」と呟いて再び視線を手元のウミタナゴに落とす。
「どうして……」
「ん？ ああ、昨日帰ってきた時、久瀬の雰囲気が変わってたからな。なんかあったのか？」
久瀬の話題なのに、本当になんの気負いも無い、あっけらかんとした表情で相沢が尋ねてくる。僕はしばし、目線を上方に彷徨わせながら迷い……相沢に昨日の出来事をかいつまんで説明した。
「へえ、久瀬がねえ……」
呟きながら、包丁を閃かせる相沢の口元は、楽しげな様子で笑っている。
「相沢は、どうなの？ 久瀬が嫌いなの？」
「別に、どっちでもないけど」
思い切って僕が訊くと、最後の一匹を捌き終えた相沢はあっさりと答えた。
「だって、何時も口喧嘩してるじゃないか」
「あれはからかってるだけだろ。喧嘩じゃない。あいつ、ちょっと何か言うと物凄く反応するからな。特に佐祐理さん絡みだとさ」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、相沢が腕組みをする。なるほどね、と溜息を吐く僕。
「やっぱり相沢も気付いてたか」
「最初は俺も、あいつを生徒会長ってフィルター通して見てたから判らなかったけど、落ち着いて見ればああそうかって感じだろ」
腕組みをほどいて肩を竦めた相沢はそう言って、ショウガ汁に浸していた数匹を掬い上げ始めた。
「……舞の事があった時は、恨んだりした事もあったけどな。あの時期は、俺の方が頭に血が昇ってたし、今冷静になって考えてみりゃ、あいつを始め生徒会の行動はちゃんと理屈が通ってるしなあ……」
遠くを見て、数ヶ月前の出来事を思い出しているらしい相沢。僕はする事も無くなったので、椅子代わりの岩に腰掛けて相沢の言葉の続きを待つ。
「でもさあ、そのウラにあった久瀬の真意って言うか何て言うか、ともかくあいつの原動力って結局、佐祐理さんの周囲にいる俺や舞への嫉妬だったんだろ。それを巧く理屈で誤魔化して……多分自分自身も」
どこかとぼけたような顔で、窓の外を眺めながら話していた相沢が、不意に振り向いて僕の顔をまじまじと見ると、突然ニヤリと笑った。
「ガキだな、あいつ」
そう言う相沢の方が、よっぽどガキ大将みたいな笑顔を見せている。僕は思わず吹き出して、それから相沢と二人してげらげらと笑った。
開けっぴろげに身を開かれてしまった魚たちが、口をぽかんと開けて風に吹かれていた。
「君は永住でもする気かい？」
その日帰ってきた久瀬の第一声はそんな感じで
そこからお決まりの口喧嘩が何時も通りに始まった
でも、終始二人の口元にはにやにやとした笑いが貼り付いていて
それを見ている北川は、どことなく怪訝な表情だった
８月１５日（火）
救助は今のところ、来ていない
流石に不安になってきた僕等は、新しいＳＯＳサインを出す事にした
例のサバイバル本を囲んでわいわいと相談した結果
島で一番高い場所に登り、火を焚いて狼煙を上げる事にする。
焚き火に生木を放り込んで燻らせると
『ＳＯＳ』を示す３本筋の煙が空に立ち上って行く
僕等は無言のまま一列に並んで
頼りなくふわふわと散って行くその煙をずっと見上げていた
「相沢……済まなかった」
久瀬がそんな言葉を口にしたのは、すっかり日も落ちて暗くなった頃だった。
僕等は、初日に眠ったあの砂浜へとやって来ていた。波にさらわれたか風に吹き散らされたか、砂浜に彫ったＳＯＳは形が崩れて、なんだか判らない状態になっている。その前に一列になって座り込んで、僕等は黒くうねる夜の海を眺めていた。
「何が？」
怪訝な顔を向ける相沢。久瀬は相沢の顔を一瞬ちらりと見て、すぐにまた海の向こうへと視線を戻してしまう。
「だから……川澄さんを退学にしようとしたり、倉田さんを生徒会に引き込もうとしたりした事だよ。あれは……当然、理由も色々とあった訳だけど……僕の中に、君や川澄さんへの嫉妬心があった事は確かだ。僕は生徒会を私的感情で動かし、生徒から信任されて得た権限を、自分の為に使った。それに対しての謝罪だ」
言葉の途中から妙に早口になった久瀬は、最後は自棄になったような口調で言い切り、その後は口をへの字に曲げて眉間に皺を寄せ、上目遣いに空を見上げていた。
相沢は、ぽかんと口を開けて久瀬の顔を見つめている。隣に並んだ僕と北川も同様だ。
久瀬はそのまま硬直したように空を見上げ続け、僕等もまた無言のまま固まっていた。
やがて。
「……プッ」
相沢が吹き出し、隣の北川の背を平手でバシバシと叩く。
「くくく……」
北川も笑いだし、その隣の僕の背を同様に平手でバシバシ叩く。
「……」
僕は声を立てずに笑顔だけを浮かべ、隣の久瀬の背中を平手でバシバシと叩いた。
「な、何だよ……」
久瀬はムッとした表情を僕等に向けて……やがてニヤリと大きく笑うと、立ち上がって相沢に飛びかかり、その背中を力一杯平手で叩いた。
「痛てー！」
相沢が叫んで、僕と北川と久瀬はげらげらと笑った。相沢も、転げ回りながら大声で笑っている。
砂浜を転がっていた相沢が、仰向けの状態でふと止まった。
「月……でかいな」
眼を細めて、相沢が言う。つられて見上げた夜空に、月が煌々と輝いていた。
「満月か」
久瀬が呟く。澄み切った夜空に輪郭までもがくっきりと、真円の月が僕等を見下ろしていた。
波の音だけが、僕等の間を流れていく。月の光は、眩しいのに何故か優しい。
「なあ、久瀬」
寝転がったままの相沢が、首だけを横に向けて久瀬を見た。
「なんだ？」
「会いたいか？ 佐祐理さんに」
空に向かって背伸びをしていた久瀬が、砂に足を捕られてこける。こんなムードでなければ、指さして大笑いしてしまいそうな見事なこけっぷりだった。
「な……あのな！」
ひっくり返った久瀬が、砂だらけになった身を起こして相沢を睨む。こちらはもっと砂まみれの相沢は、にやにやと笑いながらその視線を受け止めた。
「俺は会いたい……舞に。佐祐理さんももちろんだけど、今は舞のチョップが恋しい」
突然笑いを引っ込めて、真顔のまま臆面もなく言ってのける相沢に、久瀬や僕等の方が照れて頬を染めてしまう。
「お前なぁ……」
そっぽを向いて呟く北川を余所に、相沢は起きあがると砂まみれの顔を久瀬にぐっと近づけた。気圧されて仰け反る久瀬。
「会いたくないのか？ 好きじゃないのか？」
「そ、それは……」
「どうなんだ？」
真顔で迫る相沢の迫力に、遂に久瀬は折れた。
「僕は……好きだ。倉田さんが好きだよ」
溜息みたいな告白に、相沢がなぜかガッツポーズを取る。あげく、おお！ と叫んで駆け寄ってきた北川と両手両腕ハイタッチをしながら地面を踏み鳴らした。
久瀬はと言えば、今までずっと……少なくとも本人は隠してきたつもりの気持ちを告白させられて、砂に両手を着いて悄然としていた。そんな久瀬の腕を両側から掴んで、相沢と北川が強引に立ち上がらせる。
「良く言った！ だが、まだ甘い！」
「これ以上何を言わせるつもりだ……」
不気味に笑う相沢と北川に挟まれて、もはや久瀬は怯えた子犬状態だ。
「決まってるだろう。俺が彼女を何て呼ぶ？ 舞が彼女を何て呼ぶ？」
ニヤニヤを通り越してニタニタに近くなっている悪魔の笑顔で、相沢がわざと遠回しな表現をする。途端、久瀬が硬直した。僕は知っている。一年生の時から久瀬を知ってるからよく判る。久瀬は……恋愛レヴェルが小学生並の久瀬は、どうしても女の子を呼び捨てに出来ないのだ。
「おい、相沢……」
本人が目の前にいないと云うのに、ここまで緊張するものか。額に脂汗を浮かべる久瀬が流石に可哀想になって、僕は相沢を制止しようと声をあげかけた。
と、突然。
ごくり、と唾を飲み込む音がはっきりと聞こえ――――
「うわあああああああっ！」
唐突に久瀬が叫んだかと思うと、海に向かって猛ダッシュしていく。僕は声をあげて立ち上がりかけた中途半端な体勢のまま、固まってその後ろ姿を見送った。
「佐祐理ぃー！！ 好きだぁー！！」
絶叫と共に波にダイブする久瀬。うおおお、と歓声と共に拳を突き上げる相沢と北川。僕は唖然としたまま、その光景を眺めている。
ざばあ、と海から立ち上がった久瀬が、大声で笑っているのが聞こえた。
「あーあ、相沢が久瀬を壊しちゃったよ」
腰に手を当てた北川が、やれやれと頭を振る。
「お前って、破壊力抜群なんだから、もう少し手加減してやれよ〜」
一緒になってやってた癖に、北川はにやにやと笑って平然とそんな台詞を吐いた。呆れた僕はやっと硬直から帰って来て、相沢を挟む様に並んで波間に立つ久瀬の後ろ姿を見つめる。
「……うーん、だめか」
何故か、相沢は顔を顰めて顎を掻いていた。
「……何が？」
不思議に思った僕が訊くと、相沢は至極大真面目な表情になって、僕と北川を交互に見ながらぼそぼそと口を開く。
「こう云う場合だな、久瀬が『佐祐理ー！』とか叫んだりするとだな……」
だが、その部分だけで僕は相沢が何を言わんとしているか理解してしまった。北川も瞬時に理解したらしく、無茶苦茶酸っぱい物でも食べてしまった様な顔で空を仰いでいる。
それでも、北川には北川なりの義務感があったらしい。くるりと振り返った時には、眼をウルウルさせて小芝居に入っていた。
「『はい、なんですか久瀬さん！』」
「『はあっ！ 佐祐理さんどうしてここに！』」
「……と云う様な展開を想定してたのか、お前は」
似てない倉田先輩の物真似から、一瞬にして底冷えのする様な冷たい眼になった北川が、相沢を横目で睨んだ。堂々と力一杯頷く相沢。
「大物だよ、相沢……」
僕はへなへなと砂浜に崩れ落ちる。反対側で同様に座り込もうとする北川の肩を、真顔のままの相沢ががっちりと掴んだ。
「次は北川、お前だ」
「はあ？！」
中腰の北川が、間の抜けた声を上げる。相沢は真面目な顔から一転して満面の笑顔になり、北川の肩を引っ張って真っ直ぐ立たせた。
「一人より、二人だろ？」
波間に立ち尽くす久瀬の背中を見つめる様な、遥か遠くを見て微笑む様な、不思議な表情を浮かべた相沢が言う。その横顔をじっと見つめていた北川はやがて、下を向いてプッと吹き出すと……
「そうか、一人より二人か」
独り言の様に呟いて、それから大きく深呼吸した。
「本人が聞いてないから、どんな事言っても殴られないぞ〜」
「言うかっ！」
再び悪魔の笑いに戻った相沢の台詞に笑って返して、北川もまた波間へとダッシュしていく。
「美坂ー！ いや、今だけ香里と呼ばせて〜！」
何とも情けない叫びと共に、北川の身体が盛大な水しぶきを立てた。飛び跳ねる様に立ち上がった北川は、そのまま隣で驚いている久瀬にタックルする。
「うわ、何をする北川！」
「るせー、お前ももう一回言えー！！」
波を蹴立ててぎゃあぎゃあと騒ぐ二人。それを呆然と眺めていた僕の顔に、相沢が覗き込む様に顔をぐっと近づけて来た。
「……」
「……」
ほんの少しの間、僕等は無言で見つめ合い……僕も、小さな溜息と苦笑を漏らす。
「二人より三人か？ 相沢」
「ああ、それでもって、三人より四人だ。斉藤」
僕等は、とても女の子には見せられない下品な笑顔を見合わせて、それから大きく深呼吸をした。
そして。
「ぬおおおおおおおおっ！！」
「うわあああああああっ！！」
がむしゃらに両腕を振り回しながら、月が照らす波間へと突進する。水面に揺れる満月を捕まえようと、両腕を目一杯に広げて。
優しい満月の下で、四人の馬鹿が力一杯に叫ぶ。
この海の向こうへ。
この海の向こうに居る、僕等の想い人へ。
届け――――この声。
ちなみに、僕が誰の名を叫んだかは……秘密だ
終わりと云うものは、何時だって唐突にやってくる物だ
その終わりは、爆音と共に物凄い風を巻き起こしてやってきた
８月１６日（水）
たった一週間のこの日誌の、これが最後の日付
昨夜はしゃぎすぎた僕等は疲れ果てて眠っていて、それに気付いたのは間抜けにも、その回転翼が産み出す暴風に吹き飛ばされながらだった。
「うわーっ！」
「なんだぁっ！」
慌てた相沢達が一斉に跳ね起きて、飛んできた木片に当たった北川だけが昏倒する。
荒れ狂う風に目を細めながら、僕はそれを見上げた。
白と水色に塗り分けられた機体。物凄いエンジン音。開いたドアから何かを叫んでいる、オレンジ色の服を着た人。
「ヘリだ……」
あまりにそれは唐突で、かついきなり目前に現れた為に、僕等は一瞬その意味を理解出来なかった。
「ヘリ？」
「ヘリ？」
「ヘリコプター？」
僕の呟きで次々に理解したのか、相沢、久瀬、そして再び跳ね起きた北川の目が大きく見開かれる。
「き……」
「救助だあああああああっ！！」
北川と僕が、そして相沢と久瀬が、抱き合って跳び上がった。
抱き合う相手を取り替えて、何度も何度も跳び上がる僕等の前に、その白と水色の機体はゆっくりと着陸する。
……こうしてあっさりと、本当にあっさりと、僕等の遭難生活は終わりを告げたのだった。
白い砂浜が、遠ざかる
回転翼に吹き飛ばされて、あの『ＳＯＳ』は跡形もなく消えて無くなっていた
あれからすぐに、僕等はヘリに乗って飛び立った
相沢は干物に未練があるらしかったが、流石にそこまで持ってこれない
それぞれすぐに纏められる物だけ大事に抱えて
僕等は機上の人となる
僕の膝の上には、一冊のこのノート
二度と経験できないだろう、この一週間を綴った遭難日誌……
そこまで書いて、僕はボールペンを止めた。一週間前には半分ほど残っていたインクも、もうあと数ミリしか残っていない。
僕はぱらぱらとノートを捲って、そこに綴られた膨大な量の文字を見つめた。
僕等は、これだけの物をあの島で見つけたんだ。目を細めた僕は、首を巡らせて窓の外のあの島を見た。
「綺麗だな」
隣に座った相沢が、僕の肩越しに窓の外を覗き込んで呟く。視線を移すと、後ろの座席に座った北川と久瀬も、同様に島を見つめていた。
「ああ、そうだね」
僕は頷く。蒼く澄み渡った海の中に浮かんだあの島は、鮮やかな緑に覆われていて、汚れなど一切見えない原色の煌めきを放っていた。
ふと、初日に相沢が言った言葉を思い出した。僕は残り数ミリのインクを使い果たさんばかりに、最後のページと表紙に書いた『遭難日誌』の文字を塗りつぶす。
そして、少し考えて……それから、指の上でくるりとボールペンを一回転させると、膝の上のノートの表紙にこう書き付けた。
『楽園日記』と
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