今宵、見知らぬ明日のために
『ギョペラッパ！！』
「のわっ！？」
あるマンションの四階の一室。そのリビングに置かれたソファーの上で昼寝という名の快楽を貪っていた北川潤を、臀部を爪先で蹴り上げるかのように叩き起こしたのは、斯くの如き奇怪にして脳天を劈く一声であった。
北川は飛び上がり、ソファから転げ落ちた挙句に脇に置かれたテーブルの角に額をぶつけ「ふぎゃ」という何の独創性もない悲鳴をあげて突っ伏した。ある意味彼らしい起床の仕方であると言えよう。
ちなみに奇声を発したのは、テーブル越しに置かれている２７インチワイドテレビの中で渾身の腕力を振り絞ってギャグをかましているお笑い芸人と呼ばれる人種であった。当然の如くお笑いと腕力に相関関係は無く、そのギャグの笑撃度といったら壊滅的ですらある。
危うくその殺人的に詰まらないギャグに文字通り殺害されかけた北川は、突っ伏したままテーブルの上を弄り、リモコンを手繰り寄せると殺意を込めながらテレビを消す。
騒音公害を撒き散らしていたお笑い芸人は速やかに抹殺され、リビングには平穏が戻った。平和を取り戻した北川であったが、それを満喫する余裕もなくグワングワンと脳内反響する鈍痛に涙目。
「痛ッてぇ」
痛みをこらえながら昼寝を再開する気にもなれず、彼は額を押さえながら身を起こした。
彼が外界の状況に気が付いたのは、テーブルの上でひっくり返っていた空の湯飲みを直しているさなかに耳に留めたざわめきの音からであった。
「ありゃ、雨降ってるのか」
ふと窓の外を覗けば、夜の帳が降りているにも関わらずその形状が判別できるほどの大粒の雨が唸るように降りしきっている。
耳を傾け動きを止めれば、随分な勢いで風の音が息巻き、唸り声が窓越しに部屋の中まで届いているのがよく伝わってくる。知らぬ間に大雨になっていたらしい。
時計を仰げば時刻は午後八時を十五分ほどまわったところ。確か六時頃にはテレビでニュースを見ていた記憶があるので、眠っていたのは二時間ほどか。
北川は大欠伸を漏らしながら、日が暮れる前に取り込んだまま山積みしてある三日分の洗濯物を足で部屋の端に押しやり、カーテンを閉めた。
顔洗って……あー、飯だな、飯喰わないと。
キュルキュルと元気良く悲鳴を喚き散らして存在を主張する空腹感を宥めながら、冷蔵庫の中身を反芻する。卵はまだあっただろうか。昨日スーパーに行ったときはまだあると思って買っていなかったのだが。
寝起きの所為か、はたまた頭部打突による機能不全か、まだよく頭がはっきりしない。とりあえず顔を洗ってシャキっとしようと思い立ち、北川は洗面所へと足を向けた。
『ピンポンパンポンッ』とまぁ、脱力必至な呼び鈴の音色が鳴り響いたのは、廊下の奥にある洗面所のドアノブに手をかけたちょうどその時だった。
一瞬、先に顔を洗うか迷う。間をおかず再び『ピンポンパンポンッ！』。鳴らすたびに音に険が増していくような気がするのは錯覚なのだろうか。以前からの疑問に北川は頭を捻った。
ちなみに、この間抜けそのままの呼び鈴は今現在仕事と生活趣向の都合から別居中の北川母の趣味と違法改造の賜物であり、北川潤には何の関わりもないことを彼の名誉のために此処に明言しておく。
ともあれ、『ピンポンパンポンッ！！』と鳴るたびに、気力を根こそぎかっぱらっていく呼び鈴を何度も聞く気にはなれず、北川は舌打ちしながら廊下に戻って、インターフォンを手に取った。
「はい、どちらさまですかっ？」
言ってしまってから北川は少し焦った。思いの他、憮然とした声になってしまった。不機嫌さははっきりと受話器の向こう側に伝わってしまっただろう。
その程度のことで慌てる必要もないように思えるが、そうした部分が彼の人の良さを表している。
北川は今更言いなおすことも出来ず、どうせセールスの類だろうと無理やり自分を納得させながら憂鬱な気分で壁に背を預けた。
『あの……あたし』
途端に、やる気なさげに歪曲していた北川の姿勢は、ビシィィッと直立不動化。
その雑音混じりのそのか弱い声は、北川潤に耳元で『ＡＴＴＥＮＴＩＯＮッ！！』と腕が女性の腰ぐらいあるセーラー服のおっさんが怒鳴りつけたのとさして変わらぬ効果を発揮した。
……あたし？
硬直しながら反芻する。機械越しに響いてきたその声は、豪雨のざわめきに乱されて良く聞き取れなかったものの、恐らくは女性の声。
その女性の声は、沈痛な気配を帯びたまま拒絶されることに怯えるかのように幽かに語尾を震わせながら続けた。
『ごめん、いきなり押しかけてきて。でも、北川くんの所しか行く所がなくて……』
テンプルであった。
何せ、ここしか行く所がなくて、ときた。
そうまで言われて冷静でいられる男もあまりいないだろう。少なくとも女性とお付き合いの経験が皆無であり、いささか他者より純情な面が強い北川潤が昏倒しなかったことの方を称えるべき、見事な一撃であった。
ハートにクリーンヒットを受けてよろめいた北川は、パニック寸前の思考回路を何とかフル回転させる。
だ、誰だ、これ？ って、俺の家を知ってる女の子って水瀬と美坂ぐらいしかいないし……え？ お、おいおい、嘘だろ！？
「ちょ、ちょっと待って。今、開けるから」
慌ててインターフォンを放り出して、バタバタと玄関に走る。この時にはもう、彼の頭の中は一人の女性の名前と顔で一杯一杯。
美坂香里―――高校三年間のクラスメイトであり、今は同じ大学の学生。そして、彼…北川潤の好きな人。
元々仲の良かった彼女のことを北川が気になりだしたのは二年の冬頃だった。その彼女に対する気持ちが好きだということだとようやく認めたのが三年の夏。
それから約一年。北川潤は未だに自分の想いを告げることが出来ずにいる。彼自身、自分でも情けないと思っているのだが、あまりに気安い友達関係で、言い出すきっかけがつかめないのだ。
……とは、自分自身への言い訳。そう思うようにしているというだけのこと。情けないと言うなかれ……いや、情けないことこの上なしで弁解のしようもないのだが。
いや、だからなのかもしれない。
もしかしたら、これが決定的なきっかけになるかもしれない。臆病で自分から踏み出すことがどうしても出来ない彼の中に、そう無意識に考えた部分があったのだろう。
なんせこの展開。まさにドラマやら漫画やらで見たことがあったりなかったり。そしてその結末たるや判で押したかのごとくハッピーエン……いや、中にはダメなのもあるけれども。
とにかく彼の心は躍りながら溺れていた。つまりは半ば正気を逸していた。北川は廊下に置かれた電話機を弾き飛ばして突進し、つっかけも履かず外を確認もせず、込み上げる笑みを押し殺しながらドアを押し開け、飛び出したのであった。
「ど、どうしたんだ？ 何かあったのか、こんな時間にいきなり俺の家になん、か……ぁう？」
分かっている。理性では分かっている。馬鹿なのは自分だ。外にいるのが美坂だなんて、こっちが勝手に思い込んでいただけだ。そいつは名乗りもしなかったし、思い返してみれば雨音＋インターフォン越しとはいえ、聞こえてきた声は彼女とは全然違う。
だからといって――――
「よう北川、こんばんはっす。ははは、なあなあ、今お前、誰かと勘違いしてただろう」
果たしてこの極悪非道の性格破綻者である相沢祐一にここまでケタケタと嘲笑われるのは心外を通り越して殺意を覚えた。
北川が脳内でリアルにシュミレートした、この親友を蹴って殴って階段から突き落として殺害するという殺人計画を実行に移さなかったのは、彼のささやかな自制心の賜物である。
「誰だ？ 誰と間違えた？ 適当に女の声真似たんだけど……あ、やっぱりあいつだろ、かお――」
プチンと音を立て、ささやかを自称する自制心はその自称通りあっさりと退場した。
「キョエエエッ！」と奇声を発しつつ繰り出された電光の右足刀と神速の左レバーブロウと怒涛のショルダータックルはえらくあっさりと捌かれ、流され、受け止められた。断っておくが、両者に格闘技経験は微塵もないのであしからず。
両腕をクロスさせたその奥で、「クンフーが足りんな」と不敵に笑む祐一。その頭にくる笑い方に北川はギリギリと歯を鳴らし、喚き立てる。
「うるさい、黙れ！ てめえ、夜中に人様の家に現れて純情無垢な男心を弄ぶとは何のつもり……って、お前どうしたんだ、その格好？」
自分で自分を純情無垢といけしゃあしゃあと述べる辺り、まだ北川にも相手を良く見る余裕が残っていたのだろう。怒りと恥辱と照れに赤く染まっていた表情を一変させ、北川は祐一の爪先から頭の天辺までを唖然と眺めた。
「相沢、お前ずぶ濡れじゃないかッ。どうしたんだよ、それ！？」
ずぶ濡れと言ったのは随分と控えめな表現であった。
轟々と外界を満たしている降雨の音色、そして吹き込んでくる水気たっぷりの夜気と闇に混じって佇んでいる祐一の姿は濡れ鼠という言葉すらも過小と思えるほどに濡れそぼり、水を吸って変色した衣服の端や、髪の毛からは絶えず滴が流れ落ちている。足元のコンクリにはアメンボがはしゃげるぐらいの水溜りまで出来ていた。
その惨状たるや、つい先ほどまで服のまま川の中を泳いでいましたと言われても疑えまい。
「ああ、傘なくてな」
「おいおいっ」
何でもないことのように言う祐一に北川は開いた口が塞がらない。
コンビニでもどこでも傘ぐらい売っているだろうに、何をやっているのだ、こいつは。もしかして、水も滴るイイ男とやらを実践してみたのだろうか。んなバカな。
北川は首を振って祐一の手を掴んだ。
「いいから、とにかく中に入れ」
まだ季節は秋口だが、この地方では夜中ともなれば充分冷え込む。濡れたままでいられるほど優しい時節ではないのだ。下手をすれば風邪どころでは済まなくなる。
「ちょっと待ってろ。タオル持ってくるから」
「おう、サンキュ」
思い出したように身体を掻き抱いて震えだした祐一を三和土に待たせて、北川は洗面所に駆け込んだ。手摺に掛けてあったバスタオルを毟り取り、取って返そうとして思い直す。
そのまま風呂場に飛び込んで蛇口を一杯まで捻る。湯沸しはつけてあったはずだ。しばらく蛇口からは冷たい水が流れ出ていたが、すぐさま大量の湯気を発するお湯になった。
お湯が湯船に流れ込み出すのを確認して、バスタオルを手に玄関口に舞い戻る。
電灯の下で見る高校からの友人の顔色は、想像以上に青ざめていた。よくこの状態であんなふざけた真似が出来たものだ。呆れ返りながら手にしたバスタオルを頭に被せてやる。
「ふいー、助かったぜ」
「いいからさっさと拭けよ。適当に拭ったら風呂場に行け。今お湯入れてるから」
「ほ？ いや、そこまでしてもらわなくても――」
「良いから黙って風呂入れ。入っとかないと風邪ひくぞ」
バスタオルの奥で、祐一の口端に滲む微苦笑。
「うーん、じゃあ遠慮なく貰っとく。ホント言うと本気で寒いし」
「そうしとけ。ここで風邪なんざひかれるとオレが水瀬に怒られちまう」
一瞬、バスタオルの端から覗き見えていた口元の笑いが強張る。それは文字通り一瞬でしかなく、大して注意深く見ていなかった北川は、その時には寒さに顔が痙攣した程度にしか思わなかった。
祐一はパタパタと無言で手を仰ぐと、ペタペタと風呂場へと歩いていく。
ドアの鍵を閉めてその跡を振り返った北川はまず愕然と、続いてげんなりと眺めながら、ポツリとこぼした。
「適当って言ったら本当に適当にしか拭きやがらないし、あの野郎」
廊下はバケツの水を引っ繰り返したみたく、いい具合にびしょ濡れと化していた。
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