やはり、相当身体が冷え切っていたのだろう。祐一が風呂から出てきたのは、かれこれ二十分ほど後だった。
北川が濡れた廊下を雑巾で拭いて、やかんでお湯を沸かし、テレビのスイッチを入れたところだったから大体そのぐらいだ。
「あー、イイ湯でしたー」
「そりゃ、よござんした」
北川はソファーに身体を埋めながら、テレビ画面から視線を逸らさず応答する。そうしたら、いきなりパチリと部屋の電気が消された。北川、なんだよと思いながらリビングの入り口を振り返る。
「おいコラ相沢！ なんで電気消すんだ……よ」
「……今、服着ていないから」
心臓を擽るような甘い声音に、ポロリと北川の手から零れ落ちるリモコン。彼の凍りついた視線の向こう側に佇むのは、バスタオルだけを身体に巻いて薄闇に溶けるように妖艶に微笑んでいる相沢祐一。
そもそも相沢祐一という青年、かなり女っぽい造形をしていると定評がある。その元来の恵まれた素材に加味して妙に慣れた女性の仕草と光の落ちた暗闇、そして風呂あがりというファクターが絶妙に絡まりあって……その、なんだ。
北川青年が一瞬でもドキリとかクラリとか「うひょー♪」などと思ってしまったことを責めるのは酷だと断言できるほど、彼の雰囲気が凄艶だったのは間違いない。なんせ胸元でバスタオルを巻いているなんて細かい芸までやっちゃってるわけで。
北川は内心でガンガン壁に頭を打ちつけながら、無言でテーブルの上にあったジュースの空き缶を投げつけた。
「キャッ！」
「だからやめぃッ！！」
耳元を通り過ぎる空き缶に驚いて、ハラリとバスタオルを落とすというベタなアクションを取ろうとした祐一の額に、第二射の携帯電話が着弾した。
「ぐはっ！」
仰け反る祐一。
―――ハラリ
激闘の甲斐なく落下する最終防衛ライン。
そして無防備に晒されるブツ。
……哀しくなった。
「イッてーっ。この野郎、なにしやがる！」
「なにしやがるじゃねえっ。その粗末なものさっさとしまえっ！」
「何が粗末だ。未使用なお前のより、よっぽど経験値は豊富だぞ」
心なしか自慢げに鼻を膨らませる露出青年。
畜生、水瀬とねんごろだからって偉ぶりやがって、羨ましい……いやいや。
北川はちょっと半泣きになりながら、祐一を怒鳴りつけた。
「うるさい、さっさと隠せ。ちゃんと服を着ろ、服を」
「そう言われてもなあ」
バスタオルを腰に巻きなおしながら、彼はちょっと困りましたと言わんばかりの表情を浮かべ、
「下着まで濡れちまったぐらいだから、着るものがない」
ああ、これが女性の台詞だったならばどれほど幸せであっただろう。男に言われてこれほど虚しくなる台詞もなかなかあるまい。
北川は虚無感を抱きながら、力なく告げた
「洗面所の一番奥の棚の一番下の引き出し、そこに確かまだ封を切ってないトランクスが入ってたと思う。やるからさっさと穿いとけ。服もそこらへんから使ってないヤツ適当に着ていいから」
「うむ、了解したぞ」
大股でリビングを出て行く相沢の背中を横目に見ながら、青年は深く深く嘆息した。
胸中を過ぎるのはささやかな男の敗北感。
―――畜生、オレより大きいでやんの。
五分ほどガサゴソとやって出てきた祐一の服装は、無地のトレーナーにジャージのズボン。ちゃんと借り物だと弁えている安っぽい着こなしであった。これでスカートなんざ履いて出てきた日には、北川、何するか分からん精神状態であった。
無論、女性の服なぞこの家にはないのであるが。
安堵とも疲れとも取れる溜息を吐き、入れておいてやったブラックコーヒーを飲んでいる祐一から顔を背けた北川は、何気なく時計に目を向けた。
見れば、もう針は九時へと差し掛かろうというところ。
「あっ、そういえば、まだ飯喰ってなかったじゃねえか」
「あ、俺も晩飯喰ってない」
何となく半眼になりながら、北川は視線を時計から傍らに座る偉そうな男の方に移した。珈琲を飲み干した相沢が、テーブルに音を立ててカップを置き、何かを期待する眼差しで北川潤を見つめてきた。
熱い眼差しであった。
対し、その熱の篭もった視線を弾き返し、蹴り飛ばし、踏み躙るかのような冷めた眼で睨み返す北川。
無言のまま、熱く熱く見つめあう二人の男。
そして、サッと頬を赤らめ恥ずかしげに視線を逸らす祐一。
「…………」
「…………」
絶対零度の沈黙が、二人の間を駆け回る。ひゃっほー。
「いや、すまん。冗談だ。これはちょっとヤバすぎた、色々と」
「もういい。喋るな。作ってやるから近づくな何も言うなこっちを見るな、存在を停止してろ、頼むから」
かなりマヂ泣きの北川であった。
突如転がり込んできた相沢祐一氏が我が物顔でテレビなどを照覧しつつ寛ぎ切っていたその脇で、この家の主である北川潤がせっせと作り上げた今回の品は親子丼。手早く手頃に簡単に、ほどほどの量と味を確保できる一品です。
丼に御飯を詰めて、その上に鶏肉、葱、玉葱を塗して固まるか固まらないか微妙な領域を確保した卵とじを乗せる。完成。
匂いに釣られて海豹の如くキッチンに転がってきた祐一に「ほらよ」と湯気湧き立つ丼を差し出す。祐一は満足そうに頷き、だが次の瞬間訝しげにテーブルを見渡すと、轟然と抗議の一声。
「茶がないぞー」
「あんたは当たり前の如くお礼が言えないんですかい？」
文句を言いつつも、ちゃんと冷蔵庫から麦茶の瓶を出してやるオレって何てイイ奴なんだろう、などと自己満足に浸る北川。
「えー、温かいお茶じゃないのかよ」
北川は萎びた目つきで祐一を見た。
「……相沢、お前ヤなヤツだよな」
祐一は幽かに笑って胸をそらす。
「北川、お前はイイ奴だぞ。この俺が保証してやろう」
「嬉しくないやい」
今日何度目かの半泣きになりながら、北川も片付けは後にして席につく。
自分の箸を手にしながら見れば、相沢はがぶがぶと麦茶を飲んでいる最中。まるでビールのように麦茶を飲み干し、派手な音を響かせてコップをテーブルに叩きつけた。
「かぁー、やっぱり麦茶は美味しいねえ」
先ほど熱い茶を所望したのは忘却の彼方らしい。さすがは４ＭＢしか記憶容量のない男。
ツッコミを入れるのも面倒になって、丼を掻き込む。うむ、適当に作った割にはなかなかに美味い。さすがオレ。
ひとしきり自作の親子丼を頬張った北川は、此方も麦茶を飲みながらチラリと祐一を窺った。さすがに口の中に食べ物を含んだまま喋り散らすという真似はせず、黙々と御飯を掻き込んでいる。
―――迷う。
それは先延ばしにしていた一つの必要質問事項。
好奇心ではない。そのまま知らぬ振りをしていれば楽に済む。面倒に巻き込まれずに済むのだ。
それを心のどこかで望んでいたのを北川潤は否定できない。
―――だが。
彼は自らに逃げることを許さなかった。これは小心者の小さな意地だ。
「でさ、相沢」
「んー？」
もぐもぐと口を動かしながら祐一は適当に応える。その無防備な対応に少し気圧されたものの、彼は率直に訊ねた。聞かねばなにも始まらない。分からない。
「何やらかしたんだ？」
「何って…なんだよ」
刹那、箸の動きが止まり、その静止がなかったかのように再び動き出す。だが、その動作と微妙に固さを帯びた声音が、彼の抱いた緊張を確かに北川に伝えてくれた。
深刻さを微塵も見せぬ態度の通り、やはりあまり聞かれたくないらしい。だが、その程度で「何でもない」などとほざいて引き下がるほど北川も情けなくはなかった。何しろ風呂に入れて飯まで食わせてやってるのだ。手間と元手が掛かっている。
北川は殊更声に力を抜いて、視線も合わせず、軽い調子で切り込んだ。
「いきなりびしょ濡れで人の家に転がり込んでくるんだぜ、何かあったとしか考えられないだろうが。どーせ水瀬と喧嘩でもしたんだろ？ しかも飯も喰わずに家を追い出されたんだとしたら、あの水瀬がそこまで怒るんだ。お前がよっぽどのことやらかしたんじゃないのかって思うのはおかしかないだろう、んー？」
北川の目から見て、高校の頃から祐一と水瀬の仲の良さといえば、見ている方の身体が痒くなるくらい甘々。そこまでやられると羨ましいを通り越して、お幸せにーてなもんだ。
そんなべったりの二人だが、喧嘩をしていることも珍しくない。おっとりしているように見えて水瀬名雪はあれで頑固なところがある女性であったし、相沢祐一は……まあ、この通りの直線性が欠片もない歪曲性格者だ。
それでも――
こうやって豪雨降りしきる只中に情け容赦なく放り出されるほどの大喧嘩など、北川は見たことがなかった。喧嘩している時でさえ、相手のことを思いやってる二人であったというのに。
「……それで、なんで俺の方が何かしたことに決定してるんだ？」
「水瀬がそんな変なことするはずないじゃん」
「……北川、お前は女に幻想を抱いているんだな」
祐一は憐れみと羨望を滲ませた双眸を閃かせ、麦茶を啜った。
「しかし何故あれだけ毎度のように香里に殴り飛ばされながら幻想を抱きつづけることが出来るのか。不思議だ」
「馬鹿め、美坂のあれは愛の鞭なんだ」
言い切る北川。此方も色々な意味で症状は深刻である。
祐一はどうしようもないと言わんばかりに肩を竦め、残ったご飯を掻き込んだ。
「うん、ご馳走さん。味はごく普通だったぞ。可もなく不可もなく」
「微妙に拙かったと言われるより頭にくるな、その言い方」
「なんか尖がってるなあ。もっと穏やかに生きようぜ、北川」
「お前が存在している以上、無理だ」
殺伐とした友人関係である。
「で、まだ理由は聞いてないぜ、相沢」
「んー」
それとなく横に逸れかかっていた本題を引き戻した北川に、祐一は気のない返事をしながら、丼を手に立ち上がった。
答えずに逆に問い掛けてくる。
「これ、そっちに浸けといていいか？」
「……ああ、後で洗っとくからそれでいい」
「おう」
祐一は流しに丼を置き、無造作にさっと水をかけた。蛇口から水が流れ落ちる音が、壁越しに伝わってくる雨音と相まってキッチンの中に静穏なざわめきを満たしていく。
祐一はどこかぼんやりと水の流れ落ちるようすを眺め、北川も何となく急かす気も削がれて黙々と箸を動かしている。
時の停滞にも似た、不思議な静寂がしばし二人の間を流れていた。
「実はな」
「あ？ ああ」
そんな静けさに紛れるように切り出されたので、北川は数秒を戸惑うことに費やした。どうやら話す気になったらしい。幽かに緊張が身体を強張らせるものの、それを押さえ込み、卵のほんのりとした甘味を楽しみながら聞くことにする。
祐一は蛇口を捻って水を止めると振り返って北川に視線を据えた。大きく息を吸い、乱れてもいない呼吸を整え口を開く。
それは本当に哀しそうに、だが微量の悔しさを含ませた口調で、彼は言った。
「名雪が嫌がってるのに、無理矢理お尻でヤっちまってな。それであいつ、むちゃくちゃ怒っちまって、家叩き出されたんだ」
―――ブッ！！
卵とご飯が気管に入り、北川は思わず口の中のものを逆流、噴出した。
「わっ、汚ね」
心底嫌そうに飛びのく祐一。
北川はしばらくブルブルと痙攣しながら俯き拳を握っていたが、次の瞬間ブチ切れたかのように絶叫。
「こ、この変態野郎がぁぁッ！！」
純情青年には少々刺激が強すぎたらしい。
祐一はフッと得意げ且つ郷愁を帯びながら小さく笑った。
「ちょっと新しいことに挑戦してみたかったんだよ。お前にもいずれ解かる、北川よ」
「解かるかッ」
「解かるって。まあ、香里の場合、家を叩き出されるどころじゃ済まない可能性が高いが」
「だからなんでそこで美坂の名前が出てくるんだよっ」
「なに、取りあえず身近な女の名前を出しただけだ。他意はないぞ、他意は」
顔一杯に他意ありまくりと書いた邪笑を浮かべながら、クケケケと笑う祐一。
「まあ、お前らにはその前に通常のステップが必要だけどな」
「だからお前らってなんなんだぁぁ！！」
そして通常のステップとは何なんでしょう？
「まあ、そういう訳だからさ、ちょっとウチに帰れないんだ。今日、泊めてくれよ〜」
悪びれず人懐っこい笑顔でパチンと両手を合わせる祐一。そして北川の答えも聞かずに「よろしくー」と言いながらリビングに逃げていく。
はっきりいえば無茶苦茶。あまりといえばあんまりな態度。とても頼みごとをする態度ではなかったが、北川は一瞬唇をひん曲げ何か言いかけただけでそのまま口を噤み、訝しげに目を瞬いた。
北川がようやく祐一の異常に気がついたのは、この時だった。彼の知る限り、相沢祐一という男はここまで失礼で傍若無人な輩ではなかった。気のおけない友人が相手だとはいえ、礼儀は弁えている男のはずだった。少なくとも普段の彼は。
「……ったく」
小さく毒づき、北川は自分がばら撒いた卵とご飯粒をチマチマと虚しく拾い始め、怒りを押し殺したような声で怒鳴った。
「納屋でいいんだったら勝手に泊まってけ」
「お前んち納屋なんかあったか？」
あってたまるか。ここはマンションだ。
「言外に変態なんざ泊めれるかッて言ってるんだ！」
「まあそういうなって」
ソファーに深々と腰を埋めてテレビに視線を固定したまま振り返りもせず祐一は言う。北川は深々と溜息をつきながら、テレビを見て笑っている相沢をキッチンから眺めた。
端から眺める祐一は、やはりいつもと変わらなく、それでもいつもとあまりに違い……。
「だぁぁ、もう。後で布団出してやるよ、畜生ッ」
「おっ、サンキュ」
振り返らずヒョイと右手をあげる相沢。傍目には感謝の欠片もない仕草。だが、そんな些細な箇所までもが目に付いてしまい、何となく参ったなあ、と思いながら北川は残っていた飯を片付けた。丼を水に浸し、そういえば風呂にもうお湯が張ってあることを思い出す。
なんか疲れたし、さっさと入ってしまおうか。
「相沢。オレ、風呂入ってくるから」
「ああ、安心しろ。覗かないから」
ゾクリと背筋が震わす北川。
余計安心できんわい。
「あ、そうだ。これやってていいか？」
「あん？」
出掛けにリビングを覗くと、相沢が何やらテレビ台の下をごそごそと漁っていた。そして、黒色のボディを持つゲーム機とソフトを引っ張り出してくる。
毒々しいイラストが描かれたソフトを北川の方に見せながら、祐一は声に幽かに妬みを滲ませた。
「これ、先週出たヤツだろ。オレ、金なくて買ってなかったんだ」
「ああ、それ。そういやまだ開けてなかったな。まあ、いいぜ。先やってろ」
「このアクション、二人用も出来るんだよな。風呂出たらやろうぜ」
「へいへい」
適当に相槌をうって風呂場に向かう。洗面所のドアを閉める寸前、特徴的なオープニングの曲が聞こえてきた。扉を閉ざすと、テレビからの音は途絶え、窓から伝わってくる雨の踊る旋律だけが北川の周りを浸していく。
不意に、自分の中に凝り固まる重い気分を自覚する。
「くそっ」
北川は苛立たしげに舌打ちして、服を脱ぎ始めた。
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