一緒に生きたい
北川潤が、そこに何度足を運んだかわからない。
どんなに間隔が空いても一週間に一度は必ずそこに行っていた。それを高校二年生の今になるまで七年間だ。余程の回数になっているだろう。
その日も、そこに向かっていた。行く先はこの街で一番大きい総合病院。
「ちわーっす」
七年も通い続ければ、もはや勝手知ったるなんとやらであり、迷うことなく目的地へ向かう。
その部屋の前に立った。我ながらどんな顔をしているのかがわかる。無理矢理な笑顔だ。
今日こそ、彼女が目を覚ましているかもしれない。その目覚めの後に初めて顔を合わせるのに辛気臭い顔じゃあ申し訳無い。
そんなことを思いながら、七年間、そんな顔でその部屋のドアを開け続けてきた。
「よっ」
開いたドアの向こうにはいつもの風景。七年間変わらぬ風景。
わかってはいたので、今更落胆もせずに北川はベッドに歩み寄っていく。その病院の片隅の個室に、その少女は忘れ去られたように存在していた。
北川は何も言わない。何も言うことなど無かった。その少女にかける言葉などとうに彼は失っていた。それでも、いや、だからこそ、いつも言っているただ一言だけを口にして、病室を去る。
「早く起きろよ、月宮……」
病室を出る間際、顔見知りの医師と鉢合わせになった。眠り続ける患者の担当医だ。まだ若く、この前、三十二歳になったという。
「どうも」
「やあ」
軽く挨拶を交わして擦れ違った。北川は、そのまま去っていく。七年間眠り続ける患者になんらなすことない自らの無力を感じながら、その患者に会いに来るのを日課にしている医師の姿を見ることに、北川は飽きてもいたし、痛々しさも感じていた。
七年前のある日、街で出会って仲良くなった二人組の男女と時々遊んでいた。特に待ち合わせ場所を決めていたわけではないものの、行動パターンが決まっている連中なので、会おうと思えば会うのは容易だった。
なぜわざわざ会いに行ったかといえば、その二人のうちの女の子の方を好きになってしまったからだ。
なぜ毎日ではなく時々しか会いに行かなかったかといえば、その二人は彼が知り合った時には、既に余人の入りがたい絆で結ばれているように見えたからだ。
「しょうがないなあ、お前はなかなか見所のある奴だから特別だぞ」
ある日、男の子の方がそんなことを言い出した。
「うん、ボクも潤くんならいいと思うよ」
女の子もそれに同意して頷く。
一体何事かと思っていたら二人の「学校」とやらに案内された。森の中、一本の大きな木が立っている。そこが二人の学校、秘密の場所らしい。
結局、そこには一回行っただけだった。二人の秘密の場所ということで多少気後れがしたし、せっかくの秘密の場所に自分がずかずかと入っていくのにも抵抗があったのだ。好きな女の子を前にして、随分と小賢しい気遣いをするガキだったと今になれば思う。
そして、その日。休みの間に遊びに来ていた男の子が帰るその日がやってきた。前々からそのことは聞かされていたので、北川も別れの挨拶をするために出かけた。その日は朝から一日中遊ぼうと二人が言っていたので、かなり早い時間に家を出た。
学校――二人の場所、あいつがそこへ行く時にいつも通る道で待っていると、あいつは来た。そんなものは無かったが、どうしても用事があるので今日は遊べないと言ってから、一頻り別れの挨拶をした。また会おうぜ、そうだな、三人でまた遊ぼう。
「月宮のこと、好きなんだろ」
そいつは言葉に詰まる。だが、それも一瞬だった。
「おう、好きだ」
その年頃の子供というのは、その手のことを妙に隠したがるものだ。即座に断言したそいつは、本当にあの子のことが好きだったのだろう。
「よし、月宮はお前にまかせた」
冗談めかして言ったその言葉に、自分の苦い失恋がこもっていることはさすがにその年齢ではわからなかったに違いない。わかられても困ったけどな、とも今は思う。
「よし、まかされた」
「おう、またな、相沢」
「またな、北川」
そうして、北川は、自分を一方的に破った初恋の恋敵を見送った。
まかせた、とは言ったものの、あいつが去った後のあの子のことが北川は心配だった。
だから、翌日、家を出て、一度だけ行ったことのあるあそこに行った。
あそこで――学校で――あの子が寂しさに泣いているんじゃないかと思ったから。
そこに、彼女は来ていなかった。安心する前に、どこか別の所で泣いているんじゃないかと不安になる。
北川は、あの子を探すためにその場を去ろうとして、それに気付いた。
作業着を着た男が何人かやってくる。チェーンソーを持っているのが目についた。まさか、と思う間に大木を見ながら話を始める。北川はたまらずに声をかけた。この木を切るというのか、あの子が好きだったというこの木を。
「女の子がここから落ちてね、切ることになったんだよ」
この木に登る女の子など一人しか思いつかない。あいつに聞いていた。あの子はよくこの木に登り、そこから街を見渡すのが好きだったと。
ここは森林の奥まった場所にあり、滅多に人が来ることはない。二人も、ここで他の人間に会ったことはないと言っていた。
その怪我したという女の子はどうなったのか、今どこにいるのか。男たちは、自分たちは役所に仕事を依頼されただけなのでそこまではわからないと言った。役所に行って聞いてみろと場所を教えてもらい、北川は早速そこに行った。
息せき切って到着した窓口でそのことを尋ねる。
街で一番大きい総合病院。健康体の彼には縁の薄い場所に彼女は眠っていた。
北川が病室に入った時、彼女は眠っていた。翌日見舞いに行った時も、翌々日も。
「月宮、早く目ぇ覚ませよ。それまで、オレ見舞いに来るからな」
寝顔に、そう声をかけたあの時から、既に七年が過ぎた。
毎日行っていた当初に比べて段々と顔を見せる間隔が開いてしまったものの、それでも一週間に一度は見舞いを欠かしたことが無い。彼にそれをさせたのは、彼女、眠り続ける月宮あゆを取り巻く寂しい環境であった。
彼女には両親がいなかった。数年前に父親、そしてほんの数日前に母親が亡くなっていたのだ。
彼女は一人になった。
七年間も通い続けたのは、一人になった彼女を見捨てられないという思いがあったせいだ。
そして、その七年の間に北川の中で育っていたのは、彼が初恋の女を託したはずの男への疑念であり、のちにそれは憤りに変わっていた。
まず思ったのは、あいつはどうしていたのか、ということだった。
その場にいなかったのか、とも思ったが、それは考えにくかった。色々と聞いて回った結果、頭から血を流した彼女が横たわっているのを散歩していた人間が見つけたのが正午近くであることがわかった。その日は朝からできる限り一緒に遊ぼうと二人が言っていたのを北川は聞いている。
子供なりに集めた情報を検討してみると、どうしても「あいつ、逃げたんじゃないのか」という疑念が深まっていく。
とにかく、会って話がしてみたかったが、名前以外は何も知らない。
見舞いに通いながら、北川は次なる長期休暇を待っていた。あいつがまた来たら、詳しい話を聞ける。そう思いながら。
あれほど仲が良く、あれほど別れを惜しんでいたのだ。あいつが何も知らないのなら、絶対に長期休暇の際に再びこの街にやってくるはずだ。
しかし、来なかったら……。
駅前のベンチ、商店街、そして「学校」。
北川は待っていた。七年間、あいつは現れなかった。
北川は待っていた。七年間、あの子は目覚めなかった。
「オレが、オレがその場にいれば……」
今まで何度も何度も思っていたことだった。
自分がその場にいれば、絶対逃げたりはしなかった。すぐに病院に担ぎ込んでやった。そうすれば、もっと早く治療を受ければ、月宮は、ここまで酷くはなっていなかったかもしれない。
北川が、七年間抱き続けた悔恨であった。
「相沢祐一です。よろしくお願いします」
ぼさっとしていた北川の脳味噌がそれで覚醒した。
「なに？」
小さく呟いて前を見る。転校生がやってきたというのに「こういう時の転校生は美少女と相場が決まってるのに男とはつまらん」と言って興味無さげに机に突っ伏していた北川は、そうして、ようやく転校生の顔を見た。
そして、その横、黒板に書かれた「相沢祐一」の四文字。
「おい、あれ」
慌てて、隣の席に声をかける。
「なによ、今日転校してきた相沢君がどうかしたの？」
隣の美坂香里が慌てた様子の北川を怪訝そうに見ながら言った。
「祐一はね、わたしの従兄弟なんだよー」
聞いてもいないのに振り返って嬉しそうに言ったのは、香里の前に座っている水瀬名雪だ。
「北川君も仲良くしてあげてね」
保護者気分なのか、そんなことを言うと、隣の空席にやってきた祐一を嬉しそうに迎えていた。
「おい、美坂。お前なんか聞いてたのか？」
小声で香里に話しかける。
「けっこう前から、今度従兄弟が引っ越してくるんだよー、って何度も何度も聞かされてたわよ」
おそらく演技ではあろうが、うんざりとした顔をしつつ香里が言った。
「七年ぶりに会えるから嬉しいよー、とか何度も何度も」
「七年ぶり？」
遮って、北川は尋ねる。
「うん、七年前までは休みの度に遊びに来てたんだけど、ここ七年間は来なかったんだって」
「……へえ」
北川はことさら平静を装って、前の席に座った祐一の後ろ姿を見ていた。
相沢祐一と二人きりで話す機会は思っていたよりも早く訪れた。放課後、祐一は名雪と二言三言会話を交わしていたが、やがて、一人で教室を出た。
その後に続いて北川も教室を出た。
しばらくついていくと、どうやら道に迷ったらしい、辺りをキョロキョロ見回しながら頼りなげな足取りで進んでいく。
「よう、相沢」
久しぶりだな、と続けそうになって、北川はその声を飲み込んだ。
「ん？ 誰だ。お前」
それなりに万感の思いをこめたのだが、先方は全く無感動であった。
「北川潤だ」
もしかしたら、それでなんらかの反応があるかもしれないと期待したが、芳しくない。首を傾げる祐一に北川は被せるように「クラスメイトだよ」と付け加えた。
軽い失望を感じつつも、北川は次なる言葉を口から出す。
自分のことを覚えていないのはしょうがない。なにしろ子供の頃のことだ。でも、あいつのことだけは、あいつのことだけは覚えているはずだ。覚えているに違いない。……覚えていてくれよ。今も眠り続けるあいつのことを……。
「月宮あゆ」
ぽつりと、言った。
祐一は一瞬考え込んでから、頷いた。
「知ってるぞ、そいつ」
その言葉に北川は思わず身を乗り出す。
「昨日会った。たい焼き食い逃げして走り回ってたぞ」
「あ？」
こいつが何を言ったのか、自分が何を言われたのか、一瞬わからなかった。月宮あゆ。月宮あゆだぞ、なんだ、昨日会ったって、なんだ、たい焼き食い逃げって、なんだ……走り回ってたってのは。
走れねえよ、あいつは、七年間走ることはおろか、歩くことも、いや、それ以前に目を覚ますこともできない状態で、なんでって、木から落ちて大怪我して、お前、そうだ、お前、その場にいたんだろうが。
北川には、祐一のその言葉は極めてタチのよくない冗談にしか思えなかった。
仮に同性同名の食い逃げ犯と祐一が会っていたのだとしても、あの月宮あゆのことを覚えていなかったということは動かない。
様々な鬱屈した感情が脳裏で渦巻いているのがおぼろげに自覚できた。理性がぷっつりと途絶え、それが戻った時には既に目の前の男を殴った後だった。
怒るよりも呆然として倒れた祐一が北川を見上げている。戻った理性は本能の先走りを追認していた。殴って当然だ、と。
「お前、何を……」
ようやくその面上に怒りの色を表して祐一が立ち上がる。迷わず、もう一度殴った。祐一も、今度はそれを覚悟していたために顔をそらしてクリーンヒットを免れる。
もみ合いになる。祐一も殴り返してきた。だが、違う。それに対する執念がまったく違うのだ。祐一はいきなり殴られたことへの怒り、だが、北川のそれは祐一の比ではない。
「てめえ！」
殴る。殴られてもかまわずに殴った。
祐一が再び倒れる。
「立て！」
なかなか立ってこない祐一に苛立った北川は、上に乗って殴ろうとしてその腕を掴まれた。
「放せ」
見もせずに言った。
「何やってるのよ！」
美坂香里の怒声を北川は聞き流したが、
「どうしてこんなことするのよ」
驚愕と悲しさを含んだ声に、北川の闘争心がごっそりと削られていく。
「放してくれ、美坂」
静かに言うと、香里は恐る恐るその手を放す。
黙って、香里と祐一に背を向けた。
「どうしてこんなことしたの。相沢君と何かあったの？」
その問いに答えずに去っていく。咄嗟に答えることなどできなかった。
香里の、悲しそうな声が耳から離れない。どうして、といった香里への答えを探しながら、北川は足を病院に向けていた。
どうして。
そんなの、決まってる。あいつが、あの野郎が、月宮のことをすっかり忘れていたからだ。
状況から考えて、彼女が木から落ちて怪我をした時、あいつはその場にいたのだ。そして、あいつは血にまみれた彼女から逃げたのだと、北川は確信している。
そして、七年間だ。
七年間経った。
それでも、どうしても許せないと憎悪をたぎらせる一方で、北川の記憶の中には、彼女に優しく微笑む相沢祐一の幼き日の顔が残っていた。月宮あゆという名を聞いて祐一がどういう態度をとるのかによって対応は違うものになるはずであった。
もしかしたら、その時に偶然居合わせず、そのあと七年間、なんらかの事情でこの街を訪れることができなかったのかもしれない。
もしかしたら、七年間ずっと、逃げたことを後悔し続け、自分を責めていたのかもしれない。
もし、そうだったら、許そうと北川は思っていた。
だが、答えは祐一が月宮あゆのことを忘れていたという信じられないようなものだった。
病室のドアを開ける。
見慣れた風景と、その中の点景。眠っている少女。
こんな時でも、癖で無理矢理に笑顔を作っているのが、なんだか虚しかった。
――走り回ってたぞ。
走れない、歩けない、目を覚ますこともない。
そんな七年間をベッドの上で生きてきた少女の痩せこけた顔を見ていたら、なんだか悲しくなって、北川は泣いていた。
「お前、忘れられちまってたよ」
泣けてきた。涙が止まらなかった。
涙を拭ってベッドの傍らの椅子から立ち上がった時には、彼がここにやってきてから三十分あまりの時が過ぎていた。
北川は病室を出た。
廊下を歩いていると聞き覚えのある声がする。あゆの担当医の声だ。挨拶していこうと思い、北川は進路を変えた。
「お前は、本来なら入院してないといけないんだぞ」
近付くにつれて、その声が強い調子のものであることに気付く。
「それを無理を聞いて通院にしてるんだから、くれぐれも無茶なことはするなよ」
噛んで含めて言い聞かせるように一語一語に力と心をこめているのがわかる。
「それじゃ、帰って、暖かくしてたっぷりと寝ること」
「はい」
医師にそう答えたのは、肌の白い、髪型をボブカットにした小柄な少女だった。肩に羽織ったチェック柄のストールが印象的だ。
取り込み中なので少し離れた所に立ち止まっていた北川に医師が気付く。
「今日も見舞いか」
「はい」
「あの、それじゃ私は……」
北川の登場に救われたような顔をして、少女が医師に頭を下げた。
「うん、さっき言ったこと、忘れるなよ」
「はい」
去る間際、少女が北川をじっと見ていた。
「ん？」
「いえ、なんでもないです。すいません」
少女は、去っていった。気にはなったが、追求はせずに見送った。視線が、自分の顔ではなく制服を見ていたように思った。
「可愛い子ですね」
「ん、ああ」
「先生の患者ですか」
「ああ、しばらく前から自分が担当してる」
「へえ」
「いい子なんだけどな、本当に……」
「え？」
語感に、苦いものが滲んでいた。北川は、この状況で医者がそのような声音をしている理由など一つしか思い浮かばない。
「おっと、そろそろ私は行かないと」
「あ、はい、すんません、引きとめてしまって」
「またな」
「はい」
医師が去っていき、一人になった北川だが、すぐには歩き出さずにしばらくその場に突っ立っていた。
「あの子、重い病気なのかな」
感じた疑問をそのまま口に出す。
「まあ、いいか」
考えれば考えるほど気が滅入って来るので、北川はそれを頭の中から追い出した。
翌朝は最悪であった。
チャイム間際に教室に祐一と名雪が駆けこんできた。
香里が自分を心配そうに見ているのがわかったので、北川は意図的に祐一を見ないようにして、祐一が前の席に座ってからも自制心を総動員していたのに、その男は振り返って言った。
「おい、お前」
「ああ？」
思い切り喧嘩腰で応じる。どうせ昨日のことだろう。報復したければすればいい、むしろ向こうから殴ってきたら好都合だ。こっちは、香里のために自制しているようなものなのだ。
「北川っていったな」
「おめえと話すことは何もねえよ」
「なんだと」
やっぱ、こっちからぶん殴ってやろうかと北川の自制心がぐらつく。
「止めなさい」
「止めてよ、二人とも」
割って入って止めたのは、やはり香里と名雪であった。
「ちょっと、あなたはこっち来なさい」
睨み合っている二人に溜息をついた香里が、北川の腕を掴んで引っ張る。
「っと、待て待て、おい、美坂」
抗議の声に耳を貸さずに廊下まで引っ張っていく。
「なんだよ、もうすぐ授業始まるぞ」
引っ張られていった北川は不機嫌そうに言った。
「もうすぐ喧嘩始めそうな人を放っておいて授業もないでしょう」
北川が憮然として何も返さずにいると、香里が顔を寄せ、小声で話しかけてくる。
「相沢君と何があったの？」
「……言いたくねえ」
「いきなり殴った理由はあるの？ まさか顔が気に入らないとかいうんじゃないでしょ」
「理由はある。あいつを殴ったことは、オレは悪いことだとは思ってない」
「そう、友達のあたしにも言えないことなのね」
「悪ぃ」
「……いくら友達でも、言えることと言えないことがあるわよね」
香里は俯いていた。なんだか、その声が自分には向いていないように思えて、北川は首を傾げる。
「わかったわ」
香里は顔を上げると少し微笑んだようだった。
「北川君は、理由も無く人を殴るような人じゃないと、信じてるから」
「美坂……」
「でも、お願いだから喧嘩は止めて、名雪が悲しむから」
でも、オレは……。
「あいつと仲良くなんかできない」
北川は搾り出すような声で言っていた。
「もう……」
そうだ。もう七年前には戻れない。
「北川は、出席率悪いから不良だな」
森の中の「学校」に一度しか行っていなかった北川に、あいつは言った。
「ちゃんと学校来いよ」
そういう言い方で、誘ってくれていたのだろう。結局、二人に遠慮して二度行くことは無かった。でも、そう言われたのが嬉しかったことは、今でも覚えている。
「くそっ」
相沢、お前はなんで忘れて……。
「北川君、名雪のためと思って、相沢君と喧嘩しないで」
「ああ、わかった。水瀬を泣かせたくないしな」
「うん」
「悪いな、美坂」
「いいわよ」
「美坂っていい奴だよな」
しみじみと言った北川だったが、香里はそれを聞いて横を向いた。
「あたしは、そんなのじゃないわよ」
どこか遠くを見ているような目をしていた。
「ほら、先生来るわよ」
「ああ」
香里に促されて教室に入った。注目の視線を無視して着席する。前の背中は置き物かなにかだと思うことにした。あちらも名雪になにか言われたのか、もう声をかけてくることは無かった。
授業が始まったが、朝から色々あったせいか、どうにも身が入らない。前では、祐一と名雪が机をくっ付けて二人で教科書を見ている。祐一はまだ教科書を貰っていないそうだ。
意識すると後頭部を蹴りたくなってくる、かといって黒板を見る気にもなれず、外ばかり見ていた。
それに気付いたのは二時間目の授業中だった。
窓の外、中庭に女の子が立っていた。私服を着ているからこの学校の生徒ではない、と思うのだが、いったい何をしているのだろうか。
「んー」
チェックのストールに見覚えがあるような気がしないでもないのだが。
ここは誰かに意見を求めてみようと思い、周りを見る。授業中であるから、遠くの席の奴はもちろん駄目だし、例え近くでも、窓の外を見れる位置じゃないといけない。
「……こいつか」
思わず、呟いていた。
一人だけ該当者を見つけて即座に却下した北川は、その少女を心配して余計授業に身が入らなくなった。
そして、四時間目になった。土曜日なので、これが最後の授業だ。いつもならば晴れやかな気分なのであるが……。
「おいおい、やばいだろ」
少女は、ずっと立っていた。ほとんど身動きもしない。ずっと心配させられているこっちの身にもなって欲しい。
いったい、どんな子なんだ。
気になって見ているのだが、俯いていて顔がよく見えない。しかし、何をしているのだろうか、何かを待っているのか。この学校の人間と待ち合わせだろうか。それにしても二時間目から待っているのはおかしい。
ＨＲが終わったら、ちょっと見に行ってみるか。知らない女の子にいきなり声をかけて、なにをしているのか尋ねるなど下手なナンパみたいで抵抗があるが、どうにも心配だ。決意した時、チャイムが鳴っていた。
チャイムを聞きながら、北川はその子を見ていた。チャイムの音に、その子が顔を上げた。思わず、身を乗り出してしまう。
「あ……」
顔を見た途端に記憶が蘇る。白い肌でボブカットでチェックのストールを羽織った少女。
「なにやってんだよ」
同時に、彼女が医師から注意されていたのも思い出す。
立ち上がり、歩き出す。
「北川君、すぐにＨＲよ」
「ああ、わかってる」
「早く戻ってきなさいよ」
「おう」
教室を出てからは駆け足だった。
本来なら入院してるような病人がなにやってんだよ！
階段を一段飛ばし、二段飛ばし、残りの全段を飛ばして着地する。中庭までの最短距離を行った。もはや北川は何が自分を突き動かしているのかがわからない。病人が長時間寒い中に立っているのが心配だったのか。それで説明はつくが、それだけではなかった。
早く。一分一秒でも早く。
自分の背中を押すものが過去の悔恨であることに、北川は気付いていなかった。
鉄の扉を開く、重いそれを北川は迷わず蹴った。
中庭に踊り出る。変わらぬ位置に、少女は立っていた。近付いていくと、すぐに北川に気付いた。
「どうしたんですか？ こんなところで」
「こっちの台詞だ。病人が何やってんだよ」
無意識のうちに語気が荒くなっていた。
病人と言われて少女の顔が強張った。
「昨日病院で会っただろ」
「あ……」
「先生に無理すんな、って言われてただろ。教室の窓から見てたけど、さっきからずっとここにいただろ」
「そ、それは……」
「ほら、雪が積もってる」
手で、少女の頭を白くしている雪を払う。
「えっと、先生には内緒ですよ」
「駄目、言いつける」
「うう、なにが望みですか」
「望みもなにも、病人が無理すんなって言ってるんだ。体、よくないんだろう。家族も心配するぞ、病人が何時間も外出してたら」
「家族は……」
「あ、家族いないのか。ご、ごめん」
あゆのことが頭に浮かんだ北川は、慌てて謝った。
「家族はいますけど、両親とお姉ちゃん」
「なんだよ」
ガックリと来たが、勝手にこっちが勘違いしたことなので文句も言えない。
「じゃ、その両親とお姉ちゃんが心配するぞ」
「しませんよ」
「しないわけないだろ」
「……そう、ですかね」
「当たり前だ」
「そう、ですね」
少女は、何かを噛み締めるように、その言葉を幾度か繰り返していた。
「そういえば、何しに来てたんだ。部外者が敷地内に入ってるの見つかるとうるさいぞ」
「部外者じゃありませんよ」
「ん、ここの生徒か、オレはてっきり中学……いや、ごめん、ホントごめん」
あからさまに少女の機嫌が斜めになるのを逸早く見て取って逸早く謝る。
「私はここの一年生ですよ。ちょっと、休んでますけど」
「そっか、早く治るといいな」
「ありがとうございます」
また、笑顔になった。それに見惚れていることを自覚して、北川は頭を掻く。
「でも、病気で長期に渡って休んでいる女の子って、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね」
「おいっ」
「冗談ですよ」
人差し指を口元に持ってきて微笑む。
あ、今の可愛いとか思いつつ、北川はまた頭を掻いていた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたよね」
「そうだったな、オレは北川潤。ここの二年生だから、君の先輩だな」
「私は栞です。美坂栞」
「へえ、栞ちゃんか。みさか、っていうのは、あれかな、美しい坂って書いたりするのかな？」
友人と同じ読みをする名字なので何気無く聞いた。
「はい、そうです」
「さっき、お姉ちゃんがいるっていったよな？」
この時には、既に確信していた。美坂など、そうそうある名字ではない。
「美坂香里っていうんじゃないか、栞ちゃんのお姉ちゃんは」
「あ、そうです。香里っていうんですよ。私のお姉ちゃん」
栞は、嬉しそうに言った。表情、声、仕草、その全てからこの少女が姉に向けている愛情が感じられる。
「ここの二年生だろ」
「あ、もしかして……」
「おう、オレのクラスメイトだ」
「わ、そうだったんですか」
「あれだろ、ウェーブかかった長い髪で、成績よくて学級委員やってる」
「あ、そうですそうです」
「んで、散々思わせぶりなこと言っておいてこっちが何言っても『言葉通りよ』とか言って」
「お姉ちゃんったら、学校でもそんな感じなんですね」
とても嬉しそうに栞が笑う。姉の話をすればするほど嬉しいらしい。仲のいい姉妹なんだろうな、と北川は思った。
「あ、そうだ。病人、さっさと家帰れ」
すっかりそのことを忘れていた北川が言った。どうもこの栞という少女は元気に見えるのでついつい忘れてしまっていた。
「いきなりそんなこと言う人嫌いです」
「嫌いになられるのは悲しいが、早く帰れ。早く治してちゃんと学校来いよ。そうだ、美坂……お姉ちゃんも一緒にさ、昼飯食おうぜ」
「……はい、いいですね」
笑顔。だが、どことなく寂しそうな笑顔。
「じゃあ、先生の言うこと聞いて、早く治せよ」
「はい、それでは失礼します」
栞はぺこりと頭を下げて去っていった。
北川は校舎の中に入る。
「そういや、なんの用があったんだ。栞ちゃん」
気付いた時には、既に栞の姿は消えていた。
「ま、いっか。今度会った時にでも聞けば」
教室に戻ろうとして昇降口を通って行こうとすると香里に会った。鞄を持っているからこれから帰るところのようだ。
「よっ、美坂、おつかれー」
「……どこ行ってたのよ」
「ん？」
「ＨＲサボったでしょ。石橋が怒ってたわよ」
「あ、やばっ」
「もう、どこに行ってたのよ」
「おう、中庭に行ってたんだよ」
「なにしに？」
北川は、にやりと笑った。
「お前の妹に会ってたんだ」
さあ驚け、と言わんばかりに言い放った北川だったが、香里はキョトンとしていた。
「あたしに妹なんていないわよ」
「は？ いや、栞ちゃんだよ、美坂栞。香里っていうお姉ちゃんがいるって言ってたぞ」
「さあ」
「ほら、チェックのストール羽織ってて」
「北川君、あたしは一人っ子よ」
怪訝そうな表情だ。しかし、北川は確信している。二年生で美坂香里というのは目の前にいる人間ただ一人しかいないはずだ。
「オレに言えないことなのか」
「さっきからおかしなこと言うわね」
「……いくら友達でも、言えることと言えないことがあるよな」
一瞬だが、香里の表情が張り詰めたものになった。今朝、自分が北川に言った言葉だということが彼女にはわかったはずだ。
「まあいいや、なんかやむを得ない理由があるんだろ」
「……だから、なに言ってるのよ、さっきから」
「美坂もオレを信じてくれたからな。オレも信じるよ」
北川は、香里から視線を外しつつ身を翻した。
「じゃあな」
背中を向けたまま言った。
「……馬鹿」
後ろから、そんな声が聞こえたような気がした。
翌々日、月曜日の昼休み。北川は走っていた。学食に急いでいる……のではない。
中庭に出ると、白い雪の上に佇む人影に向かって歩いていく。
「あ、潤さん。こんにちは」
「病人、一昨日オレが言ったこと聞いてなかったのか」
少し怒気を含んだ北川の声に栞はやや怯んだようだ。
「そんな顔すんなよ」
だがしかし、栞のような女の子に弱々しい上目遣いで見られたりすると、北川潤はすこぶる弱かったりするのであった。
「んー、まあ、ずっと安静にしてるのも退屈だし寂しいだろうけど、あんまり無理したら治りが遅くなるぞ」
「はい、わかりました」
「ところで、一昨日と今日と何しに来てるんだ、栞ちゃんは」
「一昨日はある人に会いに来たんです」
「へえ、誰？ オレの知ってる奴かな。あ、美坂か？」
「名前もクラスもわかりません。案の定、会えませんでした」
「いや、そりゃ会えねえって……」
「今日は、潤さんに会いに来ました」
「……オレ？」
「はい」
「へ、へえ、そ、そ、そうなんだ」
あからさまに狼狽する自分を叱咤するも効果は悲しいほどに無かった。恋愛には奥手なこの男は、可愛らしいと思っていた異性にそのようなことを言われると無防備といっていいほどに照れざるを得ない。それに……。
「潤さん？」
これである。この「潤さん」である。
「どうしたんですか？」
「いや、その、あれ」
栞ちゃんみたいな可愛い子に潤さんなんて呼ばれたら照れちまうよ。と、ここで歯の浮くような本音を言ってしまえるならば、自分はもうほんの少しばかりモテたかもなあ、などと思いつつ、結局北川はしどろもどろに誤魔化した。
「そ、そ、そうだ。腹減ってないか。なんか買ってきてやろうか。ほら、パンとか」
「奢ってくれるんですか」
「おう」
「それじゃ……アイスクリームが食べたいです」
「アイス……だな？」
念を押す。家に持って帰って食べるのかな、と思い、買って来ると……。
「おいしいです」
栞は、寒空の下、しっかりとバニラアイスを食べていた。
「いや、まあ、おいしいならいいや」
何か一言発しようと試みた北川だが、栞の満面の笑みに断念する。
――ああ、やべえ、オレ、この子に惚れかかってる。
そんなことを考えながらアイスをおいしそうに食べる顔を見ていたら、首を傾げながら見返された。
「いや、おいしそうに食べるなあ、と思ってね」
「私、アイス大好きですから」
にこにこと、それさえあれば幸せのような笑顔で言った。
「ごちそうさまでした」
やがて、アイスを食べ終えた栞が、ぺこりと頭を下げて言った。その間に、北川もパンを食べ終えている。
「うー」
「どうした？」
「……蓋を舐めるのは女の子としてまずいと思いますか？」
「思います」
「勿体無いけどしょうがないです」
「ほい、ゴミはこっち」
その栞の未練たらたらな様子に笑いながら北川はビニール袋の口を広げて差し出した。
「そんなに好きなら、また奢ってやるよ」
空のカップを捨てるのまで未練げな栞を見かねて北川は言ってやる。
「いいんですか。だったら毎日来ちゃいますよ」
「うあ、毎日かよ」
「駄目ですか」
哀願するように見る。そんなことされたら逆らえっこない。
「まかせとけ」
一日アイス一杯ぐらい大したこっちゃねえと自らを励まして請け負う。
「あ……」
しかし、その直後、この少女がれっきとした病人であることを思い出す。そもそも、今日ここへやってきたのは、教室からまたもや中庭に立っていた彼女を発見したので、早く帰ってもうここには来るなと言うためだったのだ。
「潤さん？」
栞が下を向いてなにやら考え込んでしまった北川に心配そうに問い掛ける。
「ああ、そろそろ昼休み終わるから、オレは教室に戻るよ」
「そうですね」
少し、寂しそうだった。
「やっぱり、学校来れないと寂しいか」
「はい……でも、一昨日と今日は潤さんと話せたから、寂しくないです」
「そっか……また、明日な」
眩しいような笑顔を見たら、迷いが吹き払われて、思わずそう言っていた。
「はい、また明日」
栞は、嬉しそうに言って、頭を下げた。
オレはなにをしてるんだ。
栞ちゃんが病人だということがわかっていながら、毎日アイス奢ってやるから来いだなんて言って、最初は、体によくないからもう来るなって言おうとしてたのに、なにをしてるんだ。
栞ちゃんが嬉しそうに、オレと話せて寂しくないと言ったから？ ……そんなの、言い訳だ。他でもないオレ自身が、栞ちゃんに会いたいからだ。
「こんにちは」
「やあ、栞ちゃん。アイス買ってあるよ」
……ホント、なにしてるんだろうな、オレ。
間違い無い。もう自分で認めざるを得ない。
北川潤は、美坂栞を好きになってしまっている。
「なあ、栞ちゃん。明日の放課後、どっか行かないか」
「む、デートのお誘いですか」
「ん、ああ、昼休みだとあんまり多く話せないからさ」
「いいですよ。私も潤さんともっとお話したいし……色んな所に行ってみたいです」
「よっし！ それじゃ明日の放課後、ここでな」
我ながら大袈裟なガッツポーズだと思いながら、北川は握り拳を作っていた。
翌日は朝からウキウキとする北川をクラスのみんなして腫れ物扱いであったが、北川は気にしない。
ＨＲが終わると軽やかに席を立った。
「どーしたんだよ、お前」
友人の斉藤があからさまに「変な生き物を見る目」で見てくれる。
「ふ……デートだ」
それが男子連中に与える効果をわかった上で言い放つ。
案の定、裏切者を筆頭に想像していた言葉が投げかけられる中を早々に退散する。
「また明日な」
香里に挨拶をしたが、言葉は返ってこなかった。見たことも無い弱々しい目で北川を見ていた。口が僅かに動く。とても聞き取れない小さな声で、また明日と呟いているようだった。
奇妙に感じつつも、心は既に中庭に飛んでいる。それに引っ張られるように体も中庭へと飛ばなくてはならない。
階段を駆け下り、おなじみの鉄の扉を開く。
「お待たせ」
「こんにちは、潤さん」
今日も、美坂栞は満面の笑みで待っていてくれた。
「よし、それじゃ行こうか」
「少し、ここで打ち合わせしていきませんか？」
「おう、そうだな」
いつもの場所に座って、これからどこに行くかをあれこれと話す。ゲームセンターというものに生まれてこの方行ったことが無いと栞が言うので、それじゃ商店街にあるから行ってみようということになった。
「よし、行こうか」
北川が立ち上がろうとした時、ぽてっ、と栞の小さな頭が北川の肩に乗る。
「し、栞ちゃん！」
両手を背中に回した。そうしてみると、肩幅の狭さが実感できる。小さくて細いんだな、この子。それを感じれば感じるほど、愛しくなってくる。
「あの、大丈夫ですから」
顔を上げて、栞が言った。苦しげな吐息が北川の頬を撫でる。
「栞ちゃん、体調が……」
栞はぐったりと北川に身を預けている。体調が悪いのは一目でわかった。
「よし、病院に行くぞ」
思わず、反射的に言っていた。忘れていた、いや、一緒にいたいがために故意に忘れようとしていた。この子は、病人なのだ。
「いえ、ちょっと疲れただけですから」
「おぶされ！」
そう叫んで背中を向ける。
「少し休めば大丈夫ですよ」
「いや、駄目だ。早く病院に行くぞ」
北川は、背中と膝の裏に手を回して栞を強引に抱き上げた。
「うわ」
「行くぞ」
走り出した。
背中。背中を何かが押していた。以前も押されたことがあるような気がするそれの正体が、北川にはよくわからない。
七年前の悔恨だと気付けば、栞を抱いて走るのを止めたであろうか。
「どけ、どけ、どけっ！」
校庭を突っ切っていく。
早く。一分一秒でも早く。
「潤さん、恥ずかしいです」
泣きそうな声で栞が言う。
「オレにまかせとけ！」
「えうー」
校庭は、女子の陸上部が広がってストレッチをしている真っ最中であった。
「き、北川君？」
一番早く、突進してくるものに気付いたのは部長の名雪だった。
「ど、どうしたの！？」
小柄な私服の女の子を抱きかかえて向かってくる級友に問いかけた。
「急患だっ！」
「え、それは大変だよ」
「おう、大変だ！」
「みんなーっ！ 急患だよー、道を開けてあげてよー」
名雪が叫ぶと、部員たちが左右に分かれる。
「水瀬、サンキュ！」
「うん、頑張ってね」
「おう」
「恥ずかしいですよお」
名雪たちに見送られ、北川は校門を潜った。
「結論から言おう」
医師は、しかめっ面で前置きした。北川がゴクリと唾を飲みこむ。
ここは病院の廊下。栞は今、診察室にいる。
「お前、馬鹿だな」
「は？」
「ちょっと疲れてただけだ。それに、お前は保健室に連れてくことを考えなかったのか」
「あ、いや、その……」
栞の体調が悪いと思った時に頭に浮かんだのがとにかく、早く病院に連れていく、ということだったのである。
「まあ、それでも無理をさせないに越したことは無い。今、ベッドで休ませている」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことでもないがな」
苦笑して、医師が肩をすくめて見せる。
「それよりも、いったいどうしてお前とあの子が一緒にいたかだ」
「それは……」
北川は、栞との二度目の出会いを話した。何時間も表に立ち尽くしていたというのを聞いて、医師が顔をしかめる。
「お前、好きなんだな、あの子のこと」
「……はい」
誤魔化そうという気は失せていた。どうやらなんらかの病気にかかっているらしい栞。その栞を好きになってしまった自分。今後のためにも、この医師には、自分の気持ちを知っておいてもらった方がいいと思ったのだ。
「私は、お前のことを七年間見てきた」
「……」
「お前は、逃げなかった。目覚めないあの子の所へ通い続けた。いつも笑顔を作ってな」
医師は真っ直ぐに北川を見ていた。北川は真っ直ぐにそれを見返す。
「話そう。あの子のことを」
「潤さーん」
「おうっ」
三日後、ようやく家に帰ることを許された栞は放課後になってから学校にやってきた。中止になってしまったデートを今日こそするためである。
「それじゃ、行きましょう」
「よし、行こう」
嬉しそうな栞に微笑みながら、自分は上手くできているだろうかと思う。医師に聞いた話は、北川が予想していた内の最も悲観的なそれを軽く上回って悲観的であった。
次の誕生日まで生きられないと家族には言った。最近持ち直しているので、その言葉は外れるかもしれないが、長く生きられないことには変わりない。
「潤さん、早く行きましょう」
「ああ」
あの話を聞いてから栞の笑顔、振る舞いを見ると、この少女の強さがひしひしと感じられる。
「潤さん、先生に色々聞いたんでしょう」
突然、そんなことを言われ、北川は動揺する。もはや、その動揺をもって肯定したも同然であった。
「なんだか、前にもまして私のことを心配そうに見るから、もしかしたらと思ったんです」
「ごめん」
「謝らなくてもいいですよ。いつかは話さないといけないと思ってましたから……だって私……」
一瞬沈んだ表情になってから、栞は首を振った。
「なんでもないです」
とても、なんでもないようには見えなかった。
「お願いがあります」
「おう、なんでも言ってみろ」
そう胸を張ってから、言い直す。
「ただし、オレにできる範囲のことだぞ」
どこかで聞いた台詞だと思いつつ、付け加えた。
ああ――。
思い出した。
人形。天使の人形。願い事が三つ叶う人形。
七年前、帰りが遅くなって暗くなった中を歩いていると、見覚えのある二人の人間がしゃがみ込んでなにやらしていた。
「なにしてんだ」
「北川か、ほれ、こいつを埋めてるんだ」
そう言って、あいつは瓶に入った天使の人形を見せた。それなら知っている。あいつがあの子にあげた天使の人形。あいつのできることなら願いを三つ叶えてくれる人形。
そのまま成り行きで手伝って埋めたっけ。
あの馬鹿、どうせあのことも忘れちまってるんだろうな。
「それじゃあ」
「おう」
栞が改まって言うのに北川は回想を止めて聞く体勢をとる。
「私のこと、普通の女の子として扱ってください」
「……ああ」
頷いた。
「それが、私の夢なんです」
栞が俯いている。
「わかった。栞ちゃんのこと、普通の女の子として扱うよ」
北川は、言った。
そして、二時間後には自分はそれほど器用な人間ではないということを思い知った。
「潤さん、過保護すぎ」
「……はい」
どうということの無い仕草にもいちいち「大丈夫か！？」とやってしまう北川に、栞は不満なのか、視線がややきつい。
やっぱり、オレは駄目なんだなあ。と、つくづく思った。
「なあ、栞ちゃん」
「ん？」
「やっぱり、オレ、そんなに器用じゃないみたいだ」
「そうみたいですね」
はっきりと言ってくれる。
「他の、誰か器用な奴に頼んでくれ。オレじゃ駄目だ」
好きな女の子の願いが叶えられないというのは、それなりに北川の心にダメージを与えていた。それも、困難なものではない、自分以外の男ならば容易く果たせるのではないかというような願いだ。
「本気ですか？」
「ああ、本気だ」
「……そんなこと言う人、嫌いです」
今まで何度か聞いたことのある栞の口癖。しかし、この時ばかりは声に真剣な響きが備わっていた。
「栞ちゃ……」
「さよなら」
短い髪。チェックのストール。そして栞の体。翻って、背を向け、走っていく。
オレは駄目なんだなあ。と、改めて思った。ここで、追いかけることすらできないとは――。
「嫌われた、な」
自分に言い聞かせるように独語して、北川も家路についた。
朝からぼーっと惚けている北川をクラスのみんなは「珍しいことじゃない」扱いで放置していた。
四時間目終了のチャイムが鳴る。急いで教室を出て学食へ行き、パンとコーヒーとバニラアイスを買って中庭に向かう。そんな昼休みはもう来ないのだということに北川は今更ながらに落ち込む思いであった。何気無く外を見る。
いた。
雪の中。短い髪。チェックのストール。そして小柄な体。
不可視の力に弾かれたように、北川は教室を飛び出していた。走る。階段を駆け下り、鉄の扉を蹴りつける。早く。一分一秒でも早く。
「よう」
「こんにちは」
「今日はどうしたんだ？」
「……潤さんに会いに来たに決まってるじゃないですか」
どことなくむっとした表情で栞は言った。
「オレ？」
「他に誰がいるんですか」
「……嫌われたと思ってたけどな」
「私は、潤さんに……どうしようもなく不器用な潤さんに会いに来たんです」
「……」
「私を普通の女の子として扱ってくれないけど、私のことを誰よりも心配してくれる潤さんにです」
「栞ちゃん……」
「今度、他の奴と、なんて言ったら、本当に嫌いになっちゃいますから」
泣いていた。
ひどく、透き通った涙。
「栞ちゃん」
近付いて、抱き寄せていた。
「オレ、栞ちゃんの夢を叶えてあげられないような奴だけど、栞ちゃんと一緒にいたいよ」
「潤さん……」
「栞ちゃん」
お互いに見詰め合う。
栞の顔が赤く染まっていた。
「栞ちゃん、熱があるんじゃないのか？」
心配そうに尋ねる北川に、栞は呆れたような苦笑を浮かべた。
「もう、潤さんはこういう人だってわかってるからいいですけどね」
「あ、ゴメン。またやっちゃったか」
北川も、苦笑するしかなかった。
「じゃ、熱があるわけじゃないんだな」
「はい、潤さん……普通の女の子は、好きな男の人に抱かれたりしたら、誰だって顔が赤くなるものなんですよ」
「ああ、そうか……って、あの、それって、いや、今の」
オロオロと言葉を羅列する北川に栞は、
「私、潤さんが好きです」
微笑んで言った。
「オレ！」
北川潤、一世一代の場面に声が上ずった。
「オレも、栞ちゃんのことが好きだ」
「……先生に話は聞いたんですよね。それでもですか？」
「聞いた。それでも、好きなもんはしょうがないよ。オレは、栞ちゃんが好きだから。オレは、もう、栞ちゃんがどうしようもなく好きなんだから」
「照れちゃいますよ」
「オレだって照れてる」
その後のキスは、どちらが言うともなく、自然に唇と唇が引き寄せ合ったように行われた。
数日後、栞の、そしてあゆの担当医に呼び出された。
「美坂栞が、手術を受ける決心をした」
「手術？」
「成功率のあまり高くない手術だ。失敗すれば死期を早める。だが、成功すれば……」
つまりは、緩慢に死んでいくか、それともその手術で峠を越えるか。
「たぶん、以前よりも『生きたい』という気持ちが強くなったんだと思う」
「そうですか」
「お前のおかげ、かな」
「いや、そんな……」
「その調子で頼むぞ。あの子は、今まではどこか『別に死んだっていい』と思っているようなところがあってな。やりにくくてしょうがなかったんだが、最近はいい感じになってきている」
「医者は患者の治りたい、生きたいという気持ちの手助けをするだけ、どんな患者よりも厄介なのは、死にたいと思っている患者である。先生の持論でしたね」
「人間の精神というのは確実に体に影響を与えるものだと私は思っている。あの子がより『生きたい』と思うことで、手術の成功率が例え０．１％でも上がるかもしれない」
「わかりました。オレにはオレのできることをしましょう。オレみたいなのが０．１％も貢献できるなら御の字ですよ」
そう言って北川は笑みを浮かべた。
「それについては、一人、協力して欲しい奴がいるんだよなあ」
何度かデートをして、栞を家に送っていくと、そこである人物と鉢合わせになった。その人物は、栞が「お姉ちゃん」と小声で呼びかけたのを無視して二人の前を通り過ぎていった。
「おい、美坂！ 栞ちゃんが呼んでるだろう！」
北川の声にも振り返らなかった。
「潤さん、いいんです。しょうがないんです」
栞は俯いて、首を横に振っていた。その後の言葉が北川はどうしても忘れられない。
――私みたいな妹、迷惑がられて当然なんです。
それから問い詰めて、姉が妹に冷淡な――無視といっていい態度をとっていることを聞いた。
くそっ、逃げやがって。
美坂も、あいつも、逃げやがって。
愛している、愛してくれている人間を放り出しやがって。
今、北川は学校の校門の所に立っている。
「お待たせ」
「おう」
雪を踏んで、香里が現れた。北川が呼び出したのだ。
「丁度よかったわ。あたしも、そろそろあなたと話がしたかったから」
「ほう」
「あの子のこと、どこまで知っているのかしら」
「お前が知ってることは全部かな、あの先生とは古い知り合いでね。栞ちゃん本人からも全て聞いた」
「そう……」
「美坂。栞ちゃん、お前のことが本当に好きなんだよ。見てればわかる」
「……」
「その栞ちゃんを、なんで無視するんだ。今だからこそ、一緒にいないといけないんじゃないのか」
香里は、どことなく無機質的な表情で北川の声を聞いていた。果たして、感情があるのかどうかも疑わしいような無表情。
「あたし、あの子のこと見ないようにしてた……日に日に弱っていくあの子を、これ以上見ていたくなかった……」
妹なんか最初からいなかったと思えばいい。
妹なんて最初からいなかったら、こんな悲しい思いをすることもなかった。
「北川君……あの子、なんのために生まれてきたの……」
無表情が崩れて、無残な泣き顔になっていた。
なんのために。それじゃあ、月宮あゆはなんのために生きている。七年間も、死んだも同然の姿で、なんのために生きている。
「お前、最低だな」
北川が吐き捨てるように言うと香里が強い視線で睨みつけてくる。
「北川君にはわからないわよ」
「血の繋がってない赤の他人だからか？」
それには答えず香里は目を逸らした。
「辛かったんだろうな」
北川は、言いつつ、香里に近付いていく。
「でもな、いくら辛いからって、悲しいからって、逃げるなんて酷いじゃねえか……忘れちまうなんて酷えじゃねえかよっ」
待っている。
大切な人を待っている。自分を忘れた人。でも、それでも彼女たちは待っている。
あの男の子が病床に駆けつけてくるのを……姉が、自分に話しかけてくれるのを……。
「逃げてんだよ。栞ちゃんから逃げて、自分以外の人間には自分の辛さなんてわかりっこないって言って、そのことを非難する声から逃げてんだよ」
「……」
「ふざけるなよ、美坂ぁ！」
右手を伸ばして襟首を掴んでいた。
「オレは他人か？ オレは他人だから栞ちゃんと一緒にいても大丈夫だってか？ ……好きなんだよ。オレは、どうしようもないほどに美坂栞が好きだ。好きだから一緒にいるんだよ。一緒にいたいんだよ！ それに、お前なら……栞ちゃんが大好きなお姉ちゃんのお前なら、彼女に力を与えてやれるんだ」
「そんなこと言ったって！」
顔を逸らしていた香里が、北川に向き直った。
「あたしは、北川君ほど強くないもの、栞ほど強くないもの！」
「ああ、栞ちゃんは強いな。でも、オレは弱い」
「強いわよ、あなたは」
「弱いさ。逃げたいと思ったことが無いといえば嘘になる。ただ、逃げたら結局は一番辛いんだってわかっているだけだ」
「そんなの……」
「美坂……そんなことをしても結局は悲しいだけだぞ。お前も、栞ちゃんも……」
「そんなの……」
「お前、本当に忘れられるのかよ、忘れられたのかよ。辛いんじゃないのか、そうする前よりも、栞ちゃんを否定した今の方が、辛いんじゃないのか」
「そんなの……」
「お前は本当に、栞ちゃんの姉を止められたのか！？」
「そんなの、言われないでもわかってるわよ！」
叩きつけるような声が北川を打つ。不思議と心地よかった。美坂香里の心底からの声を北川は受けていた。
「もう、あたしが最低だっていうのはわかったでしょう。放っておいて」
「いや、放っておけねえよ」
「どうしてよ、あたしみたいな最低な女……」
「ああ、栞ちゃんにしたこと、最低だと思う」
そう言ってから、険しさだけに占められていた顔に、北川は、困ったような笑みを浮かべる。
「でも、オレは他に美坂のいいとこたくさん知ってるからな。嫌いになんかなれないし、放ってもおけねえよ」
「……あたし」
北川は、既に香里の襟から手を離している。その両手が香里の両肩に乗っていた。
「あたし、どうしたらいいの？」
「オレに聞くなよ。お前はもうわかってるんだろう？ ずっと前から、わかってるんだろう？」
「北川君……」
「それに、お前にはなんとしても協力してもらわねーとな」
悪戯っぽく、だが、どことなく優しい笑みを北川が浮かべる。香里がよく知る、彼の笑みだった。
「よう」
「あ、こんにち……」
昼休み。鉄の扉が開いて北川が姿を現す。それを待っていた栞は早速いつものように挨拶しようとして全身を強張らせる。
「そんじゃ、飯食うべ」
北川は構わずにいつものようにビニール袋からパンやらコーヒーやらを取り出す。
「ほい、いつもの」
北川の手から栞の手へ、バニラアイスのカップが放物線を描いて飛んだ。
「今日のは美坂の奢りな」
そう言ったきり、北川は沈黙した。互いに見詰め合っている姉妹の邪魔になるとでもいうように。
恐る恐る弱々しい足取りで栞が前に進む。
香里が一歩下がった。瞬間、背中に衝撃。
「っ！ 痛いじゃないのよ！」
自分の背中を思いきり掌で叩いた北川に香里が抗議する。
「ほら、栞ちゃんはもうすぐ前だぜ」
だが、優しい笑顔で言われて、気を取り直す。
二つの影が重なるのに、そんなに時間はかからなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……栞、栞、栞……」
辛そうな、だが、どこか吹っ切れて重みを振り払ったような優しい声を聞きながら、北川は目を閉じていた。
――月宮にも、いつかこんな日が来るのだろうか。
栞が手術のために入院してからは、北川と香里はよく連れ立って見舞に行った。今まで自らの弱さ愚かさで失っていた時間を取り戻そうと、栞との時間を過ごす香里。それに気を遣って北川が席を外した。時折、そのことをすまないと思う香里が外して、栞と二人きりにしてくれることもあった。
席を外している間、北川は、月宮あゆの病室にいた。
なんとかしてやりたい。だが、この少女が待っているのは、自分ではない。あいつ、あいつだ。あいつは、何をしてるんだ。
しかし、北川が栞と出会い愛し合う間に、あいつ――相沢祐一もまた、無為に過ごしていたわけではなかったのである。
栞の手術を翌々日に控えた一月二十九日、北川はいつものように香里と、栞の見舞に行こうとしたのだがＨＲ後、トイレに行っていたら香里の姿が無い。そばにいた女子に聞くと、祐一と名雪と三人で帰ったという。
何か用事があるのだろうと思いつつ、北川は栞を見舞った。北川が帰る間際に、栞は言った。
「潤さん。私、生きたいです。難しい手術だってことはわかってます。でも、私は潤さんと一緒に、お姉ちゃんと一緒に、生きたいんです。これだけは譲れません」
笑っていた。
本当に、この子は強い。
帰り道を歩いていると、並木道で穴掘りをしている三人の高校生を見かけた。
「何してるんだ。あいつら」
そう呟いた直後に、それが顔見知りであることに気付く。
相沢祐一。あいつが、穴を掘っていた。必死に、この寒さの中、汗だくになりながら。
「あ、北川君」
祐一と一緒に穴を掘っていた名雪と香里が北川に気付く。
「北川君にも手伝ってもらおうよ」
見るからに疲れた様子の名雪が救われたように提案する。が、祐一は何も言わずに穴を掘っている。
「祐一も、もう一人男手があったら楽なのに、って言ってたのに」
「あいつが、俺の手伝いなんかしてくれるわけがないだろ」
にべもなく言って、祐一は穴を掘り続けている。
北川は、名雪と香里に尋ねる。
「スコップ、もう一本あるか？」
「あるよー」
「はい」
名雪が嬉しそうに答え、香里がスコップを手渡す。
何か不思議なものでも見るように祐一が北川を見ていた。
「こっちじゃない。あっちの方だ。オレもはっきり覚えているわけじゃねえけど、たぶん、あれだ」
一本の木を指差し、歩いていって、その根元の土を掘り起こす。
「探しものはこれだろ？」
やがて、土中から割れた瓶を取り出して祐一に見せてやる。
「お前……」
「北川潤だ」
「あの時の……」
「ようやく思い出したか」
「いや、俺とあゆ以外にもう一人男がいたことはとっくに思い出してたし、あの時、お前が初対面のはずの俺に、いきなりあゆの名前を出したから、もしかしたらと思ってはいたが……」
あの時、というのはあの最悪の再会。殴り合った時のことだろう。
「でも、どうにもな、いきなり殴られてかなりむかついててな、お前とまともに話してみようとか思えなかったんだよ」
「すまんな」
「いや、あのことを忘れてた俺は殴られて当然だった」
「……相沢」
「それに謝るのはこっちの方だ。七年前の記憶が戻ってからも……お前の顔と名前は忘れてたんで、いまいち自信が持てなかった」
「おいっ」
「俺は十二時間で人の顔と名前を忘れる特技があるんだ」
「迷惑な特技だな……」
「まったくだ。まったく、迷惑かけちまったな……」
手術開始の光が灯ると、落ちついているのは香里ばかりで、北川はそわそわと立ったり座ったり歩いたり腕立て伏せを始めたり。
「……落ちつきなさい」
「すまん」
病院の廊下に二人はいる。少し離れたところに香里の両親もいる。先ほど、挨拶は済ませた。栞のことを愛していると告げた時、二人とも驚き、母親は泣き出し、父親は静かに目を伏せて「ありがとう」と呟いた。
「ねえ、相沢君に教えてあげないの？」
この病院で月宮あゆが眠り続けていることを、北川はまだ祐一に告げていない。香里には、自分と祐一とあゆのことは全て話してある。
「名雪に聞いたけど、あれ以来、相沢君、ろくに食事もしてないらしいの。どうやら、月宮さんが死んだと思っているみたい」
「それなんだが、黙っておいた方がいいと思ってな」
「……どうせ目を覚まさないから？」
「辛かったからな。待ち続けるのは」
「あたし、相沢君とはけっこう話したけど、芯の強い人だと思うわ」
「そうか」
「もう、七年も経っているんだし、彼だって子供のままじゃない、成長してる。月宮さんのことを後悔して、自分を責めてもいる」
「ああ」
「だから、もう一度チャンスをあげて欲しいの。あたしも、北川君がチャンスをくれたから、今、こうしてここにいられるんだし」
「美坂……」
「今の月宮さんに向き合ってどうするかは、相沢君が決めればいいと思うわ」
「……ああ、そうだな。オレ、いらねえ気を回してたみたいだ。そんなの、気遣いでもなんでもないのに」
その時、ドアが開いて看護婦が顔を出す。
強張った四つの顔を見て微笑しながら言った。
「成功です」
静かに、静かに、果てしなく静かに、四人は喜びを噛み締めた。気付いた時には北川は香里と抱き合いながら、泣いていた。
「おや、北川君は栞が好きなんじゃなかったのかな」
「あら、三角関係？」
「ちょ、ちょっと、あたしと北川君はそんなんじゃないってば！」
不穏なことを言う両親に香里が食って掛かる。一瞬の静寂、そして、すぐに笑い声。
この状況で逸早くああいう冗談を口にできるのは大人の余裕ってやつなんだろうかと北川は思った。
「栞ちゃん、よかった……」
改めて喜びを噛み締めていると香里に袖を引かれた。
「ちょっと、北川君、あれって……」
指差す先に、よろめく人影。
よろよろとおぼつかない足取りでは体を支えきれず、壁に手をついて歩いてくる。しかし、それでも支えきれず、倒れそうになる。
その姿を見るや走り出していた北川が、その体を抱き止める。
「あ……潤くん、だよね」
「ああ、そうだ。そうだよ」
「ねえ、祐一くん、知らない？ どこ行っちゃったのかなあ」
「あいつは……」
北川は笑顔になる。七年間、病室のドアを開けるたびに作っていたそれではなく、自然な笑顔。
「探してる。お前のことを、探してるよ」
「じゃあ、すぐに会えるね」
笑った。七年前そのままの笑顔で……。
「ああ、会える、すぐに会えるよ、月宮」
手術の翌日、栞を見舞った後に、北川と香里は月宮あゆの病室を訪れようと病院の廊下を歩いていた。栞の病室とあゆのそれは離れているので、一度ロビーを通るのだが、そこではちょっとした騒ぎになっていた。
受付の看護婦に食って掛かる男。慌てているためか、言っていることが不明瞭で看護婦たちも意図をはかりかねているようだ。
だが、北川には、その男がここを訪れたわけがわかっている。丁度、帰りにでもその男に電話しようと思っていたところだ。
「相沢」
呼ばれて振り返った祐一はすぐに北川に詰め寄る。
「あゆ、あゆ、あゆはどこだ」
取り乱している祐一を香里と二人がかりで落ちつけて話を聞くと、七年間眠り続けた少女の目覚めがニュースになっており、それを人伝に聞いた祐一がすぐに駆けつけてきたということらしい。
「北川、あゆはどこにいるんだ！」
「……」
「北川……俺は、もう絶対に逃げたりしない。あいつがどうなっていようと逃げない」
「相沢……」
「だから、教えてくれ、頼む」
「――号室」
頭を下げた祐一に、北川が呟くように言った。
「ありがとう」
すぐに向かおうとする祐一に北川は言った。
「月宮はお前にまかせた」
「今度こそ、まかされた。今度こそ、俺は……」
強い意志を宿した目と声でそれに答えて、祐一は走っていく。
「よかったわね」
「ああ……よかった。本当に……」
時は過ぎ、始業式。
「また同じクラスだな」
「おう、美坂と水瀬も一緒だ。また一年、楽しくなりそうだな」
北川は新しい教室で祐一と会話を交わす。あれ以来、二人は親友といっていい仲になっている。友人の――今や二人の共通の友人の斉藤などは「お前ら、仲悪くなかったか？ 殴り合ったって聞いたぞ」と不思議そうにしていたが「タイマンはったらダチじゃあ」と言ったら納得したばかりか「そういうのっていいよな」と感動までしていた。こいつはいい奴だと二人は思った。
「北川君。栞から伝言があるんだけど」
ＨＲが終わり、さて帰ろうという時になって香里が声をかけてきた。
「中庭で待ってるって」
「おうっ」
北川は立ち上がる。
手術後の経過もすっかり順調な栞は、春休み中に退院して今日から学校に通ってきている。
ちなみに、祐一は月宮あゆと交際中である。あれから、祐一が出会ったという「たい焼きを食い逃げしていたダッフルコートのあゆ」の話を聞いて、北川は言ったものだ。鈍臭いあいつも自分より鈍臭い男にいてもたってもいられなくなって迎えに行ったんだろう、と。
「北川、ラーメンでも食いに行かねえ？」
斉藤が誘ってくれるが、却下だ。却下。
「ふ……オレはこれからデートだ」
例によって、裏切者コールを背に受けて教室を出る。
階段を駆け下り、鉄の扉を蹴っ飛ばし。
早く。一分一秒でも早く。
「よう、栞ちゃん！」
初めて見る制服姿の栞がそこにいた。
「こんにちは、潤さん！」
飛びついてきた栞を、抱き止め、抱き締めた。強く、強く――。
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