Prologue ―Rain In My Heart―
雨。
雨が降ってきた。
空を覆う分厚い雨雲からぽつりぽつりと降り出した雨はすぐに勢いを増し、木の葉とアスファルトを打つ音色がうるさいぐらいに耳に響く。雨にけむる灰色の街に人影はなく、無機質な街並みが私の心をいっそう寂しくさせた。
私は待っている。
駅前に設置された飾り気のない木製のベンチに座り、私には少し大きめの傘を開かず手に持ったままで、待っている。
絶え間なく私を打つ雨は決して優しくはなかったけれど、私はそれに身を任せ、知らず握りしめていた手にさらに力を込めた。
傘を差さないでいる理由は自分にもよくわからなかったけれど、差さずにいた。着ている服に濡れていないところはすでに無くて、いまさらそれをしたところで何も変わるはずはなかったし、びしょ濡れになって傘を差す自分の姿を想像すると、それはひどく惨めで滑稽なものに思えた。いや、もう十分そうなっているのかも知れない。
私はただ、濡れていた。
それからしばらく待っていると、電車が着いたのだろうか、駅の中から人がたくさん出て来た。出入り口から外に漏れる光に照らされたその人達には表情が無くて、みんな同じような背格好だった。その人達は駅から出ると、降りしきる雨に気を止めることもなく、そのままどこかへ歩いていく。私もその人達には気を止めなかった。
私は淡い期待を込め、ベンチに座ったままでその人だかりの中から待ち人の姿を探す。でも、そこには表情の無い人形のような人ばかり。中から出て来る人の数はだんだんまばらになり、そして、誰もいなくなった。
ずっと待っていた私に笑顔で手を振ってくれる人は、とうとう現れなかった。
私はひとりだった。
どうしようもなく、孤独だった。
悲しかった。寂しかった。
止めどなく頬を伝い落ちる雫が、スカートに染み込んで消えた。
でも、本当はわかっていた。
私が待ってるあの男の子は来ないってこと。
ずっと前から、わかっていたんだ。
ふと、私を打ち続けていた雨粒がとぎれた。
俯いていた顔を上げると――そこには、お母さんがいた。
お母さんは前かがみになって私に顔を近づけ、差していた傘を私の頭の上に傾けていた。私はもう雨に打たれなくなったけど、代わりにお母さんが雨に濡れていた。
私が何も言えずにいると、お母さんはとても優しく微笑んで言った。
「帰ろっか、名雪」
私はとても悲しくて、本当はこのままこの世界から消えてしまいたかったけど、お母さんが雨に濡れてしまうのは嫌だったから、ゆっくりと立ち上がってお母さんの空いている方の手を握った。
私達はひとつの傘の下で、手をつないで寄り添いながら家に帰った。
――それは夢。
何度も、何度も見た夢。
何度も見たから、それが夢だって、夢の中でわかっていた。
いつからか、わかるようになっていた。
それでも、とても悲しかった。とても心が痛かった。
……でも、どうして？
悲しい夢を見ることはもうないって。
そう思っていたのに。
「……名雪」
小さな声で、誰かが私の名前を呼んだ。
夢は終わったはずなのに。
「名雪」
また。
その声は、私のよく知っている声。
とても優しい声。
私の大好きな――
ダイヤモンド・ダストを抱きしめて
Scene１ ―Silent Blue―
俺は雪山で遭難していた。
吹き付ける猛吹雪に遮られ、視界は最悪。右も左もわかりゃしない。
それでも俺は歩き続けた。それ以外に出来ることなんてなかった。
また一歩足を踏み出し、そして空を見上げる。
どんよりと曇った空が白い雪の隙間から見え隠れし、それがまた憂鬱な気分にさせた。
どこを見ても一面の雪景色。積もっている雪、降っている雪、俺の体にしがみついている雪。
俺はただ前を見据え、足を踏み出す。
と、雪に深く埋まった足が上がらず、前のめりになった体は雪の上に倒れ込んでしまった。
――体が、凍りついたように動かなかった。
うつ伏せで倒れている俺の上に、雪が降り積もっていく。まるで、この世界から俺を消し去ろうとするかのように。
俺は死ぬのだろうか。そう思ったが、いまいち実感もわかないし、恐怖もなかった。感情すら凍りついているのだろうか。
それならそれでいい気もしたが、ただひとつ。それだけがひしひしと俺を責め苛む。
――――寒い。
目を開けたとき、ぼんやりと霞む目に最初に飛び込んで来たのは、青いシーツだった。
倒れていた体を起こし、周りを見回してから、状況の把握に努める。
……ここは俺の部屋だ。
きっちりと閉められたカーテンを通り抜け音もなく忍び込んだ青い闇が、部屋の全てを静かに青く染め上げていた。動くもののないその部屋の中で、目覚し時計だけがチクタクと時を刻み続けている。
どうやら今まで自分は夢を見ていたらしい。それも悪夢。ついでに、そんな夢を見た理由にもすぐに気付いた。
……どうりで寒いはずだ。眠っていた俺の体からは布団が完全にはぎ取られていたのだから。
そして、すべての原因は、その布団にくるまってベッドの隅っこで眠っている――名雪のようだった。
俺は息をのんだ。青いヴェールに包まれた名雪の寝顔は一瞬、見たことのないほど綺麗に見えたから。よく見れば、そこにあるのはいつもの子供っぽい寝顔なんだけど。
何をするでもなくその寝顔を見ていると、だんだんと頭のもやが晴れ、昨日の記憶が思い出されてきた。
――昨日は二年生最後の終業式で、今日から短い春休みが始まったこと。
――通い慣れた病院で、秋子さんの退院日が正式決定したことを聞き、みんなで喜んだこと。
――その帰り道、いつものように百花屋に寄り、名雪に約束のイチゴサンデーをおごったこと。
――その夜、いつもより少しだけ豪華な夕食と、ケーキとシャンパンとキャンドルで名雪と二人、ささやかなパーティーを開いたこと。
―――そして、一つのベッドで、抱き合うように眠ったこと。
そうだった。昨日は名雪と――。
断片的に脳裏に浮かんでくる日常の情景はどれもが幸せで、その幸せが日常であることが何よりも嬉しかった。名雪の寝顔を見ていると、何とも言えない気持ちが俺を包み、自然と頬が緩んだ。 ……しかし、布団を全部持っていくとは。
俺は寒さに震える自分の体を抱きしめた。そんな俺の隣りで、名雪は今も暖かな布団の中で安らかに眠っている。耳をすませば、すぅすぅと穏やかな寝息を聞き取ることができた。そんな名雪に思わずはぁ、とため息がこぼれる。部屋の中だというのに白く色付いたため息が、青い闇に溶けて消えた。
と、そこで名雪が体を動かし、布団からはみ出た手が俺の方へ伸びてきた。俺はなんとなく、そっとその手を取った。触れると、その手はしっとりと汗に濡れていて、まるでさっきまでぎゅっと強く握りしめていたかのように熱かった。名雪を見ると、その口が微かに動く。この静けさの中ですら聞き取れないほどのかすれるような声。
……なにか悪い夢でも見ているのだろうか。
取っていた手を軽く握ると、名雪も握り返してきた。
俺は、このまま放っておくことなんて出来なかった。しかし、だからといってこいつをこんな時間に起こすなんてことがそう簡単に出来るはずはないし、なんで起こしたの？ なんて訊かれたらなんて答えていいかわからない。
……だから。
俺は以前から考えていた下らないことを、やっぱり下らないと思いながらも実行に移すことにした。
「……名雪」
俺は少女の名前をそっと囁くように呼んでみた。
――それは、賭けだ。
もしそれで、それだけで、この眠り姫の目を覚ましてやることが出来たら俺の勝ち。
そんな下らない、賭け。
――半月ほど前、今日みたいに名雪と一緒に朝を迎えた日のこと。
その日目が覚めると、名雪が添い寝するように俺の肩を枕にして、俺の顔を上目遣いで覗きこんでいた。目を開けていきなりどアップの名雪と目があったものだから、俺は一瞬で目が覚め、その勢いで意識が遥か彼方へと飛んでいってしまった。
それはともかく、名雪が俺よりも先に起きている。あり得ないことだった。一体全体どういうことだ？
俺がなかば唖然としながら訊くと、名雪はこう言った。
『祐一が私の名前を呼んだのが聞こえたんだよ』
どうやら俺が寝言で名雪の名前を呼んでしまったらしかった。かなり恥ずかしかった。顔を赤面させながらなんとか弁解しようとする俺を、名雪がおかしそうに笑っていた。
それはこっぱずかしくて忌まわしい、それでいてかけがえのない思い出。
このあまりにも分の悪い賭けを思い付いたのも、それがきっかけだった。
「名雪」
もう一度呼ぶ。今度は少しはっきりと、そして出来る限り優しく。
この声が、夢の中の深い深いところにいるであろう名雪に届いたのなら。それは俺の独りよがりな希望なのかもしれないけれど、俺が名雪にとって、なんていうか、大切な存在として受け入れられているような気がするから。もしそうなら嬉しいから。賭けの報酬なんてそれで十分だ。寝起きの名雪に何を言われるかわからないが、不平でもグチでも甘んじて受けてやろうではないか。
……まあ、これで起きないなら、そんなヤツには悪夢の中で反省してもらおう。
でも、負けたらってことは考えたくなかった。だってそれは――
「……う」
それは……。
「……うぅ、ん」
「名雪……」
名雪は微かに目を開けていた。あわててつないでいた手を離す。
「ふあぁ……ゆう……いち？」
とろんとした目をこすりながら、俺を見る。ふと目と目があい、俺の心臓が跳ね上がった。
「ああ。……おはよう、名雪」
「おはよう……ございます……」
いつもとは何かが違う中で、いつも通りの朝の挨拶を交わす。この静かな部屋では、今も高鳴り続ける胸の鼓動が名雪にも伝わってしまいそうな気がした。
俺はどうやら賭けに勝ったらしい。まさかこれで名雪を起こせるとは。嬉しい反面、妙な恥ずかしさが俺の顔を熱くさせた。
と、名雪が布団から上半身を出して体を起こした。そして、起きぬけの名雪にはどう考えても不似合いなどこか真剣な表情で、じっと俺の顔を見ていた。
「……名雪？」
俺が無意識のうちに呟くと、名雪はやがて雪が溶けるように頬をゆるめて微笑んだ。それからきょろきょろと部屋を見回し、首をかしげる。
「どうした？」
何かに気付いたらしい。訊くと、名雪は首をかしげたまま俺の方を見て訊き返した。
「祐一。いま何時？」
俺は答えず、いつもの場所に置いてあった目覚ましを取り、名雪の目の前に掲げてやった。
「わ、まだこんな時間。どうしたの？ 何かあったの？」
名雪はいつもの名雪だった。
俺はなんだか拍子抜けだった。思いつめたような名雪の表情が、心のどこかに引っ掛かっていたから。本当に嫌な夢でも見てたんじゃないかと、そう思わせる顔だったから。
「………」
とりあえず、気にするのは止めておこう。訊いたところで答えは返って来ないだろうし、もしかすればただ寝ぼけていただけなのかもしれない。
俺はそう安易な結論を出して、気持ちを切り替える。ごちゃごちゃ考えるのはやめておこう。もう今日という一日は始まったのだから。
それでも、さっきの名雪の瞳が頭にこびり付いて離れなかったが。
「いや、なんでもない。ちょっと雪山で遭難しかかっただけだ」
そんな皮肉に気付くはずもなく、名雪は『？』を浮かべていた。
「しかし、名雪がこんな時間に起きるとは。これは奇跡だな。秋子さんが見たらびっくりするぞ」
「もう。祐一が起こしたんだよ？」
「まあ、そうなんだけど。でもまさか起きるとは思わなかったんだ」
名雪は、
「祐一はいつも勝手だよね」
とため息をひとつ。どうやらそれで納得したらしい。
「……なんかね」
「ん？」
ふいにトーンを落としたその声は、どこか儚げで切ない響き。小さな声を聞き漏らさないように耳をすませる。
「さっきの祐一の声、あの目覚ましの声とおんなじ感じがした」
「………」
『あの目覚まし』
その単語を聞いた瞬間、俺の体を恥ずかしさやら照れくささやらなにやらが駆け回り、ムズムズする体中をかきむしりたくなった。とりあえず、二度とこんなことはしない、と誓った。
「優しい感じがした。……あったかい感じがしたよ」
俯いて、微笑む。それはとても優しい笑顔だった。そんな表情で、名雪は布団を胸元に引き寄せ、ぎゅっと握りしめた。
……その表情は反則だ。俺は愛しさに胸を締め付けられるような気持ちになり、いつの間にか寒さすら忘れて、名雪に目が釘付けになっていた。
「ところで祐一、ひとつ訊いていい？」
突然さっきまでの儚げな雰囲気が息をひそめ、いつもの名雪の口調に戻った。
「……なんだ？」
「寒くない？」
……こ、こいつは。
「わかってるんなら布団返せ」
「でも、それだと私が寒いよ。はい」
独り占めしていた布団の端を持ち上げて隙間を開けた。どうやら入って来いということらしい。
「……いい」
俺は首を横に振った。朝の名雪に振り回されるのはいつものことだったが、いまの名雪は明らかに何かが違う。このまま名雪のペースにはまるのは危険な気がした。もう十分振り回されている気もするが。
いや、本当はただ恥ずかしかっただけなのかもしれない。そんなこと、特別でも何でもなくなっていたはずなのに。
「どうして？ 寒いよ？」
「いいから。まだ眠いだろ？ 寝直せよ」
「また勝手なこと言ってる。自分で起こしたくせに」
「いいから」
「でも、なんだか目が冴えちゃって。もうあんまり眠くないよ」
「……眠くない。名雪が言うとこれほど不気味な言葉はないな」
「ひどいこと言ってる……」
「いいからさっさと寝ろ。俺は下に行っててやるから」
言って、ベッドから降りようとする。
「……じゃあ、祐一がキスして起こしてくれるって言うなら寝るよ」
「はあ？」
いきなり突拍子のないことを言い出す名雪。
……ほんと、今朝はやけにテンション高いよな、こいつ。
「あのね、お姫様は王子様のキスで目を覚ますんだよ」
「誰がお姫様で誰が王子様だ」
「私がお姫様で、祐一が王子様」
笑顔で言う。なにやら楽しそうだ。
しかし、キスだって？ で、俺が王子様ときたもんだ。
笑うところじゃ……ないよな、やっぱり。
「しない」
とりあえず、きっぱり言い切ってやった。
「う〜」
いつからかふたりの間では、恋人という関係とかキスをすることなんかがある種『当たり前』のことになって来ていたけど、今ここには確かに『特別』が存在しているから。だから俺はこんなとまどいを覚えているのかもしれない。
残念そうに俯いている名雪の顔に苦笑し、せっかくだししてもいいかな、なんて思っていると、また俺の頭に住んでいる天邪鬼が、いらぬ知恵を授けていくのだった。
「よし、いいぞ名雪。目覚めのキスだろうが人工呼吸だろうがしてやろうじゃないか」
「え、ほんと？」
何も知らずに嬉しそうな顔をこちらに向ける。
「ああ。でもな、お姫様。そのためにはまず毒リンゴを食ってもらわないといけないんだ」
「ないよ。そんなもの」
「ふっふっふ。いや、あるぞ。リンゴじゃないが、似たようなモノがこの家にはな」
不敵な笑いでそう言って立ち上がろうとすると、名雪が「あっ」と俺の腕をものすごい勢いで掴んだ。
「祐一、極悪人だよ」
本気で嫌そうだ。当然のことだったが。
秋子さんが家を空けてから早二ヶ月。その間に『アレ』が一体どのような変化、いや、進化を遂げたのか。想像するだけで…………お、恐ろしい……。
「もう……」
名雪がまたため息をつき、俺もまた苦笑しながらベッドに座りなおす。
「なんだ、せっかくリクエストにお応えしようと思ったのに」
「そんなのしてないよ。はぁ、いいよ、もう」
名雪はため息混じりにそう言うと、近くにあったカーテンを少しめくって視線を窓の外に送った。拗ねたようにぷいっと背けた横顔にはなぜか笑顔が浮かんでいた。
外の景色をじっと食い入るように見ていた名雪が、俺の方を向き口を開いた。
「ね、祐一。外、出てみない？」
「外？ ああ、ベランダか」
そういえば、最近ベランダに出ることもなくなっていた。あの場所の寒さを思い出すと、冷め切った体がぶるっと震えた。
「違うよ。外。家の外だよ。お散歩に行くの」
「はぁ？」
「行こうよ。きっと気持ちいいよ」
またもや突拍子のないことを平然と言う名雪。いまさら驚く気にもならなかったが、だからといって素直にイエスと言う気は俺にはなかった。
「俺は寒いことに快感を覚えるような、いろんな意味で危ない趣味はない」
「そんなのわたしだってないよ。でも、ほら、行こうよ。ね？」
「いやだ。寒い。死ぬ」
「……もう。じゃあ、はいっ」
名雪は突然ベッドの上で立ち上がると、今までさんざん抱きしめていた布団をばさっと俺の頭に放り投げた。暗闇と温もりと息苦しさが一挙に襲い掛かってきて、布団の中で俺はあたふたしてしまう。俺がなんとかそこから顔を出すと、名雪はいつの間にかドアの前にいて「行こ？」 と微笑みを残して部屋から出て行ってしまった。
「……なんなんだ、いったい」
俺はとりあえず、名雪の匂いと温もりの染み込んだ布団を抱きしめた。
……それは本当に、とても暖かかった。
名雪のほうが準備に時間がかかるだろうと、しばらく布団の中で体を温めてから、横着して布団の中でもぞもぞと着替えを済ませた。そしてまた布団を抱きしめる。
……はぁ。……しあわせ。
寝入ってしまわないように気をつけながらしばらくそうしていると、隣りの部屋のドアが開く音が聞こえた。名残惜しいが暖かな布団に別れを告げ立ち上がると、とたんに体が冷めていく。壁に引っ掛けてあったパーカーを取り、袖を通しながらドアを開けるとそこには予想通り名雪の姿。いつもの白いコートも青く染まっていた。
「行こっか」
静かにそう言って歩き出す名雪に続いて俺も階段を下りた。
玄関の電気を点け、靴を履く。鈍い名雪よりも先に履き終え、ドアを開けて――閉めた。
「……名雪」
「どうしたの？」
そのいたずらっぽい笑顔を見て、俺は確信した。
「お前、知ってたろ」
靴を履き終えていた名雪は、俺の横をすり抜けてドアを開け、外を見て言った。
「あ、雪降ってるね」
「雪降ってるね、じゃねえだろ。まったく、どうりで寒いはずだよな」
そう。雪が、数日ぶりの雪が降っていた。
「祐一、行こうよ」
名雪がドアに手をかけたまま、悪びれもせずに言う。
「なんでこんな雪が降ってる中を散歩しなきゃならんのだ」
さっき外を眺めていた名雪は当然この雪に気付き、それでこんな時間に散歩だなんて言い出したのだろう。
「だって、嬉しかったんだもん」
雪が降らなくなったのを、名雪が残念そうにしていたことを思い出す。この街にもやっと春の風が吹き始めていたから。今だって、雪が降っているといっても、控え目にはらはらと舞い降りているといった感じだ。
「名雪が早起きなんてするから雪が降ってるんだ」
「そんなわけないよ」
「いや。名雪が早起きしなけりゃ、きっと寝ている間に雪が止んで、こんな寒い目にあうこともなかったんだ」
「え？ そ、そうなのかな」
「そうなのだ」
「でも、早起きは三文の得なんだよ」
「……で、俺がその三文を払ってやらなきゃならないってわけか？」
「うんっ。得したよ〜」
「………」
どうやらというか、やはりというか。俺はこいつに勝てるはずなんてないのだ。勝とうだなんて、本気で思うことが俺にはできないのだから。だから、俺の負け。
「わかったよ。ったく」
そう肩をすくめて見せる。
ここまで来て引き返すのもバカバカしいし、雪を見て無邪気に喜んでいる名雪を見ていると、つい唇の端が上がってしまうのだった。
ドアを開けて二人で外に出ると、そこに広がるのは青く染まった雪景色。雲に覆われた空が、朝もやにけむる街並みが、そして今も静かに街を彩り続けている雪が。全てが、青一色のグラデーションで描かれた名画のようだった。見慣れたはずの景色の中で、見知らぬ世界へと迷い込んでしまったような錯覚さえ覚えた。
「空気が清々しいね」
そう言いながら、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
「あんまり吸うと肺が凍るぞ」
人気のない街に、冷め切った空気。精神的にも肉体的にもただただ寒い。
「ほら、祐一も深呼吸。気持ちいいよ〜」
ラジオ体操だいいちー、ってか？
「……はぁ〜」
とりあえず深〜くため息をついた。
名雪はもう一度、今度は大きく腕を広げ、胸を反らして息を吸う。
「……綺麗だね」
空を向いたままの体勢で止まり、呟くように言った。
「あの空の青さが、ここまで届いてるみたい」
俺も見上げると、空は曇っているが、目を凝らしてよく見ると朝もやと雪のずっとむこうに青い空が見てとれた。変な天気だった。まるであの分厚そうな雪雲が、この街だけを覆っているような、そして名雪の、いや、俺達だけのためにこの雪を降らせてくれているような気がした。
「……なかなかロマンチックなこと言うな」
名雪を見ると、いつの間にか雪が少しだけ名雪のコートと頭の上に積もっていた。
「大丈夫か？ 全身雪まみれになりそうだぞ」
「平気だよ、これくらいなら」
名雪が手のひらを開いて差し出すと、そこに舞い降りるひとひらの雪。
「そうか。ま、そのうち止むかもしれないしな」
俺も手を差し出すと、雪は俺の手をはずれ、ひらひらと落ちていく。俺はその雪をさっと掴んだ。
「うん。もう春だもんね。……でも、雪が降らなくなっちゃうのは、やっぱりちょっと寂しいね」
手を開くと、そこには水がひとしずく。
「……そうかもしれないな」
新しい冬が来るまで、雪が降るのを見ることも、こうして雪の中を歩くことも、もうないのかもしれない。そう思うと、今こうして二人で雪を見ていられるのが嬉しくて、こんな時間に、こんな場所にいるのも悪くないと思えた。
「それじゃ、行きますか」
俺はそう言って、名雪の頭に微かに積もった雪を払ってやった。名雪は目を細めてくすぐったそうな顔をする。その顔はなんとなく、猫を連想させた。
「ったく、猫はこたつで丸くなってろっての」
「わたし猫さんじゃないもん。なりたいって思ったことならあるけど。それより、祐一」
「ん？」
「走ろうよ」
「言うと思った。まあ、そうだな。そのほうが確かに温まるな」
頷き合い、二人並んで走り出す。
いつもなら時間が追いかけてくるところだけど、今日は優しく俺達の背中を見送ってくれた。
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