Scene２ ―Accidents Will Happen―
「ねえ、祐一」
普段よりもいくらかスローペースなジョギングを続けながら、雪に飾られた街並みを見送っていると、ふいに名雪が言った。
「雪、綺麗だよね」
「否定はしないけど、いいかげんもう見飽きた」
「……雪、綺麗だよ」
俺の素直な感想に満足できないらしく、笑顔がしぼんだ。
「知ってるだろ？ 俺は飽きっぽいんだよ。名雪はずっと見てて見飽きたりしないのか？」
「しないよ。だって、こんなに綺麗なんだから」
「少々ボリューム不足だと思うけどな」
「……そうかもしれないね。でも、贅沢は言わないよ」
名雪が走りながら空を見上げる。
「なんだそりゃ」
「三文だからね」
顔の下半分だけで笑顔を作る。
そのとき、一台のバイクがエンジン音を響かせながら俺達の横を、そう速くないスピードで通り過ぎていった。運転手の目がヘルメットの向こうで俺達を興味深げに見ていた気がした。
遠くなっていく騒音を背に、意識をオートバイから戻して、俺は口を開く。
「ま、綺麗なのは認めるよ。俺としてはこれでもっと暖かかったら言うことないんだけど」
「……暖かかったら、雨になっちゃうよ」
表情がいっそう暗くなった。
「名雪は雨、嫌いなのか？」
「……そうだね。あんまり好きじゃない、かな」
どこか辛そうな、なにか訊かれたくないことを訊かれたような表情だった。
「どうして――」
――そんな顔をするんだ？
つい口から出そうになった台詞を途中で止めた。
名雪は少し黙って、
「……雨は、濡れちゃうから。それに、雨を見てるとね……なんだか悲しくなっちゃうから」
俺の口からこぼれただけの問いに答えてくれた。
「………」
「だから、わたしは雨よりも、雪のほうが好きだよ」
そう言って、名雪は笑った。少しだけ。
俺は空を見上げた。
曇った薄暗い空は白み始め、さっきよりも少し明るくなったようだ。
そして、そこから降る雪はさっきと何も変わらず、静かに降り続いている。
「……でも、雪だって濡れるだろ」
「大丈夫だよ、こうすれば」
そう言うと名雪は俺の頭の上に手を伸ばし、そこに積もっているであろう雪を払おうとした。しかし、俺のほうが背が高いのと、走りながらだったのがわざわいして、パッパッと払った後、バシッと俺の額がはたかれた。痛みはなかったが、突然の衝撃に視界が一瞬歪んだ。
「あっ、ごめん祐一っ。大丈夫？」
「……ああ。大丈夫だ。大丈夫……なんだろ？こうすれば」
髪の毛に触れてみると、名雪が払ってくれたおかげなのか、それとも俺が不意打ちに体勢を崩したせいなのか、そこにはほとんど雪は残っていなかった。
「うぅ、ごめんね」
名雪は落ち込んだ表情。
「いいよ。気にすんな」
俺はそう言って、そんな名雪に今日何度目かの苦笑。
そこでいつもの分かれ道に突き当たった。
名雪が足を止めたので、俺もそれに習う。
左に行けば学校が、右に行けば商店街や駅がある。
「どっちに行くんだ？」
毎日のように通るこのＴ字路で、どちらに行くか迷ったのはこれが初めてかもしれない。
「……祐一は？」
「今日は名雪に任せるよ」
名雪がきょろきょろと左右の道を見比べて、
「じゃあ、こっち」
右の道を走り出した。
「そういや、俺がこっち来てから、まだ雨降ってないよな」
今も微かに残る悲しい表情が気になって、話を戻した。できればその悲しみを消し去ってやりたいと思って。
「え？ あ……そうだね。ずっと雪だったもんね」
「そのうち降るんだろうな」
「そのうち、ね」
そう言うと名雪は黙って、何かを考えていた。そして俺の方を向いて微笑んだ。
「雨が降ったら、いっしょに街、歩こうね」
「ああ。でも、こんなふうに傘も差さずに濡れるなんて馬鹿な真似はごめんこうむりたいけどな」
「わたしは構わないよ」
「馬鹿だから？」
「違う〜」
「どうだか」
「もうっ」
そう言ったちょっぴり怒った表情が、優しい笑顔に変わっていく。そして、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「祐一と一緒なら、雨に濡れるのだってきっといい思い出になると思うよ」
「それはいいけど、べつに濡れなくてもいいだろ」
「……じゃあ、相合い傘だね」
「そんなこっぱずかしいまね出来るか」
「相合い傘で、歩こうね」
名雪は俺の抗議なんてどこ吹く風で笑っていた。その笑顔に悲しみを見つけることなんて誰にも出来ないだろう。
「……わかったよ」
これでいいんだよな。
「やった〜」
「そんなことでいちいち喜ぶなって」
俺もつられて笑っていた。名雪の力になってやれた気がして、どうしようもなく嬉しかった。
「ね、祐一。もしかしたら、わたし雨が好きになれるかもしれないよ」
「ああ、それがいい。雨なんてどうしたって降るんだから、好きになれればそれが一番だ」
「そうだね。そう思ったら、なんだか雨が降るのが待ち遠しくなっちゃったよ」
「ははっ。それでも、名雪はやっぱ雪のほうが好きなんだろ？」
「うんっ。だって、」
笑顔が咲いた。
「こ〜んなに、綺麗なんだからっ」
名雪はそう言いながら、腕を左右に広げ、俺の横でくるくると踊りだした。長い髪がふわりと舞い上がり、名雪の体を追いかけるように流れて円を描く。それはワルツを踊るように優雅に、降り続く雪の全てを全身で受け止めようとするように優しく。そしてとても楽しそうに、嬉しそうに。そのまま軽快なステップで踊りながら、器用に走り続ける俺の横をついてく――
「きゃっ！」
「って、うおっ！？」
足をもつれさせバランスを崩した名雪が、俺のほうに倒れ込んでくる。
「くっ！」
とっさに俺は足を止め、その体を抱きとめようとする。
「わっ、わっ」
腕に名雪の体重がかかった。全身に力をこめる。
名雪の体重のほとんどが俺に任され、体がぐらついた。
「っ！！」
足を踏ん張る。
「ゆ、ゆうい――」
名雪の背中に手をまわして、力いっぱい細い体を支える。
そして、時間が止まった。
俺は、名雪を抱きしめていた。手足が痺れたように動かないから、しばらくそうしていた。
やがて、凍った時が溶け出して、名雪の髪の毛が俺の鼻をくすぐった。名雪は俺の腕の中で、俺に体重を預けたままでじっとしている。パーカーに顔をうずめた名雪の表情は、俺からは見えなかった。
体は凍ったように動かなかったけど、頭の中では相沢コンピュータがフル稼働していた。
体細いよなーとか、いい匂いだなーとか、なんか柔らかいなーとか、やらしいこと考えてんじゃねえよ俺！とか、何やってるんだろうなーとか、その他いろいろ。
「……重い」
でもそんな状況で俺の口から出たのは、そんな言葉だった。……我ながら情けない。
「しっ、失礼だよ祐一！」
「冗談だよ。でも、お前って不器用だよな」
「うぅ……」
「運動神経、ゆるんでるんじゃないか？」
「うう〜」
「いいかげんどいてくれないと、体力の限界だぞ」
「いいかげん放してくれないと、離れられないよ」
「………」
思わぬカウンターをくらい、俺は無言で腕から力を抜いた。名雪がゆっくりと、俺から離れる。
そして、目が合う。
どちらからともなく、笑顔がこぼれる。
俺達はひとしきり、声をころして笑いあった。
しばらく笑って、こみ上げてくるものが収まると、ふと名雪の視線が俺から外れた。
「あ……。祐一」
じーっとどこか一点を見つめたままで呟いた名雪の瞳が、なぜか潤んでいた。
「どうした？」
「猫さんがいるよ……」
「さてそろそろ行こうかそれとも帰って朝シャンなんかもいいかもな名雪朝シャンなんてしたことないんじゃないか？ 気持ちいいぞーということで行くぞ名雪」
一気にまくし立て、歩き出そうとする。
「猫さん、可愛いよ〜」
聞いちゃいねえし。
「猫さん、猫さん〜」
「待ていっ」
猫にまっしぐらモードの名雪がすっ飛んでいこうとするのを、コートのえり首を引っ掴んで止める。
「あっ、放して。祐一、放して〜」
名雪が向かおうとしている先を見ると、なるほど、闇にまぎれるような黒猫が一匹、しっぽをピンと立て、こちらをじっと見つめているのに気付いた。あのまま走っていれば恐らく気付きはしなかっただろう。
朝っぱらから不吉だった。すでに十分厄日だったが。
「……ったく、猫はこたつで丸くなってろっての」
「猫さん〜」
「ああ、もう。じっとしてろっ」
「ねこー、ねこー」
そんな感じでしばらくもみ合っていると、やがて黒猫の方が俺達に興味をなくしたのか、とてとてと歩き出し、すぐにその姿は闇に消えてしまった。
「あ……。猫さん、行っちゃった……」
「よし、危機は去った。今度こそ行くぞ名雪」
「あ、待ってよ祐一」
さっきの猫がまた姿を見せないうちにここから立ち去るのが得策だろう。そう思い走り出した俺に、名雪も後ろ髪を引かれるようにしながらもちゃんとついて来た。
「はあ……」
走りながらも名雪は残念そうにため息をついていた。
「せっかく猫さんに会えたのに、祐一のせいでまたお友達になれなかったよ」
抗議の視線を投げかけてくる。
「やめとけ。猫ってのは孤高なんだよ。お前みたいなのに構ってる暇はないんだ」
「……でも、祐一がジャマしなかったらきっとなれるよ」
「無理だな。あきらめろ」
どうして？ と訊く名雪はひどく落ち込んだ口調。
「わたしもうずっと猫さんにさわってないし、もしかしたら治ってるかもしれないよ」
「んなわけないだろ。やめとけって」
「………」
沈黙が訪れ、俺達の足音だけが一定のリズムで聞こえてくる。
先に沈黙を破ったのは名雪だった。
「ねえ。どうして祐一、そんなにムキになってジャマするの？」
……ムキになってる？ 俺が？
「別にムキになってなんかない」
「そうかな？」
「そうだ」
名雪は寂しそうな、おかしそうな複雑な表情で微笑むと、上目遣いで俺の顔を見つめてきた。
「じゃあ、どうしてジャマするの？ 放っておいてくれてもいいのに」
その表情に、その声に、俺は言いようのない不思議な、そして暖かな気持ちを覚えた。
――だから、だろうか。
「名雪の泣いてる顔なんて、見たくないからな」
そんなことを、言ってしまったのは――。
「え……」
「………」
名雪が足を止めた。俺もそうした。
またも不意に訪れた沈黙に耐えられなくなって、俺は無理やり口を開いた。
「行くぞ名雪っ」
背を向け、止まっていた足を踏み出す。その声は自分でも分かるほど、ぶっきらぼうで照れが入っているのがバレバレだった。
「……祐一」
走り出した俺を引き止めるように、名雪が俺の名前を呼んだ。つい足を止め、振り向いてしまう自分がいる。
「どうした、いこうぜ名雪」
見ると、名雪は俺ではなくどこか別の所に視線を向けていた。
「どうした？」
近づいてからもう一度訊ねた。
「猫さんがいるよ」
「………」
……こっ、こいつはっ！！
俺はいきなり、両手でぐにっと名雪の頬を掴んだ。
「い、いはいおうういひ〜」
なに？ オハイオ州行き？ 誰が？
何やら理解不能の言語を発するが、冷酷な意思をもって黙殺する。そして、
「お、ま、え、っ、て、や、つ、はーっ！！」
たてたてよこよこまるかいてちょーん！！
「ん、ん、ん〜っっ！」
名雪が声にならない悲鳴を上げる。
「うぅ……ひどいよ祐一」
上下左右にさんざん引っ張り回してから放してやると、名雪が両手で頬をさすりながら涙目で抗議してくる。
「わたしが、何したっていうの……？」
頬っぺたすりすり。
「しようとしてたんじゃないか」
名雪が見ていた方を見ると、いつからそこにいたのか、不吉な黒猫。多分さっきのやつだろう。
――って、なんでいるんだよ。
「そんなことないよ」
「ほんとかよ」
猫がにゃ〜んと鳴いた。
「……祐一、行ってもいいかな」
「もう一回、お見舞いされたいようだな」
俺が指をわきわきさせると、名雪はあわてて頬に手をやって、
「だ、大丈夫だよ。近づいて、見てるだけでいいから」
「信用できるか」
「大丈夫だよ」
そう言って笑った名雪。俺がどうしても勝てない笑顔で。
「……わかったよ」
どっと疲れが押し寄せてきた。さっきの俺の台詞は、いったいどこに行ってしまったんだ？
「信じてやるから、馬鹿なまねはするなよ」
「うんっ」
そんな俺の気持ちを知っているのかいないのか。呆れ顔の俺に、名雪はとびっきりの笑顔を見せてくれた。
「もちろんだよっ」
って。
猫を刺激しないように、足音を忍ばせてゆっくりと近づいていく。
「猫さん、猫さん」
名雪は本当に嬉しそうだ。あんまり近づきすぎんなよ、と一応釘をさしておく。
また一歩近づく。
こんなもんだろうか。猫までだいたい３メートルほど。どこまでが許容範囲かわからないが、結構近い。名雪に特に変化はないが、ここで足を止める。名雪も何も言わず立ち止まった。
熱いまなざしで名雪が猫に話しかけた。
「おはよう、ジジ」
「……やめてくれ、ほんとに喋り出しそうだ」
「ふふ。いいんだよ、喋っても」
名雪はこの上なく幸せそうに猫を見つめたまま、ゆっくりとしゃがんだ。
「可愛いね、祐一」
「あ、ああ」
そう言われ、俺は初めて黒猫をじっくり観察した。
「可愛い……のか？」
猫はなんていうか、黒い。どっちかというと怖い。怪しい。
「うんっ。かわい〜」
まあ、名雪も喜んでいることだし、これでいいか。
猫がまたにゃ〜んと鳴いた。
「にゃ〜ん。ふふっ」
名雪も鳴いた。
それからしばらく猫と名雪のアイコンタクトは続いた。もしかしたら色々と通じ合うものがあるのかもしれない。
しかし変な猫だ。こんなに近づいても逃げる素振りすら見せない。もののけのたぐいだろうか。
俺はやることもなく、なんとなく、ふ〜、とため息をついてみる。そろそろ体が冷えてきた。
と、まるでそのため息が合図であるかのように、猫が背をむけて歩き出した。
「あ……」
「……そろそろ行くか？」
猫は普段俺達が通ることのない脇道へと歩いていく。
名雪は立ち上がり、残念そうな顔で猫を見送る――かと思いきや、猫が消えていく方へと歩き出した。
「おい、名雪」
俺が止めようとすると、名雪は振り返って、
「大丈夫。もしかしたら猫の国に連れて行ってくれるのかもしれないよ」
と俺に微笑んで、猫の後を追う。いまさら止めることなど出来るはずがなかった。
「……ついて行きますとも、どこまでも」
俺も歩き出す。名雪の背中を追って。
先頭を行く黒猫、いくらか距離をあけてそれを追う名雪、そしてまた距離をあけてしんがりをつとめる俺。人気のない小道の静寂を崩さないように、ただ黙々と歩き続ける。気まぐれなリーダーが曲がり道に消えていくたび、何度も名雪が足を速めてその姿を確認していた。
俺がいるところからではほとんど猫は見えないが、名雪の様子を見ていると、猫はその姿をくらませてはいないようだ。それはまるで俺達をどこかに導いているかのようにも思える。名雪が言うように、気がついたら猫の国、なんてこともあるのかもしれない。
「……まさかな」
そう。そんなこと、あるはずない。でも、猫を視線で愛でるしかない名雪の表情を思い出すと、そんな奇跡がこの道の向こうに用意されていてもいいんじゃないかと思える。神様でも猫の王様でもなんでもいい、あの無邪気な少女のために小さな奇跡を起こしてくれてもいいじゃないか。そう願わずにいられなかった。
と、猫がまた道を変えたらしく、名雪が小走りになって、薄汚れた白い建物のむこうへと姿を消した。俺はそのまま歩き続ける。名雪は名雪なりに俺の言い付けを守っているらしく、猫との距離を詰めることはなかった。猫を見失うことはあっても名雪を見失うことはないだろう。……たぶん。……あ、やっぱり自信なくなってきた。
俺は自然と早足になり、名雪の姿を追っていた。
そしてその道を曲がった時、俺が見たのは、立ちつくす名雪と――
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