その朝
夢を見ていたはずだった。
しかし、目を覚ましたときには、その内容は蒸発していた。
天野美汐は、布団の中で首だけを動かした。
ベッドの手すりにぶら下げてある、小さな目覚まし時計を見る。
アラームが鳴る２分前。
前夜はなかなか寝つけなかったのだが、目覚めの時刻はいつもと同じだった。
一つ小さなため息をつく。
目覚ましを止め、もぞもぞと起き出した。
ゆっくりと梯子を下りる。
まだ新しい二段ベッド。
下段は、畳んだ布団が風呂敷に包まれていて、寒々しく見えた。
目をそらす。
美汐は、カーテンを開けた。
灰色の空と、白い屋根。
寝る頃チラチラしていた雪は、既に止んでいた。
ヒーターのスイッチを入れ、鏡の前に座る。
愛用のブラシを手に取った。
髪にクセがあるので、毎日丹念にブラッシングしている。
家族からは、まるで毛繕いのようだとからかわれていたが、美汐は気にしていなかった。
毛繕いという言葉にだけは、僅かな引っかかりを覚えたが。
今朝も丁寧にブラシを動かしていたが、ふと手が止まった。
窓の外で、動物の鳴き声が聞こえたのだ。
頭では、すぐに、隣の家の飼い犬だとわかった。
が、止まった手は動き出さない。
数秒後。
美汐は、思い出を振り払うように頭を振る。
それからブラッシングを再開した。
着替えてから食堂に降り、家族と挨拶を交わす。
テーブルには既に、家族全員分の朝食が整えられていた。
ご飯と味噌汁、メインの皿の上には玉子焼き。
玉子焼きは、こんがりきつね色に輝いていた。
美汐は何となく目をそらす。
そらした視線が、食器棚に向かいそうになった。
意志の力でそれを押さえる。
食卓に着いた。
食前の挨拶をして、まず味噌汁の椀を手に取る。
中の実は、千六本に切った大根と、油揚げだった。
美汐の眉が少し曇る。
その時、また外で犬が鳴いた。
反射的に、つい食器棚を見てしまう。
そこには、一人分の食器がぽつんと残されていた。
ベッドの下段に置いてある布団と同じ。
かつて、この家の一員だった者が、使っていた物だ。
いつか帰ってくると、他の家族は思っているようだった。
しかし美汐は、それが間違いであることを知っていた。
急速に食欲が減退していく。
親が、心配そうな顔で話しかけてきた。
あわてて美汐は、機械的に食物を口に運ぶ。
味などはわからなかった。
靴を履いた。
玄関のドアを開ける。
見上げれば、一面の雲。
気持ちまで滅入ってしまいそうな空だ。
美汐は親に一声かけてから、歩き出した。
さく、さく、さく、さく。
雪の積もった道を、ゆっくり着実に歩く。
その姿は、何か深刻な考え事をしながら歩いているように見えた。
しかし、実際には、何も考えていないのと同じようなものだった。
自動的に、左右の足を交互に前に出しているだけだ。
数分間は、そのまま歩いていた。
が、美汐は不意に気づいて立ち止まった。
いつの間にか、通学路から外れている。
美汐は目を閉じた。
遠くに、ものみの丘が見えてしまったのだ。
どうしたわけか、丘に通じる道を辿っていたようだ。
いま、そんなところに向かうつもりはなかった。
唇を噛みしめる。
戻ることにした。
今日はちゃんと、学校に行くのだ。
美汐は目を開いた。
その瞬間。
遠い、白い、雪のものみの丘に。
高い、灰色の、曇り空を切り裂いて。
きつね色の朝日が一筋さした。
「！」
美汐は、その光景に目を奪われる。
しかし雲は、すぐに太陽を再び覆い隠してしまった。
そこには、元通りの、灰色の空とくすんだ雪の丘があるだけだった。
いや。
本当に、元通りだろうか？
鞄を持つ手に、力が入った。
制服のスカートをひるがえし、いま来た道を早足で戻る。
見るからに、一心不乱に歩いていた。
歩く。
歩く。
登校中の生徒たちの、流れを追い越すように歩く。
学校が見えてきた。
美汐の口元が引き締まる。
そのまま、学校の前を通り過ぎた。
さらに歩く。
歩く。
登校中の生徒たちの、流れに逆らって歩く。
前方から向かって来る生徒たちが、怪訝な顔で見る。
美汐は歩調を緩めなかった。
やがて、生徒たちとすれ違うこともなくなる。
人通りの途絶えたあたりで、足を止めた。
ここで待つことに決めたのだ。
遅刻しそうなのか、一人の生徒が小走りにやって来る。
道端に佇んでいる美汐を見て、少し首を傾げた。
ちらっと視線を送りながら、走り去っていく。
美汐はそれを気にすることなく、待った。
ただひたすらに待ち続けた。
冷たい風が、白い吐息を運んでいく。
時計は見なかった。
やがて、男女二人連れがゆっくりと歩いて来る。
私服姿の男子高校生と、それより年下に見える女の子。
男の子は女の子を、かばうように、支えるように、歩いていた。
目当ての人物だ。
向こうも気づいたらしい。
男の子が、先に声をかけてきた。
「さぼりかい、お互いデキが悪いな」
冗談めかした言葉だ。
声の中に、澄んだ明るさが感じられた。
美汐の目の前が晴れ渡った。
「この機会を見過ごすほうが、人としては不出来でしょう」
応えた声も、これまでより少し明るかったかもしれない。
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