某月某日。
水瀬家のエアコンが、全部壊れた。
「栞……あゆ……今そっちに行くからな……」
（私はまだ死んでませんっ）
（ボクも死んでないよっ）
どこかから幻聴が聞こえる。
本気でやばい。
そう思った、夏の日のこと。
残暑お見舞い申し上げます！？
はしっ。
「……ん？」
少しでも体内の熱を逃がそうと、部屋のフローリングに寝そべっているとき。
不意に、腕に何かの感触があった。
「気持ちいい」
「……なんだ、名雪か」
そちらを見ると、名雪が隣で俺と同じように寝転がっている。何故か俺の腕に捕まって。
「暑いだろ……離れろよ」
「だって、空気より冷たいんだもん」
「マジか……」
室温は、少なくとも３７度以上はありそうだった。
それにしても、と名雪の姿を見る。
薄手のＴシャツにジーンズ地の短パンという、あられもない格好だった。
「……暑くて変な気も起きないけどな」
「何の話……？」
「気にするな」
「そうする……」
寒さには滅法強い名雪も、この暑さには参っているようだ。無気力なこと甚だしい。
「それは俺もか……」
「…………」
みーんみーんみーんみんみんみん……
人さえも葬ってしまいそうな陽射しの下。外では、七年間地中で過ごし、やっとのことで表に出た蝉たちが、競い合うようにして泣き喚いていた。
無理も無い。
このままでは、子孫を残す前に、暑さで力尽きて、土になりかねないのだ。地中での数年が、まるっきりの無駄になってしまう。
「…………」
だからと言って俺も子孫を残したいと思うかというと、とんでもない。
これ以上暑くなるのは御免だ。
「それに、最後までイク前に倒れそうだからな……」
「……なにかえっちな響き」
「起きてたのか……どうでもいいけど」
しばらく全く反応が無かったから、とっくに寝てるか逝くかしてるかと思っていた。
「……ひどいよ、祐一」
突っ込みも覇気が無いが、一応誤魔化してみる。
「……寒の戻りがあるのに、暑の戻りがないのはなんでだろうな……」
「無くていいよ……」
「…………」
同感だった。
「仕方ない、ここは外に避難するか……」
「うー……外は熱いよ……？」
考えただけで暑くなったのか、名雪が顔を顰めた。俺も顰めた。
熱いじゃなくて暑いだろ、という突っ込みもできなかった。間違ってないような気もするし。
「外のエアコンのある場所だ。ここから一番近くて涼しいところはどこだ？」
「……商店街のコンビニまで行かないと、ダメかなあ……」
「…………」
ここからコンビニまでの道筋を頭の中でシミュレートしてみる。
「…………」
路上で仲良く倒れているふたりの姿が、容易に想像できた。
というか、玄関のドアを開けても、外に足を踏み出すことなく閉めてしまいそうだった。
「……それに、コンビニにずっと居座るわけにも……」
「それもそうだな……」
昨今の無気力な若者みたいに、コンビニの床に座り込んで雑誌を読んだりなどといった、恥ずかしい真似はしたくない。
時計を見る。午後２時。一日の中で、一番暑さが絶好調になる時間帯だった。
夜になれば、少しはましになるだろうか。
「夜ッ！ 夜はまだかッ！」
「……祐一、暑い」
「……悪い」
自分も暑かったので、素直に謝る。
「そういや、そこに川が流れてたな……あそこって泳げるのか？」
ふと思いついて、名雪に聞いてみる。
「うーん……きたないと思うよ？」
「そうか……」
水の中にでも入れば、少しはマシになるかと思ったんだが。
「名雪……氷でも持ってきてくれ」
「……お昼にそうめん食べたときに、全部使っちゃったよ……」
「ぐは……」
言われてみれば、氷がすぐに溶けて、その度につけたすものだから、やたらと水っぽいそうめんだったような気がする。
「アイスの買い置きでもないか……？」
「ダメだよ……あれはお風呂上がりに食べるんだから……」
「…………」
こだわりがあるらしい。
「風呂か……水風呂でも入れば、少しはラクになるかな……」
「……いい忘れてたけど、お風呂の水道壊れてて、お湯しか出ないよ」
「ぐぁ……」
この世には神も仏もないことに今気づいた。
「エアコンでも水道でも……修理屋はいつくるんだ？」
「どっちも忙しいらしくて……早くても明日だって」
生きて明日の朝日を拝めるだろうか。
「……あれ？」
「どうした？」
「入道雲のかたちが変わって……ちょっとだけお日様が隠れたみたい」
『お日様』じゃなくて『太陽のクソ野郎』で十分だと思ったが、言わないでおく。
機嫌を損ねて、冬に出てきてくれなくなると、困るし。
どちらにしても、これはチャンスだ。
「やっぱり今のうちに、外に避難するか……コンビニ以外で、ここから一番近いのは香里の家だな……」
「……香里の家に、涼みに行くの……？」
「ついでに課題でも写させてもらえれば、一石二鳥だ」
まあ、写させてはくれないだろうけど、事情を話せば涼むくらい許してくれるだろ……。
「分かった、電話してみるね」
「ああ、俺も行くぞ」
思い立ったが吉日とばかりに立ち上がる。
さすがに階段を降りるときには、名雪は俺の腕を放した。
現金なもので、涼めるあてが見つかると、死にそうなほどだれきった体も、僅かに回復したようだ。
「あ、はがきが何通か届いてるよ」
居間に向かう途中で、郵便受けに入ってるものを見て足を止める。
「俺がとっておくから、名雪は香里に電話な」
「わかった」
８月も半ば過ぎだからな……残暑見舞いってとこか。
「どれどれ……くそっ、羨ましい」
名雪と仲のいいクラスメイトが、避暑地から送ってきた絵葉書が数枚あった。
「後は秋子さんの知り合いか……ん？」
最後の一枚。
俺は、そこに今もっとも見たくない差出人を見てしまった。
「……香里、留守だったの忘れてたよ……」
名雪が戻ってくる。
あてが外れて気が抜けたのだろう。今にも倒れそうだった。
「……ああ、知ってる」
そういう俺も、気を失いそうになっていた。
「……暑い」
「……暑いな」
残暑お見舞い申し上げます。
名雪、相沢君、元気？
どうせエアコンの効いた場所で一日中ぐーたらしてるんだろうけど、駄目よ、そんなことじゃ。
あたし達家族も、外でテニスとしゃれこんでるんだから。
ま、暑いときは裏の写真でも見て涼んで頂戴。
今度会った時は日焼けして黒くなってるかも知れないけど、びっくりしないでね。
じゃあ、また今度。
８月某日 軽井沢にて
美坂香里
追伸
暑いからって課題怠けちゃ駄目よ。あたしはもう終わったわ。環境って大事よね。
「追伸が余計暑さを誘うな……」
「…………」
力なく首を縦に振る名雪。
葉書を裏返すと、どこかの渓谷をバックにした、美坂家の面々が写っていた。
眺める。
「…………」
「…………」
もちろん涼しくならなかった。
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