桜の花びら。
それは春を待ちわびた誰かの涙かもしれない。
『Ａ ＤＡＹ ＢＹ ＤＡＹ』
アパートの鍵を閉める。
外は快晴。雲一つなかった。
この街に引っ越してきてから初めての春。
とても暖かい。
冬の寒さとは比べようにもない……そう、あの寒さには。
秋子さんと栞とあゆと舞が死んだ冬。
名雪と香里と佐祐理が壊れた冬。
真琴が消えた冬。
天野が心を閉ざした冬。
もう終わった。もう、冬は終わったんだ。
苦しまなくてすむ冬は終わったんだ。
だから……もう泣かないでもいいじゃないか。
俺は、もう涙を流し尽くしたじゃないか。
何で泣いているんだ……誰もが待っていた春じゃないか……
泣くなよ、胸を張れ、笑っていこうぜ、さあ学校へ向かおう。
動かない足を動かし、涙が溢れる瞼を押さえ、俺は鞄を手に学校へと向かった。
なぜか走った。
もう走らなくてもいいはずなのに、走った。
充分間に合う。それでも……
俺は、走らずにいられなかった。
始業の鐘が鳴る２０分前、俺は学校に着いた。
見慣れた校門、見飽きた光景。
そこは空虚に感じられた。
隣には誰もいない。そう、誰も。
朝の弱い従姉妹も、強烈な体当たりをしてくる幼なじみも、アイスが好きな少女も、無口な先輩も、天真爛漫な奴も。
きつい突っ込みを入れる同級生も、笑顔を絶やさないお嬢様も、おばさん臭い後輩も。
だれもいない。
校門をくぐる。
数ヶ月前までは走り抜けていた校門をゆっくりと通る。
昇降口から階段を上り教室へ。
一番後ろの席に座り、何も入っていない鞄を放り出して黙っていた。
隣には見知らぬクラスメートがいる。
北川は違うクラスにいった。まあ、とうの昔に縁を切っているけどな。
そういえば、あの時ほど北川が怒りを露わにしたのは見たこと無かったな。
襟を掴み俺に問いつめているあの顔は……忘れることができない。
悲しみと、痛みと、やり場のない憤怒が押し込まれているあの顔は……
あいつは、香里のことが好きだったからな……
俺に怒りをぶつけて解決できたならそれでいいさ。結局、俺は救えなかっただけ……
……馬鹿か。
何が救えなかっただ。
傲慢以外の何物でもない。
全員救う気でいたのか？
ああ、俺はできないことはないと信じていた。
あゆも、名雪も、真琴も、舞も、栞も、秋子さんも、香里も、天野も、佐祐理さんも全員助けられると思っていた。
結果はどうだ？誰一人として助けられなかったじゃないか。
そして俺一人のうのうと生きている。
……なんだ、この道化振りは？
もういい、考えるのは飽きた。
だから、俺は考えるのをやめてやがて始まる授業を待った。
放課後の鐘が鳴る。
鞄を掴み、俺はまっすぐにあるところへと向かった。
行き先は、精神病院。
名雪と香里と佐祐理さんが入院している病院だ。
お笑いなのがこの三人が同じ病室で治療を受けているということ。
その方が治りがいいとか言っているが……実際はどうなのか知った事じゃない。
俺は校門を出る直前、見知った顔を見かけた。
天野。
彼女も俺を見た。だが、何もないかのように目をそらす。
俺もすぐに目をそらした。
話すことなんて無い。いや、あるはずだ。
だからこそ話せない。
真琴のことを話したい。
ものみの丘で消えた少女のことを。
結婚式を挙げた、俺の花嫁のことを。
話したい。でも話せない。
もう傷を付けられたくない。そう言って彼女は心を閉ざした。
それ以来何も話していない。目を合わそうともしない。
そして自然に俺と天野の交流は消えていった。北川のように。
俺は天野を追い越して校門を出、通い慣れた道を歩く。
精神病院へ続く道に。
山の中に病院はある。
そこの一角、特別病棟に三人はいる。
こん、こんと間を空けて二回、ノックをする。
中から「どうぞ〜」と間の延びた声。俺はドアを開けた。
そこを開くといつも目を疑いたくなる。
いつもと変わらない笑顔で、三人は俺を出迎えてくれている。
それこそが異常なのに。
「あ、祐一お帰りなさい。おかあさーん、祐一帰ってきたよー」
名雪が、誰もいない虚空へ向かって声を上げた。
あたかもそこが水瀬宅であるかのように、秋子さんが生きているかのように。
そしてにこにこと俺を見あげる。あの屈託のない笑顔が、俺の心を抉り続ける。
「祐一さんお帰りなさい♪バニラアイスも冷えていますよ♪」
香里がにこにこと空のカップと木のへらを渡してきた。
香里は栞になりきっていた。
妹なんかいない。そう自分に言い聞かせてきた香里は最愛の妹の死で完全に壊れた。
最愛の妹はどこにいる？もういない。彼女はそれを拒み続け、やがて自分が栞自身になりきって心の安定を得た。
「あはは〜、ゆーいちさんだー。ねえ、遊ぼうよー♪」
佐祐理さんは幼児退行した。
一弥が生きていたあのころ、自分が最も傷つかないでよかったあのころ、こうなっていたいという願望を彼女は叶えた。
親友が死んだという事実から逃げるために。
そして俺は……
「あー、わかったわかった。名雪、お茶お願いな。栞、たまにはバニラアイス以外を用意してくれよ……佐祐理、今日も水鉄砲で遊ぶか？」
今日も、贖罪を始めることになった。
ただ、許しを乞いたかっただけかもしれない。
俺が始めた行為で傷ついた人たちからの「もういいよ」という言葉が聞きたかっただけかもしれない。
そしてそれが叶わないことだと知っている。
俺という存在がいるから。
精神病院から帰る。
三人の無邪気な笑顔に見送られながら……その笑いが俺の心に突き刺さりながら……それでも俺は笑顔で彼女たちに手を振った。
空を見あげた。
雲ひとつない夜空。そこに浮かぶ半月。
どうしても抑えきれない涙が浮かぶ。
病院からの帰り道、必ず俺は泣いていた。
不甲斐なさに、情けなさに、憤怒に。
ああ、俺は何をやっているんだろう。
痛い。痛い。心が痛い。
眠れぬ夜も幾度となく過ごした。
何度も何度も夢に出てきた。
何度も何度も謝った。
ああ、それでも彼女たちは笑っていた。
『気にしなくていいよ』
駄目だ……俺は忘れることができない。
『私たちは幸せだったんだもん』
そうなのか……？本当に幸せだったのか……！？
『また逢えたから……それだけでよかったわよぅ！』
逢えて……本当にそれだけか？それだけだったのか？
『祐一さんがいたから、私たちは向かい合えました』
それでも壊れたじゃないか……
『祐一……自分を責めないで』
無理、無理だ。
『祐一さん、大丈夫です』
何が……何が大丈夫なんですか……
『だって佐祐理たちは』
……言わないでくれ。
『相沢君のことを』
言わないでくれ……！
『恨んでなんかいませんから』
言わないでくれぇっ！！
「くはっ！！」
ゆ……め？
……そうだ、夢だ。
夢、なんだ……！
「グ、グエェッ！！」
吐いた。
胃液が布団を濡らす。食べてなくて助かった……
「ゲェッ！ゲエェェ……」
涙と鼻水がシャツに付いた。
気持ち悪い……気持ちいい……
このまま体中のモノを流し尽くせればどれだけ気持ちいいんだろう……
それでも食道を通る灼熱の固まりは止まりそうになかった。
いや、止める気すらなかったのかもしれない。
数回吐いただろうか、すでに日は昇っていた。
雀と鴉が鳴く声が耳に触る。
今日もまともに寝れなかったな……
流しに向かって唾を吐く。
喉を切り血が滲んだのだろうか、鉄の味と共に朱が広がった。
俺は……いつまで苦しめばいい？
決まっているさ……一生だ。
それが俺に科せられた罪。
さて、今日も行くとするか…
昨日と同じ今日の罪を償いに。
ＥＮＤ
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