月の向こうに
街を照らす陽が落ち、曇りガラスを通した燈が薄光を浮かべる
見上げる深緑の山では風の音が鳴り、木々が揺れてざわめきを起こす。
小さな弧を描いた風の残り火が枯葉を空高く運んでいく。
その向かう先…、闇の空。
ゆっくりと動く雲が切れ、その隙間から煌々と照り続ける月が姿を現した。
その光が暗闇の世界をゆっくりと映し出す。闇の中が少しずつ明るくなっていく様が見て取れた。
ぼやけたように浮かぶ人影のない学校。
昼間の喧騒と違い、ここには静の音しか存在しない。たまに打つ風が窓を揺らして脅えさせるぐらいだった。
座るもののいない教室の中をぬけ、歩くもののいない廊下へと光は続く。
しんと静まり返ったその廊下の先。
磨き上げ、月明かりに反射する剣を携え、川澄舞はその場に立つ。
見つめる先は、誰もいない暗闇の廊下の突き当たり。
毎晩の繰り返し。
いつものように陰として映る魔物の出現を待つ。
刻がゆっくりと流れていた。舞がいる場所だけが別空間のように刻みつづけている。
ひとつ息を吐いて、舞は窓越しに空を見上げる。
雲に覆われ、その中にぽっかりと浮かぶ月。
いつもと違ってやけに明るく見えた。雲の流れも少し、速い。
円形を象る月の円周で一筋の光がすばやく周り、一周してからガラスのような反射をみせる。
満月の夜。狼の遠吠えはここまで聞こえてこない。
再び気配を殺して廊下の奥を見つめる。音のない空気が白い靄と化して舞の足下を漂っていた。
街灯が照らされた、雪を映す小さな道。
少し凍った道の上を、ゆっくりとした足取りで大人の背丈を見下ろすほどの物体が動いていた。
歩が鈍いのか、時折よろけるように道を右往左往する。
しばらくして正面から陽気な鼻歌が聞こえてきた。
顔を赤くして酒の入った会社帰りのサラリーマンが同じようにふらついた足取りで歩いてくる。
互いに前を見ていない二つの影は道路の真ん中で軽く弾かれるようにぶつかった。
一方はよろけるようにしながらもなんとか耐えたが、もう一方の男は歩を滑らせて近くの民家の壁へと体当たりをした。
陽気な気分を害された男は壁に手をつき、もう一方に向かって罵声を吐こうとする。
…が、片手をあげたままでその動作は止まった。目の前でふらふら動く物体に逆に圧倒されていた。
見上げる高さでわずかに光る二つのガラス球。前へ伸びる長い鼻、背へと続く太い身体。
そしてその体躯に合わない、か細い足。
男はその場でギョッとした顔つきで立ち尽くし、その動く物体を眺めていた。
ゆっくりと前へ倒れるようなお辞儀をした後、物体は左右に揺れながら道を進んでいった。
やがて暗がりに浮かぶ学校へとたどりついた。校門をぬけ、校舎の昇降口へと向かう。
昇降口の扉を突き進むように押すと、扉は難なく内側へと開いた。ずさんな管理が幸をなしたのか、物体の中でほっとした安堵の笑が浮かんだ。
一度、物体を昇降口沿いの廊下へと置き、靴を履き替えてから再び物体を持ち上げる。
だがその反動でバランスを崩し、靴箱にぶつかって小さな音をたてた。
持ち崩れた物体を一端廊下に置いてからもう一度持ち直す。背中に抱え、一気に持ち上げた。
支えに支障がないことを確認してから、ここまで来たときと同じ足取りで居ると思われるその場所に向かって歩いていった。
廊下に流れる足音が反響して校舎にこだましていった。
立ちつくしていた舞がゆっくりと目を開ける。
静まり返った校舎内に小さな音が響いていた。リズムよく打ちつけられる打楽器の音。
音のする方向へと目を凝らす。
目の先の廊下を曲がった所。斜めに窓を２枚通したその先の廊下で、薄闇よりも暗い闇がゆっくりと動いていた。
何かを探すように、途中で止まっては左右に揺れ、再び歩き出すという動作を繰り返している。
今日の陰はよく見える。舞は瞬時にそう思った。
舞の目に映る、毎晩の敵である魔物は廊下を更に前進する。このまま進んでいけば、舞が立っている廊下とのぶつかりに姿を現す。
呼吸を整えるように小さく息を吐く。
闇を見据えながら左手に抱えた剣を持ち直し、ゆっくりと身構える。
陰は動く。はっきり、ゆっくりと。
その姿を瞬きもせずに舞は見据えつける。
そして、動く陰が柱に消えた瞬間、左足を蹴りだし、音も立てずに舞はその物に向かって駆けていった。
攻撃は奇襲。
廊下にその姿を現した瞬間を狙う。
駆ける舞が空気を切り裂いていく。小さく嘶く風が舞の髪を宙へと巻き上げる。
舞は駆けながら剣を持つ左手に力を込める。
そして間合いに入った。
同時に、柱を越えて黒い姿が舞の前に現れた。
相手は舞に気がつかない。ゆっくりと何かを捜すように動いていた。
その隙を逃さず、右足に力を入れて一気に相手のもとへと飛び込む。体を左に反らし、空中で剣を構えた。
最上段にかかげた剣が光を受ける。
回転の勢いも加え、両手で握りしめた剣が空気を切りながら相手に振り下ろされる。
……直前、陰が舞のほうを振り向いた。
大きな物体の影に隠れた、いつも見慣れた顔。
長い髪に大きなリボン、そして……舞を親友として見る屈託のない瞳……。
倉田佐祐理。その中に、彼女はいた。
舞の瞳が大きく見開かれた。
目に映る色という色がすべて灰色へと塗りかえられる。
それでも、進む足と勢いのついた剣は止まることはない。
映されるモノクロの映像が時を刻みながらゆっくりと進んでく。ほんの一瞬の出来事が伸びたテープのように引き伸ばされていった。
進み続ける振り下ろされた剣がそのまま親友を飲み込んでいく。隠れ蓑になっていた物体とともに。
鈍い間延びした音が唸り声のように耳を通りすぎる。
舞の剣が、そこにあるすべてを押し切った。
そして、刻の流れが戻る。
そのまま右に流れた剣が残りの空を切った。
舞が着地したと同時に、振り抜いた剣の先で二つの衝突が鳴り響き、周りに水が飛び跳ねた。
反響する音が空気に乗って舞の耳にも届く。
しばらく立ちつくしていた舞が右手に持つ剣を光に照らす。
先端に、微かに光る赤黒い水。
開いた左手で自分の顔に触れる。剣に付いた物と同じ、べとついた水が手をぬらした。
呆然と周りを見まわす。
舞が立ちつくしている辺り一面にも、夜の明かりに浮かぶ赤黒い水が斑点のように飛び散っていた。数分前にはなかった、錆びた鉄の匂いが周囲を張り巡らす。
そしてその中心……、舞が一番見たくなかった現実が突きつけられる。
雲が剥がれ、月の光が入ってくる。
幕が上がるように、その影は徐々に姿を現していく。
床の凹凸にそって広がる赤褐色の河、
赤黒い水溜りの上に広げられた足、
ただ置かれたように上を向く手のひらとそれに続く腕、
背を預ける華奢な体、
わずかに俯いた顔、流れる髪が静かに揺れる。
人形が座っているようだった。壁との間に大きな黒い物体を挟んで…。
しかし、すべてをさらした月が見せるのは人形ではなく、生きている人間の姿。舞の、かけがえのない親友が暗闇の中に置かれていた。
親友の髪をつたって、普段見ることのない赤い水が静かに床を打った。
ただ静かに。
ただ止まることもなく。
どれだけ時間が過ぎていたのか解らなかった。
時計を見れば数分も経っていないかもしれない。
舞の右手に持つ剣が手の中ですべり、廊下の板をめがけて静かに落ちた。
金属音が反響する。
それが耳鳴りのように何度も舞の耳の中でこだました。
その音に引きずられるように、舞の視界が歪む。
見開いたままの目に見える壁と床が、そこだけ捻じ曲げられたように異様な空間が目の前に広がる。同時に、体も平行感覚を失う。
舞はふらつく足を支えるため、一歩後ろに歩を踏む。
…二歩目、……三歩目、意識なく足は後退する。
そして四歩目を踏んだとき、舞の左肩が廊下の壁に打ちつけられる。そのまま、崩れるように壁に体を預けた。
動こうとしない親友が水溜りの上で月の光を浴びる。
動けない自分の姿が影となって壁にはりつき、黒い鏡に撮りつづけられる。
絶望の絵を映し続ける月の光が、今の舞には耐えられなかった。
眼をそらして空を見上げる。
円が削げた月はまだ同じ場所に居た。
同じように、明るく、そして、
…ワラうように。
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