ふと目が覚めて。
霞んだ視界の中に、水瀬名雪の顔があった。
「残念、起きちゃった」
呑気そうな口調で、ちっとも残念でない口振りで、鮮やかににっこりと笑ってみせた。
間近なその距離で。
「……何が残念なの？」
だらしなく机に頭を転がしたまま。らしくなく。ぼんやりとした言葉と頭で問い掛けた。
雪よりも春が似合いそうなその笑顔で。
水瀬名雪はこう宣った。
「――キスしようとしたんだよ」
起きちゃったけどね。
まるで、トクベツなんでもない事の様に続けて「もう遅いから帰ろ？」なんて日常に帰る彼女。
私、美坂香里は目を覚ました。
教室での居眠りから。
誰も居ない。夕焼けに染まる。日常の終わりの後にある、非日常な放課後の後。
『眠れ眠れ可愛い――』
「おはよう香里。寝不足だって？」
朝一番。無遠慮に不躾に遠慮呵責なく声をかけてくるのは相沢祐一。
周りへの配慮思慮が全く見えない。見せていない。King of My pace
早朝マラソンの後とはとても思えない。私の隣で席に崩れ落ちる水瀬名雪と良く似ている。
「名雪ほどじゃないわ」
「まぁ、名雪と比べたらアレだけどな。珍しさでいったら段違いだろ」
好奇心がらんらんと。それに３割、親切心と老婆心。その目が声を密やかに囁いている。『大丈夫か？』
「まぁ寝不足には違いないけど、自覚してるから大丈夫」
「自覚してるのに治せないってのはヤバイんじゃないのか？」
アレみたいに。目線で隣を指し示す。
溶けたアイスクリームみたいに。今日も机と熱烈恋愛中。朝から Bed inn
「いずれああなる前に手を打たないとな」
真面目な顔して語る。でもそれは問題ない。私は睡眠が怖いのだから。
「大丈夫」
微笑んだ。心配してくれてありがとう。言葉がなくても通じるだろうか？
少し怒って少し寂しくて、それでも肩を竦めて微笑んだ。
『無理すんなよ』
そんな風だから、甘えたくなってしまうのだけれど。
席に着いたその背中を、少しだけ眺めた。
名雪から聞いたのかしら。おしゃべり娘め。
今は無口なその眠り姫。意外や意外。寝言は口走らないのであった。授業中の知恵？
少し前。
相沢祐一が転校してくる前ならば、名雪とは朝も会話を交わしていた気がするけれど。最近ではその相手が相沢君に切り替わっている。
それに、何の違和感も感じていなかった事に気づいたのは、つい最近だった。
馴染み過ぎている。
なんだかなぁ。相沢君はなんだかんだと名雪に似ている。従兄弟、というよりはまるで兄妹みたいだ。香里という呼び名を許しているのもその所為か。
あの雰囲気で「美坂さん」などと呼ばれるのは、なんとなく嫌なのだ。
その背中を眺める。
名雪と席を入れ替えてみたい。その背中に後ろから悪戯してみたい。触りたい。触れてみたい。
馬鹿な事を考えてるな。寝不足の所為という事で。
誰に断るでもなく。もしかしたら美坂香里に断っているのかも。くすりと笑った。
ぼんやりとした眠気。
付き纏って離れない。だからこれが夢の様で。その錯覚が少し嬉しい。
夢の様な、幸せな時間に。
暇つぶしの様な時間。それはクロスワードを解く様に。ミステリーを読む様に。
退屈で無駄で有意義な。通り過ぎていく日常の形。
零れ落ちていく日常の儀式。様式形式。割られた時間の定められた変わりないルール。
明日もこれと同じ日が続くのだと。空気の様に当たり前にしてしまう。
日常の魔力。
その柔らかく暖かい大人達の魔法に。少しだけ浸っていたかった。
欠伸をかみ殺す。
春眠暁を覚えず。うとうと。うつらうつらと。飛びそうになる意識を引き留める。
隣の席では名雪が日溜まりの猫の様に眠っている。
世界中の幸せを抱き締めている寝顔だ。
人の寝顔なんて、まじまじと見る機会が無いのだけれど。私も寝ている時は、こんな風に可愛いのだろうか。寝顔は誰でも可愛いと言うけれど。ここまで可愛い寝顔にはそうそうお目にかかれないと思う。
ふぁ……。
眠い。
眠ろうとする時には眠れなく。起きていようとすると眠くなるなんて。なんて不合理。
それとも自分だけがこんなに無器用なのだろうか。
春の日差しに誘われて、教室の半数以上が眠りの国の住人に。
眠りの国の王女さまは、斯くもすやすやと眠っている。
視線。相沢祐一。微苦笑。眠っとけ。
スイッチが切れて。暗闇の中に。落ちていく。
手練れの催眠術士みたいな。
仕方ねぇなぁ――そんな優しい笑顔が、瞼に残る。夢を見たら、きっと今日は貴方の夢だ。
記憶。
夢なんて甘くなく、ただ頭に身体に残った記憶。再現。シミュレート。
たとえば滑り出た冷たい言葉だったり。
笑えなくなった頬の形だったり。
飲み込んだ嘘と吐き出した本当が。
子供みたいに泣き出した私を受け止めてくれた暖かい腕の感触が。
広い胸が。
逃避できる場所。暖かくて優しくて、泣き喚いても身体を受け止めてくれた記憶が。
失敗しても、やり直せるんだと。
信じられない位、世界は優しいんだと。
だからこれは夢じゃない。
これは夢なんて甘くなく。
ただ頭に残っている身体に残っている優しかった現実で。
その甘さを反芻する為に味わっている。いつまでも口に残していた鮮やかな飴玉を。
無様に泣き崩れて。それを支えてくれたあの記憶。
私は時々。ほんの時々、夢に見た。
だから、眠るのが怖かった――
「これは夢かしら」
目の前に立つ相沢祐一に問い掛けた。
夢の中の相沢祐一は相沢君らしく肩を竦めた。
「俺に聞かれてもな。多分、夢だろ」
香里がそう思うならな。彼はどちらでもよさそうにそっぽを向く。夢の癖になんて生意気。本当の相沢君みたいだ。さすが私の夢。
「あのね、私も居るんだけど？」
後ろからひょっこりと水瀬名雪が現れた。私の夢にしては野暮だな。
「わ、可愛い、香里もそんな顔するんだ？」
口を尖らせて抗議の意を表明したら、そんな反応が帰ってくる。いいの、これは夢だから。
「そうだね。夢だもん。だから言いたい事とか聞きたい事、言ってもいいし聞いてもいいよ？」
ニコニコと。いつもの２割り増しに明るい笑顔。
目を合わせてふふっと笑う。
あぁ、これはホントに夢なんだな。
「あのね、なんでキスしようとしたの？」
「あれ、それで良いの？ 答えなんて一つだけだよ。香里の寝顔、可愛かったもん。満足？」
「――名雪の近くでは眠らない様に気をつけるわ」
ひどいよー。なんて笑いながら相沢君とタッチをして入れ替わった。
「俺が聞いても良いか？」
「質問に答えるとは限らないけど」
「香里は俺と名雪、どっちが好きなんだ？」
絶句。
「答えられないって事は、同じ位に好きって事で良いのかな？」
「香里、ふぁいなるあんさー？」
いや、まだ何も答えてないのにそんな事言われても。いや、だからなんで二人してにじり寄ってくるのかって――
「ストップ」
ぴたりと止まった。空気も凍る。ぴくりとも動かない二人を眺める。
夢にしてもこれは突飛に過ぎると思うのだけれど。
ため息をつくと動き出しそうで怖い。まるでマネキン。人に良く似た人形って凄く怖い。
まさかまさか。夢の中で悩むなんて思いもしなかった。
息を詰めて考える。
見る。
水瀬名雪と相沢祐一。
ため息をついてみた。なかなかに艶やかだと思う。自惚れてみる。
二人とも崩れ落ちて机で眠る。操り人形の糸が切れて。
二人ともよく似た寝顔をして眠る。眠っている。本当に無防備な顔で幸せそうで。
可愛い。
はてさて。これはホントに相沢君の寝顔なのだろうか。
名雪の寝顔は見慣れていても、こちらの彼はどうなのだろう。
結局、その程度の好奇心で天秤のバランスは崩れてしまった。
私、美坂香里は、その寝顔にキスをしようと、顔を近づけ息を殺して……
ふと目が覚めて。
霞んだ視界の中に、人影。男。まばたき。一つ、二つ。相沢祐一。
昨日の続き。
これは夢の様な魔法の時間だ。くすりと笑みが、頬に浮かんだ。
「残念だったわね」
赤い夕焼け。赤い空気。教室は幻想の色に染められて。相沢君の顔が赤い。
「……なにが、残念なんだ？」
少し掠れた声。囁く声。飾ろうとして失敗した。珍しい本当の声が聞こえた。
少しの違和感。
言葉にしてから、それに気づいた。
「キス、しようとしたんでしょ？ 名雪みたいに」
にっこりと艶やかに笑ってみせた。唇が、暖かい。夢の中の感触が、まだ残ってる。
あーいや、そのな。言葉にならない言葉をこぼす相沢祐一。
「本当、残念だったわねー。私の寝顔は可愛かった？」
いつになく爽快で。気分が良い。とても良い目覚め。
うんっ、と伸びをして肩を鳴らす。
赤い教室の中で、本当に赤い顔をしてるらしい相沢君が、なんでか少し可愛く思えてしまった。
彼の寝顔を見てみたいな、なんて思う位に。
「もう遅いから帰りましょ」
夢から醒める言葉。
唇が、暖かい。夢が終わっても残っている、この感触は
「あのな、香里、実は――
夢と現実の狭間はどこ？
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