Transmigration
思い出の中で、雪が降っていた街―――
７年前まで訪れていた街―――
久しぶりに帰ってきた街―――
一人の少女と出会った街―――
一人の少女を喪った街―――
そして―――
今、俺が背を向けようとしている街―――
俺は虚空の中にただ立ちつくしていた
鏡に映し出されたように、俺の目の前にたっているだけ
その瞳は何も見つめることはなく、ただ冷たく、見えない壁をつくりだしている
起きるはずの無い奇跡を、ただ待つだけの人形のようだ
『起きないから、奇跡って言うんですよ』
その言葉だけが、頭の中に渦巻いている
いつしか『俺』は姿を消していた
もう、自分がどこにいるのかさえも分からないままに―――
「……起きないから、奇跡……か」
鮮明に残る、夢の中の記憶。
こんな夢を見るのも、今となっては珍しいことでもなかった。
そう、忘れもしない２月１日から。
俺の１週間だけの恋人……それでも、本気で好きになった少女……。
栞が……美坂栞がこの世を去った日だ。
鳴ることの無かった目覚ましを見ると、時間は９時を少し回ったところだ。
今日は３月１日の月曜日。
名雪はもう学校に向かっただろうか。
もしかすると、まだ隣の部屋でぬいぐるみを抱いて寝ているかもしれない。
俺はベッドから降りてカーテンを開け放つ。
雲がいくつか見えるが、それでも天気は文句無しに晴れと言えるものだろう。
そのままベッドに腰を下ろし、何をするでもなくぼーっとしていた。
目につくのはいつものように整然としている俺の部屋。
机、本棚、テーブル、クローゼット……。
眠気は既に無いはずだが、どことなく夢の中にいるような気分になってくる。
「さて、行くか……」
手早く着替え、通学用のものとは違う、リュック状の鞄を肩に担ぐ。
部屋を出て階段を降りると、そこに秋子さんが立っていた。
「おはようございます、秋子さん」
いつものように言おうと思ったが、やはり無理だった。
「おはようございます。やはり行くんですか、祐一さん……」
秋子さんはいつも通りの口調と笑顔だが、その奥に悲しみが潜んでいるのがよく分かる。
「はい……。俺、思い出したんです。７年前の、あの日のこと……」
俺の独白が始まった。
目の前であゆを失ったこと。
名雪を酷く傷つけてしまったこと。
その後すぐに、自らの心を閉ざしてしまったこと……。
「この街は、悲しい思い出ばかりを俺に押し付けてくる……。それを乗り越えられるほど、俺は強い人間じゃないです……」
一月ほど前、今度は栞を失った。
「だから、逃げるんですか？」
いつもとは違う、厳しい声で秋子さんが言った。
「俺はそんなことをするつもりはありません。このまま過ごしていけば、今度は栞のことまで忘れてしまうかもしれない。そんなことはしたくないんです……。栞やあゆ、名雪……なにより、俺自身のために、ここで悲しみに押しつ潰されるわけにはいかないんです……」
いつのまにか握りしめていた拳をゆっくりと開く。
「俺には、こうすることしか思いつかなかった。この街と繋がりの無い場所で、色々なことを見て、体験して、頭を冷やして……そしたら、もう一回考えてみようって思うんです。俺が何をすればいいかはまだ分からないけど……でも、ちゃんと吹っ切らないと何もできない。何ヶ月か、何年かかるか分からないですけど、俺は自分で答えを探したいんです」
俺は言うべきことを言い終え、言葉を切った。
そして訪れる暫しの沈黙。
「わかりました。そこまで言うのなら、私はもう止めません。ですが、これだけは覚えておいてください」
柔らかく、暖かく、包み込むような優しい口調で秋子さんは言葉を続けた。
「祐一さんの帰るべき場所は、ここにあります。全てに決着がついたら、いつでも帰ってきてください」
「はい……ありがとうございます！」
俺は久しぶりに声を上げて泣いた。
そんな俺を、秋子さんは優しく抱きしめてくれた。
一月前、悲しみに耐えられず、塞ぎこんだ時にもこんな風に泣いた。
でも、今は違う。
俺のことを本当の家族と同様に心配し、支えてくれる人たちがこの街にはいるのだ。
こんなに嬉しいことは無い。
この街で、最後に悲しみではなく感謝と喜びの涙を流せてよかった。
「いってらっしゃい、祐一さん」
いつも通りの笑顔で俺を送り出してくれる秋子さん。
「いってきます」
いつも通りに……いや、いつも以上に清々しい気持ちで返事をすることができた。
もう見飽きたと思っていた商店街をゆっくりと歩く。
しばらく帰ってくることは無いだろうから、しっかりと目に焼き付けておきたかった。
途中のコンビニでバニラのアイスクリームを２つ買った。
この時期ならまだそう早くは溶けないはずだ。
と、まだ朝食を食べていないことを思い出した。
適当なところが思い当たらないから、たい焼きを買って食べることにしよう。
丁度よく、目の前に顔なじみの屋台がある。
「親父さん、たい焼き三つ。漉し餡で」
「はいよ。どうした、今日は月曜だろう？」
「ははは……まぁ、色々と事情があって……」
さすがに無関係の人間に言うのは抵抗があるから、適当にはぐらかしておく。
焼きたてのたい焼きを頬張りながら、駅までの道のりを歩いている。
程なくして駅前に出たのだが……。
俺はふと足を止めた。
ベンチに、見知った顔が座っていたのだ。
「よう。学校はどうした？」
「おはよう。そういう相沢君こそ、学校に行かなくて良いの？」
美坂、香里。
「お生憎様、俺はこの間休学届を出してるから今は暇人なんだ」
そう。
俺は１週間ほど前に休学届を出した。
ただし、このことは生徒には知らされていない。
もちろん、同じ家に住んでいた名雪にさえ。
「偶然ね。あたしも先週の金曜日に休学届を出してきたところなのよ」
俺は言葉を失った。
何故香里が学校を離れる必要があるのだろう。
香里は早くから覚悟があったためか、俺と比べれば遥かに軽症だった。
完全ではないだろうが、栞のことを思い出として割り切ることが出来てたはずだ。
「なんで……」
言葉が出てこない。
「相沢君の助けになるためよ」
俺の助け？
何故？
「身内で蒔いた種は身内で摘み取る。栞のことで相沢君が心を痛めてるのなら、あたしが癒してあげるわ。それに、相沢君には借りがある。あたしは栞のことで相沢君に救われたわ。だから、今度はあたしが借りを返す番よ」
「気持ちは嬉しいが、俺は――」
この街を出て行くんだぞ。
そう言いかけたが、香里の言葉によって遮られた。
「相沢君が何をしようとしてるかは分かってるわ。相沢君についていくことを両親も秋子さんも了承してくれたわ」
秋子さんから聞いていたのか……。
確かに、口止めはしていないが。
「お前はそれでいいのか？俺のために、大切な青春時代を捨てることになるんだぞ？」
誰かが一緒に居てくれるのは嬉しい。
それが栞に近い人間であるのならなおさらだ。
でも、俺のために他の人を犠牲にするのは嫌だ。
「それはお互い様でしょ。相沢君が街を出て行く原因が栞なんだから。身内として……姉として放っておけるわけないわ」
香里の言うことも一理あるが、俺も引き下がるわけにはいかない。
「お前は香里だ。栞じゃない。それに、俺は自分の意志でこの街を出て行こうと思ってるんだ」
「……もう、変なところで頑固なんだから……。しかたないわ、最終手段よ」
「な、なんだよ……」
「今日はね、あたしの誕生日なの。だから、一緒に連れてって」
「……これで手を打たないか？」
たい焼きが一つ入った紙袋を差し出す。
「あたしは本気よ」
俺の冗談は一蹴された。
「…………」
「おねがい、借りを作ったまま行っちゃうなんてずるいわよ」
言葉通り、香里は本気のようだ。
この感じだと、断ったところで勝手についてくるだろう。
それならば、初めから一緒に行った方が気が楽だ。
「わかった。じゃあ、行こうぜ。電車が出ちまうぞ」
学食に誘う時のような感じで了承を出した。
「あ……うん！」
うって変わって笑顔になる香里。
駅に入り、切符を買い、電車に乗る。
それからの香里はどことなく楽しげだった。
おかげで俺も少しだけ気分が和らいだ気がする。
「ありがとう、香里」
香里に聞こえないように小声で呟いた。
「え？なに？」
「なんでもないさ」
訝しげな視線を向けてくるが、それすらも心地よく感じる。
「まぁ、いいけど。あ、出るわよ」
「ああ」
ドアが閉まり、ゆっくりと電車は動き出す。
雪の降る街を背に、俺は……いや、俺たちは進み始めた。
いってきます、秋子さん。
いってきます、名雪。
いってきます、みんな。
いってきます……雪の降る街―――
２年後、２月。
「お母さん！祐一と香里から手紙が来たってほんと！？」
廊下を疾走し、リビングに突入してくるのは水瀬名雪。
「ええ、これよ」
ソファーに座り紅茶を飲みながら、甥から送られてきた手紙を微笑みながら読んでいたのは水瀬秋子。
「わたしにも見せて」
名雪が秋子の隣に座って手紙を覗き込む。
その様子を見て秋子がふふふ、と笑い声を漏らした。
手紙に読み入ってる名雪には聞こえていなかったようだが。
「あっ、祐一たち帰ってくるんだ！」
「そうらしいわね」
嬉々としてはしゃぐ名雪に、秋子も嬉しそうに応える。
「ふんふん……へぇ、香里に女の子が生まれたんだぁ！」
親友のその知らせに、驚きよりも喜びの色を前面に出すあたり、名雪の人の良さが窺える。
「こっちに帰ってきたら、ささやかながら結婚式を挙げるって書いてあるわね。ほら、招待状も一緒に同封されてたわ」
秋子の手の中には手紙のものとは別な、綺麗に飾られた封筒が２枚。
「わぁ！わたし、結婚式なんて初めてだよ〜！」
「式は３月１日……香里さんの誕生日に挙げるみたいね」
「ねぇ、祐一たちはいつ帰ってくるの？」
「そうね――」
「ただいま！」
俺はこの街に帰ってきた
俺と旅立った香里と
そして、２月１日に生を受けた女の子……
２月１日に生を受け、２月１日に世を去った少女と同じ名を授けられた……
『栞』と共に―――
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