あなたと共に
今私はものみの丘に来ています。
近頃ここに来る度に見かけるあの人――相沢さんに会うために。
「こんにちは、相沢さん」
「よう。今日も来たのか、天野」
相沢さんはいつもの場所……この丘の中心に座っており、こちらに振り返ってからそう言います。
「私はたまにです。相沢さんこそ毎日来ているんじゃありませんか？」
「ん……、まあな」
私が相沢さんのそばまで来てそう言うと、彼は伏せ目がちにそう答えた。
今までの相沢さんなら笑顔で答えられた問いなのに、今日は元気がありません。
らしくない――いえ、これが普通なんですよね。
まだあの子――真琴が消えてから一ヶ月しか経っていないのですから。
「隣に座ってもよろしいですか？」
「ああ、別に構わないが……珍しいな」
普段は相沢さんの隣に座らず、この丘とここから見える景色を見ているだけですからね。
「今日は少し相沢さんとお話しようと思いまして」
そう、私は話さなければいけない。
私との約束のために素直に悲しむことができないこの人と。
「相沢さん、無理をしなくてもいいんですよ」
彼は私の言葉に少しだけ肩を震わせる。
「無理？俺が何を無理してるって言うんだ？」
彼はこれから私が何を話すのかに気づいている。
それでも彼はそう言った。
それが虚勢だと私に気づかれるのがわかっていながら……
「真琴のことです」
「……真琴がどうしたんだ？」
私は言わなければならない。
臆病な私のありったけの勇気を振り絞って。
彼の希望を打ち砕くこの言葉を。
「真琴はもう……、帰ってきません」
あらかじめ彼にも私が何を言うかわかっていたこととはいえ、それでもショックを受けたようです。
私のことを殺気立った目で睨みつけています。
正直とても怖いです。
できることなら今すぐこの場から逃げ出したい。
それでもその選択は許されない。
彼のため、そして私のために。
「あの子達が人間になるために必要なのは記憶と命なんです。もう真琴はその命を使ってしまいました。だからもう帰ってくることはないんです」
そんなことは彼にもわかっている。
それでも彼はここで待ち続ける。
ありえぬ希望、起こりえぬ奇跡にすがって。
「もう帰ってくることはないんです……」
最後は自分に言い聞かせるように呟いた。
私もまだ待ち続けているから。
「……まだ」
「え？」
相沢さんは街の方を向いて言葉を続ける。
「まだわからないだろ。まだ一ヶ月しか経っていないんだ。きっともうすぐ帰ってくる。
春。そう、あいつの好きな春になったらまたひょっこり姿を現して肉まんをねだってくるんだぜ」
「相沢さん……」
「家に帰ったら肉まんの食いすぎで秋子さんに注意されるんだ。
部屋中マンガだらけにして布団で寝られなくなったりさ」
「やめてください……」
私の呟きに耳を貸さずに、相沢さんは笑顔で言葉を紡ぎます。
「今は家に居ないけどさ、真琴が帰ってきたらぴろも戻ってくるよな。
あいつはぴろを頭に乗せて散歩するんだ。あぁ、ここに遊びにくるのもいいな。
皆で弁当持ってピクニックだ。この丘中をへとへとになるまで走り回ったりして。
夜寝るときになると俺の部屋に来るんだ。ぴろが一緒に寝たがってるからって――」
「相沢さんっ！！」
もうそれ以上聞きたくないから大声で遮ります。
聞きたくないし、何より――あなたのそんな悲しい笑顔を見たくないんです。
それなのに……
「俺が駄目だって言うとあいつはあうーって困った声出して。
仕方がねえから今日だけだぞって一緒に寝てやる。
そんな――そんなありふれた日常が帰ってくる、そう信じてる。
それは――悪い事か？」
最後に私のほうを向いてそう訊ねてきた。
意地の悪い質問――心底そう思う。
そんなことは他人が決められることではない。
それを決められるのは相沢さん本人か、あるいは真琴だけでしょうね。
相沢さんの目は『お前には決められないだろう？ならほっといてくれ』とでも言いたげです。
私はこれ以上この人に関わるべきじゃないかもしれない。
でも私は今日ここに来た時から決めていたんです。
もう逃げない、強くなろうって。
「悪いですよ」
「……なんだと？」
低い声。
威嚇するような鋭い眼つき。
――怖い。
でもここで退くことはできません。
「悪いと言ったんです。いつまでも帰ってこない人を待ち続けるのはやめたほうが賢明というものです」
「天野！」
「相沢さんもわかっているのでしょう？真琴はもう帰ってこないって」
「黙れっ！！」
「いいえ、黙りません。一度人間になり消えてしまった妖狐達はもう二度と現れることはありません。
私のあの子がそうであったように！」
「五月蝿い！！俺達はお前達とは違う。あいつは――真琴は帰ってくる！！」
「――――ッ！！」
一瞬で頭の中がカッとなった。
相沢さんのさも自分達だけは特別だという考え方とその無礼極まりない発言に。
本来ならここで手が出ていただろう。
でも彼の顔を見るとどうしてもそれができなかった。
あんな今にも泣き出してしまいそうな顔を見てしまったから。
相沢さんは今の発言が私を怒らせるものだとわかっていただろう。
そして気の済むまで殴らせて二度と近づく気にならなくしようとしたのだろう。
私にはそれがわかってしまった。
周りの人を避け自分の殻に篭っていたかつての自分の姿が重なって見えたから。
だから――
だから私は抱きしめた。
彼の顔が見えないよう、彼に言葉を紡がせないように。
「――相沢さん」
静かに、ゆっくりと、彼の心に届くように語りかける。
「確かに私はあなたとは違います。あなたのように笑うこともできず、強がることもできなかった。
一人で自分の殻に篭り、待つこともできず、ただ都合のいい奇跡を願うばかりでした」
――本当に浅ましい。
「あの子が消えてから幾つもものみの丘の伝説の文献を調べました。
その内のほとんどが妖狐は災厄をもたらすものとして書かれ、真実を綴ったものも全て悲劇でした。
再び現れて幸せになったという話はありませんでした」
帰ってきた例があるのなら何らかの形で残っていると思う。
「過去の例が全てだとは言いません。もしかしたら本当に真琴は帰ってくるかもしれません。
先ほど待ち続けることは悪いと言いましたけど……あれ、嘘です。
待っていても良いんです。でも、今の相沢さんにはそれは耐えられないでしょう」
それは私と交わした約束の為。
強くあり続けるなんて無理なのに。
「あなたは強くあろうとした。無理に笑い、日常を演じようとした。
でもそれは強さではなかった。ただ悲しみから目をそらすための逃避。
あなたは……自分の弱さを見ようとしなかった。
真琴が帰ってくることを信じることが強さだと思っていたから。
そうでしょう？」
「――――」
返事は返ってきません。
気持ちの整理をしているのでしょう。
答えを出すまでじっと待ちます。
しばらくして私の腕の中で相沢さんが微かに肯くのを感じた。
「――ああ、そうだな。俺は逃げていた。真琴が消えてもまた帰ってくると信じることで。
あいつが帰ってこないって考えないようにしてた。
……結局、俺は弱かったんだな。ごめんな、約束守れなくて」
相沢さんは私の腕の中でそう呟いた。
違うんです。
私との約束があったからあなたは素直に悲しむことができなかった。
私との約束がなければ、あなたなら真琴を失った悲しみ、自分の弱さを認めることができたでしょう。
ここまで苦しむことはなかった。
そうさせてしまったのは私の責任、だから――
「――相沢さん。私、強くなろうと思います。
そしてあなたを支えます。
あなたが真琴を信じて待つのであれば私も待ちます。
あなたが悲しみに沈みそうなときは私が励まします。
……私ができることなんてほんの些細なことかもしれない。
私があなたを支えられるようになるまで時間がかかるかもしれない。
私もまだ弱いから、足手まといになるかもしれない。
けど、それでも――――私はあなたの傍にいることはできます」
そこまで言って相沢さんを抱く腕に力を込める。
相沢さんが静かに私の言葉を聞いているのがわかる。
だから私も言葉を続ける。
「もしあなたが望むのなら、私はたった一つだけ約束することができます。
たとえ何があろうとも、私はあなたから逃げません。
それだけは絶対に守って見せます。
……それじゃ駄目ですか？」
やっぱり、真琴じゃないと駄目ですか？
「天野」
「はい」
「本当にいいのか？俺は弱くて、お前に頼りきりになってしまうかもしれないぞ」
「大丈夫ですよ。自分の弱さを受け入れられるのなら。
それに相沢さんが傍にいてくれたら私も強くなれる気がするんです。
だからあなたの傍に――」
「天野」
相沢さんが私の言葉を遮り、抱きしめていた私の腕を解きます。
そして私の目を見て――
「天野、俺の傍にいてくれ。俺が本当に強くなるまで。
お前が辛いときは俺が支える。俺も決してお前から逃げない。
だから一緒に強くなろう」
相沢さんのほうからそう言ってくれた。
だから私はできる限りの笑顔で答える。
「はい。共に強くなりましょう」
私の言葉に相沢さんも笑顔を浮かべてくれます。
「おう！これで俺と天野は同士だな」
「同士ですか？」
「ああ。これからよろしく頼むぜ、相棒」
そう言って右手を差し出してくる。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
私も右手を出し、お互いに握手した。
「では相沢さん。相棒として早速――」
「ん？って、うおっ！？」
また相沢さんを抱き寄せる。
「ちょっ、あ、天野！？何す――」
「相沢さん。泣いていいんですよ？
ここには私しかいませんし、真琴がいなくなってからずっと無理していたんですから」
「……」
「……ね？」
「……はぁ。これじゃどっちが年上かわからねえな」
相沢さんの呟きには答えず、そっと慈しむように頭を撫でた。
それからしばらくものみの丘には風が草を揺する音と微かな嗚咽だけが響いていました。
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