手紙
それは春が終わり夏が来ようとする季節。そしてそれはまだ太陽が自分の役目を始める少し前の頃。
一人の少年いや、青年が静寂の中、真新しい墓の前に座っていた。その背中は今にも消えてなくなってしまいそうなほど儚く見える。
「もう、一ヶ月たったんだな……」
枯れ果てた声でそう青年が口にする。それは何に対して言ったものなのか？それは彼にしかわからない……。
「ごめんな……。今まで来れなくて。俺は信じられなかった、いや信じたくなかったんだ。お前が死んだなんて……」
雲ひとつ無い空の下、青年の独白は続く。
「でも信じざるを得なかった。何日待ってもお前の顔を見ること、お前の声を聞くことができなかったんだから……。それでもまだ俺はお前の死を信じ切れていない。いつかまたひょっこりと現れて俺の名を呼ぶんじゃないかって……」
青年は拳を握っていた。自らの爪で掌から血を流すほど……。
「相沢……くん？」
突如青年の後ろから声がする。『相沢』と呼ばれた青年は後ろを見ることなく答える。
「香里……か……」
『香里』と呼ばれた少女、いや女性はしばしの間を置いてその墓に手を掛けながら青年の横に座る。その表情は青年からはわからない。
「ずいぶん遅かったじゃない。一ヶ月の遅刻よ」
それは彼女が今、精一杯言える冗談だろう。顔が笑っていても声は笑っていなかった。
「ああ、そうだな……」
青年も笑わない。それほどこの墓に眠る人物はここにいる二人にとっては大きな存在だったのだろう。
…………………………
しばらくの間沈黙が続く。その沈黙を破ったのは『香里』と呼ばれた女性。
「相沢君、実はね。ずっと前から渡そうとしてたものがあるの」
そう言って彼女が自分の鞄から出したのは二通の封筒。それぞれ表にかわいらしい字で『相沢祐一様』、『美坂香里様』とだけ書かれていた。
それを見て青年の表情が一瞬強張ったのは誰も気付かなかった。それは青年自身も。
「これはね、あの子の病室のベッドの下にあったの……」
それだけ言って女性は青年に『相沢祐一様』と書かれた封筒を差し出す。青年は受け取らない。
青年は思う。「これを読むことは完全に『栞』の死を認めること。今の俺にその勇気があるのか」と。
『美坂栞』
その名はその青年にとって何よりも大切な女性の名。
その名はその女性にとって何よりも大切な妹の名。
その名は青年と女性の前にある墓で眠る十六年とわずかしか生きられなかった少女の名。
そして……、最後まで誰にも涙を見せず最後まで笑顔でいた強い少女の名。
青年は言った。
「あいつはどんな想いでそれを書いたんだろうな」
女性は少し間をおいて答える。
「それは分からないわ。だって私たちはあの子ではないもの」
「そうだな、だから自分の気持ちを伝えるためにその手紙を書いたんだろうな」
「そうね、私たち人間は人の心なんて読めない。だから言葉を使って伝える。そして言葉を残すために文字を書く」
「ああ、でも香里。俺にその手紙を読む資格があると思うか？」
女性は少し怪訝な顔をした後、すぐ冷静を装って答える。しかしその手は強く握られている。
「もし私があなたにその資格がないと思っているならわざわざ渡そうとしないわよ」
「なぜ俺に資格があると思う！？俺は今も完全にはあいつの『死』を信じてはいない！そして今まで真実から目をそらしてここに来なかっ……」
青年は涙をためながら叫ぶ。
パンッ！！
青年の悲痛な叫び声は女性の一撃で中断された。そして今度は女性が叫ぶ。
「私だってまだ信じきれてないわよ！あの子が死んだことなんて！信じたくないわよ！でも、でもしょうがないじゃない！あの子が死んだのは事実！それはどれだけ私たちが逃げても変わらないことなんだから！」
女性は強くなっていた。一時はその妹を拒絶してしまったのに。そして彼女は今、もういない妹と向き合っている。
そして女性は泣いていた。その美しい顔が一変するほど。泣くのはその人が弱い印。しかし彼女は強い。そして女性は続ける。
「だから、真実を認めることは辛いけど認めて……。そして栞の最後の意思を知って前に向かって進んであげて……。たとえ心が読めなくてもそれがあの子の願いだってことぐらいはわかるから……」
青年は普段からすればありえない女性の様子に戸惑ったがすぐ立ち上がって泣く女性に手を差し伸べる。
「わかった。もし俺が前に進む事があいつの望みなら俺は叶えよう。わるかったな、香里。読もう、あいつの残した最後の意思を」
青年はそう言って女性の手を引きベンチへ向かう。手を引かれた女性は何も言うことなくそれに続く。
ベンチに座った後二人はお互いに確認した後、それぞれの封筒を開け手紙を読む。
青年の手紙、それにも少女らしい字でかわいらしく書かれていた……。
相沢祐一様
あなたがこの手紙を読んでいるということはもう私はあなたの前にはいないのでしょう。
あなたは本当に優しかった。そして強かった。冬に私が「これからは普通の女の子として扱ってください」と言ったときもあなたは本当に私を普通の女の子として扱ってくれました。あれは本当に嬉しかったんですよ。
あなたは私と初めて出会ったときのことを覚えていますか？私はしっかりと覚えています。それだけじゃなくてあなたと過ごした時をすべて……。
あなたと昼休みに学校の裏庭でおはなししたこと。
成人の日、休みだとわかってても裏庭であなたを待っていたら日も暮れるころあなたが来てくれたこと。
初めて商店街でデートをしたこと。もぐら叩きは悔しかったですけど……。
二人で雪合戦をしてそのあと私のわがままで私の教室に忍び込んだこと。
放課後にあなたが「好きだ」と言ってくれたこと。それに私が答えられなかったこと。
夜の公園で恋人同士になってキスをしたこと。
あなたのおかげでお姉ちゃんと仲直りできたこと。
あなたと結ばれた最初で最後のこと。
これらの想いでは全て私にとって何よりも変えがたい想い出。どれもが懐かしく楽しかった想い出。
そして私の誕生日。私とあなたは別れました。これ以上お互いに辛い想い出を創らないために……。
でも知ってたんですよその後もあなたが私が眠っているときにお姉ちゃんに連絡してもらってこっそりお見舞いに来ていること。あなたは嘘つきですね。でもその優しさが嬉しかったです。
何で知っているかって？看護婦さんが言ってましたから「優しい彼ね」って。あなたがそう言われて私も嬉しかったです。
本当は私はもう一度あなたと外へ出て遊びたかった。雪の降る季節になったらまた雪合戦をやりたかった。だからここまでがんばれたのかもしれません。でもわかりました、わかってしまいました。もうそんなことはできないんだと。もう私の先は長くないんだと……。だって春頃から日に日に体が弱っていくのがわかりましたから。
だから最後に私の本音をあなたとお姉ちゃんに書くことにしました。本当はあなたに面と向かって話したかったです。でもきっと私の本音はあなたにもお姉ちゃんにも悲しみを生むだけのものになると思うから……。もう私のことで周りが悲しい思いをするのは嫌だから……。
祐一さん、私本当はもっと生きたいです、死にたくないです。
本当はもっと祐一さんやお姉ちゃんと一緒の時間を過ごしたかった。
本当はいつかみたいに祐一さんやお姉ちゃんたちと喫茶店でおしゃべりをしたかった。
本当はもっと祐一さんとデートしたかった。
本当はお姉ちゃんと同じ制服を着て学校に行きたかった。
祐一さんと結婚だってしたかった。
祐一さん……私は……
祐一はその手紙をそれ以上読むことはできなかった。隣にいる香里、いや『お姉ちゃん』は全てを読んだのか既に体を震わせて泣いていた。
一枚の手紙に書かれた悲痛な少女の想い。それはいままで少女が誰にも伝えなかったこと。伝えれなかったこと。
それは二人にはとても辛いことだった。少女の悲痛な思いを分かち合えなかったから。
祐一は頬を伝う涙を拭くことなく席を立ち、少女の眠る墓へ走る。
「バカヤロウ……」
祐一は墓の前に座りこんでそう言うと堰を切ったかのように言葉を繋いだ。
「どうしていつもお前は周りのことばっかり考えるんだよ！どうして本当の気持ちを言ってくれなかったんだよ！そうすれば俺はお前の悲しみを少しでも和らげることができたかもしれないのに！そうすれば俺は、おれは……」
祐一は墓の前で泣き崩れ何度も地に拳を叩きつけた血が出ているのもかまわず……。自分は栞のために何かしてやれたのだろうか、いやしてもらってばかりだった、という悔しさから。
それを聞いていた香里は墓の前に来て言う。
「相沢君の言うとおりよ。あなたはいつも私たちのことばかり気にして……。それに感謝しないといけないのは私なのに！栞……、でもあなたの言うとおりにするわ。だってお姉ちゃんはあなたに嫌われることはもうしたくないもの……。だから、これが最後……」
そう言うと香里も祐一と同じように泣き崩れた。彼女は自分のしてしまったことへの後悔から。
二人とも声が、涙が枯れるまで泣き続けていた……。
そして彼等の想いを知ってか知らないでか、優しい風が彼らを包んでいた……。
祐一が読んでいない手紙の最後にはこう書かれていた。それは香里の手紙にも書かれていたこと。
そして泣きながら書いたのか震えた字で書かれていてそのあたりにはいくつのも水滴のあとがあった。
もしあなたがこの手紙を読んでいるとき前を向いて歩けていないのなら私は悲しいです。だからそんなことはしないで。私はもう居ないけどあなたにはまだ先があります。それを潰すようなことはしないで。幸せになってください。これが私の最後の我侭。
さようなら……私の大好きな人。
美坂 栞
と。
おそらく少女には分かっていたのだろう。二人が自分のせいで前を向けないということが。それは自惚れではなく彼らのことをよく分かっているから……。彼らがとても優しいということを分かっていたから。
そして彼らにもわかっていた。少女の優しさが。それは手紙を読む前から。
そう、彼らにはわかっていたのだ。お互いの想いが、心が……。
そしてそれが彼らを泣かせていた……。
祐一と香里はお互いを支えあっていた。もしどちらかが欠ければもう片方もすぐ崩れてしまっていただろう。
しかしそれももうないだろう。栞の本音を知った今、彼等は前を向いて歩く事に決めたのだから。
これから二人は別々の道を進む。おそらく二人が会うことも稀になるだろう。でも心が離れる事は無い。『栞』という存在が彼等の心の中にいる限り……。
そして手紙を読んだ後二人は墓を去った。行くのは自分の帰る場所、自分を待ってくれる人がいる場所に……。
それは春が終わり夏が来ようとする季節の出来事。そしてそれはまだ太陽が自分の役目を始めたころの出来事。
そしてそれは……
『彼氏と姉』が前に進むことを誓い『彼氏と彼女』、『姉と妹』の絆が永遠のものになった出来事……
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