夕凪
夕暮れについて。
僕らの生きていた時間について。
夕凪
僕の住む街の片隅に、夕陽が無言のまま落ちていく。
赤いフィルター越しの世界は太陽と同じく寡黙で、僕はいつも言葉を探してしまう。
言えなかった言葉があった。
言いたかった言葉があった。
夕暮れにこんなことを思うのは、昼間と同じ距離にあるはずの太陽がやけに遠く感じるからなんだろう。
それよりも遠くに行ってしまった景色たちがある。そんなことを思い出してしまうのは。
例えば、子供の頃に見た街並みも。
初めて目にした雪の白さも、手に掬った感触も。
伸ばした手が掴んだ、彼女の指先の温もりも。
『つかまえたっ』
少しだけ汗ばんだその白さを握り締めて、掠れる声で僕は言った。
振り向いた彼女の瞬間を、僕はいつまで憶えていられただろう。
残念そうに、けれど嬉しそうに。
交代だね、って言ったその響きを、僕は何度忘れてきただろう。
斜めから降り下りる逆光に、僕は目を細めた。
夕陽の残像がシルエットとなって残る、そんな視界の中に、ぼやけた姿が映っていた。
長く伸びた影が、金色の上を渡っている。
緑濃いはずの山々が紅く染まっていた。
彼女の横顔も紅に染まっていた。
僕は走っていた。
昨日の雨を憶えていた地面が足に絡んだ。太腿を持ち上げるたびに熱い空気が喉を灼いた。まだ夏だというのに、汗ばんだ腕を撫でていく風は細く冷たかった。
人の声は聞こえなかった。鳥の声だけは微かに聞こえていた。けれどそれはいつも遠かった。姿を見ることなんて一度もなかった。そしていつしか僕は、それを当たり前のことだと思っていた。はっきりとした理由や根拠なんて、もちろんあったわけじゃない。ただ漠然と感じていた。
きっとこの世界と時間は、彼女にしか続いていない。
自分の背の丈ほどもある草をかき分けて、時々その場で何度も跳ね上がって、僕は彼女の姿を探した。風向きを教えるように一斉に揺れる麦の穂の中に、気紛れに渡っていく白い目印を探そうとした。
それだけだった。
僕達は、ほんとうにただそれだけのいきものだった。
僕が見失ってしまうと、決まって彼女は少し離れた所で立ち止まった。僕を探すように飛び跳ねるからすぐわかった。それが僕達のルールだった。だから僕は、もう一度大きく息を吸い込んで彼女のところへと走り出す。そうするとすぐに彼女も動く。その背中を追って、もう少し、と一際強く足を踏み込んだ、
その時だった。
彼女が何事もなく擦り抜けていった場所で、僕は転んだ。きっと足がもつれたんだろう。とっさに突き出した手が滑って頬から地面に落ちた。土の匂いが一瞬僕を包んで、目を開けると、世界は急に狭く暗くなっていた。飲み込んだ唾は少し苦かった。ひりひりと痛む手をついてなんとかその場に座り込んで、真っ黒な両手を叩き合わせて払った。
血は、出ていなかったと思う。
夕焼けの光のせいで、よくわからなかった。
『大丈夫？』
声はすぐ傍から聞こえた。
逆光の中見上げると、いつの間に戻ってきたのか、彼女が僕の手元を覗き込んでいた。
『大丈夫？』
彼女は繰り返しそう言って、しゃがみこむと僕の手を取った。
『痛くない？』
僕はそれには答えず、とられた指先を絡めるようにして彼女の手を握った。
『――つかまえた』
地面に座り込んだままそう言った。彼女は僕の目を見つめて何度か瞬きを繰り返す。そしてやがて、拗ね
たように頬を膨らませて、
『ずるい』
と言った。
唇を尖らせた彼女の向こうに夕焼けが見えた。
ぼやけた麦の穂が世界を隠していた。
彼女がしゃがみこんで、目を閉じて、十まで数える。小さくなってゆくその声を背中に受けながら、この世界と時間のおしまいを忘れるように、精一杯のスピードで僕は腕を振り、夕暮れを走った。
息を止めて顔を上げれば、見渡すことさえできない広い空が浮かんでいる。遠くに重なる山々の向こうにはまだ見たことのない夜と昼があることも、僕は知っていた。
けれど、だからこそ僕は走った。
向かい風に目を細めて、果てしなく続く虹色の空を忘れて、ただ風を切る腕の冷たさと、地面を叩く自分の足音だけを信じて。
僕は走っていた。
全てが一跨ぎで飛び越えられると思った。
その時ふと、追いかける足音が途切れた。
遊離していた思考は引き戻され、走るのをやめて僕は立ち止まった。息を荒げたまま振りかえって、そこに立ち尽くす彼女を見つけた。
紅い海の真ん中で、彼女は空を見上げていた。
何が見えるというのだろう。それを真似るように、僕は彼女と同じ空を見上げた。
麦の穂先が、輪郭を染める山々が、視界の端を通りすぎて消えた。目に映るのは空だけになった。薄紫の雲が空の真ん中で立ち止まっていた。風はいつの間にか凪いでいた。
視線を戻しても、彼女は立ち尽くしたままだった。そのままの瞳で空を見上げていた。
僕はゆっくりと、彼女に近づいた。枯草が靴の下で音を立て、乾いた草の先が頬を掠めた。
そして目の前で、ほんとうにすぐ近くで足を止めて、声をかけようとしたその瞬間、
『つかまえたっ』
彼女は僕の手を取った。
何か言おうとしていた僕は小さく口を開けたまま、いたずらっぽく笑うその瞳の奥を見た。
紅い空が映っていた。
その中に、自分の姿があった。
『……ずるいよ』
なんとかそれだけを口にすると、彼女はただ笑みを深くして、
『おかえしだよ』
と言って、もう一度声を立てて笑った。
『……痛くない？』
僕の手を取ったまま彼女が言った。その瞳からはもう笑みは消えていた。
手のひらを開いて覗き込んでみる。黒く擦った汚れの中に、所々赤が混ざっていた。
さっき転んだ時に、やっぱり少し切っていたらしい。追いかけっこに夢中で気付きもしなかった。
『待っててね』
彼女はそう言うと、僕の手を両の手のひらで包んで、祈りを捧げるように額に押し当てた。太陽が一度雲に隠れて、やがてまた姿を現わすまでの間、彼女はずっとそうしていた。
斜めに下りる赤い光が、彼女の頬に陰影を描く。
包まれた手のひらが温かかった。
それが、彼女の体温だけのものではないということも、僕は知っていた。
『……はい』
しばらくして、彼女はそっと手を解いた。
まだ少し熱を留めたままの手のひらは白く、土の汚れも、血の跡も消えていた。
『ありがとう』
僕がそう言うと、彼女は少し目を伏せて、頷くように首を振った。
その仕草は何故か哀しそうで、けれど、僕には理由なんて想像することもできなかったから、
彼女の熱が残ったままの手のひらで、僕はそっと、小さな子供にそうするように頭を撫でた。
『ありがとう』
もう一度繰り返して、僕は笑って見せた。彼女の方が一つ年上だったけれど、背はもう、僕の方が高かった。すぐ傍まで近づいていたせいか、彼女は少し見上げるようにして僕の顔を覗き込んだ。
けれど、それもほんの少しの間だった。
自分の仕事を思い出したように一際強く吹きつけた風が、彼女の長い黒髪をさらって跳ね上げた。それが彼女の顔をヴェールのように隠した。そしてその風も吹きぬけて、金色の光を浴びながら垂れ落ちる黒髪の向こう側で、
『……ありが、とう』
海鳴りに消えてしまいそうなほどに小さな声が聞こえた。
彼女が泣いていた。
握り締めた手を、もう片方の手のひらで包み込むようにきつく胸に抱いて、冷たい空の中、風に肩を揺らせて泣いていた。
俯いた睫毛の先から、涙が一粒落ちた。彼女の影に溶けるその軌跡を僕は見つけた。見つけてしまったから何も言えなくなった。中途半端に開いた唇からは息だけが静かに漏れた。太陽はもう沈んでいて、照り返しの残光が辺りをさらに紅く染めていた。
『ありがとう』
聞こえなかったのかもしれない。そう思って、僕はもう一度言った。彼女は動かなかった。
『ありがとう』
繰り返すと、彼女は微かに首を振った。その理由がわからない僕は、ただ彼女の頭を撫でた。けれどその度に彼女の嗚咽は増していた。何を言うことも、その頭を撫でてあげることさえできなくなった僕に、彼女はゆっくりと顔を上げて、大きな瞳を細めて静かに笑った。
『……ありがとう』
その拍子に、涙がもう一筋、頬を伝って流れた。
僕は空を見上げた。
恥ずかしかったのか、それとも泣きたかったのかはわからない。
陽が沈んだ後の麦畑は風さえも凪いでいて、朱色から紺へと変わる空の中に長い雲が浮かんでいた。
その景色が遠かった。
ありがとう、と言った彼女の瞳がまだ残っていた。
目を細めると色が滲んだ。
閉じてしまえば、もう二度と開けないような気がした。
だから僕はそのままで立っていた。
手のひらの下で、彼女も空を見上げたのがわかった。
その顔を見ないように、僕はただ上を向いていた。
何がそんなに遠かったのだろう。
哀しかったのか、悔しかったのかさえわからない。
ただ僕は、あの時に知ってしまったんだと思う。
手を伸ばしても届かないことを。
世界には果てがあることを。
彼女の涙がそう言っていた。彼女が一つ息を吸い込むたびに僕の手は震え、それが瞳にまで伝わった。歯を食いしばると打った頬が痛んだ。いつかの父親の言葉を思い出した。思い浮かべた彼女の笑顔は、けれどすぐに泣き顔に変わった。
『……忘れさせてあげる』
見下ろすと、彼女の瞳がすぐそこにあった。
彼女は目を閉じて背伸びをして、額と額を合わせた。
うっすらと汗ばんだ肌の感触が、穏やかな鼓動に乗って身体の中に染み込んだ。目を閉じても涙は流れなかった。麦の海は静かだった。虫の声が、世界の内と外から聞こえた。それが合図だったかのように彼女は額を離した。太陽の匂いが離れていく。目を開けると残光はもう薄くなっていた。彼女はその輪郭を宵闇に溶け込ませそうになりながら、僕の前に立っていた。
ありがとう、ともう何度目とも知れない呟きを宙に放って、彼女は駆け出した。薄暗い海の真ん中に立ち尽くしたまま僕はその後ろ姿を目で追った。麦のヴェールの中に薄れていくそのシルエットが一度立ち止まって、
彼女が振り返った。
その向こうの山の端から、朧な月が昇ろうとしていた。
微かな光を背に受けて、彼女は大きく飛び跳ねると、
『――ばいばい！』
大きく、手を振った。
『ばいばい！』
何度も僕の名を呼びながら、彼女は飛び跳ねて手を振った。彼女の方からそう切り出すのは初めてだった。だから僕は、今までにないくらい大きく、彼女の顔がはっきりと見えるように地面を蹴って、
『また明日！』
そう叫んだ。彼女が笑って頷こうとする、その瞬間までは見えた。けれどその前に僕は地面に落ちてしまった。麦の穂に邪魔されて頷いた笑顔は見えなかった。
僕がもう一度飛び跳ねた時、彼女はもう、僕に背を向けて走っていた。
どうしてあの時飛び上がったままでいられなかったんだろうと、そう思う時がある。
どうして僕は、あの時、目をつぶったままでいられなかったんだろう。
夕陽はもうビルの向こうに沈んでいた。
残光さえも薄れた空の端を、僕はまだ見つめていた。
思い出すことが多くなったのは、忘れている時間が長くなったからだ。
今の僕は、そんな景色を見ることもない。
その中に佇む、君の面影を見つけることさえできないけれど。
『……忘れさせてあげる』
ただ僕はあれ以来、涙を流した記憶がない。あの時自分が泣いていたのかさえも思い出せない。
彼女と遊んでいたのはいつも夕暮れ時だった。
あの夏以来、彼女には会っていない。
立ちあがって窓を開けると、冷たい風が髪を跳ね上げた。
けれどその向こうに彼女はいない。
いつか思い出せる時が来るのだろうか、と思う。
あの夕凪を。
僕らの生きていた世界を。
薄闇の中で僕は手を開いた。
彼女の温もりはもう残ってはいない。
風が行きすぎて、僕は窓を閉めた。
彼女が祈っていてくれればいい、と思った。
ガラスの向こうでは、折り重なった木の葉たちが、静かに次の風を待っている。
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