恋する乙女というものは
「たっだいま〜〜〜♪」
勢いよく開かれたドアと共に、元気な声が家中にこだました。
沢渡真琴の帰宅である。
「あっきの味覚〜♪秋のみっかく〜♪楽しみ〜♪」
一昨日からの水瀬家の食卓は賑やかだった、今日も凄いご馳走だろう。
真琴の心は弾んだ。
「あきこさーん、晩御飯まだーーーーーーー………………？」
元気よく台所に飛び込んだ真琴の目に飛び込んできたのは…
「………」
「………あら真琴、お帰りなさい」
…沈黙しながら下を向いている水瀬母娘。
何処か遠くを見つめるような瞳、ぼーっとした雰囲気…はっきり言って怖い。
もっとも母親の方は直後にいつもの笑顔で返事してきたが、返って不気味である。
「う…た、ただいま…こ、今夜のおかずは何？」
動揺しつつも、この妙な雰囲気を払おうとするように出来る限りの陽気な声で聞く真琴。
結構健気である。
彼女の想いが伝わったのか、秋子は極めて陽気に答えた。
「ありません♪」
「……………あう？」
あまりといえばあまりな一言にきょとんとする真琴。
「だから、今日のおかずは無いのよ」
「え…ご、ご飯だけ？」
「いえ、見てのとおりご飯も無しよ」
「ええええええっっっ！？」
ようやく事態を把握した真琴は、びっくりして飛び上がり壁に足をぶつけゴミ箱を踏み抜いてしまう。
「真琴、落ち着いて」
「あうっ！？何時の間にか手に餅つき用の杵を！？」
「…お約束はほどほどにね、真琴」
「…はい」
混乱しながらもお約束をかます真琴は別の意味で健気である。
「…何で今日はみんなご飯抜きなの？」
「うん、それはね…私とお母さんのたいじくっ！？」
「これには理由があるの」
突如不穏な事を口走りかけた名雪を制し、優しい笑みと共に真琴の肩に手を置く秋子。
「う、うん…って、名雪が動かなくなってるけど…」
「目の錯覚です！」
「あ、あう……」
「理由は私が話します…聞いてもらえますね」
「は、はい…」
「今日は何にしようかしら…」
ある日の夕方の水瀬家の台所。
一人の美女が額にシワをよせて悩んでいた。
「って、秋子さんはシワが出来る年になったから晩御飯抜きにしたの！？」
「違いますっっ！」
「やっぱり今の年で美女って言うのは無理があるよ…」
「名雪まで…私だって好きでこの年になったわけじゃありません！」
「あ、あう…は、話の続き…」
「分かりました」
台所で一人悩む秋子。
「祐一さんが居たらお腹一杯食べてもらえますから、沢山作れるものが良いんでしょうけど…」
沢山作れば、それだけ美味しくなりますからねと付け加える。
しかし、相沢祐一はあいにくと先ほど出かけたばかりだった。
何でも『男の秋の旅は貧乏旅行だ！』と、悪友の北川と共に日本各地の田舎の寺周りをするらしい。
明日から３連休なのでその分だけ旅行するのだろう。
『秋子さんお代わり！』
『はいはい』
嬉しそうな顔をし、口いっぱいに秋子の作ったおかずをほお張る姿が彼女は好きだった。
その笑顔が３日間も見られないとは…
「今週は市場まで出かけて良いのを仕入れたのに、困りましたね」
この最高の食材を使えば、祐一の笑顔がまた見られただろうに。
秋子はとても残念そうだった。
「それなのにあの触覚君のせいで祐一さんは旅の空…北川さん、許しません！」
…とばっちりを受けた触覚君は可哀想だった。
「つ、つまり晩御飯が無いのはあの触覚男のせいなのねっ！分かったわよぅ、真琴がデンジャラスな悪戯を奴に…」
「真琴、まだ続きがあるのよ」
秋子が気がつくと横に名雪が居た。
「お母さん、帰った娘をほっといて妄想してないでよ」
「あら、名雪、お帰りなさい」
「た、ただいま…」
いつものようににっこりと微笑む秋子。
妄想顔から急激に変化した彼女に、名雪はちょっと引いていた。
「そう言えば…何悩んでたの？」
「ええ、祐一さんの笑顔…じゃなくて今晩のおかずよ」
普段なら育ち盛りの子供が３人―祐一も含む―が居る為、水瀬家の食卓は必然的に賑やかになる。
しかし、今日から３日間、祐一は居ない。
「真琴が居ないのだったら、食卓から肉まん抜くだけで良いのにね」
「そうね」
「って、真琴の主原料が肉まんみたいな言い方はしないでっ！」
「でも事実だよ、それ」
「だったら名雪の主原料はイチゴサンデーじゃない！」
「う、ううー！」
「…２人とも、続き話すわね」
と、急に何か思い出したように名雪は言った。
「あ、そう言えば肉まんって……………カロリーが高いんだよね」
「え？」
その名雪の言葉に秋子の動きが一瞬止まった。
「あ、何でも無いよっ！」
「……………………」
慌てて言葉を否定する名雪だったが、秋子は何かを考え込むように目を瞑っている。
考えがまとまったのか彼女は、名雪の肩に手を置いていた。
「名雪…そうだったのね」
「そうだったのねって…べべべべ、別に何も無いんだよ」
「じゃあ…これは何？」
名雪の腰のポケットに手を伸ばす秋子…直後、一枚の紙が彼女の手の中にあった。
「あっ、あっ、あーーーーーー！！」
「名雪……貴方がこれだけだとすると…………」
その紙を見た瞬間…秋子は凍った。
「……………ま、まさか私まで？」
「あ、ちょ、ちょっとお母さん何処行くの！？」
名雪の声に構わず脱衣所に駆け込む秋子。
一瞬後、絶叫が上がったのは言うまでも無かった……
全てを話し終わり、一息つく秋子。
彼女とは対照的に何故か目を輝かせる真琴。
何故か偉そうに腕組みをすると、ソファーに深く腰かけ、ふんぞり返る。
「ふっふっふ、全ての謎は解けたわよ…今夜の晩御飯がないのは」
「私と名雪の体重が思った以上に増えていたからです」
「って、言っちゃうのっっ！？」
謎は数舜で解決した、世界でも稀なスピード解決であろう。
って、言うかそれを口走ったが為に張り倒された名雪は何なのだろうと真琴は思った。
「それでね真琴、私達は祐一さんの為にもダイエットに挑戦してみようと思ったの」
「え？何で祐一なの？」
「体重が増えたから、２人でダイエットしようって話になったんだけど…」
そう言って秋子の方をちらりと見る名雪。
秋子は頷いて話を引き継ぐ。
「その時、最初にも言いましたけど祐一さんの笑顔が浮かんでしまって…だからです」
ただダイエットするより祐一さんの為にした方が効果もありますし、と続ける秋子。
痩せて綺麗になった私達を見たら祐一も喜ぶし…とこちらは名雪。
「そ、そんな滅茶苦茶な…」
流石の真琴も引いてしまった。
確かに祐一の帰還が待ち遠しい秋子と名雪はそれで良いかもしれない。
しかし、真琴にとってはそうではない。
「…それだと真琴は全然関係ないんじゃ…」
「真琴、こう言う事は家族全体で頑張らなきゃいけないと思うの」
「そうだよ、家族一丸となって頑張れば何でも出来るんだよ！」
「で、でも…真琴は祐一の食べてる時の笑顔なんて興味無いし…」
ぷうっと頬を膨らまし、あくまで抵抗する真琴。
「真琴は…祐一さんの事が好きじゃないの？」
「…………え？ま、真琴は祐一の事なんか別に………」
「真琴、素直になっちゃった方が良いよ〜」
顔を真っ赤にして恥ずかしがる真琴。
そんな彼女の耳元で秋子が囁いた。
「真琴…好きな人の為に痩せると考えてみれば……それは素敵なことじゃないかしら？」
「……………！」
真琴の中に一条の稲妻が落ちた。
何故その事に気づかなかったのだろう
今までの理不尽な二人の要求
しかしそれは
結果や効力がどうあれ、想い人の為に努力する事
これこそ恋する乙女の発想ではないか
そして…………沢渡真琴もまた、恋する乙女であった。
いや、乙女だと認めたのだった。
…ちなみに今日、真琴は恋愛少女漫画を買ってきていたのは言うまでもない。
「真琴も、真琴も協力する！」
「真琴…」
「よく言ってくれたわ、真琴」
抱き合う３人…それは一つの目的に向かう『家族』そして『乙女達』の姿だった。
「あ、お母さん…買収用のお金どうしよう？」
「言っちゃ駄目よ名雪！」
「あ、あううううううーーっ！！？？」
兎に角、その日から水瀬家母娘の戦いは始まった。
「お、お腹減った…真琴、もう駄目…」
「眠っちゃ駄目よ！眠ったら死ぬわよ！」
「…ここは雪山じゃないよ二人とも」
極限までの絶食生活
「さあ二人とも、この特製ジュースを飲めば…」
「「……オレンジ色してるけど」」
「目の錯覚よ」
飲料のみの最低限の栄養補給
『腕を開いて背伸びの運動〜♪』
「あの…何でラジオ体操がダイエットになるのかな？」
「美汐がそう言ってたのよぅ！」
「流石天野さんですね、見る所が違います」
「………おばさん知識（ぼそ）」
「「名雪っっっ！」」
効果的な運動の数々
「駄目、美汐は家に居ないって…」
「だったら私が香里にかけてみる！」
「私は…誰にしましょうか？」
「秋子さんは駄目―――――――っ！！！」
「…断れないよね、お母さんだと」
みちづれ…もとい、協力者の確保
…結局誰も見つからなかったようだが
こんな感じで無謀とも言える３日間が過ぎ去った。
結果………
「わあっ、秋子さんすっごくスリムになったね」
「そう言う真琴も綺麗になったわよ」
「良いのかなあ、こんなに上手くいって…」
３人ともほどよく痩せ、美しくなっていた……信じられない事だが。
これこそ奇跡と呼べるかもしれない。
「肌が前よりツルツルになったんだよ♪」
名雪はより可憐に。
「余計なお肉が落ちてスリムになったのよ！」
真琴はより快活に。
「あの人と初めて会った時の事を思い出しますね、今の私を見ると」
秋子はより若く…
「って、お母さんはただ変わってないだけじゃ…」
「しっ！名雪、それは言っちゃ駄目よぅ！」
「………貴方達………」
「「ごめんなさい」」
…こんな感じで体重減と各々の満足感は達成されていた。
「祐一さんはまだかしら？」
「きっと近くのコンビニで真琴に肉まん買ってきてるのよ、お土産で」
「そうだよね、祐一ってそう言う性格だね」
３人ともずっと笑顔だった
それは家族一丸となって何かを達成したと言う充実感による物だった。
早く祐一に美しくなった自分を見てもらいたい気持ちで一杯だった。
可愛い乙女心と言う奴である。
（祐一は肉まん買ってきてくれるかなあ、楽しみ♪）
（祐一…綺麗になった私を貰ってね♪）
（美しくなった私に祐一さんは獣のように襲って来たりして…うふふふ）
…乙女にも色々な人達が居るようだ。
「………祐一、遅いね」
「予定では昼までには帰って来るはずなんですけど」
時計の針はとっくに１２を過ぎていた。
それまでの間、真琴は顔のマッサージ、名雪は鏡で髪形のチェック、秋子は小さな声で「了承、了承」と祐一を出迎える準備に余念が無い。
…一部に問題があるかもしれないが、これも最高の笑顔、最高の挨拶で待ち人を迎えようとする乙女心である。
「ホントに遅いわね…ひょっとして事故でも…」
「「真琴！」」
「ご、ごめんなさい」
３人の心の中になんとも言えないもやもやが漂い始めた…その時。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
顔を見合わせ、玄関に走る３人。
「祐一かな？」
「ええ、このチャイムの押しかたは祐一さんです、間違い有りません」
「そ、そんなの分かるんだ…」
玄関に辿り着く３人。扉はまだ開いていない。
真琴はややぎこちない笑顔を、名雪はいつもの可愛らしい微笑みを、秋子は自愛に満ちた表情をした。
そしてドアが開く。まるで３人が迎えの態勢を整えるのを待っていたかのように。
―――――――――――――そこには愛しい祐一の……
「祐一、お帰り〜」
「祐一、お帰りなさい！」
「祐一さん、お帰りなさい」
「ちわ〜〜〜〜、三河屋です♪」
前掛けと帽子を装備し、手にビール瓶を抱えた姿が。
「「「…………」」」
「あ、あれ、面白くなかったか？帰りの電車の中で北川と二人で考えたんだが……って、何故みんなそんなに怖い顔に？それに手に突然凶器を？何故…」
次の瞬間、街の各所で季節外れの打ち上げ花火が目撃されたという。
「「「…………」」」
開け放されていたドアを無言で真琴が閉め、再び母娘３人が集まる。
「…ゆ、祐一さんはまだかしら？」
「き、きっと近くのコンビニで真琴に肉まん買ってきてるのよ、お土産で」
「そ、そうだよね。祐一ってそう言う性格だね……って、わああ！？祐一――――――っ！！」
『可愛さ余って憎さ１００倍』『愛とは報われないもの』…昔の人はよく言ったものである。
しかし彼女達はまた立ち上がり、行動するだろう。
それが乙女と言う者なのだから――――――――――――
「真琴！次こそ祐一さんをノックアウトする為にも再度ダイエットよ！」
「あうっ！負けないわよぅ！」
「２人とも現実逃避してないでさっさと祐一探しに行こうよっっ！」
終わり
結果のページ
このSSは、作者の方に二次著作権が存在します。
転載、無断引用を固く禁止します。
戻る