夢の中でも
不治の病から奇跡的な回復を遂げてから３年が過ぎ、高校３年生になった栞は大学を受験した。
そして今、栞は第一志望の大学の合否通知の封を切った……。
「……３７度８分」
さっきまで栞が、くわえていた体温計の示した数値を見て、香里は少し厳しい表情で栞を見た。
本命の大学として目指していた祐一が通っている大学の合格通知を見た栞は、
今までの疲労と希望の大学に合格した事によって緊張から一気に解放されたため、その場に座り込んでしまった。
現役で地元国立大学に合格した香里は、現在自宅から電車で通学しているので、家では可能な限り栞の勉強を見てあげていた。
栞は、高校１年の時に２年間全く授業に出ていなかった事もあり、そのブランクから
なかなか学校の授業についていく事が出来なかったが、香里の厳しい、本当に厳しかった指導の甲斐があり、
最後に受けた全国模試で、何とか祐一の大学の合格判定でＢ判定を出す事が出来た。
試験でもそれほど大きなミスはしなかったので、ある程度自信はあったが、
実際こうして合格した栞は、興奮状態となり一時的に熱が出てしまったようだ。
「えっ？ そんなにありますか、お姉ちゃん」
栞は、自室のベットに運ばれ、肩までしっかりと布団を掛け横になっていた。
栞自身、熱っぽいような気もしたが、平熱を１度以上も上回っているとは思ってもみなかった。
少し驚いた様子で香里から体温計を受け取り、栞は自分の体温を確認した。
「よっぽど嬉しかったのね、栞」
「ええ、それは、やっぱり……大学に合格すれば嬉しいです」
「相沢君の通っている大学にね」
「……」
「私の大学は、受けもしないのに」
と、少しわざとらしく大きなため息をつく香里。
「お姉ちゃんの大学は、私には無理ですっ！」
香里の通う国立大学は、栞の学力では１年間浪人しても合格する事が出来ないであろう難関校。
それに栞は、２年生になった時点で、もう国公立大学は諦めておりセンター試験も受けてはいなかった。
「そう？ 私には、栞が２年生になった時ぐらいまでは、相沢君の大学も難しいように思えたけど」
「確かにそうだったかもしれませんが偏差値的には、努力すれば合格出来る可能性は十分あったと思います」
「偏差値、それだけ？ じゃー、どうして、あの大学なの？」
「それは、その……」
「校風？」
「いえ、実はどんな学校かは、名前くらいしか知らなくて……」
「尊敬する教授がいたとか？」
「どんな先生がいるかも、詳しくは……」
「相沢君がいるからでしょう？」
「……っ！ お姉ちゃんは、いじわるです」
香里の一言で、栞の赤い顔がさらに真っ赤になった。
「動機が不純だわ」
「そんな事言うお姉ちゃん、嫌いです」
実際、ここまで栞が頑張れたのは、やはり祐一と同じ大学に行きたいという
強い気持ちがあったからだという事は、香里にもよく分かっていたし、
病気が治ってからも栞を支えてくれた祐一には、感謝もしていた。
だが香里は、まるで祐一にヤキモチでも焼いているかのように嫌味を言い続けた。
「でも、本当によく頑張ったわ。栞、合格おめでとう」
「ありがとう、お姉ちゃん。私が合格出来たのは、みんなお姉ちゃんのおかげです」
ふっと表情を和らげ、香里は栞に微笑みかけた。
栞は、２度１年生をやり直す事になり、大学生となった香里は、栞の勉強を見てあげた。
初めは、なかなか思うようにいかず、特に単元が変われば内容が大きく変わる数学と違って、
英語のように積み重ねを必要とする教科は、香里がいくら説明しても、栞には理解出来ない事が多かった。
だが、香里は根気強く、何度も何度も繰り返し教え、時には中学の時の教科書を引っ張り出し、
完了形や、関係代名詞の使い方や表現について栞に説明し直す事もあった。
香里は、自分の受験の時よりも、栞の受験の時の方がずっと緊張していた。
栞が試験を受ける日が近づくにつれ、香里は、まだ何かやり残した事はないだろうか、
そう思うとなかなか寝付けず、祐一の大学の過去数年間の受験問題を確認し、その傾向と対策を考えたりもした。
もし今年合格出来なければ、栞は祐一と共に大学を通う事が出来なくなる、そう思うと香里は、いてもたってもいられなかったのだ。
合否判定の通知が送られて来る今日、栞が郵便受けから持ってきた入学手続きの用紙が同梱されている大きな封筒を見て、
香里は涙が零れそうになった。自分が大学に合格した時とは比べものにならないほど、香里は嬉しかったのだ。
そして、香里は栞の大学合格をたたえ、栞も今までずっと勉強を見てくれた香里に心から感謝した。
「とにかく、少し休みなさい。落ち付けばきっと熱は下がるから」
「はい、お姉ちゃん」
香里は、栞の部屋を出て自室に向かった。
「少し休みなさい、か……」
ベットに横になりながら栞は、熱を出してしまった自分に対する香里の態度を見て、思う事があった。
退院してまだ間も無かった頃、栞が一言でも「疲れました」、とか「調子が悪いです」、などと言おうものなら、
すぐさま救急車が呼ばれて集中治療室に運ばれ、１日中検査を受けさせられたものだった。
だが、退院して以来、風邪一つ引かなかった栞への、香里を含め周りの人間の対応は、
ごく普通の健常者に対するものと全く変わらなくなっていた事に、栞は３年という年月を感じずにはいられなかった。
そして、栞はゆっくりと眠りについた……
栞は夢を見ていた。
もう幾度となく見た夢。
音もなく静まり返り、寒くもなく暑くもない病室のベットで、栞は仰向けになり天井を眺めている。
声を発する事は出来ない。
体を動かし寝返りを打つどころか、指先を動かす事も出来ない。
だが栞には、わかるのだ。
自分の周りには担当医と看護婦、両親と姉が、まるで意志を持たない人形のように立っている。
そして、どんな効果があるのか知らないたくさんの機械が並んでいる。
栞は、その無機質な空間で最期を迎える瞬間、決して抗う事の出来ない自らの死が訪れるのを、ただ待っているのだ。
そして夢の中で、栞はゆっくりと目を閉じた……
「大丈夫か、栞」
「……祐一さん、どうしてここに？」
「ああ、昨日まで後期試験があってな、今さっき家に着いたところさ。それから栞、合格おめでとう」
「ありがとうございます、祐一さん」
祐一は、今、自分が通っている大学の近くで一人暮らしをしており、
春休み、夏休み、冬休みといった長期休暇の間は水瀬家に戻っていたのだ。
今日、自分の大学の合否通知が送られる事を知っていた祐一は、水瀬家に着くとすぐに美坂家にやって来た。
そして香里から、栞は今眠っていると言われた祐一は、栞を驚かせようと、ベットの横で栞の目が覚めるのを待っていた。
だが、苦しむような様子はなかったが、栞が突然眠ったまま涙を流し始めたので、
心配になった祐一は、栞の右手を両手でしっかりと握り締めていた。
「栞、怖い夢でも見たのか？」
「どうしてですか？」
「だって、今、栞は眠りながら泣いていたじゃないか。俺は、栞が泣いているのを見たのは一度しかなかったから」
祐一は、学校の中庭で、たくさんのアイスを抱えた栞と再会した時の事を思い出した。
栞が、ずっと自分の中に閉じ込めていた思いを祐一に打ち明けた時、栞は人目をはばかる事なく大声で泣いた。
それは、栞が祐一に見せた初めての悲しみの涙であった。
そしてそれから３年間、祐一は、栞が泣いたところなど見た事がなかったのだ。
「あっ……、そうですね、泣くのはどちらかと言えばやっぱり独りの時が良いです。
誰かといる時、その……祐一さんと一緒にいる時は、やっぱり笑顔でいたいですから。
今見ていた夢は怖いといえば怖い夢です。また病院で死んでしまう夢を見ました。
もう慣れたと思っていたのですが、やはり涙が溢れてしまいます」
ベットから身を起こし、自分が眠りながら泣いていた事に気が付き少し照れながら微笑んでいる栞は、
まるで有りふれた日常の出来事のように飄々と話し始めた。
もう何度同じ夢を見た事だろう。
香里に「次の誕生日まで生きられない」、と告げられた日も、栞は今日と同じ夢を見た。
そして栞は目が覚めた時、それが本当に夢だったのか、それとも目を覚ました今が夢なのか、
自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからず震える自分自身を抱きしめ、
その存在を確かめても震えは止まらなかった。涙が止まらなかった。
明日には、１時間後には、次の瞬間には、夢ではなくなるかもしれない。
栞はずっと怖かった、自らの死というすぐ目の前にある現実にずっと怯えていたのだ。
３年前、栞は担当医に「生命の奇跡によって病気は治った」、と言われた。
その時、何の裏付けもないその言葉によって栞はどれ程の安らぎを得る事が出来たのだろうか。
確かに、栞が患っていた病気は治ったかもしれない。
だが栞の人生そのものが作り出したカルテに載る事のない心の病、その死への恐怖心は決して消え去る事はなかったのだ。
「すまない、栞」
正直なところ、祐一は忘れつつあった。
祐一が初めて栞に出会った時、栞はもう数ヶ月と生きられないと香里を通じて担当医から言われていたという事、
そして、もう残り少ない生命であると知りながら、学校での生活を栞と共に過ごした事。
それは祐一にとって、完全に忘れる事など出来るはずはなかった。
だが、３年という年月が経ち、栞が病院で死を迎える夢を見て涙を流すという、
その事実を意識するような出来事がなければ全く思い出す事は出来なかった。
そう、祐一にとっては、それはもう過去の出来事だったのだ。
「祐一さん、どうして謝るんですか？」
「栞が、こんなにも苦しんでいるなんて思ってもみなかったんだ。
もう病気は治ったから、もう３年も経ったから、もうすべては終わった事だと思っていたから、
だから本当に、すまなかった」
「祐一さん、そんなに自分を責めないで下さい。
それに、今見た夢は今までとは少し違っていました。私が目を閉じようとした時、私がすべてを諦めようとした時、
右手から暖かい温もりを感じました。そして、その温もりが私に生きる希望を、生きる勇気を与えてくれました。
だから私は夢の中で、閉じかけた目をもう一度開いたんです。
夢の中で、その温もりを与えてくれた人を見る事は出来ませんでしたが、それが誰だったのかは、はっきりとわかりました」
栞は、今、祐一に握られている自分の右手を見た。
かつて栞は絶望し、自らの命を絶とうとした事がある。
その時、思い留まる事が出来たのは、祐一と出会う事が出来たから、
短い時間ではあったが祐一と共に過ごす事が出来たからであった。
そして、今、夢の中で栞に温もりと安らぎを与え、栞を救ったのもまた祐一であったのだ。
「そうだ、栞。一緒に住もう」
「えっ？」
「俺の部屋は、大学の近くのアパートで、二人でも十分な広さなんだ。
だから栞、俺と一緒に住もう。そうすれば、栞を独りになんかしない。
俺はもう夢の中でだって栞を独りにはしないから」
栞の心の病は、治るという事はないかもしれない。
だが祐一は、栞がもう夢の中で生きる望みを失う事のないように、
栞の心にある大きな苦しみや悲しみを、喜びに変えていけるように、
これからずっと栞に温もりを与え続けていきたいと思った。
なぜなら夢はその人の心を映し出す鏡なのだから。
「大丈夫か、栞」
「……祐一さん？」
苦しむような様子はなかったが、栞が突然眠ったまま涙を流し始めたので、
隣で寝ていた祐一は、栞をしっかりと抱きしめていた。
栞が、大学に入学してから１年が過ぎようとしていた。
一緒に住もうという祐一の提案に対して、栞はほぼ同意したが、とりあえず同じアパートに部屋を借り、
しばしばお互いがお互いの部屋に一緒に泊まるという半同棲生活を続けていた。
「怖い夢でも見たのか？」
「いえ、違います」
「でも、今、栞は眠りながら泣いていたじゃないか？」
「これは、悲しかったからじゃないです」
「それなら、どうして……」
栞がまた自らに死が訪れる夢を見たのかと思った祐一は、栞に精一杯の温もりを与えようと、
栞を抱きしめていたのだが、栞はあっさりとそれを否定した。
「結婚式を挙げる夢を見ました」
「へぇー、そうだったのか。それで、相手は誰だった？」
「それは……ナイショです」
「あーっ、このこのっ！」
栞に軽くヘッドロックをする祐一。
祐一は、栞に安らぎを与え、もう二度と悲しい夢を見る事のないように一緒に住もうと思った。
だが今、栞という素晴らしい女性と出会い、そして一緒に過ごす今の暮らしを、祐一は幸せだと感じていたのだ。
「じゃー、栞」
「何ですか？ 祐一さん」
「今、幸せか？」
「はい、とても幸せです。こうして祐一さんといられる今の暮らしも、そして、
夢の中でも」
結果のページ
このSSは、作者の方に二次著作権が存在します。
転載、無断引用を固く禁止します。
戻る