涙の笑顔が終わるとき
フッ――――
「手術中」のランプが、音も無く消えた。
灯りの少ない、冷えた廊下。
非常灯の緑だけが、その場を照らす光となる。
そこに待つ者達の間に、緊張が走った。
生死の天秤は、果たしてどちらに傾くのか……
ばたん
両開きの大きな扉が開かれた。
髪の短い、白い肌の少女が、移動式のベッドによって運ばれてくる。
「栞！」
共に出てきた医師の表情は、明るくない。
不安に思いながら駆け寄る家族達。
その時、栞と呼ばれた少女が、ぴくん、と微かに動いた。
「手術はひとまず成功しました。が、いまだ予断を許さない状態です」
「……っ」
栞はふらつく手を、駆け寄ってきた家族の手に合わせた。
「おねえちゃん……」
呼ばれた姉は、今にも泣き出しそうな顔で、栞の細い手をぎゅっと握りしめる。
「あたしはここにいるわよ、栞……」
「あのね、実は……」
手術の影響なのか、今にも消え入りそうな、かすれた声。
その声のまま、栞はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「なに？」
「お姉ちゃんのお気に入りのスカート、やぶっちゃったの私なんだ……」
「……は？」
「あと、シャープペンシルの針、時々こそっと借りてるの」
栞の告白は続く。
「それと、チェックの入ったハンカチ、黙って使ってる」
「……何を言ってるのよ、栞」
「いや、今だったらお姉ちゃん、何言っても怒らないかなーって」
「……」
姉は、手馴れた動作で、栞の耳をぎゅーっとひっぱった。
「あいたたたっ！わ、私、手術直後っ！」
「さんざん心配させといて、言うことはそれか―――――――――――っ！！！」
両親と医師達はあきれ顔でその様子を見ている。
「…なんて言うか、結構平気みたいですな……」
「お恥ずかしい限りです…」
そんな会話の間にも、姉妹の口論は続いていた。
「大体、病気だからって、そんなの関係ないでしょうがっ」
「そこは雰囲気で流してくれると嬉しいな、と」
「流すか――――――っ！！」
だんだん不利な状況になってきた栞。
「と、いうわけで、今から冬眠モードに入りまーす」
言うやいなや、栞はシーツを頭まで被った。
「なにがというわけなのっ？！って、ちょっと栞ーっ」
ぱたり。
ぐーぐー……
「…ほんとに眠ったわ、この子」
「まあ、手術で疲れたんでしょう」
栞はその後一週間程、眠りつづけた。
夢の中。
小学生の栞が、その頃の友達と一緒に遊んでいた。
一面が銀色に染まった世界で。
「わあ、おっきな雪だるま」
「私が作ったんだよ。すごいでしょ」
「これ、身長の倍くらいない？どうやって頭乗せたの？」
「実はね、これには秘密が……」
言いかけたところで、栞は止まった。
「どうしたの？」
「けほっ！けほっ！」
頭痛、咳、嘔吐。
様々なものが、栞に襲いかかる。
そして……
ぽとっ。
真っ白な雪の上に、小さな赤い染みができた。
まず、栞の目に入ってきたのは、見慣れた白い天井。
そして、雪の降る窓の外。
ベッドに寝ている自分。
すぐ側で、椅子に腰掛けている姉。
長い棒にぶら下がってる、点滴の袋。
栞は長く眠っていた体をほぐすため、小さく伸びをする。
「ん……っ」
うとうとしかけていた姉は、その呟きを敏感に感じ取り、ぱっと目を覚ました。
「栞っ、起きたの？！」
「う、うん」
その反応の早さ、いや、勢いに驚く栞。
「もう、このまま目を覚まさないかと心配したわよ」
「どうやら閻魔様も、俺の扱いには困り果てたみたいだぜ」
栞はぐっ、と親指を立てて満面の笑みを浮かべた。
「そんな、ヒーローもののライバルキャラが、
生き返った時みたいなセリフをっ！」
「しかも、死の縁から蘇ったおかげで、戦闘力が大幅アップ」
「何者よ、あんたはっ！」
姉はくすりと笑った。
栞も笑った。
詰まっていた空気が抜けたような、そんな不思議な笑いだった。
「あ、そうそう。お姉ちゃん」
「なに？」
「祐一さんには私のこと、退院できるまで秘密にして欲しいの」
「なんでなの？相沢君、きっと喜ぶと思うけど……」
「元気な姿で祐一さんに会いたいの」
「……そっか。そうね」
「その時は私のこと、『帰ってきたしおりんＲ』って呼んでね」
「センス悪っ！」
また、くすりと笑う姉と妹。
外の雪は、そんな二人を見守るように、静かに降っていた。
――――手術はできる、確かに。
しかしその大手術に、とても体は耐えきれないだろう。
例え成功したとしても、術後の反動がある。
それに耐えきれるなんて―――――
また姉が見舞いに来た時のことだった。
「栞ーっ、元気？」
「う、うううっ……」
ベッドの栞がうめくように泣いている。
「な、泣いてるの？栞…」
姉は思った。
この前はあんなに明るく笑っていたけれど、やはり辛いのだろうか。
愛しい人とも会えず、ただ寝ていることしか出来ない現状。
ここは、あたしがしっかりと支えてあげなきゃ……
「うう……看護婦さんが、アイス食べちゃダメだって……」
姉はコケた。そりゃもう思いっきり。
「それぐらい我慢しなさいよっ」
「だって、アイスなんだよお姉ちゃん！」
「だってじゃないっ！」
まったくこのアイス好きは…
心の中で、姉はため息をついた。
「…果物は平気なの？りんごとか買ってきたんだけど」
「うーん、ちょっと聞いてみないとわかんない」
「とりあえず、ここに置いとくわよ」
袋詰の果物を、台の上に置こうと……
「……ん？」
そこには先客がいた。
「あ、それはっ！」
豪華な皮であしらえてある、分厚い日記。
「あんた日記なんてつけてたの？」
「やっぱり病人が日記をつけるのはお約束かなって思って」
「いや、その動機間違ってる」
ぺらぺら
「ああっ！そんな勝手にっ！」
「いや、勝手にって言う程書いてないじゃない」
ページにして三枚。
いわゆる三日坊主ってやつだった。
「入院して退屈してるのに、毎日書くネタなんてあるわけ無いよー」
「まあ、それはそうかも」
「ドラマのヒロイン達は凄いよね、毎日きちんと日記つけれるなんて」
「…変な感心の仕方ね」
そうしてまた、姉妹の会話が始まる。
そうすることが、昔からの習慣になっていた。
大体、夜の七時半まで。
この日も姉はその時間まで、ずっと側にいた。
「……っ」
「ん？どうしたの、栞」
一瞬、栞は胸を押さえたのだが、姉には見えなかった。
「ううん、なんでもないよ。ちょっとアイスが恋しくなっただけ」
「…あんたはー」
「それよりお姉ちゃん。時間いいの？」
壁にかけてある丸い時計を見ると、七時三十五分。
「あ、もうそんな時間なのね……じゃ、また明日くるわ」
「うん、いつもありがとう。お姉ちゃん」
そのやさしい姉は、扉の向こうに消えて行く。
ギィ………ぱたん
そうしてまた、一人の時間になる。
「…よかった……行ってくれた……」
ドクン
「うっ！うううううう……」
胸が痛む。
「く、あ……あっ！」
無くなった部分が悲鳴を上げている。
痛みとして。
苦しみとして。
胸を押さえ、シーツを掴み、ベッドの上を転がる。
みっともなく。
なんでドラマの病人達は、あんなに涼しい顔をしていられるのだろう。
やつ当たりのように、そう思った。
「う…あ、くうっ……」
いざと言う時のため、痛み止めも渡されている。
けれど、痛みの度にそれを使っていると、副作用とも戦うことにもなる。
耐えなくてはいけない。
「っ！う……ぐっ……」
こんな姿、祐一さんやお姉ちゃんには決して見せられない。
もし、少しでも見られたら…
長い長い数分が経って。
波は、どうやら過ぎ去ってくれたようだった。
「はぁ…はぁ……」
全身がぐったりとし、冷や汗がまとわりついて気持ち悪い。
力みすぎて、歯が痛かった。
次に通うのは歯医者かもしれないと、洒落でなく、そう思った。
いつ終わるとも知れない戦い。
奇跡は、遥か遠くに見えた。
ちゃらちゃちゃ〜
コートの上で、舞踊る天使達〜
「あ、お姉ちゃん」
「どこに行ったかと思ったら、リハビリですって？」
歩行補助のための手すりと、転んだ時のためのマットが用意された部屋。
そこに栞はいた。
「まだ休んでたほうがいいんじゃないの？」
「んー、もういいと思うんだけど」
高く飛べ空に向け〜
ウルトラバイシクルトス〜
「で、このＣＤから流れてくる曲は何？」
床に置かれたスピーカつきのＣＤ。
そこからは謎のテーマが流れていた。
「やっぱ、特訓と言えばスポ根テーマが」
「あんたねぇ」
「私の情熱が真っ赤に燃えるっ！」
「燃えない燃えない」
「スーパーエンジェリックドライビング！」
「手をふらふらさせてるだけじゃないのっ！」
この子、こんなにはしゃぐ子だったっけ？
姉は不思議に思った。
けれど栞は、はしゃいでいたわけではなかった。
苦しんでる自分をカモフラージュするための、演技。
そんなことをしなければならないほど、苦しい状態だったのだ。
友達がお見舞いに来てくれた。
一緒に雪合戦をした子。
嬉しかった。
ただテレビの話をしただけだけど、楽しかった。
ひとりぼっちじゃないんだって、思えた。
けど。
入院して一月が経ち。
二月が経ち。
三月が経ち。
その子は来なくなった。
三週間が過ぎた。
その間、苦痛は治まる様子を見せず、疲労は確実に溜まっていった。
栞は誰にもそんなそぶりを見せないよう、必死で耐えていた。
しかし。
耐えるのにも限界があった。
歩行練習中に、栞は倒れた。
午後八時半。
雪の降るこの季節、辺りは真っ暗だった。
街灯だけが照らす道をひた走る少女。
「やっぱり無茶してたのね、栞……」
こうなる前に、どうしてあたしは止められなかったんだろう。
後悔の念がよぎる。
いや、それよりもとにかく今は。
「栞に会わなきゃ……」
近道を走り、フェンスを乗り越え、一刻も早く。
そして、病院に到着。
非常用の扉から、飛びこむように中に入へ。
病室まで、一気に走りぬけた。
「しお……」
がんっ！
姉は頭を最大速でドアにぶつけた。
開けたつもりのドアが、開かなかったのだ。
「あいたたたたっ」
言いながら、再びドアを開けようとノブを回す。
しかし、扉は開いてくれない。
「鍵がかかってる……？」
どうしてだろう。
すぐ来て欲しいと、医師から連絡があったはずなのに……
「妹さんは、君に会いたくないそうだ」
「えっ？！」
声がした方を慌てて向く。
長い黒髪の女医師が、すぐ側の壁を背に腕を組んでもたれかかっていた。
彼女は、栞の担当の医師で、さっき電話をくれた本人のはず…
「倒れたこと自体、本人は知らせたくなかったようだが。病院内の決まりでな。家族には必ず連絡するようになっている」
「そんな……どういうことなんです！栞は一体…」
「私に聞かれても困る」
「栞！答えてっ！なんでなのっ？！」
ドンドンと扉を叩く。
しかし、返ってきたのは、栞の苦しそうなうめき声だけだった。
「なんでよ……栞……」
「案外、君自身に心当たりがあるんじゃないのか？」
「！」
「去年の十二月末から、一月末まで…いつも見舞いに来てた君が、突然来なくなったな。その事と関係が……」
「…そうなの、栞……？
あたしがひどいことしたから、会いたくないの……？
あたしが……嫌いになったから……」
病気に苦しむ妹。
あの時、とても見ていられなくなって、避けてしまった。
それを栞は責めているのだろうか。
それを……
「違…う……の……嫌いに…なんて……」
扉の向こうから、微かな声がする。
「みんな…逃げ……ちゃう……こんな…私……見たら……」
真っ白な雪の上に、赤い染みができた。
「う、うわああああああああんっ！」
「あっ……」
一緒に遊んでいたはずの女の子は、走って逃げた。
怖がって。
怯えて。
それ以来、どんなにチャイムを鳴らしても出てきてくれなかった。
私が苦しむ姿を見たら、みんなが怖がって。
仲が良かった人達も……みんな離れていく。
そして、いつもひとりぼっちで。
「祐一さんも…お姉ちゃんも……怖がらせたく…ない……
もう……誰かが……離れて…いくのは…いや……」
「違うの！」
ばんっ！と壊れるくらいの強さで、姉はドアを叩いた。
「あたしは…そんな怖いから避けてたんじゃない……
栞が、あたしの大切な妹がいなくなるのが嫌だったのよ！」
ドアを叩いたその体勢のまま、姉は涙をこぼした。
「でも、それじゃいけなかった……本当に大切に思っているなら、辛くても栞を独りぼっちにするようなことしちゃいけなかった！」
彼に教えてもらった。
それがどんなに大切なことなのかを。
彼と一緒だった栞は、笑顔が輝いていた。
「……」
長い長い沈黙。
栞の心の中で、様々な葛藤が渦を巻いていた。
今の自分を見せたくなかった。
髪が乱れ、汗でまみれ、顔の険しい今の自分を。
けれど、それ以上に。
甘えたかった。
ひとりぼっちじゃないって、実感したかった。
わがままな子供に、なりたかった。
もう、この痛みを一人で耐えたくなかった。
そして、ついに……
「…いい…の……？…私……今…ひどい…よ……」
結界は、崩れた。
「いいのよ……だってあたしは、栞のこと大好きなんだから……っ」
姉は溢れる涙をぬぐうこともせず、ぼろぼろぼろぼろと泣いていた。
「…病室の鍵だ。使うといい」
そう言って医師は、白衣のポケットから合鍵を取り出した。
「先生？！」
「あの状態だと、鍵をあけるだけでも一苦労だろうからな」
にっこりと笑って、医師は姉の背中をぽんと押した。
扉を開け、中に飛び込む。
「栞っ！」
「お姉ちゃん……！」
苦しむ姿がどうとか、そんなものはもう目に入っていなかった。
ただただ、彼女らはお互いの体を、強く強く抱きしめていた。
「うっ…ぐすっ………うわああああああああああああああああん！」
「ひっ、えぐっ、うあああああああああああああああっ！」
感情を爆発させ、二人はひたすらに泣いた。
尽き果てて眠ってしまうまで。
ずっと――――――
「あれ以来、体が全然痛まなくなったんですよ」
「ようやく体が、手術後の状態に慣れてくれたんだろう」
「そうですか……よかったです」
「もっとロマンチックな言い方をしようか？」
「？」
「姉妹の絆が奇跡を起こしたんだ」
「そ、その言い方、恥ずかしいですよ〜」
恥ずかしいと言ってはいるが、声に嬉しそうな響きがあった。
「さてと、診察終りっ。明日はいよいよ退院だぞ」
「ようやく学校に行けるんですね。普通の女の子として」
「彼氏にも会えるぞ〜、よかったなー」
「わ、わぁっ！そんなこと言う人嫌いですっ」
窓の外では、雪解け水が陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。
季節は春を迎えようとしていた。
―――お姉ちゃん、今日は一緒にお弁当しよっ――――
―――なにこれっ？！こんな巨大な弁当をあたしに食えと？！――――
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