守りたい約束
ふぅ……。
色とりどりのジャムの瓶が並ぶ棚の前で、私はそっとため息をつく。
もう、あの子達は寝たんでしょうか。
名雪がこの時間に起きている事はまぁ、ないでしょうけど。
すでに日付も変わってしまいました、そろそろ寝ないと、明日の朝が辛くなりますね。
祐一さんは多分信じてくれないでしょうけど、私と名雪は良く似ていて。
実は私も、昔は本当に朝は起きられなかったんですよね。
それに、授業中もよく居眠りをしていて、先生達も私のことは完全に諦めてましたっけ。
あいつは起こしても無駄だ、何故か分からんが授業にはついてくるから、いっそ眠らせておけと。
名雪も、学校ではそんな感じなのかしら。だとしたら祐一さんも大変ですね。
そう。あの人と私も、祐一さんと名雪みたいな関係だった。
知り合った当時は知らなかったけれどもあの人は、家庭内の事で小さい頃から辛い思いをしていた。
だから、たまにここに遊びに来ると、それまでの鬱憤を晴らすかのように遊びまわり、その様はなんだか見ているこっちが無理をしているのではないかと心配になるくらい、元気だった。
当時、まだ小学生だった私が朝少しでも起きてこないと、ノックもせずに私の部屋に入って来て。
もう朝だぞ！と騒ぎ立てて、起きるまで私を揺さぶり続けて。
それでもなかなか起きない私に、あの人はある日ついに我慢できなくなったのか、目が覚めたら服を脱がされかけていたことまでありましたっけね。
さすがの私でもあれは少し怒っていますよ。
でも、文句を言う私を必死でなだめて、逆に怒って、それで最後は謝って来るあなたを見ていると、どこか恨めなかった。
どんなことがあっても、最後には許してしまう人でしたっけ。
けれど、彼の背景では、あの人の内心とはまったく関係なく。
１年に数回来る私の友人が背負った家庭状況が徐々に悪くなるのは、子供の目からでもわかるようになっていって、それを必死で隠そうとしているあなたを見るときに少しだけ、柄にもなく私はかわいそうに思ってました。
それでもあなたはそれを言われるのは嫌いだったから。私は何も言わなかった。
それに、たとえ２歳しか違わなくても年下の女の子からそんなことを言われるのは、プライドが許さなかったでしょうしね。
やっぱり、名雪と祐一さんとの関係に似てますね。
互いに小さい頃から年に数日だけ顔をあわせる関係。
それに、最初に相手の事を好きだと思ったのが名雪ってところまでそっくり。
まぁ、私の時はあそこまで複雑な状況は出来ませんでしたけど。
あの人は、祐一さんほど周りに影響を与える人間じゃなかったから。
まぁ、あそこまでモテてしまうのも考え物ですけどね……名雪はこれからも大変でしょうね。
そして、中学に入るか入らないかの頃になって、すれ違い続けていたあの人の夫婦は離縁した。
その離縁が決まる最後の話し合いのわずか数日の間、あの人はこっちに来ていました。
今までの元気なあの人の姿はなく、ただぼんやりと何かを探しているかのような視線を中空に投げかけていたあの人。
何をするでもなく一日中ぼんやりと座っていたあの人を見たとき私は、おそらく初めてそのことに気がついたんでしょうね。
あれが、あの人の本当の姿なんだって。
糸が切れた凧のように、僅かな風が吹くだけでどこかへ飛んでいってしまいそうな。
ひどく不安定で。何も信じていないようにも、僅かなものにでも信じてすがりつきたいようにも見えた。
元気なあの人しか知らなかった私は、何が出来るでもなくそれを見ていました。
それは自分が何も出来ない子供だって気がついてしまった瞬間。
大人になりたいと、私はあの時初めて思ったかもしれません。
自分の目の前にいるあの人に、何も声をかけてあげられない、すぐ手が届くはずの場所で苦しんでいるあの人に何もしてあげられない。
あの時私は、本当にあの人のことを自分ごとのように受け止めて悩み、そして心の底から、何かに祈っていました。
どうか、望んでいる結末があの人の前に訪れますようにって。
でも、現実は現実のままでした。
結局、私は何も出来ないまま、あの人の両親は別々の道を歩むことになって。
私はあの人はもうここには来られないと、気がついていたんでしょうね。
だからでしょうか。私はあの人が帰る日に、自分の思いを打ち明けました。
あなたのことが、好きです。あなたのことが好きだって言った女の子を、どうか忘れないでください。
今思い出しても恥ずかしくなります。
だってこの台詞。大人になりたいって思っていたときに考え付いた台詞ですから。
どこかのドラマとか、小説とかで見て、読んだ文をそのまま引用した言葉で、後で思い出してみたら、何が言いたいのか、どうして欲しいのかがはっきりしない告白。
でも、私は勇気を持ってあの人に言いました。
あの時あの人は何も答えてくれませんでしたけど、それでも自分なりにやるべきことはやったんだな、って私はその時は思っていました。
名雪も、あの日駅前に行ったとき、あんな心境だったのかもしれませんね。
自分の胸の中にある思いだけが空回りして、何かをしたいけど何をして良いのか分からなくて……ただ、何かをしなくては取り返しがつかなくなるって思いが、あの子をあそこに向かわせたんでしょうか。
そして、駅で何があったのかは、私はあまり知りませんけど。
名雪はやるべきことはやってきたのでしょう。
泣いて帰ってきた名雪は、祐一さんをせめる言葉は無く、ただあの時の私と同じように、自分の力のなさを悔やんでいるようでしたから。
私はあの告白を最後にあの人への気持ちは一区切りついたと思っていました。
けど、彼がいなくなってすぐ、後悔だけが心を占めましたっけ。
もっと、別のことが出来たのではないのか、あんなわけの分からない言葉ではなく、別の言葉で伝えたほうが良いのではなかったか。
そもそも、あんな精神状態の人にあんなことを言うのは卑怯じゃないか。
それに……結局返事はもらえなかったのだから、私は振られてしまったんだろうか。
部屋でぼんやりとそんなことを考え続けていた私を助けてくれたのは、姉でした。
姉はただ一言、がんばったねって言ってくれた。
たった一言でしたけど、その一言は私には何物にも変えられない一言だったんです。
自分のやったことが、たとえ正しくなくても認めてくれる人がいると思えて。
そして、同時にとても恥ずかしくて。
私は、泣きました。
それから、どうしてもあの人が忘れられないまま私は成長して中学を卒業しました。
卒業式の日、友人と遊んでから家に帰ると、玄関に普段家には置いていない靴が置いてあり、リビングからどこかで聞いたような、でも記憶の中にある声より男らしい声が聞こえてくる。
それが、突然訪れた私とあの人の再会。
あの人は高校２年終了時に家を出たそうです。
もともと家庭環境はあの離縁でよくなるわけでもなかったから、高校に入ってからバイトして、資金をためて、こちらに移り住むつもりだったそうです。
このことを知らなかったのは、私だけ。姉も、母も、父も、すでにその事実は聞いていて、だったら家に寄宿すればいいって話になっていたのだそうです。
そのことを私にだけは内緒にしておこう、といったのは姉だったそうです。
さすがにあれは驚きました。どうしていいのかも分からず。
突然泣き始めてしまった私を、どうして良いのか分からないままおろおろとしていたあの人を見て。
多分、私は泣きながら笑っていました。
嬉しかったですから。本当に。
それから一ヶ月は、私にとってはとても楽しいものでした。
そして同時に、とても居心地が悪いものにもなりました。
あの人は、あの告白はなかったように振舞っていて、必死の思いであの言葉を口にしたあの日のことを昨日のように覚えている私にとって、その振る舞いがさらに混乱させる結果となりました。
あれは、私は本心から言った言葉であり、今もその気持ちは変わらない。
でも、あの人にとってはただの冗談だったのかもしれない、あるいは落ち込んでいる自分を励ますために、少女が言った言葉と受け取ったのかもしれない。
いっそ、もう一度告白しようかとすら思いました。
そんな勇気、どこにもないのは自分でも分かっていましたけど。
あの人と同じようなタイミングで祐一さんもここに戻ったんですね。
もしかしたら、姉さんはそのことまで分かっていたのでしょうか。
だとしたら、やっぱりあの人には勝てませんね、私の姉はこの世で唯一、私がどんなにがんばっても勝てない人なんでしょう。
私にとっての目標であり、雲の上に立つ人ですからね。
それから一ヵ月後、あの人は突然私の部屋に来て、謝ってきました。
あの日、一度はここを去った最後の日、自分のことだけで精一杯だった自分を、そしてそのまま音信不通になってしまった自分を。
そういえば、私は何度か手紙を送っていましたけど、あの人からは帰ってきませんでしたね。
そして、最後にこういいました。
あの返事、今更だけど返しておいていいかな？
俺は、どうしようもない俺の行動に振り回されながらもついてきた、あの少女だった女性が好きなのかもしれない。
結局あの人も肝心なところでは私と同じだったのでしょうね。だって、答えを返すって言いながら、何か肝心なところがぼかされた答えでしたから。
もっとも私にとってはどうでもいいことだったんです。
ただ、嬉しかった、自分の中でどうしても許されなかったあの時の罪が、許された気がした。
それになによりも嬉しかったのは、結局あの日、私とあの人の関係は恋人になったんですし。
それから、いろいろなことがありました。
僅か一年間のあの人との学校生活、そこには本当に短い、充実した時間が確かに残っています。
そして、彼が卒業してから２年後、私の卒業と同時に、私たちは結婚しました。
両親は反対するかなと思っていましたけど、思った以上にあっさりと承諾されましたっけ。
これも、もしかしたら姉の手回しだったのでしょうか。……やっぱりあの人には頭が上がりません。
姉の結婚のときは、こんなにもあっさり父は折れませんでしたから。
それから１年、いろいろなことがありました。
すでに働いていたあの人は多忙で、自由な時間はあまりなかったけれど、その僅かな時間を使っていろいろなところに行って。
がんばりすぎて風邪をひいたあの人を看病して、やっとそれが直ったと思ったらその風邪をもらってしまって結局私が逆に倒れたり。
一緒にお酒を飲んで翌朝寝坊しかけたり。
本当に幸せな時間でした。
そういえば結婚式の前日、私はあの人に誓いました。
出来る限り、朝はあの人より早く起きるって。
あの人は笑って相手にしてくれませんでした。お前にそれが出来るはずがないだろうって。
私はむきになって、絶対に出来ると言い張って。
結局、それはある程度は達成されました。
最初の一ヶ月は朝起きるたびに、あの人は大げさに驚いてましたけど、そんなあの人のしぐさ一つにしても、私は幸せを感じていた……。
そして、結婚から１年後に出産……名雪が生まれました。
あの時、名雪の寝顔を見ながらあの人はこういいました。
俺は、温かい家庭を持たずに育ってきたから。
両親はあんな感じだったから、そういった物に飢えていたんだ。
だから、名雪にはあんな思いをさせたくはない。
なんとしてでも、させない。
絶対に、二人でいい親になろうな。
団欒を大事にして、家族のつながりの深い、垣根のない家庭をつくろうなって。
それは、あの人の本音。
ずっと欲していた本当にささやかな幸せ。
私は、その言葉を絶対に実現させてあげたかった。
絶対に、どんなことをしてもそれを実現させてあげようと思っていた。
けれど、結局あの人は名雪のいる家には帰って来なかった。
私が退院して、名雪を加えてさらににぎやかに、そして幸せになるはずだった家に帰る僅か２日前に、あの人は暴走車に引かれて……命を失った。
私はその知らせを受けたとき、何の反応もしなかったそうです。
ただ怖くて、その話から逃げ出しました。
一瞬にして目の前が崩れ落ちていく感覚、何も聞こえない世界の中、信じていたもの全てに裏切られたような感覚だけが支配していた体。
でも、あの人の言葉だけは頭から離れませんでした。
温かい家庭を作りたい。
だとしたら、私は泣いていられないはず……。
名雪のために、あの人のために、私は絶対に泣かない。そしてあの人の夢を叶える。たとえあの人がいなくなってしまっても。
そう心に決めた瞬間、涙が止まらなくなりました。
それから２日後、私と名雪はあの人が待つはずだった家に帰ってきました。
静かで、誰もいない家は、ただ闇だけがその世界を支配していて、もうあの人はいない事が否応無く実感させられました。
名雪を連れて家に帰ってから最初に私がやらなくてはいけないのはお葬式の準備。
でも、もう絶対に泣かない、名雪の前では、絶対に悲しいそぶりは見せない。
そう心に誓って、私は誰もいない家のドアを開けました。
そして名雪を寝かせて、久しぶりに立ったお台所で、私は見つけてしまった。
私の知らないビンがひとつ、私の作ったジャムの置き場に置かれている。
不思議なオレンジ色のジャム、多分、私が作っていたのを後ろで見ていたあの人がそれを真似て作ったジャム……私のために、そして名雪のために作ってくれたジャムだったのでしょうね。
それを見た瞬間、涙腺が緩むのを感じましたが、それは何とかこらえました。
大丈夫。絶対にあなたを悲しませるような家庭は作らないから。
暖かい、垣根のない家庭を、絶対に作って見せるから。
だから、見守っていてくださいね、私が弱気になったり、あの約束を破ろうとしないかどうかを。
やっぱりあなたがいないのは少しさびしいです。
必死で味を解析して、作れるようになったこのジャムを見るたびにそう思います。
残念ながら私以外は食べてくれませんけどね。
でも私は絶対にあなたに笑われるような、あるいは怒られるような家庭は作らないつもりです。
名雪も元気に育っています。少なくとも私は、あなたが望んだように、温かい家庭の中で育てて見せたはずです。
親の私が言うのもなんですけど、可愛く育ちましたよ。
でも、彼氏が出来たらあなたはどんな反応を見せたんでしょうね……。
さて、明日も二人は学校です。
そろそろ寝て、明日に備えさせていただきます。
おやすみなさい、あなた。
結果のページ
このSSは、作者の方に二次著作権が存在します。
転載、無断引用を固く禁止します。
戻る