流星群
夏の終わり、もはや秋になったと言ってもいい、九月下旬のある日。
いつものように起きて、いつものように学校へと歩いていく。
今日は昨日に比べて肌寒いな、なんて思いつつ、ゆっくりと歩く。
校門を通り、靴を上履きに換え、階段を上る。
教室に入り自分の席に鞄を置いたところで、始業のチャイムが鳴り響いた。
一分もしないうちに、廊下から誰かが走ってくる音が聞こえる。
そして教室の扉が開き、入ってきた一組の男女。
言うまでも無い、校内一のお間抜けカップル、相沢と水瀬だ。
「はぁ、はぁ、ギリギリセーフか……」
「祐一が早く起こしてくれないからだよ〜」
「お前が自分で起きりゃいいんだよ！」
どうやら朝から夫婦漫才をやっているようだ。
「朝から夫婦円満ね」
二人に声をかけたのは美坂だった。
「そっ、そんなんじゃねえよ！」
相沢がうろたえる姿は見ていて面白い。
誰が見たって仲の良い夫婦にしか見えないのだから、今更照れることはないのに。
「北川もニヤニヤしてんじゃねえ！」
どうやらこっちに気が付いたらしい。
席を立って、仲間たちの輪に向かう。
変わらない。
これが日常。
一緒にいる仲間がいて、喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり……。
当たり前のことだと思っていた。
それがいつか失われてしまうことに気付いて、初めて分かった。
最近になって、やっと分かったんだ。
これが幸せなんだと。
ありふれた日常を過ごせることが、とても幸福なことなんだ。
「流星群？」
「新聞読んでないのか？ 今夜、日本中で見られるらしいぞ」
昼休み。
いつものメンバーでの会話。
相沢の話によると、新聞の第一面に流星群のことが載っていたらしい。
なんでも、十年周期で地球に接近するとか。
「で、それがどうかしたのか？」
「今夜見に行こうぜ、みんなで」
今日、見に行かなければ、次に見られるのは十年後。
この機会を逃す理由は無い。
「そうだな、行くか」
「よし、じゃあ今夜十二時にものみの丘に集合な」
ふと、気になることがあった。
星を見に行くのだから、夜に集合するのは当然なのだが……。
「……名雪はちゃんと起きていられるのかしら？」
香里も同じことを考えていたらしい。
「う〜、努力するよ」
「大丈夫だ、俺が叩き起こすから」
「え〜、叩くのはやめてよ〜」
「そうだぞ相沢。眠り姫を起こすのは王子様のキスだって相場が決まってるんだからな」
「だっ、誰が王子様だよ！」
「お前のことだとは誰も言ってないぞ」
「ぐっ……」
顔を真っ赤にする相沢。
そんな相沢を見て笑う美坂と水瀬。
何も変わらない、いつもどおりの日常。
永遠に続いていくかのように思われる、心地良い時間。
このまま終わらなければいいのに。
あと半年で終わってしまうのだ。
高校生活の終焉と共に。
夜の十一時を過ぎた頃に家を出た。
ここからものみの丘までは徒歩で約三十分。
集合時間には少し早いが、遅刻するよりはいいだろう。
……どっかのカップルは何度遅刻しても懲りないようだが。
ゆっくりとした足取りで物見の丘へと向かう。
ついこの間までは寝苦しい夜が続いていたのに、最近はそうでもない。
半袖のシャツで外出すると肌寒く感じるくらいだ。
セミの鳴き声もいつしか聞こえなくなった。
今聞こえている虫の音はコオロギだろうか。
季節はもう秋になろうとしている。
時間はゆっくりと、しかし確実に流れている。
このまま秋が終わり、冬が来て、そして春になったら……。
どうなるんだろう。
そのまま別れてしまうだけなんだろうか。
なんだろう。
寂しさと虚しさが入り混じったような、この気持ちは……。
集合時間よりもかなり早く、ものみの丘に着いた。
ここは街から遠いので、星がよく見える。
立ったまま上空を見上げた。
夜空に星が溢れている。
いわゆる満天の星空というやつだ。
どれが北斗七星だとか、どれがアンドロメダだとか、そういうのはまったく分からなかった。
ただ、その美しさに魅了されてしまっていた。
そして、視界いっぱいに広がる星の海を、一筋の光が通り過ぎていく。
流れ星だ。
それはほんの二、三秒で消えてしまった。
流れ星に願いを三回言うと願いが叶うというが、到底無理な話だ。
「金、金、金」とでも言えばいいのだろうか。
そんなことを考えてるうちにも、光の筋が幾つも現れては消えていく。
幻想的な風景。
十年に一度の奇跡と呼ぶにふさわしい。
この壮大な自然を前にすると、自分がとても小さな存在に思えた。
背後から、誰かの足音が聞こえた。
振り返ると、そこには美坂がいた。
「すごいわね、流れ星」
時計を見るとまだ十一時四十分だった。
「ずいぶん早く来たな」
「北川君こそ」
「遅刻するのは嫌だからな」
「あの二人は何回遅刻しても気にならないみたいだけどね」
その言葉に思わず笑ってしまった。
美坂も笑いながら、星空を見上げた。
ゆるくウェーブした髪が風に揺れる。
鼻腔をくすぐるシャンプーの香り。
思わずドキッとした。
美坂とは三年間、同じクラスだった。
彼女は仲の良いクラスメイト程度にしか思っていないかもしれないが、自分は……。
何度、気持ちを伝えようと思っただろうか。
だがその度に思い直す。
思いを告げたら、現在の関係が壊れてしまうのではないかと。
あの心地良い時間が、消えてしまうのではないかと。
それだけは嫌だった。
だから、どうしても伝えられなかった。
でも、今なら言える気がする。
この気持ちを伝えよう。
そう決心した。
そして、美坂のほうへと顔を向けると……。
彼女は泣いていた。
何がなんだか分からなかった。
「ど、どうかしたのか？」
「あ……ごめんね、突然泣いたりして。ちょっと不安なの……」
「不安？」
「あたし、東京の大学に行こうと思ってるんだけど、独りでもやっていけるかどうか不安で……」
何も言えなかった。
驚いた。
美坂が東京の大学への進学を考えているなんて知らなかった。
うちの高校から東京の大学へ進学する人はほとんどいない。
ここ数年間では皆無だ。
近くにも大学はたくさんあるし、何より東京は遠い。
普段は他人に弱みを見せない彼女でも、涙を見せてしまうほどの不安。
頼れる者も無く独りきりで大都会で生きていくことの不安は計り知れない。
「あたしはただ、東京の大学で勉強してみたくて、でも不安でたまらなくて……」
彼女は学校一の秀才だ。
日本の中心である東京の一流大学で勉強してみたいのだろう。
今は、未来への希望と不安で戸惑っているに違いない。
そんな彼女に、この気持ちを伝えてしまっていいのだろうか。
ただ、彼女の悩みを増やしてしまうだけじゃないのだろうか。
「あのさ、俺……」
やっとのことで、口を開くことができた。
「お前のこと、ずっと……」
だけど、その口から出る言葉は、自分の思い通りには動かなくて……。
「すごいやつだって思ってたんだ」
自分の本音を、言うことなんてできなかった。
「勉強はできるし、運動神経も抜群だしな。なんでもできる、すごいやつだと思った」
心の片隅で、自分の弱さを呪いながら……。
「友人として誇りに思うよ。だから、そんなことでくじけてほしくない」
彼女を傷つけずにすんだ、なんて思いながら……。
「お前なら、東京だって、アメリカだって、どんな所だって、うまくやっていけるよ」
そんなナルシズムなことを考えている自分に、嫌気が差した。
彼女は何も言わずに涙を拭き、大きく頷いて無理に笑ってみせた。
その後、集合時間に十分ほど遅れて相沢と水瀬がやって来た。
美坂が東京の大学を受験するという話を聞いて、二人とも驚いていた。
しばらく星を見ながら話して、そして解散した。
時は無常にも過ぎ去っていった。
木々からは葉が枯れ落ち、すぐに街は雪景色となった。
そして三月。
俺は地元の工業大学に進学を決め、相沢と水瀬も地元の国立大学に合格した。
そして美坂は見事、第一志望に受かり、東京へと発っていった。
And 10 years after......
夕方、自宅へと帰り、テレビをつける。
ワイドショーのようなニュースをやっていた。
手早く着替え、コンビニで買ってきた弁当を広げる。
今は八月の下旬。
冷えたビールが一番上手い時期だ、なんて思いながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
大学卒業後、地元企業に就職した俺は、何の変哲も無いサラリーマンになっていた。
子供の頃、サラリーマンにだけはなりたくないと思っていたのだが。
相沢と水瀬とはたまに会う。
一年前に結婚した二人は、円満な家庭生活を送っているようだ。
気になるのは美坂の消息だ。
大学生の頃は年賀状が毎年来ていたのだが、ここ四、五年は何の連絡も無い。
相沢や水瀬とも連絡を取ってないらしい。
東京でうまくやっているだろうか。
テレビでは俺と同い年くらいの男性芸能人が婚約発表をしていた。
いや、テロップによると、○×会社の社長らしい。
○×会社といえばここ二、三年で急成長した会社だ。
社長の年収は数億円とも噂される。
テレビに映っている派手な格好を見ると、単なる成金にしか見えない。
こいつが本当に素晴らしい経営手腕を持っているのか疑いたくなるほどだ。
そしてカメラが隣の女性を映した。
思わず、手に持っていた缶ビールを落としてしまった。
画面に写っているのが、この数年間でさらに大人びた、美坂の姿だったからだ。
数年間、連絡の取れなかった彼女が、ブラウン管の中にいる。
その事実を上手く受け入れられない。
唖然としている間に、ニュースは次の話題へと移っていってしまった。
二、三分経っただろうか。
携帯電話から聞こえてくる着信メロディで我に返った。
あわてて鞄を手に取り、中にある携帯電話を探す。
相沢からの電話だった。
「おい、ニュース見たか？」
「婚約発表か？」
「そうそう、それそれ。ビックリだよなー」
「ああ」
「しばらく音沙汰無いと思ってたら、いきなり大金持ちと結婚か。なんか別世界の人間になっちゃったな」
「……そうだな」
その後、五分ほど他愛もない話をして電話を切った。
別世界の人間、か……。
たしかに、そのとおりだ。
結婚すれば、美坂は社長夫人。
俺のような庶民が想像できないほど裕福な暮らしをするに違いない。
美坂はきっと今、幸せの絶頂にいるんだ。
……もう、彼女のことを考えるのはやめよう。
想えば想うほど、自分が惨めに思えてくるから。
ずっとずっと、彼女を想い続けた自分が……。
それから一ヶ月ほどは、何もやる気がしなかった。
仕事中もうわの空で、何度も上司に注意されてしまった。
やがて九月も半ばを過ぎ、季節は急激に夏から秋へ移ろうとしていた。
九月下旬のある日。
その日はやけに寒かった。
秋を通り越して冬になってしまったような感じ、とまで言うと少し大げさか。
残業で遅くなってしまい、家に着いたのは夜の十一時過ぎだった。
家のドアを開けた、その瞬間に携帯電話が鳴った。
鞄から取り出してみると、相沢からの電話だった。
「ニュース見たか？」
「いや、今帰ってきたばかりなんだけど……」
なんだろう、何か事件があったのだろうか。
「○×会社が倒産したんだよ！」
その話を聞いて、急いでテレビをつけた。
どの局でも、○×会社倒産の報道をしている。
さらに脱税までもが発覚し、社長は逮捕されたらしい。
『なお、婚約者である美坂香里さんの行方はわかっていません』
美坂が……行方不明？
まさか、婚約者が逮捕されたことに傷心して……。
予想は悪いほうへとふくらんでいく。
最悪の場合、自殺なんてこともありうる……。
ふと、テーブルの上に置いてあった今日の朝刊が目に入った。
今朝は忙しかったので、テーブルの上に置いたままでまったく読んでいない。
その第一面には『流星群到来』という見出しが載っていた。
もし彼女が、このことを知っているのなら……。
俺は家を飛び出した。
ほんのわずかな希望だが、今はそれに賭けたかった。
丘の最も高いところに、誰かが立っていた。
ゆっくりと近づいていく。
あと数歩というところで、俺は立ち止まった。
彼女がこっちを振り向く。
「北川君……」
美坂がかすかに、そうつぶやいた。
注意して聞いていなければ、風に消えてしまいそうな声だった。
彼女は語った。
東京では、心許せる友人が一人もできなかったこと。
いつしか、その寂しさを、金を使うことで紛らわすようになったこと。
そのため、自分に貢いでくれる男と付き合うようになったこと。
○×会社の社長もその一人だったらしい。
「最低でしょ？ 金に目がくらんで婚約するなんて……」
涙が、彼女の頬をつたって地面に落ちた。
「あたし、もう疲れちゃった……。楽しかったあの頃に、高校時代に戻りたいよ……」
時は、決して戻らない。
ただ過ぎ去っていくのみだ。
何度だってやり直せばいい。
たとえ間違っていたとしても、最初からやり直せばいいんだ。
だから……。
伝えたいことがたくさんあった。
聞きたいこともたくさんあった。
だけど、何よりも先に、言いたかった一言。
「美坂、おかえり」
彼女は一瞬、驚いた様な表情をした。
そして、涙を拭いて、こっちに向かって飛び込んでくる彼女。
突然のことだったので支えきれず、俺は美坂に押し倒される形になる。
耳元で、彼女がささやいた。
「……ただいま、北川君」
約一分くらいだろうか、そのままじっとしていた。
仰向けになっているため、視界には満天の星空が見える。
流星が一つ、また一つ、光の筋を作っていく。
腕の中には、美坂がいる。
彼女の温もり、呼吸、鼓動が伝わってくる。
とても、幸せだった。
いつまでもこうしていたかった。
「……いつまでそうやってるんだ、二人とも」
頭上から声が聞こえた。
相沢の声だ。
「邪魔しちゃダメだよ祐一。これからいいところなんだから」
水瀬の声も聞こえる。
俺と香里は慌てて立ち上がった。
「ど、どこから見てた？」
「香里が北川に抱きつくところから」
「香里って意外と大胆だったんだね〜」
美坂は顔を真っ赤にして、何も言い返せないようだ。
「で、北川、愛の告白はしたのか？」
相沢がからかうように言ってくる。
告白、か……。
美坂にはっきりと気持ちを伝えることが、今すぐに必要だろうか。
いや、そんなことはない。
時間はたっぷりある。
この気持ちは、ゆっくり伝えればいい。
そう思ったから、俺は何も言わずにニヤニヤしていた。
「なんだよ、変なやつだな」
「ねぇねぇ、こんなところじゃ寒いでしょ。家に来なよ」
たしかに、今夜はかなり冷える。
「よし、じゃあ相沢夫婦の新居にお邪魔するとするか」
そうして俺たち四人は、ものみの丘を下っていった。
相沢たちが手をつないで歩いているのを見て、俺も美坂に左手を差し出した。
彼女は右手で強く握り返してきた。
時間は止まらない。
変わらないものなど何も無い。
それでも今、この瞬間だけは、十年前と変わらない何かがあるような気がする。
左手に温もりを感じながら、そんなことを考えていた。
星降る夜、流星の夜空の下で……。
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