おもいをこめて ゆきのした
新学期が始まって、最初の金曜日。
新しい学年にもようやく慣れて、ようやく一息つける週末。
しかし、俺には週末の優雅なひとときを過ごす前に、済ませなければならない行事が残っていた……
「いちご、いちご、いちご〜♪」
帰ってきてからわずか数分後の玄関。朝とは比べものにならない早さで着替えを済ませて、楽しそうに口ずさみながら靴を履いている名雪。そして、その横でため息をついている俺。
「本当に、何を頼んでもいいんだよね、祐一」
「……ああ」
「嬉しいよ〜」心底嬉しそうな名雪。まあ、そうだろうな。
何しろ、新学期最初の授業でいきなり教科書を忘れてしまった代償「百花屋でおごらされるイベント」の主役なんだから。
「わたし、ジャンボ何とかデラックスっていうのを、一度食べてみたいと思っていたんだよ」
「別に頼んでもいいぞ。……一人で全部食べられるならな」いたずらっぽく笑う名雪にツッコミを入れる。
「う〜っ、そんなの無理だよ……。そうだ、祐一も一緒に食べようよ。それなら……」
「俺が一緒でも無理だと思うぞ」
「そうかな……」指を当てて考え込む。
「やっぱり、イチゴサンデーふたつにするよ。これなら食べられるよね」
「……好きにしてくれ」
名雪に教科書を見せて貰って、机をくっつけて授業を受けて……新しいクラスでいきなりカップル認定された時点で、俺的には「代償」は充分すぎるほど払っているのだが、名雪にはまだ不足なようだった。
「ま、メニューは向こうで考えてくれ。それじゃ、行くぞ」
「うんっ」
名雪が頷いて、一緒に玄関を出る……が、
「あ、ちょっと待って、祐一」突然、呼び止められた。
「どうした？」
「ごめん、ちょっと忘れもの」
「またか……」
「またか、ってひどいよ〜。今日はまだ初めてだよ〜」
「今日はな」
まあ、ここで名雪が忘れ物を思い出すのはいつもの事なので、もはや慣れっこだった。それにしても、今回は別に手ぶらでも良いはずなのに……。
「何を忘れたんだ？」
「うん、お花にお水をあげるのを忘れてたんだよ」
「花？」
「うん、お花」
名雪の返事に、ため息をつく。何かと思えば、そんな事か。
確かに、いつも休みの日とか、この時間に水まきをやっていた気がする。でも、何もこんな時に思い出さなくても……
「そんなの、帰ってからでいいだろ。日が暮れるぞ」
そう言ったが、名雪は首を横に振った。
「だめだよ。お花がかわいそうだよ」
「秋子さんがいるだろ。頼んで行けばいいじゃないか」
「う〜っ……」少し悩んで、やっぱり首を横に振る。「でも、わたしがいるときは、自分でお水をあげたいんだよ……お願い、祐一」
こういう所は妙に律儀というか、頑固だからなぁ、名雪は。どう見ても折れそうにないし、ここはさっさと済まして貰った方が良さそうだ。
「……仕方ない、早くしろよ」
「うんっ、ありがとう」
俺にポシェットを預けて、名雪が嬉しそうに玄関に駆け戻って行く。程なく、緑色のじょうろを持って戻ってきた。
「ちょっと待っててね」
「早くしろよ」
「うんっ」
名雪がじょうろを手に頷く。ん？あれは確か……
「物持ちがいいなぁ。昔からあっただろ、それ」
子供時代の記憶と全く同じ、そのじょうろに、感心半分呆れ半分で言う。それは名雪が子供の時に買ってもらったぞうさんじょうろだった。
「うんっ。一緒に買いに行ったんだよね。祐一は覚えてる？」
「まあな」
「嬉しいよ〜」
にこにこと微笑みながら水を汲んで、玄関先の花壇に走っていく。
あの時、秋子さんにあれを買ってもらった時の喜び様が、まるで昨日の事のように思い出される。あの時は何でそこまで？と思うほどのはしゃぎ方だったな。
そう言えば本当に、どうして名雪はあんなに喜んでいたのだろう。当時から既に猫好きだったから、動物は違うけどその兆候があったのかもしれないけど……
「♪〜 ♪〜」
一株一株、丁寧に、本当に丁寧に水をやっていく名雪。
出かける前なんだから、手早くすませればいいのに……
「……………」
そこまで考えて、ふと疑問が頭をよぎった。
名雪が水をやっている花壇。今まであまり気にしていなかったけど、いったい何にそんなに大事に水をやっているのだろうか。
そう思って、後から覗き込んでみる。
「何に水をやっているんだ？」
「ん？ これだよ」
名雪の肩越しに見えたもの。……それは、小さな白い花だった。
小さな白い花びらが申し訳程度に付いている、どちらかと言えば地味な花。
「このお花はね、ゆきのした、っていうんだよ」
俺の視線に気付いた名雪が、にっこりと微笑みながら教えてくれる。
「ゆきのした？」
「うん、ゆきのした」
「わたしの、大好きなお花なんだよ」
「ふ〜ん……」
顔を近づけて、しげしげと眺める。
「もちろん祐一はこのお花のこと、覚えて……」
「……こんな花、あったっけ？ 最近植えたのか？」
続けて名雪が紡いだ言葉、そして、俺の何気ない一言。
ふたりの言葉が重なる。
一瞬、名雪がきょとんとした顔をして……そして、みるみる表情を曇らせた。
「う〜っ、ひどいよ、祐一。まさか、気が付いていなかったの？」
そう言って、ほっぺたを膨らませる。
「え、えっと……」
しどろもどろな俺の様子を見て、名雪の頬が更に膨らんでいく。こ、これはまずいな……
何とか思い出そうと、俺がここに来た頃……一月からの記憶を掘り起こしてみる。
朝、名雪を起こして、急いで学校に走って。授業が終わって、夕方にひとりで、時には名雪と一緒に寄り道して帰る。そんな一日。こちらの生活に慣れてきて名雪を起こす時間が少し短縮されたり、少しだけ脚が速くなったりしたけど、基本的にこの生活サイクルは変わっていない。
ううむ……やっぱり思い出してみても、この場所には単に「通っている」だけの記憶しかないんだよな。どちらにしても、この辺りは冬の間は一面雪だったと思うんだけど……
「……というわけで、気付いてなかった」
「ひどいよ……」
名雪の声が沈んだものに変わる。まずい兆候だった。
「ほ、ほら、この花の名前がゆきのしたじゃないか。そんな感じで、雪の下に咲かれても気が付かないし……」
「わたし、お水をあげる時は雪をどけたり、ちゃんとお手入れしてたよ」
「……………」
「だから、お花には雪は積もっていなかったのに、見ようと思えばいつでも見られたのに、それでも気が付いていなかったんだね」
「……………」
「そ、そう言えば、どうして花びらの大きさが違うんだろうな」
かなりまずい雰囲気になって来たので、無理矢理話題を変えようとする。実際、その花は二枚の大きな花びらと三枚の小さな花びらが入り交じった、不思議な形をしていた。何とかそのあたりの話題で間を持たせて……
「祐一がずっと気がつかないから、お花も拗ねちゃったんだよ。だから、二枚だけ残してしぼんじゃったんだよ、きっと」
むすっとした口調でそんな事を言われてしまう。まずい、かなり怒ってる……。
軽く考えていたけど、これはどうも名雪にとっては「髪型を変えたのに気がついてもらえなかった」様な感じの、かなり重大な出来事のようだ。これは早めに謝っておいた方が良さそうだな……
「ご、ごめんな、名雪」
「……何がごめんなの？」冷たい目で俺の方を見る。
「そ、その、冬の間ずっと、この花に気が付かなくて……」
「まだそんな事言ってる……」
「えっ？」
「祐一、ひょっとしてこのお花、最近買ってきたと思っているでしょ」
「え、違うのか？」
「はあっ……」俺の言葉に更に深いため息をつく名雪。
「すると、もしかして７年前から……」
「７年前からじゃないよ。もっと前。祐一に初めて会った時からだよ」
「初めて会った時？」
「そう…子供の頃からだよ。その時からずっと、ここで大切に育てていたんだよ」
そんな前から……
「祐一が昔の事、いろいろ忘れちゃったのは知っていたけど、そんな事まで忘れてしまっていたんだね」
「このお花はね、祐一と一緒に『ふたりで育てようね』って買ってきたんだよ」
「お母さんにお願いして、このぞうさんのじょうろと一緒に買ってもらった時、わたし、本当に嬉しかった」
「冬に祐一が帰って来たとき、一緒にお水をあげるのが、本当に楽しみだったよ」
「ふたりで一緒に、このお花を育てているんだって思えたから」
「祐一が全然水やりの当番を守らなくて、お母さんに叱られたり」
「その後、もう一度ふたりで指切りして、一緒にお水をあげたり……」
「毎年、祐一はそんな感じだったけど、それでも、お花のことは覚えていてくれたから」
「だから、このお花は、本当に大切な思い出だったんだよ」
「それなのに、みんな忘れているなんて……」
そう言い残して、水を汲みに傍らの蛇口まで歩いて行く。
名雪が蛇口を捻る音、じょうろに水を注ぐ音が耳に響く。その音を聞きながら、俺は何とか自分の記憶を掘り起こそうとした。
名雪の思い出に残る、大切な思い出。なのに、俺の中には何も残っていなくて……
そんな俺を横目に見ながら、戻ってきた名雪が再び花壇の前にしゃがみ込む。
「７年前の事だってそうだよ……」
一言、そう言って、無言で水をやり始める。
水の音が俺の耳に響いてくる。だけど……その水は、俺の思い出を覆い隠している何かまでは洗い流してくれなかった。
やがて……名雪が手を止める。水の音も止んで、静寂がふたりを包み込んだ。
「……………」
「……………」
何を考えていたのかは判らなかったけど、俺には、その沈黙は本当に長く感じられた。
やがて……名雪が、ぽつり、と語り始める。
「祐一は、忘れちゃっているみたいだけど……」
「７年前、祐一、お花を踏んづけて、花壇をめちゃくちゃにして帰っていったんだよ」
「え……」
思わぬ言葉に、絶句してしまう。
思い出せない、７年前の記憶。子供時代のふたりの最後の思い出。
その時、俺はそんな事を……
「祐一が帰っちゃって、ぼろぼろになっちゃった花壇を見て、わたし、本当に悲しくて……」
「それからしばらくの間は、もうお花を育てるのは止めようって思ったよ」
「……だけど、わたし、やめなかった」もう一度、じょうろを傾ける。
「もういちど、お花を育て始めたよ」
「あれから、祐一は帰ってきてくれなかったけど、それでも、このお花は祐一と一緒に育てているんだって思ってたから」
「祐一はいないけど、その分、わたしが一生懸命育てなきゃって思ってたから」
「祐一が帰ってきてくれたとき、このお花がないと、きっと悲しむと思ったから」
「そう思って、祐一のいない七年間、ずっとずっと頑張って育てていたんだよ」
「たいせつに、守ってきたんだよ」
「それなのに……忘れちゃっていたんだね」
名雪の言葉が、俺を突き刺す。だけど、その傷口からでさえも、俺が失くしてしまった思い出は見えなかった。
「祐一が戻って来てくれたとき、わたし、本当に嬉しかったんだよ。そして、楽しみにしてた。……もうすぐ、祐一がこのお花に気が付いてくれるって。『あ、この花は……』って言ってくれるって」
「結局、冬の間は気が付いてくれなかったけど、それは……雪がたくさん積もっているからだって思ってた」
「だから、時々雪をどけて、お花が見えるようにしていたのに、それでも気が付いてもらえなくて」淡々と、水をやりながら話し続ける。
「それでもわたし、春になって雪が溶けたら、祐一はきっと気が付いてくれるって信じていたんだよ」
「これからは、春になってもずっと祐一がいてくれるから、いつかは気が付いてくれるって思っていたんだよ」
「それなのに……」
名雪が、じょうろを地面に置く。ことり、という音がやけに大きく聞こえた。
「わたしの頑張りが、足りなかったのかな……」
「わたしって、昔からそうだよね。きっと、わたしがもっと祐一に気が付いて貰えるように、頑張らないといけなかったんだよね……」
振り向いた名雪の目からは、涙が溢れそうで……それを見て、俺は胸が締め付けられて……やりきれない気持ちになった。
どうして……俺は、忘れてしまったのだろう。
どうして……俺は、思い出せないのだろう。
名雪にとって、そして……俺にとっても、本当に大切な思い出なのに。
どうして、ゆきのしたに埋もれてしまっているのだろう。
「……ごめん、名雪」
「……………」
そっと、肩に手を置く。
だけど、そのまま黙り込んでしまう。
言いたいことは沢山あるけど。言葉が出てこなくて……
「ごめんな……」
もう一度、言葉を紡ぐ。けれども、その先が出てこなかった。
何も覚えていない俺には、何を謝ったらいいのか、何と言って慰めたらいいのか、その言葉さえも出てこなくて……
だけど、何かを伝えたい思いは溢れていて……
悩んで、悩んで……最後に、俺の口からこぼれてきた言葉。
それは……今の自分の、素直な気持ちだった。
「名雪……何ていったらいいかわからないけど……」
「思い出せなくって、本当に悔しいけど……」
「昔の事は、何も言えないけど……だけど、今のことなら一つだけ言える」
「俺は、今、その花は綺麗だと思う」
「えっ……」はっと、名雪が顔を上げる。
「その花の事が、きっと好きになれると思う」
「祐一……」
「もう、遅いかもしれないけど、俺も一緒に育てたい」
「今まではできなかったけど、これからは、ずっと名雪とその花を育てたい」
「だめかな。もう、遅いかな……」
その言葉を聞いて、やがて、名雪の表情がぱっと輝いて……。
「遅くないよ。うん、遅くないよ……」泣きそうな表情で、こくこくと頷いた。
「あの……」不安げな表情で、俺を見上げる。
「祐一も、このお花を一緒に育ててくれるんだよね」
「ああ」
「祐一もいつかきっと、このお花を好きになってくれるよね」
「……ああ」
「ありがとう、祐一」
「嬉しいよ。本当に、嬉しいよ……」
泣き笑いの表情を浮かべながら、名雪がゆきのしたの花をひとつ摘み取って……髪に、そっと挿した。
「ね、祐一。……わたしに似合うかな、この花」
「ああ、似合って……」
お世辞で言おうとしていた言葉が、ふと、そこで止まる。
名雪の髪に映える、白い花。そして、その花を添えられて微笑む姿。それが本当に…
「……似合ってるぞ」
もう一度、心から言い直す。
「あ……」
名雪が一瞬、驚いた顔をして……
「嬉しいよっ」そして、本当に嬉しそうに……にっこりと微笑んだ。
その笑顔が……記憶の奥底にある何かと、重なる。
それは、記憶の一番大切な場所に眠っていた思い出。初めて感じた、大切な気持ち。
ゆきのしたに埋まって見えなくなってしまっても、決して消えない場所に残っていた、俺の、かけがえのない何か……
しばらくして、ふたりで見つめ合っていた事に気が付いて……慌てて俺は赤くなって視線を逸した。
「ええと……」何だか照れながら、言葉を紡ぐ。
「その……今日は本当にごめんな」
「ううん、もう大丈夫だよ」
「おわびに、しばらくは毎週百花屋だ」
「わ、ほんとうに？」その言葉に、目を輝かせる名雪。
「……おごりじゃないけどな」
「ええっ、ひどいよ〜。おわびだって言ってたのに……」
「これも、ふたりで一緒に、だからな」
「えっ？」名雪が一瞬、きょとん、とした表情になって……
「うん、そうだね」にっこりと微笑む。
その髪に、真っ白なゆきのしたの花が映えていた。
それは、名雪が子供の頃からずっと育てていた、小さな花。
長い間大切に育ててきた、小さな花。
俺の心の中では、まだゆきのしたに眠っている、小さな花。
だけど……これからはふたり一緒に育てていく、大切な花。
「それじゃ、行こう、祐一」
おずおずと名雪が手を差し出す。俺も自然と手を伸ばして……しっかりと、繋いだ。
伝わってくる温もりに、思わず胸が高鳴る。
この気持ちは、いったい何なのだろう。俺の胸を締め付けるこの思いは……何なのだろう。
思い出の中から、今もゆきのしたで微笑みを浮かべている女の子に、はじめて出逢ったときから感じていたこの気持ち。
それが何なのかに気が付く日が来るのは……きっと、そんなに先の事ではないような気がした。
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