don't need no reason why
「ねぇ、栞。今からあたしちょっと出かけるんだけど…ついて来てくれない？」
「え……？」
香里の唐突な言葉に、ソファーから立ち上がろうとしていた栞の動きがぴたりと止まる。
声をかけられぎこちなくこちらを向いた顔には、驚きと疑問の混ざり合った表情がはっきりと
浮かび上がっていた。表情を見た香里は戸惑いを覚える。この用件を伝えれば栞がショックを
受けるくらいの事はもちろん分かっていた。しかしその度合は自身の予想よりもはるかに大きかった。
二人しか居ないリビングに香里の言葉が響いた後には空白の時間が生まれた。
しかし壁に掛けられたアナログ時計はそんな事はお構いなしに、いつも通り時を正確に刻み続けている。 時刻はちょうど午後八時になるところだった。
栞の表情はこれから自分にとって良くない事がこれからまだ告げられる事を察知し
どんどん曇り始めていた。覚悟を決めるように手をぎゅっと握り締める。
時計が八時になった事を知らせる鐘の音を打ち鳴らし始めると、香里は自分自身を
落ち着かせるようにゆっくりと言葉を続けた。
「お願い、ただ私について来てくれるだけで良いの」
「…冗談ですよね？お姉ちゃん」
「ごめんね、これは冗談じゃないの。本気で言っているのよ」
「だって……私は今から…」
九時からは栞の今シーズンで一番お気に入りのドラマの最終回が放送される。
終了してしまうのは寂しいが毎週ずっと楽しみにしてきたドラマの最終回に備えて
栞はいつものようにこれから一時間かけてゆっくりと入浴し、湯上がりに祐一と電話で話しながら
ドラマを観て、大好きなアイスクリームを心ゆくまで食べるつもりだった。
それらはほんのつい最近までの自分……病室でただ無意味に時間が過ぎるのだけを感じていた自分ではけっして味わう事の出来なかった、生きている事や満たされている事を実感できる唯一の時間だった。
だからお気に入りのドラマの放送開始一時間前からは、絶対に自分を何処かに連れ出そうとしたり
勝手に予定を入れたりはしないでほしいと、いつも家族には言っていた。
どうしても出かけなければいけない時には、出かける前には必ず祐一のもとに電話をかけた。外出先では何にも集中できず、帰宅すればまたすぐに電話をかけた。
『そんなに何度も祐一さんとの時間、祐一さんとの時間って言われなくても分かっているわよ！！』
この時間を失うのを恐れるあまりに念を推し過ぎたために、姉に怒られてしまった事だってあった。
だから予定通りに時間が始まり、過ごせている時間は心のそこから本当に幸せだと思えた。今までずっと病室で独りで過ごしたせいで味わう事の出来なかった分も噛みしめた。
それほど誰にも邪魔をされたくない大切な時間。
何故それを邪魔しようとするのかが分からなかった。震える声で言葉を返す。
「お姉ちゃん前に約束してくれましたよね？絶対に私の時間の邪魔をしないって……。あれは
嘘だったんですか？」
「嘘じゃないわ。でもこれは一生に一回だけのお願いなの」
「そんな……嫌ですよ…」
「ごめんね……でもお願いよ。ついて来て頂戴」
栞は泣きながらソファーに座り込む。体中から全ての力が抜けてしまい、自分は
一体どうしたらいいのか分からなかった。
自分はどうしても姉の頼み事を断ることが出来なかった。大事な用事があるからと
断ってはいても最後には結局、自分の方が折れてしまうのを栞は知っていた。言葉を聞いている内に
いつのまにか自分の中から反抗する気持ちが消えさってしまい、姉にもっと好かれたい、嫌われたくはないという自分の声に従ってしまう。逆らおうという気持ちは起こりはしてもそれを実行する気には
絶対になれなかった。
昔は今日のように頼まれる形ばかりではなく、無理強いに近い形の場合もありそんな時に
不条理な姉に対して感じる怒りも時間が経てば消え去ってしまうような情けないものでしかなかった。
それくらい栞にとって香里は絶対的であり、そして今の祐一の存在と同じ位にずっと昔から心の拠り所だった。
いつか友人とこの事を話した時には友人の
『世の中の弟や妹なんかはきっと皆そうなんだよ』の言葉に助けられた様な気がした。
しかしそれでもこれから姉と一緒に外出して行く様子が簡単にイメージできる自分が許せなかった。
「お姉ちゃんの馬鹿…邪魔しないで…」
それだけの言葉をなんとか喉から搾り出すと、涙がまた幾筋か栞の頬を伝った。
しかし香里の瞳からも涙はいつ零れ落ちてもおかしくなさそうだった。
時間はまだ鐘の鳴った八時から十分も過ぎてはいない。
「どうして今からなんですか…？お姉ちゃんは何処に私を連れていくつもりなんですか？」
「それは……学校にちょっとね…」
「学校！？何でこんな時間に行こうとするんですか？』
言葉を濁し、答えようとしない香里のその視線は、同じソファーに座りながらも姉から遠ざかり、精一杯の外出拒否の意思を体で示している栞から逃れるように、チカチカと点滅しているビデオの
予約録画の光に向けられた。それは九時からの最終回を何があっても、絶対に録り逃さないために栞によって昨日の晩から既にセットされているものだった。
視線がまた栞の元に戻ってくると香里は小さくため息をついた。
「はぁ…」
「何なんですかぁ…一体……」
香里は目を閉じ、今度は大きくため息をついてソファーに深く沈みこむ。その一連の動作は
口から言葉として出るよりも『どうして解かってくれないの？』とハッキリ言っているようだった。
その普段なら別に気にも留めない仕草が、栞の感情を危うく爆発させそうになる。必死でこらえようとするが我慢できそうにもない。
そのままの姿勢でまた、香里の口から同じ言葉が出ようとした時だった。
「お願いだからつい…」
どう見ても人に物事を頼む姿勢ではない姉にもう我慢はできなかった。
「リアルタイムで観るから意味があるんです！予約録画は万が一の時の保険であって
後から観るつもりで録っているんじゃありません！外出は今じゃなくても何時だって出来ます！」
立ちあがって栞はわめく様に喋り出す。その声に驚いた香里は目を開きソファーから飛び起きる。
「栞！？ちょっと落ち着いて聞いてよ」
「私は今からお風呂に入るんです！どうしてお姉ちゃんは私の時間を邪魔してでも
自分の時間につき合わせようとするんですか！？自分一人で行けば良いじゃないですか！」
「どうしても栞について来てほしいから頼んでいるんじゃない…お父さんとお母さんには
頼めない事なのよ…」
「それがどうして今日のこれから何ですか！私じゃないと駄目なら外出自体を止めてください！
お姉ちゃんは自分勝手過ぎます！」
声の大きさに両親が二階から下りて来そうな気がして、香里は戒めるような顔つきで人差し指を
口唇に当てる。それを見た栞はもうこれ以上話していられない、といった様にリビングから出て行こうとする。香里も慌てて後を追う。
「だから今日のこれからの外出を止められない大事な理由があるから、頼んでいるのよ…」
栞は極力、感情と音量の両方を押さえた声で言葉を返す。しかしそれでも香里にはやけに大きく聞こえた気がした。
「じゃあその理由を今すぐ教えてください。ここまで誘うのなら私が納得できる理由の筈ですよね？」
「それは…出かけたら分かるわ。だからお願い。」
「もういいですっ！！」
栞はそれだけ言うと自分の肩に置かれようとした香里の手を振り払い、自室に寝間着を取りに二階に
上がっていってしまった。また香里はまたはぁ、とため息をつく。
「いいじゃない……別に理由なんて話さなくったって」
香里は振り払われた手をさすりながら寂しげに呟く。時計を見てみる。時刻はまだ八時二十分だった。
「あたしにだって色々理由があるんだから……」
気を抜けば零れ落ちてしまいそうな涙を、香里はグイと甲で拭った。しかし右の瞳を拭っている間に
左の瞳からの涙は頬を濡らしてしまった。
「お姉ちゃんのせいで三十分しか入れません……」
栞は脱衣場で服を脱ぎ、風呂に入ろうとする。しかし時間の問題ではなく気分の問題だという事は
自分でも十分に分かっていた。
あの後に香里は部屋から出てきた栞に一言謝ってから、結局一人で出ていってしまった。
一人で出かけることが出来るのなら最初から頼まないで欲しかった。結局こっちが時間と気分の損をしただけ。栞はそう思う。同時に自分があんなにヒステリックに怒らなければ、出ていく時に何か
一言かけていたなら、今こんなに落ち込まないで済んだのかな、という思いもあった。
栞はすっきりしない気分のまま扉をあけると、熱い湯を張ってからずっとそのままにしていた
せいだろうか風呂場にはすっかり湯煙が立ちこめていた。
気にせずに洗い場に足を踏み入れて、すぐにシャワーのスイッチを全開にひねって体に思い切りかける。熱い湯を思い切り体に浴びていれば、元気になれるはずだと思いしばらくそのまま浴びてみる。
しかし気分はいっこうに良くなんかならない。温度を変えてみてもそれは一緒だった。シャワーの勢いが足りないから？そんな事まで考える。
そして時間が経つにつれて、姉が自分を連れて一体何処に行こうとしていたのだろう、といった疑問が
当然の事のように頭に浮かんできていた。
「お姉ちゃん……一体どうしたんですか……？」
おもわず言葉が口から漏れる。こんな夜に何処に何をしに行くんだろう？姉にぶつけてみた疑問は
頭の中でぐるぐると回り続ける。
自分はこれからドラマを見て恋人と話してアイスクリームを食べて…やりたい事なんて山のようにあるし、同じように自分の意思ではなくても、義務としてしなければいけない事も。しかしそれはその
チャンスすら与えられそうになかった、自分にとっては喜ぶべき事だった。
それと同じように自分の時間を奪って、ただどこかに連れていこうとするのが姉のやりたい事、しなければいけない事なのだろうか？そしてそれを喜んでいるのだろか？そんな考えが呼び寄せたのだろうか 治まっていたはずの怒りがまた強く芽を出してきてしまった。
子供の頃からの姉との嫌な思い出ばかりが頭をよぎる。
それは香里本人からうけた嫌がらせ以上に、姉に対する嫉妬や体が弱くて何も出来ない
自分への嫌悪から心に刻まれた傷の方がずっと大きく、多かった。そして栞が健康な体を手に入れてもそれは変わるものではなく、それが余計にイライラを募らせた。
「ああもうっ！！」
スイッチを切って湯船にもつからずに風呂場を出る。バスタオルで髪の毛をグシャグシャと
乾かしながら、言葉がまた思わず声になる。
「もう何処にでも一人で勝手に行ってしまってください！！」
体中を拭き終わると自分専用の脱衣カゴの中にバスタオルを乱暴に押し込む。そして寝間着を手に取る。
「学校の勉強ばっかりしているから人の事なんか何にも…………学校！！」
栞は思いがけずに口から出た声で、頭の中のもやもやの全てが晴れた気がした。
間違いない、証拠なんてものはなくても自分には分かる。自分は自身の時間を守る事、どうにかして家から出なくて済む事ばかりを考え、何故こんな簡単な事に気付かなかったのかと思った。
「お姉ちゃんさっき学校に行くって…………！！」
急にさっきまで自分に頼み込んでいた姉の顔が思い出され、体中の毛が逆立つような気がした。
栞は手にした寝間着を放り投げると、脱衣カゴの中のさっきまで着ていた服にまた着替えはじめる。
着替え終わるとリビングに走って行き、電話の受話器を取り短縮ダイヤルのボタンの一番を押す。
コール音が始まると早く出てほしい気持ちとあせる気持ちで胸が一杯になる。そして数回のコールの後に電話はようやく通じた。
「もしもし！美坂ですけど祐一さんいらっしゃいますか！？」
『うおっ……！どうしたんだ栞！うるさいぞ！』
「あっ、祐一さん！？私は今から大事な用事があるから外出します！！それじゃあ失礼します！！」
突然の栞の言葉に困惑しながらも祐一は言葉を返す。
『はっ？いや、それはいっこうに構わんがそろそろドラマの…』
栞は祐一に自分の用件が伝わった事だけを確認すると、その返事すら聞かずに受話器を置く。
そして玄関から二階の両親に向かって「少し出かけてきます！」とだけ声をかけて夜の学校へと全力で走り出した。
走っているうちにもう一年近く前になる出来事が思い出されてきた。今はもう思い出したくもない出来事……学校で自分が倒れてしまった日の夜、病院に訪ねてきてくれた姉は人目を忍んでこっそりと
自分を夜の学校に連れていってくれた。
医者に安静にしているように言われたものの、昼間の出来事が嘘だった思えるほどに体調は良かったし姉の声で『今から誰も居ない学校に行ってみない？』と言われただけで胸は高鳴った。
病院を脱け出す時には、まさに天にも上るような気持ちだった。
今日の昼はたまたま調子が悪かっただけ……病気だってもうその内に治ってしまうだろうといった甘い考えまでもち始めていた。
そして目的の学校に着くと何故か突然、姉は泣きながら自分を抱きしめた。
『何で栞が……ねぇ？……何で栞が……』
抱きしめられた時は何がなんだかわからなかった。考えが言葉になって口から出てくれようと
しなかった。あんなに泣いている姉の姿を見たのが始めてだった事も覚えている。そしてポツリと出た自分の言葉は何気なしに確信を突いたのだった。
『お姉ちゃん……私そろそろ死んじゃうの？』
全てを知った今なら分かる。両親と姉はあの日の検査で自分の命が後一年足らずだと言う事を
知らされていたのだった。だから両親もきっと知っていたはずの自分たちの外出を
黙認してくれたのだろう。そして次の日から両親や姉の態度は急によそよそしくなった。変化にはその日の内に気付いたし、昨夜の自分の言葉がそう外れていない事にも確信を持った。
そして祐一から聞いていた……姉が夜の校舎で泣きながら自分の病気の事を話していた、という事を
思いだした時に栞の中で全てがつながった。
「お姉ちゃんの馬鹿……！！」
どうして自分は姉の必死な頼みを断ってしまったのだろう？栞はやっと手に入れた健康な体でまだ肌寒い町を駆け抜けていく。
いくら走っても学校には近づいていない気がした。橋を渡ってポプラの並木道を抜けて、ようやく学校の建物にたどり着くと、校門に向けて栞はまたスピードを上げて急いだ。
学校に姉が居ないなんて事は絶対にないように思えた。そして姉が学校で誰に何を伝えようと
しているのか絶対に見届けなければいけない。
誰と？どうして？何のために？
やはり自分の病気の事なのだろうか？病気の再発は無いと医者は言ってはいたが
そんな言葉はとても信じられなかった。自分は現代医学では治るはずがない不治の病に侵されていたはずなのだから。後悔と共に悪いイメージばかりが頭を埋め尽くしていく。
それを振り払うように校門までの後、数十メートルをただひたすら全力で走った。
そしてたどり着いた校門から中を覗いた時。香里はすぐそこに立っていた。
自分の知らない一人の男性と抱き合うように。
「えっ……？」
栞の口から小さな驚きの声が漏れる。
表情を確認する事は出来ないが服装で判る。間違い無く自分の姉だった。
男性の両手は香里の頭と肩をつつみ込むように回され、香里はその肩に顔をうずめるようにしていた。その手はぎこちなく男の背中で結ばれているだけだったが嫌がっているような素振りは全く見られなかった。
栞は息切れする呼吸を落ち着かせながら、自分の頭の中を整理する。姉はあの男性と会うために
ここへ来たのだろう。呼び出されたのかもしれないし、その逆なのかもしれない。もちろん待ち合わせは今日、この場所でこの時間だったのだろう。
栞は理由を聞くために声をかける訳にもいかずに、ただ呆然とその光景を眺める。
そして突然男の口唇が香里のそれを奪った。
香里はそれに驚いたように男を突き放す。それによってほんの十メートルほど距離の所で抱き合っていた二人は、こちらの存在に始めて気付いたようだった。
「まさか告……？」
栞は一瞬で自分の病気が関係ない事を悟り、姉が極度の恋愛下手だった事を思い出した。
「それじゃあお姉ちゃんは私をお守り役に……？」
香里が聞けば怒り狂うのは目に見えている言葉が口から出る。男の方が自分の方を小さく指差し、何か姉に向かって一言、二言喋ったようだった。姉はこちらをしばらく見ると、急に近づいてきた。
あっという間に距離は縮まり、肩をつかまれ、思いっきり揺さぶられる。
「あっ、あんたは何ジロジロ見てんの！！……というかなんでここに居るの！！」
「え……お姉ちゃんの事が心配になって……」
嘘ではなかった。それは最初とは多少意味合いは違ったが。体中をバシバシと叩かれる。
「ああもう！！知ってたんならついて来てくれたっていいじゃないの！！わざとついて来なかった訳ね！！」
「違います！！ちょっと意味が違うんです！！痛いです、お姉ちゃん！！」
「どこが違うっていうのよお！！あんたは嘘泣きを使った芝居までして！！」
「だから違うんですってばあ！！」
男の方を見てみると何故か自分も混ぜてくれ、とでもいう風に近づいてきていた
「まあそう怒るなよ……何があったのか知らねーけど……別にいいじゃんか」
香里は振り向いて真っ赤な顔で叫ぶ。
「北川君は黙ってて！！」
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