雪原の軌跡
雪国では、自分の足跡などすぐに降り積もる雪に埋もれてしまうものだ。
だから立ち止まって後ろを振り返って見ても、自分がどう歩いてきたか見て取る事は難しい。
しかし、自分がそこにいる以上、振りかえったそこには自分へと続く足跡が確かに存在していたのだ……。
人が生きてきた時間というものは、そんな雪原の上に残る軌跡に似ているかもしれない。
雪原の軌跡
ふいに後ろから名を呼ばれた。
とうに捨てたつもりでいた名を呼ばれた。
その名は彼女の親が、彼女にあたえた本当の名。
そしてその名は、自分の呪われた過去を思い出させる名だった。
放課後の昇降口、日もだいぶ傾いた寒さの厳しい黄昏時。
そこにいるのは自分と、何時の間にか後ろにいた少女が一人。
その少女はゆるいウェーブのかかった艶やかな髪と、端正な顔立ち。 誰もが羨むであろう彫像のようなシェルエット。
ケープの淵とそれをとめるリボンの色から一学年下の後輩である事が見て取れる。
その少女が、もう一度自分を呼ぶ。
少女の声に抑揚は無く感情もくみ取れないかったが、しかしその声は自分の心を鷲づかみにして離さない。
その少女が、たった一人、無二の親友にすら打ち明けた事の無い、自分の本当の名を呼んだからだ。
「……誰？」
かろうじてそう問う事が出来たが、しかし彼女はその問いが何の意味を持たない事を知っていた。
相手の名など知らなくとも、自分の昔の名を知る者が何を望んでいるのかを、彼女は残酷なまでに理解出来るからだ。
少女は、もう一度彼女の名を呼ぶと、「探したわ……。」 と言って笑った。
その少女が浮かべた笑みを、彼女は何度も見てきた。
今にも泣き出してしまいそうな笑み……。
すがるような、そしてどこか怯えるような期待に満ちた笑み……。
その昔、幾度も、幾度も、自分に向けられては無残にも崩れてしまった笑み……。
本当の事を、口にするだけで崩してしまう脆い笑み……。
そんな事……、出来無い………。
「………違う…。」
普段、表情の少ない彼女を知る人物が、今哀れなまでに狼狽した彼女を見たらどう思うだろうか？
震える声で必死に自分の過去を隠そうとする彼女を、しかし少女は、追ってきた過去はそれを許しはしなかった。
「嘘つかないでっ!! あなたの事、全部調べたんだからっ!!」
とたんに怒りに顔を歪め、烈火の如き勢いで少女が自分に詰め寄ってくる。
追いすがってきた過去をやり過ごすには、彼女は余りにも素直過ぎた。
「…違う…。 あれは…、…あれは私じゃない!!」
彼女は掴みかかろうとする少女の腕を必死に振り解くと、下足に掃きかえる事もなく外に飛び出した。
それが同時に、すぐ後を追ってくる少女に自分の正体を確信させる事になるとも知らずに…。
彼女はただ逃げるだけしか出来なかった。
その背に罵声のような制止の声を受けながら、勢い余って人にぶつかり、その見知らぬ人をかき分け、押し倒し彼女は走った。
ちらと後ろを振りる。
少女は必死に自分を追いかけてきていた。
かつて、父の腕に抱かれて見た光景が彼女の脳裡に浮かぶ。
父の肩越しに見た追いかけてくる見知らぬ人の目、何を言っているのか解らない、しかし恐ろしい大声で叫ばれる言葉。
あの時は何故父が走っているのか、何故その人が追いかけてくるのか理解出来なかった。
その後父母と離れ、そして彼女を追う人がいなくなって始めて彼女は自分の力に気づき、その力を憎み、それと同時に多くの人に詫びた。
だから今、彼女は人知れずその力と夜の校舎で戦い続けている。
誰に知られる事も無く、自分一人で終らせる。
それが彼女に出来る唯一の償いであると、そして彼女の忌まわしき過去と決別できる術であると、彼女は信じていた。
どこをどう走ったかは覚えていないが、何時の間にかアスファルトの道を外れていた。
昨晩降り積もった深い雪に、もうそろそろいう事を聞かなくなり始めた足が取られる。
必死になって雪の上を走り、もう一度うしろの少女を見やる。
少女までの距離は、やや広がっていた。
そのために油断したのだろうかか、彼女は深い雪に足を取られその場に倒れ込んだ。
ここで捕まる訳にはいかない。 そう思って力の入らない足を懸命に踏ん張り、不意に目に写った木の幹に手をかけて力任せに吹き溜りを抜け出た。
だがその瞬間、彼女は後ろから加えられた衝撃に再び雪の上に転がされた。
彼女が何が起こったのか理解するまで、一瞬の時間を要した。
本当はすぐに解っていたのだが、その現実を受け入れるまで時間が掛かったのだ。
自分と、もう一つ聞こえてくる別の息遣い。
服の上から、肉をひきちぎりらんばかりの力で自分を握り締めてくる二つの手。
追いつかれた。
その絶望的なまでの恐怖が彼女を支配する。
「…………………ッ!!」
声にならない悲鳴をあげ、彼女は必死に自分を押さえ込もうとする少女と雪の上でもみ合う。
何度か少女を振りほどいたが、立ちあがる前に足をすくわれて再び倒された。
いやだ。 いやだ。 いやだ。 いやだ。 いやだ。 いやだ。 いやだ。 いやだ。
雪と泥でグチャグチャになった視界が彼女の思考を一層みだす。
立ちあがろうと四肢に力を入れても、ぬかるんだ大地と冷たい雪、そして追いすがって来た少女がそれを許さない。
組み伏せられ、跳ねのけ、引き倒され、地面を転がる。
そんな事を何度くり返した頃だろうか。 もはや辺りの景色すら闇に閉ざされた中で、ふと自分にしがみついている少女と目があった。
その少女の必死な瞳を、彼女は何度も見てきた。
今にも泣き出してしまいそうな瞳……。
すがるような、そしてどこか怯えるような期待に満ちた瞳……。
その昔、幾度も、幾度も、自分に向けられては無残にも崩れてしまった瞳……。
本当の事を、口にするだけで崩してしまう脆い瞳……。
彼女も自分にしがみついてるだけで精一杯なのだろうか、あらい呼吸で肩を上下させ、特に何をしてくる訳でも、何かを言ってくる事も出来ないでいる。
だが彼女には、少女が自分に何を言うか解っていた。
「………無理…、だから…。 出来ない…から…。」
だから問われる前に答えた。
荒い呼吸に途切れ途切れになりながら少女にそう答えた。
その自分声を聞いた瞬間少女は目を見開き、自分を押さえつけている手に一層力を込める。
しめつけられるているのは体か、心か……。
その苦痛に顔を歪めながら、彼女は全てを悟った。
追いつかれた訳ではない…。 その過去からは、最初から逃れられはしなかったのだと…。
「お願い、たった一人の…、大切な妹なのよ……。」
荒い息の合間に少女がこぼした言葉も、昔よく聞いた言葉そのままだった。
妹を、兄を、父を、祖母を、かけがえの無い家族を、友を、大切な人を……。
自分もあの時失うはずだった母を、そうなる事を心から拒んだのも自分だ。
だから彼女にそれと同じ奇跡を求める人達の気持は痛い程良く解っている。
しかし……。
「駄目…、出来ない……。」
それが現実だった。
乾いた音と共に左の頬に衝撃がはしる。
自分を見つめる少女の目には、絶望と怒りの暗い炎が灯っていた。
自分を押さえつける手にはますます力が込められ、それが少女の怒りを正確に彼女に伝えている。
それでも何も言わない彼女に対して、少女は次々と平手を繰り出す。
むずがる子供の様に瞳に大粒の涙を浮かべて、自分の頬をしたたかに打ちすえてくる少女に、彼女は何も抵抗しなかった。
この痛みは、無力な自分に対する罰だ。
彼女はもう何年も前にそう自分に言い聞かせていた。
「お願い……、頼れる人間がもうあなたしかいないの……。 時間がもう無いのよ…。」
少女は泣き始めていた。
「お願い!! あなたは出来るんでしょ!? 奇跡を…、奇跡を起こせるんでしょ!?
たった一人の大切な妹なのよ…、このままじゃあの娘…。 お願いよ…。 お願い…。」
すすり泣く少女の声は、頬を打たれる衝撃よりも彼女の心を傷つける。
昔から少女のような人達を救うことが出来たらどんなに良かったかと、ずっとそう思っていた。
自分でもあの時なにが起こったのか解らなかったけど、もしもう一度あの奇跡を起こす事が出来ればどんなに救われただろう。
おそらく、大好きだった母とも今も変わらず一緒にいる事が出来たはずだ。
そんな甘い妄想を振りきるように、彼女はもう一度少女に向けて首を左右に振った。
少女の瞳にはもう絶望しか写ってなかった。
「………この悪魔…。」
かつてそう呼ばれた。
「この悪魔っ!! 人でなしっ!! いいわよっ!! もうあんたには頼まないっ!!
……そのかわり、覚えてなさい!! あなたの正体を皆に知らせてやるからっ!!」
それもまた、昔そう言われた言葉…。 だが、彼女は何故か今その言葉をやり過ごす事は出来なかった。
「…やめて…。」
「知らないわよ!! あんたなんか、どうなろうか知った事じゃないわっ!!」
「…いやだ…、それだけはいや!!」
自分の正体が人の知る所になる、それはつまりこの街にいられなくなる事を意味する。
そうなればたった一人の親友と離れなければならならない。
あの約束の場所とも、離れなければならない……。
「……お願いそれだけはやめて…。」
「じゃあ妹を助けて!! お願いだから!!」
「……………それは……。」
彼女は、人外の力を持つにはあまりにも純粋すぎたのかもしれない。
突きつけられた過去、自分が助けられなかった人達、離れざるをえなかった家族、捨ててしまった本当の名前……。
「だってあなたは出来るんでしょう…？
あなたのお母さんと、あたしの妹……。 同じ病気なのよ……。
だから助けて!! あたしの事を憎んでも良い!! 望むなら命もあげるから!!」
違う、憎いのは自分だ。 何も出来ない自分だ。
許されないのは解ってる。 自分は普通じゃない。 人と深く交わる事など最初から許されてはいけなかった。
だけど今はこの街にいたい。
たった一人の親友と出会った街に……。 遠い昔、大切な約束をしたあの場所に……。
離れたくは無かった。
そして、彼女の思いは溢れ出した。
「だって…、だって出来なかった…。 皆助けてあげられなかった……。
だから悪魔って呼ばれた……。
でも私だって、あの時何が起こったのか……、私にも解らなかった!!
もう嫌だ!! あんな力いらなかった!! ただお母さんと離れたくなかっただけなのに!!
でも結局お母さんと一緒にいられなかった!! お母さんがくれた名前まで、捨てなきゃならなかった!!
もう嫌だ!! 私にもどうしていいか解らない!! どうして!? どうして私は…っ!?」
彼女は、その後を言葉にする事は出来なかった。
気がつくと自分は大声を上げて泣いていた。 涙を流したのは、いつ以来だっただろうか？
しかしそんな事は、彼女にとってどうでも良かった。
彼女は、その後も泣きつづけた。
それからどれ位たっただろうか？ 彼女は自分から離れていく足音を聞いた。
雪の上の、今自分がいるその場所まで続いている足跡。
純白の雪原の上をかき乱し、醜く踏み荒らしてきた自分の軌跡。
降り始めた雪が再びその道を覆い隠しても、確かにそれはそこに存在していた。
自分が忘れる事はあっても、その事実は変わらないのだ。
次の日の夜。 彼女は夜の校舎に剣を携えて戻ってきた。
彼女は今夜、全てを終らせるつもりでいた。
もう心残りは何も無かった。
冷たいリノリウムの廊下を歩き、暗い夜の校舎の階段を2階へと上がる。
しかし何故か、いつもそこでアレを待っている場所に少女がいた。
「……あなたが夜学校に侵入して来るって噂…。 本当だったのね……。」
「………………………。」
「心配しないで、……今日は、昨日の事であなたに会いに来た訳じゃないから。」
月明かりと、それを照り返す雪が夜の闇を払い、そこにいる少女の顔はよく見て取る事が出来た。
少女の顔は、彼女が今までみた事の無い笑みを浮かべていた。
しばらく無言で向いあった後、少女から彼女に話しかけてきた。
「コーンスープ飲む？ 寒いでしょ？」
少女は魔法瓶を取り出すと、そのうち蓋に温かそうなスープをそそぎ、自分に渡してくれた。
昨日と全く違った雰囲気を纏った少女にいささか戸惑いを覚えながらも、彼女はそれを受け取った。
「………ありがとう、……でも……。」
「いいの。 気にしないで。 毒なんか入ってないから。」
そう言って少女ももう一つうち蓋にスープをそそぎ、目を細めて美味しそうにスープを啜った。
またしばらく無言の時間が過ぎて、それから少女は話し始めた。
「誰にこの事を話そうかと考えたけど、あなたには昨日迷惑……、かけちゃったからね。
迷惑ついでにちょっとあたしの独り言聞いてくれる？」
そう問われて、彼女はコクリと頷いた。
何故昨日の少女がここに来たのか、それが知りたかったからだ。
「あたし、酷い姉だったわ……。 妹に対して、ひどい事して来た……。
あ、大丈夫よ。 絶対昨日の話しじゃないから…、て、あたしが言っても信用無いか。
でもこれは独り言だから……いい？ 有難う…。 じゃ続けるわね……。
あたしね、妹がいなくなって辛いなら、最初からいない事にすれば辛くなくなるんじゃないかって考えてたの。
だから、残された時間なんかもうほとんど無いのに、ずっと妹を無視してたわ…。
……本当に馬鹿よね……。 そんな事して、何の意味も無かった。
今思えば、本当に自分が許せないけれど、でもそんな情けない自分が自分なんだって、心から反省する事にしたわ…。」
そこで一度話を区切り、少女は手に残っていたスープを飲み干した。 満足そうにほうと白い息をはく。
そんな少女に魅せられたのか、彼女もまたそれに習った。
そんな彼女を見て少女はニッコリと笑い、そしてまた話を続ける。
「妹がね、明日から学校に通うんだって……、普通の女の子として生きるんだって……、そう昨日あたしに言ったの。
もちろんあたしも、家族も全員で反対したわ。 でもそしたら妹はこう言ったのよ…。
あたしが生きている今は今しかない。 だから一生懸命今を生きる。
最後の最後で後ろを振り返ったとき、しっかりと自分の生き方が納得出来るように……。
誰にでも真似出来ない、自分だけの道を歩くんだ…って。
妹がそう言ったのを聞いて、昨日一晩眠れなかったわ……。
自分の弱さが悔しくて、情けなくて、そして妹の強さが嬉しくて……。
今日、ついさっきだけどやっと決心がついたわ。
あたし妹に謝る。 そして自分に出来る事を全力でする。 あの娘の姉として生きる、全力であの娘と一緒の時間を生きる。
誰にも真似出来ない、二度と無い時間を生きる事にしたわ……。」
強い光をともした瞳で少女は語り、彼女はそれを静かに聞いていた。
遠い昔、母がなぜ病の身をおして自分を動物園に誘ったのか……。 彼女は少しだけ理解する事が出来た。
「…ちょっと長居しすぎちゃったわね…。
正直昨日の今日で、あなたには本当にひどい事したと思うし、だから、たぶん謝ってもわざとらしいだけだと思うけど、……本当にごめんなさい。 でも、聞いてくれて、本当に嬉しかった…。
信じてもらえないかも知れないけど…、あなたの事、絶対に誰にも言わない。 そして、こんな事いえる立場じゃ無いけど…、でも……。
……あなたも今の自分を、精一杯生きて欲しい。」
少女はさりぎわに、魔法瓶をそのまま自分に渡してくれた。 名も名乗らぬまま、少女は闇へと消えて行った。
少女が暗闇へと消え、辺りに静寂がもどってきた時、彼女は廊下の端で自分を見つめている小さい女の子にようやく気が付いた。
極寒の世界に痛々しいほどの薄着で、頭にはウサギの耳を模した髪飾り。
その女の子が、ゆっくりと彼女のもとへ歩いて来た。
彼女には解っていた。 もう剣はいらない。 今すべき事はただ一つ。
少女が自分に語ってくれた決意。 本当はもっと昔に、自分もそれをすべきだったのかもしれない。
しかし今ここに自分がいて、そしてその女の子が目の前にいるならばそこから始めれば良いだけの事。
道は自分の後ろにだけ出来る物ではない。 まだ歩く気力があるのなら、目の前にある世界と時間は全てが広大な自分の道なのだ。
歩くのは自分の足、決めるのは自分の意志。
彼女は静かに、そして優しく女の子に手を差し出した。
女の子は力強く頷き、幼い顔にいっぱいの笑みを浮かべてくれた。
今まで自分が歩いてきた道が正しかったのかどうなのか。 振り返ってみてももはやそこに自分の足跡は無い。
だが今自分がそこにいる以上、時間と言う世界の上に自分が描いてきた軌跡がある。
そしてそこに自分が生きている以上、だれがその存在を否定できようか？
人が生きていると言う、かけがえの無い、確かな奇跡を……。
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