贈る言葉
１２月１０日。
時刻は午前７時４５分。
一階からその声が聞こえてきた時、香里は既に制服に着替え終えていた。
「香里ーっ。北川君が来たわよー」
「ああもうっ、また来たの？ 二度と来るなって言ったでしょ、もう」
手にブラシを持った香里は、姿見に向かって大きく肩をすくめた。
今日は終業式。
この後の冬休みを越せば、あと２ヶ月で卒業式である。
香里は急いで机の上の鞄を手に取ると、部屋を出て早足で階段を駆け下りた。
「お母さんっ」
「どうかしたの、香里。顔が赤いわよ」
一階の居間では、母親が朝食にトーストをかじっている最中だった。
その顔に、にやにやと笑みを浮かべて、だが。
香里はそんな母親をきつく睨んだ。
「……大声で言わなくっても聞こえてるんだから。恥ずかしい。近所に丸聞こえよ」
「いいじゃないの。別に悪いことをしてる訳じゃないんだし」
「あたしは迷惑なのっ」
「おーいっ、美坂ーっ」
「ああもうっ！」
「あ、香里。朝ご飯はどうするの？」
のんびりとした母親の声に、香里は真っ赤な顔で怒鳴り返した。
「いらないわっ！」
雪の積もった通学路を二人並んで歩く。
これで何度目になるのだろう。
「ほんっと。あなたって物好きよね」
「どうしてだ？」
隣を歩く北川潤は、鞄を両手と共に頭に抱え、飄々とした態度で歩を進めている。
「だって、あなたの家って学校の反対側にあるのよ？」
「そうだな」
「そうだなって……。あのね、前から聞きたかったんだけど、いったい何時に家を出ているの？」
「ん〜、７時１０分くらいかな」
「はぁ……。そこまでして、あたしと一緒に学校に通いたいの？」
「ああ。そうだけど。迷惑か？」
「だから何度も言っているでしょ。正直言って迷惑極まりないわ」
「そりゃそうだ」
そこで潤は足を止めると、青い空を見上げて屈託無く笑った。
香里も足を止めると、はぁ、と大きく息を吐き、潤の顔を覗き込んだ。
同じ制服を来た生徒達が、そんな２人の横をゆったりと通り過ぎていく。
「もぅ。迷惑だってわかっているなら、さっさと止めて欲しいんだけど」
「ああ、だから今日で最後だ」
「そうなの？」
「今年はな」
そして潤は笑顔を浮かべ歩き始める。一拍置いてから、その後を追う香里。
「ちょっと待ってよ。じゃあ３学期が始まったら」
「あははっ、ご想像にお任せするよ」
「あのねぇ、ストーカーって犯罪なのよ。知ってる？」
「知らないなぁ」
そして潤は、香里に向かって微笑んで見せた。
最近いつも思うのだ。
その行為は、卑怯だと。
香里は口をつむぎ、目を背けるしかなかった。
最近いつもそんな調子だから、潤と並んで歩く学校まではあっという間だ。
教室に入ると、幼馴染とその同居人がちょうど席についたところらしかった。
「おはよ、名雪」
「うん。おはようだよ、香里」
「ついでに祐一君も、おはよう」
「俺はついでか」
「男の子でしょ。つまらない事を気にしないの」
「そうだぞ、相沢。こうやって声を掛けてくれるだけでもありがたいと思わないとな」
「ばーか。それにしても最近仲がいいな、お前達」
「ふふっ。仲が良いことは、とっても良い事なんだよー」
普段と何も変わらない、こんな暖かいやり取り。
香里は机の横に鞄を掛け、そんな３人を眺めながら、柔らかく微笑んでいた。
そして、思うのだ。
いつからだろう、こんなにも自然と笑みを浮かべる事が出来るようになったのは。
そして、思い出すのだ。
春が来る前に微笑みをくれた、最愛の妹、栞の事を。
香里は窓の外を眺めた。
そこには雲ひとつ無い、どこまでも青い空が広がっていた。
ここからこの景色を眺めるのも、あと２ヶ月。
学校を卒業すれば、それぞれがそれぞれの道を歩む事になる。
別れることになる友人も多いだろう。けれどそれは仕方の無いことだ。
たとえどれだけ愛していても。別れは確実に訪れるものなのだから。
だから思うのだ。その時が来れば、悔いの無い別れをしようと。
もう二度と。あの過ちを繰り返さぬように。
大好きな妹の死から逃げていた自分。
そんな香里に、最後まで笑みを絶やさずにいてくれた栞。
結局奇跡は起こらなかったけれど。
それでも香里は、栞の最期を見届けることができた。
最期に栞の手を握り。笑顔を浮かべてあげることができた。
それは、友人達の助けがあったから。
逃げてばかりいた自分の背中を、そっと押してくれた友人達。
彼らがいなければ、きっと自分は一生悔いて生きることになったであろう。
だから、香里は感謝していた。相沢祐一に。水瀬名雪に。
そして、北川潤に。
「大好きなんだろう。だったら美坂は、そばに居てあげるべきだ」
「あなたに何が解るって言うのよ！ あなたなんかにわたしの痛みなんて解るわけないじゃない！」
「でも、そうやって逃げている事で、一体何が解決できるんだ？」
「耐えられないのよ！ あの子、苦しくて死にそうなのにいつも笑顔でわたしの事を見るのよ？！ 辛い筈なのに……。とても辛い筈なのにっ！」
「栞ちゃんは笑ってくれているんだろう。なら、何も問題は無いじゃないか」
「大好きだった。何もかもを捨ててしまっても、あの子が助かるのならわたしは耐えることができるた。でも、あの子は助からないの。死んでしまうのよ！」
「美坂さえ笑ってあげれば、栞ちゃんは頑張れるんだ」
「頑張っても、死んじゃったら何も意味が無いじゃない！」
「意味はあるさ。栞ちゃんの本当の笑顔、見たくは無いのか？」
「栞の、本当の……笑顔……」
「もう時間が無いんだろう？ 最後なんだろう？ なら精一杯、姉妹でいてやれよ」
どれだけ彼の言葉に背中を押されたか。
そして、どれだけ彼の温もりに救われたか。
栞が死んで。泣きじゃくる自分を抱きしめてくれた。
暖かい言葉をかけてくれた。
「きっと。きっと栞ちゃんは、美坂のことを許してくれるさ」
「ひぐっ、しおりぃ、うぁぁ……うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ！！」
今年最後の部活が終わり、その日の帰り道。
白い粉雪の舞う、夕暮れ時。
薄闇の中で。
「なぁ美坂。今年のクリスマスイヴさ、予定空けといてくれよ」
「……は？」
香里は飲んでいた缶コーヒーを、思わず吹き出しそうになった。
「あのね、北川君。あなたどういうつもりで言っているのか判ってる？」
「言葉通りの意味さ。駄目なら諦める」
「そんな事……急に言われても……」
さぁっと頬が火照るのが判った。
だから香里はそっぽを向いた。
「大切な話があるんだ」
潤の声には冗談など含まれていない。
暫く黙ってから、香里は缶コーヒーを一気に飲み干した。
喉を通ったソレは、とてもとても甘く感じられた。
嫌いな味じゃない。
「どうしてあたしを誘うのか、聞かせて」
やっとの事で声を絞り出す。すると潤は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、意地悪く笑った。
「なんだよ。イヴに美坂を誘う理由なんて一つしかないだろう」
「違う。そんな事が聞きたい訳じゃないの」
香里はうつむき、足を止めた。
潤も足を止める。
「言葉で」
声が少し震えている。みっともないと思った。
それでも香里はありったけの勇気を振り絞り。潤の顔を見て、言った。
「ちゃんと、わたしに伝えて欲しい」
「それはクリスマスイヴに話す。今はまだ駄目だ」
潤はそう言ってから。香里の目を見つめながら、優しく笑った。
それは、なにもかもを包んでしまうような。
栞が死んだあの日に。あの夜に浮かべてくれた、どこまでも暖かい笑み。
「……知らないっ」
だから、卑怯だ。
そんな顔をされたら。
どんな顔をしたらいいのか、判らなくなる。
香里は更に顔を赤らめ、うつむくしかなかった。
「ほら。俺達ってばもう卒業だろ」
「……そうね」
「卒業してから、後悔したく無いんだ」
潤は空を見上げた。
灰色の空。
雪が微かな風と共に、少しずつ勢いを増してきていた。
「ちょい急ごうか。雪、強くなってきてるからさ」
「……そうね」
それから暫く無言で歩く。
そして、ちょうど潤と香里の家の距離が同じに近づいた時、潤は立ち止まった。
「これからちょっと用事があってさ。本当なら家まで送ってやりたいんだけどな」
「大きなお世話よ」
「あはは、違いない。んじゃあな、美坂。また電話するよ」
結局イヴの約束をしないまま。
その日、香里は潤と別れた。
潤が自分に好意を抱いていることに気付けないほど、自分は鈍感ではない。
けれど、自分自身が潤をどう思っているのか。
それが香里には、よくわからなかった。
好きなのかと聞かれれば、きっと好きなのだろう。
けれどそれは、果たして恋愛感情なのだろうか。
それとも、ただ単に仲の良い友人としての感情なのだろうか。
怖かった。
はっきりさせてしまうことで、大切な人を失うことが。
もう二度と。大切な人を失いたくは無かった。
けれど、このまま仲の良い友人のまま別れを迎えてしまう方が。
自分にとって辛いことも、きっとどこかでわかっていた。
潤から電話があったのはイヴの前日だった。
「明日、俺と会ってくれるか？」
「どう答えたら、あなたに喜んでもらえるのかしら」
香里は受話器を耳に当て、微笑んだ。
あれからずっと、香里は悩んだ。
けれど、どれだけ悩んでも結論は出なかった。
だから決めたのだ。
会ってみよう。それからでも遅くは無い、と。
「そりゃあ決まってるだろ。どこにデートの誘いをして、断られたい男がいるんだよ」
「あら、デートなんて初耳ね」
「なぁ美坂。なんか俺、悪いことしたか？」
電話の向こうで潤が落ち込んでいる姿が簡単に想像できて、香里は笑った。
「さぁ。その手を胸に当てて、良く考えてみれば？」
「うう……思い当たるところだらけで……胸が痛いぞ」
「そう、ちゃんとわかっているのね。なら、許してあげてもいいわよ」
「本当か！」
声が弾む。香里はもう一度微笑んだ。
「ええ。で、何時にどこへ行けばいいの？」
「そうだな。じゃあ悪いんだけど、夜の１０時に駅前に来てくれないか」
「構わないけど。でも、デートにしちゃあえらく遅いのね」
「ちょっと下準備しなくちゃいけないんだ。でも、絶対に後悔はさせない」
「わかったわ。夜の１０時、駅前のベンチの前で待ってる」
「ああ、絶対に遅れないから。じゃあおやすみ、美坂」
「おやすみなさい、北川君」
香里は受話器を戻すと、大きく息をついた。
明日、どんな服を着ていこうか。
プレゼントはどうしようか。潤は何を買ってあげれば喜ぶだろうか。
そうやってうかれている自分に気付き、香里は苦く笑った。
こんなの、わたしの柄じゃないのにね。
１２月２４日。
今日はクリスマスイヴ。
香里は黒いニットセーターに赤いスカート、その上から茶色いコートを羽織り、夜９時ちょうどに家を出た。待ち合わせの時間には少し早いような気もしたが、別に構わなかった。待つのには慣れている。それに今日は、少しでも待ちたい気分だったから。
雪は止んでいた。風も穏やかだった。しかし香里は一応傘を持ってきていた。天気予報で、夜遅くに降雪があると言っていたからだ。
駅前までは徒歩で３０分程の距離だった。純白の雪が積もった人通りの少ない道。香里は不安と緊張、そして僅かな期待を胸に、ゆっくりと歩を進めた。恋人達で賑わう繁華街を抜け、駅前のベンチの前に辿り付いた時。時刻はちょうど９時３０分を刻んだところだった。
待ち合わせの時間まで、あと３０分。香里は周囲を見渡した。氷点下のこの寒い中、カップル達がめいめいのベンチに座り語り合っている。香里は誰も座っていないベンチを探すと、上に積もった雪を払い、そこに座った。
それから５分も経たない内に、潤がやってきた。
何故か、サンタクロースの衣装を着て。
「なんだよ、もう来てたのか。えらく早いな」
「あなたこそ。それよりも、その格好。いったい何の冗談なの？」
「ああ、これ？ 今バイトが終わったばかりなんだ」
そう言って潤は笑った。香里は肩を落とす。
「それじゃあ早く着替えてきなさいよ。ほら、みんなが見てる。恥ずかしいわ」
「まぁ待てって」
潤は苦く笑うと、背負っていた麻袋の中に手を伸ばし、可愛らしくリボンで包装された小さな四角い箱を取り出した。
「メリークリスマスっ！ あははっ、サンタからのクリスマスプレゼントさ。受け取ってもらえるかな」
「……ありがとう。えっと、開けてもいいかしら」
「おう」
「え、これって……」
香里は驚いた。その小さな箱に収められていたのは、シルバーのイヤリングだった。
一目見てわかる。学生のプレゼントにしては、かなり高額な代物だ。
「給料の三か月分、まではいかないけどな」
相変わらず飄々と笑顔を浮かべている潤。
しかし香里は思わずベンチから立ち上がると、箱を付き返していた。
「ちょっと待ってよ。こんな高額なもの、わたし貰えないわ」
「大丈夫だって。別に万引きしたって訳じゃないからさ」
「そう言う意味じゃなくって……」
香里はカラカラになった口の中を一旦湿らせてから、
「わたし、あなたにこんなものを貰えるような事してない」
「好きだ」
「……え」
「好きだ。俺は美坂が好きだ。好きだからバイト頑張って、喜んでもらおうと思った。これでも文句あるか？」
流石に顔を赤らめて、潤。
そんな潤を見て、香里は思わず吹き出してしまった。
「なんだよ。真剣に告白した奴を見て笑うのはひどいと思うぞ」
「ごめんね。あなたが照れるのって初めて見たから……」
憮然とする潤を横目に、香里は笑いを堪えながら、手に持っていたリボンに包まれた紙袋を差し出した。
「これ、わたしからもプレゼント。開けて見て」
「ありがとう。手袋……これを俺に？」
「製作時間たった一日の手編みの手袋よ。だから品質の方は保証できないけど」
香里はそう言ってから、微笑んだ。
「わたしも、あなたの事が好きみたい。今ようやくわかったわ」
「本当か！ くーっ、頑張ってバイトした甲斐があったぜ！」
「ああ、違うの。別にプレゼントになびいた訳じゃないから」
香里は苦笑いを浮かべたままベンチに座りなおすと、潤を手招いた。
「わたし、あなたと一緒に居ると心が安らぐの。ああ、わたしなんかでも必要としてくれる人がいるんだなぁって。こんなわたしの事を、好きだって言ってくれる人がいるんだなぁって」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
サンタクロースの格好のまま潤は香里の隣に座ると、鼻頭を掻いた。
「長年の努力がようやく実を結んだって訳だ」
「はじめは鬱陶しい男の子だなって思っていたんだけどね」
「あはは、知ってるよ」
「あれからもう６年か……。まさか、わたしがあなたと付き合うことになるとはね」
「きっと運命だったんだよ」
「運命、か……」
香里は深く嘆息した。
運命。それはなんて図々しくて我侭な代物なんだろう。
「わたしは運命って言葉、好きじゃないわ」
「どうしてだ？」
「未来は変えられる筈だから。逃げることを止めれば、きっと。ね」
「ああ、そうだな」
潤は頷いてから、思い出したかのように夜空を見上げ、小さく呟いた。
「雪だ」
ぽつり、ぽつりと真っ白な雪が降りはじめる。
いつしか時刻は１０時を回っていた。
「あ、そうだ。実はもう一個、プレゼントがあるんだ」
そう言って潤が麻袋から取り出したのは、手乗りサイズの可愛い雪だるまのぬいぐるみだった。
「これ、栞ちゃんに」
「ありがとう。きっと喜ぶわよ、あの子」
香里は雪だるまを受け取ると、にっこりと微笑んだ。
「さてと、用事も終わったし着替えてくるか」
潤は立ち上がると、空になった麻袋を担ぎ上げた。
「これからどうするの？」
「ファミレスに行って飯でも食べようぜ。俺、晩飯食べてないからはらぺこでさ」
「ふーん。レストランの予約くらい入れて欲しかったわねー」
「ぐ……、美坂のプレゼント買ったら財布の中がすっからかんになったんだよ。だからファミレスで諦めてくれ。な？」
「しょうがないわねぇ。じゃあそこの払い、割り勘でいいわよ」
「助かるぜ。さんきゅ、美坂」
「ねぇ、ちょっと思いついたんだけど……」
「なんだ？」
香里は微かに頬を赤らめ、それでも笑顔で。
「お互い苗字で呼び合うの、もう止めにしない？」
翌日。香里は栞の墓参りに墓地へと訪れていた。
香里の耳にはめられたシルバーのイヤリングが、冷たい風に小さく揺れている。
妹の大好物だったカップアイスクリーム。
そして、昨日潤から貰った雪だるまのぬいぐるみを墓前に添える。
「メリークリスマス、栞」
そして香里は目を閉じ、栞の墓へとゆっくりと手を合わせた。
生きている自分。
死んでいったあなた。
もう二度と会って話することはできないけれど。
それでもわたしはあなたの面影を忘れたりはしない。
何故ならあなたは、わたしに最高のプレゼントをくれたから。
陽だまりの笑顔をくれた、あなたへ贈る言葉。
ありがとう、栞。
心から。
愛しているわ。
香里は立ち上がると、腕時計を見た。
今日は友人達と映画を見に行く約束があった。
待ち合わせの時間までは随分とある。けれど香里は、駅前へ向うために歩き始める。
墓地を抜ける前に。香里は栞の墓へと振り返った。
そして、ただ一言。
「それじゃあまたね。栞」
姉の顔で。笑顔を浮かべて、呟いた。
いつかそれが想い出に変わっても、わたしはあなたを忘れはしない。
いつまでも。
そう、いつまでも。
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