デエトの日
ゆっくりと、意識が覚醒していく感覚。
黒い安らぎの中に埋もれていた自分という存在が、白い光を浴びて浮き上がってくる。
そんな朝の目覚めは、栞と一緒にバニラアイスを食べながらのんびりすることの次にあたしが好きな時間である。
なのに、今日は酷く不快な気分。
悪夢を見たらしく、寝汗をかいて体がべたべたする、頭痛がひっきりなしに襲ってくる、おまけに月のものが来て二日目（あたしは割と重い方なのだ）という、およそ不快感をもよおす全てが揃っていると言っても過言ではない状態である。
「せっかく今日は栞とデートなのに……」
今日は朝からついてない。
思わずため息を吐きながら何気なく柱時計を見た。
「…………十二時？」
父に誕生日のプレゼントとして貰ったアンティークの時計は、信じられないような時間を示していた。
かっちこっちかっちこっち…………
あたしが呆然としている間にも刻一刻と時間は過ぎていく。
かっちこっちかっちこっち……ぼーん……
「……いちじ」
それから一時間余りの出来事をあたしは覚えていない。気付いたら栞の部屋の前にいた。
「……えーと、どう謝るのが良いかな……まずアイスをあげてから『ごめん、寝坊した！』……よし完璧ね。後はどのタイミングでアイスをあげるかだけど……」
シュミレーションを幾度か繰り返して、ようやく理想的な栞との和解の仕方を思いついたあたしは固唾を飲んでドアを叩いた。
コンコン
「……はい」
一呼吸置いて栞の返事が聞こえた。
「おはようっ！ 栞！ ごめんね、お姉ちゃん寝坊しちゃった！」
ドア越しに、不機嫌な面もちであたしのことを見ているだろう栞に向かって頭を下げる。
情けないとか言うなかれ。寝坊したこっちが一方的に悪いのだ。
「……お姉ちゃん？ 寝坊って……どういうことですか？」
がちゃ、と扉が開いて栞が顔を出す。
表情からは不機嫌さはみじんも感じられない。
だが、栞は元々顔に出さないタイプだから心の底でどう思っているかは分からない。
だから、あたしは正直に答えることにした。
「……いや、今日はデートでしょう？ なのにもう午後になっちゃったな〜って、思って、だから、あの、その……」
ぱん！
あたしは両手を合わせて深々と頭を下げた。
「ごめん！ ほんとにごめん！ 今日は全部あたしが奢るから、ゆるして栞！」
そう言って恐る恐る顔を上げる。
そしたら、栞はくすくすと微笑んでいた。
「もう、お姉ちゃん忘れたの？ 『栞、ちょっと明日のデート延期してくれない？ ちょっと月のものが早く来ちゃったみたいなの……ごめんね』って昨日自分で言ってたじゃない」
「…………へ？ そんなこと……言ったわね、確かに」
……迂闊だった。すっかり忘れていたが、確かに昨日そんなことを言った記憶がある。
「でも残念です」
すっかり呆然としてしまったあたしを見上げながら栞はそんなことを言った。
「うーん、確かに用意もしたし贅沢さえ言わなければどこかに行けなくはないけど……」
時間が時間だし、と付け加えると栞はブンブンと首を振った。
「あっ、違います。別にお姉ちゃんに無理をして欲しい訳じゃないです」
「じゃ、どういうこと？」
あたしが聞くと、栞はにっこり笑ってこう言った。
「焦るお姉ちゃんなんて滅多に見られないから……もうちょっと本当のこと言わないでおけば良かったかなって」
それを聞いて、あたしもにっこり笑いながら一言、
「何言ってるの、貧乳のくせに」
びき！
あたしの一言を聞いた瞬間、にこやかな顔のまま栞はその場で硬直した。
そして、
「そんな事言う人嫌いです！ お姉ちゃんの馬鹿〜！」
と言って、涙目で部屋を出ていってしまった。
…………そうか、やっぱり気にしていたんだ。
あたしはその場で暫し呆然と貧乳……もとい、栞の去っていった方を眺めていた。
だがいつまでもそうしてもいられないので、居間に行くことにした。
居間では母が昼食を作っていた。
「あ、お早う香里。お父さん、今日もお仕事ですって」
「そう、大変ね。所でお母さん、栞見なかった？」
すると母はちょっと考える仕草を見せてから、
「栞？ ええと……たしか『祐一さんの所に行く』とか言って出ていったと思うけど……」
「相沢君の所？ そう、分かったわ。ありがとう」
多分あたしに言われた事を含めたあることないこと（恐らくないことがほとんど）を相沢君に報告するつもりね。
そのついでに相沢君に慰めて貰おうとか考えてでもいるんでしょう。
ちょっと言い過ぎたかなって思ったけど……ほっといても大丈夫ね。
そこまで考えて、思い出したかのように襲ってきた鈍痛に顔をしかめた。
「……お母さん、あたしちょっと具合が悪いから昼食は軽めにしてくれない？」
「あら、どうしたの？ 風邪？」
心配そうな顔であたしの顔を見る母。……内容は的外れだが。
「ううん……あれよ、あれ」
顔をしかめながら言うあたしを見て気付いたのか、母はぽん、と手を打った。
「ああ、あれね。分かった。少な目にするわ。……それと、今日は出かける予定ないでしょう？ 暖かくして寝てなさい」
「……うん、そうする」
あたしは母の忠告をありがたく聞くことにして自室に戻ることにした。
……今日はシャワーも無理か……
そんなことを考えつつ。
自室に戻って、まず気付いたのはパジャマが脱ぎ捨てられていることと服が散乱していることだった。
ため息を吐きながら片付ける。
すると、散乱した服の中に中学校の時の制服を見つけた。
「わあ……懐かし〜」
あたしの中学生時代。
良い思い出だらけとは決して言えないけど、それでも楽しいことはたくさんあった。
……中学一年生の時、栞が制服をどうしても着たいと言って聞かなくて、着せてみたら余りにもブカブカでみんなでお腹を押さえて笑ったこと。
……中学二年生の時、修学旅行のお土産を栞がどうしてもアイスが欲しいって聞かなくて、仕方なくあたしがクーラーボックスを持っていったらみんなにジュース入れに使われたこと。
……中学三年生の時、病気がちだった栞がどうしてもあたしの卒業式を見たいって聞かなくて、父さんが撮ったビデオカメラを後で見せて何とか妥協して貰ったこと。
思い出のどの場面にも、あたしの隣には栞がいて、たおやかに微笑んでいた。
そして、これからも…………。
「栞に謝らないと」
中学の時の制服を含めた残りの服をみんな片づけ終わると、あたしは栞にさっきのことを謝る事にした。
「でも、その前に……」
部屋に散乱していた服は結構な量だったため、あたしはすっかり汗をかいていた。
「……そういえば、朝も寝汗が酷かったんだっけ」
それでもお風呂は元より、シャワーも浴びられないのだ。
年頃の女の子にとってはかなりきつい状態である。
「しょうがない」
そう。仕方がないので、濡れタオルで体だけでも拭くことにした。
部屋のタオルを持って、キッチンに行くと何やら話し声が聞こえる。
「……栞、帰ってきたみたいね」
もう一方の声は聞こえないけど、大方栞が相沢君と連れだって家に遊びに帰ってきたと言った所だろう。
あたしは部屋に帰って服を全部脱いで体を拭き始めた。
ごしごしごし…………。
手早くやってしまわないと、本当に風邪を引いてしまう。
あたしはさっさと体を拭いた。
その時、あたしは痛恨のミスをしてしまった。
ドアをノックする音が聞こえて、
あたしはそれに返事をして、
そう言えば父は仕事だから今日は男性は家にいないとか頭痛のする頭の片隅で考えて、
一言こういった。
「入っても良いわよ」
そうして入ってきたのは、
「よう、香里…………！」
よりにもよって、
「………………」
相沢君だった。
「あ、あの、さ。いや、名雪がこの間借りたノート返してくれって言うから、渡しに来たんだけど、まさか裸で、いや、その、すまん！ じゃ！ また後で！」
服来てからまた会おう！ なんて言葉を残して猛スピードであたしの部屋を飛び出していった。
あたしは………………
ぱた。
その場で気絶した。
気が付くと、あたしはパジャマを着て、ベッドに横になっていた。
「あたし……」
どうしたんだろ？ と続ける間もなく、ドアをノックする音が聞こえた。
「……どうぞ、開いてるわよ」
再度自分が服を着ていることを確認しつつ、あたしは慎重に返事をした。
「あ、起きたんですね。お姉ちゃん」
ドアを開けて入ってきたのは栞だった。
手には水とタオルの入った洗面器を持っている。
「あ、やっぱり風邪引いたんだ、あたし」
「やっぱりって？ お姉ちゃん、さっき起きたばかりでしょう？」
苦笑いしながら呟いたあたしの言葉が聞こえたようで、栞は怪訝な顔をしながら答えた。
「いえ、さっき……」
ふと気が付いた。あたしに服を着せたのは母で、栞は何も知らないのかもしれない。
だとしたら、栞にさっきのことを話すのはやぶ蛇だ。
念のためあたしは栞にさっきのことを知っているかどうかカマを掛けてみることにした。
「ううん、何でもない。それより、相沢君はもう帰った？」
「あれ？ お姉ちゃん、祐一さんが来ていたこと知っていたんですか？」
「え？ ……さっき一回起きたときにキッチンに行ったのよ。その時に二人の話し声が聞こえたの」
「ふーん、そうだったんですか」
「え、ええ」
多分疑われていないと思うけど……冷や汗が出るわ。
「それで、どうなの？ 相沢君は帰ったの？ まだいるの？」
「帰りましたよ。何だかやけに慌ててたみたいですけど……お姉ちゃん、祐一さんに何か用事があるの？」
「え、ええ。名雪に貸していたあたしのノートを返して貰おうと思って」
「ノートですか？ それなら机の上にあるあれじゃないですか？」
栞は机の真ん中に置いてあったシンプルな大学ノートを持ってきた。
「ええ、たしかにそれよ。相沢君が置いていったみたいね」
そう言ったとき、微かな、本当に微かな違和感を感じた。
「？ どうしたのお姉ちゃん？ 具合が悪くなったんですか？」
「いいえ、全然大丈夫よ」
心配そうな栞の声に、空元気を出して答える。
何しろこの子は自分より他の人のことを優先して考えるような子だ。
あたしの病状が悪化したら、それこそ寝ずの看病でもしかねない。
「本当ですか？ ……ん、熱は下がったみたいですね」
よかったです、と栞は安心したように微笑んだ。
「そうね……ねえ、栞。ちょっとお母さん呼んでくれない？」
「え？ 急にどうしたんですか？」
「いや、熱が下がったら急にお腹がすいちゃって」
それを聞くと、栞はにっこりと微笑んで
「分かりました。何が食べたいですか？」
「うーん、お粥とか、雑炊とか。あまり沢山はいらないって言っておいて」
「分かりました。ちょっと待っていて下さいね」
にこにこと微笑んだままで栞は出ていった。
「うー」
今までに生理で頭痛や下腹部の鈍痛に悩まされた事はあったが、同時に風邪を引いたのは流石に今日が初めてだった。
思わず唸りたくもなるというものだ。
更に、妹の恋人兼クラスメイトに裸を見られたというおまけ付きだ。
「うー」
もう一度唸っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「……開いてるわよ」
がちゃ。
「香里、具合はどう？」
土鍋を手にした母がそう言いながら入ってきた。
「うん……まあまあ」
軽く頷くと、母はほっとした顔になった。
「そう。……よかった。じゃあ、これ食べられるわね？」
「……うん。もうお腹ぺこぺこ」
これは嘘。正直言って、食欲は全くない。
でも、心配を掛けたようだから仕方ない。
それに、さっきの件があるし……
「そう言えば、さっきはごめんね」
さっきあたしに服を着せたのは栞でないのだから、必然的に母と言うことになる。
ちょっと素っ気ないかもしれないけど、いいよね。
「え？ ……何のこと？」
え？……どういうこと？
はぐらかしているのかと思い、母の顔をじっと見てみる。
うそを言っているような気配はない。
……あたしに服を着せたのは、お母さんじゃ、ない？
……じゃあ、だれ？
混乱しているあたしを後目に母が思いだしたかのようにしゃべりだした。
「そうそう、謝るなら私じゃなくて相沢君に謝りなさい。……貴方が熱を出したって教えてくれたのは相沢君なのよ」
………………なるほど。そう言うことか。
「ええ、そうするわ……それより、お腹空いちゃった。食べて良い？」
「そうね。冷めないうちに食べちゃいなさい。それで、食べたらそのまま寝なさい。食器は後で私が取りに来るから、そのままで良いわ」
そう言ってにこにこと微笑む母。
それから、
「食べさせて上げようか」
とか
「タオル、温くなったでしょうから代えて上げるわね」
とか言って、何とかあたしの世話を焼こうとする母の申し出を丁重に断って、あたしは部屋に一人になった。
「さて……と」
ぐっと伸びをして、携帯を取る。
電話の相手は勿論あいつ。
あたしは『お礼』をするために親友の家に電話をかけた。
とるるる、と特有のコール音が耳の奥に響く。
『はい、水瀬です』
三回目のコールで出た相手は、おっとりした声の親友だった。
「あ、名雪？ あたし、香里よ」
『え、香里？ どうしたの？』
普段ならば「ううん、別に用事はないのよ。ちょっと名雪とおしゃべりしようと思って」と続けるところだが、今は名雪と話している場合ではない。
あたしはいきなり本題に入った。
「うん、ちょっと相沢君に用事があるの」
『祐一に？ ……うん、ちょっとまってね』
ゆういち〜と呼ぶ声が電話越しに聞こえる。
くすっと笑みがこぼれる。
本当、この友人ののんびりした声は気分を落ちつかせる効果がある。
『すぐ来ると思うから、ちょっとまっててね。それまではわたしが相手をするよ』
「ええ、じゃあ何を話しましょうか？」
『うーん……あ、そうだ。聞いてよ香里〜昨日ね、買い物に行く途中ですっごく可愛いねこさんを見つけたんだよ〜』
やっぱり猫の話しか。
名雪に話のネタを振ると、十中八九は猫の話になり、残りの一二割はイチゴの話になる。
戯れに
「ねえ、名雪。もし猫が貴方のイチゴを欲しがったらどうする？」
と聞いたことがあったが、その時も余り考えずに
「イチゴを二つ買ってきてねこさんと一緒に食べるよ〜」
と答えていた。
全くこの子は筋金入りの猫好き、いや名雪風に言えばねこさん好きと言った所だろうか。
そんな風に、暫く名雪と猫談義に花を咲かせていると、相沢君が降りてきたらしく電話越しにバタバタと何やら騒いでいるらしい音が聞こえてきた。
『あうー！待ちなさいよゆういちー！』
『待てと言われて待つ奴がいるか！いい加減しつこいぞ真琴！』
『あらあら』
『あ、祐一が降りてきたみたいだよ。ちょっと待っててね香里』
そう言ってカチャ、と受話器を伏せる音が聞こえ、程なくして低い声が電話の向こう側から聞こえてきた。
『はいこちら来来軒。ご注文は？』
「本当に頼むわよ、相沢君」
『……ごめんなさい』
謝るぐらいならば最初からやらなければいいと思うのだが……まあ、彼独特の冗句として受け取っておこう。
「本題から言うけど、あたしに服を着せたの相沢君でしょ」
『な、何の事かな。さっぱり全く見当も付かないな』
必死で誤魔化そうとしているようだが、どもっているようではお話にならない。
「正直に言いなさい」
『はい、ごめんなさい。着せたのは俺です。……でもわざとじゃないぞ！ 香里だって返事したじゃないか！』
うっ、そう来たか。……それなら、
「そう、じゃあシーツに付いている血は何かしら？」
『何！？ お、俺はそんなことしてないぞ！ 無実だ！ 冤罪だ！』
にやり、と笑いながら答えるあたしに面白いくらい動揺する相沢君。
……もうちょっとからかってやるか。乙女の柔肌を見た罪は万死に値するのだ。
「ねえ相沢君。何だか足の付け根に違和感を感じるんだけれど」
『違ーう！ 本当に、本当に俺はやってないんだ！』
「三ヶ月後が楽しみね♪」
『うぐっ……い、いや、違う。無実だ。俺は何にもやってない。そんな記憶はない』
「家の両親の説得は難しいと思うけど、がんばってね、ダーリン♪」
『……なあ、俺もしかして本当にそんなことしたのか？』
「新婚旅行はどこにする？」
『ごめんなさい、いや本当にすいませんでした。だからもう勘弁して下さい』
電話の向こうからは『栞に何て言おう』とか『学生結婚か……』とかうつろな声が聞こえてくる。
……流石に可哀想になってきた。
「冗談よ」
『は？』
「だから冗談。貴方はそんなことしてないわよ」
『……本当か？』
「ええ。……ごめんなさい。やりすぎちゃったみたいね」
『ほう……そうか、冗談ねえ……』
――うう、怒ってる……でも自分でまいた種だ。多少のことは我慢しよう。
あたしは密かにそう決意した。
『まあ、俺も香里に服を着せたわけだからな……あ、そうそう香里』
「な、何かしら」
あたしは、次に相沢君がどんなことを言ってくるかと身構えた……が、彼の一言はガードを一瞬で突き破った。
『綺麗な体だったぞ』
それを聞いた途端、
ぱた。
あたしは今日二回目となる気絶をすることとなった。
本当に、今日はついていない一日だ。
薄れゆく意識の中で、あたしはそんなことを考えていた。
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