philosophy
人を信じるのは難しく、とても孤独なものだと思う。
新緑の季節、六月の初め。夏の気配は薄いが、陽は高く、商店街は賑やかだった。
都会と比べれば静か過ぎる雑踏。そうしたざわめきに目をやりつつ、また物思いに耽る。
「？」
目が合って、「どうかしたの？」と表情で問われる。
「なんでもない」
平然を装っている最中さえ、俺は名雪のことを考えていた。
七年前、傷つけてしまった少女。
一生懸命作ってくれた雪兎……必死で伝えようとしてくれた心を、気づいてやれなかった自分。
「もうどこにもいかない」それは間違いなく、俺の本心からの誓い。
だからこそ……悩んでいた。
「…………」
名雪がいない。
後ろを振り向くと、名雪は一つの店の前で立ち止まっていた。
そんなことにさえ気づかないとは……まいった。考え事は帰ってからにするべきだな。
「どうした？」
少し気まずいが、ごく自然に近寄り、声をかける。
……尋ねたものの、疑問はウィンドウに飾られているものを見てしまえば明快だった。
肩をあらわにするタイプの、白いウェディングドレス。
手にはブーケを持っている人形。それを見ているからだ。
「はあ……やっぱり憧れちゃうな」
「そういうものか？」
「当たり前だよ。お嫁さんは女の子の憧れなんだからね」
「ふーん……」
ただ相槌を打つ。だが、俺も無関心なわけじゃない。
名雪との事は真剣に考えている。俺も名雪も１８。自惚れでなければ、名雪も意識しているだろうとは思っていた。
今はそれよりも気になることがある。そういうことだ。
「ほら、いつまでも見てないで行くぞ」
「あ、待ってよ、祐一」
追いついてきた名雪が、腕に抱きついてくる。
「えへへ……」
「おい」
「だって、あんまりこうする機会ないし、折角だから……ね？」
この程度、気にしてはいけない。
当たり前だと思えるようにならなければ、名雪といるたびに恥ずかしさを味わうことになる。
……諦めとも言う。
「行くぞ」
「うん」
店を見渡す振りをして、視線を逸らす。さすがに恥ずかしさは込み上げてくるものだ。
しばらく、そんな風にただ歩く。
自然と足は帰り道を向いていた。
ふと、名雪と目が合う。
何かを言いかけたのだが、何も言わず、下を向いたりこっちを見たりと繰り返している。
「どうした？」
言いにくいことなのだろうと解釈し、こちらから尋ねる。
まだ迷っていたようだが、視線を合わせると小声で呟いた。
「祐一……結婚したい」
「……唐突だな」
「唐突じゃないよ。ずっと思ってたことだもん」
やはり意識はしていてくれたらしい……が、こんなところで言わないでほしい。
恥ずかしさを必死に堪えながら、できるだけ小さく名雪に呟く。
「大学卒業したらな」
それが妥当だと思う。
水瀬家に住まわせてもらうにしても、ちゃんとした収入を確保してから。それが俺の考えた結果だった。
「今すぐ」
……なのにこいつは、そんな俺の考えをあっさりと却下してくれるんだ。
それも今すぐってなんだ、今すぐって。そんな簡単に結婚できてたまるか。
なるべく冷静に説明してやる。
「いいかい名雪さん。結婚というのは、とてつもなくお金がかかる。式場を予約するのも知り合いを招待するのも。ドレスをリースにしてもべらぼうな値段なんだ」
「借り物じゃない方がいいな……」
あっ、なんかダメだ。俺ってカルシウム不足？
「なら尚更じゃボケ！今すぐできるんだったら、その後の生活とか、経済上の問題とか、養育費の貯金とか必死で考えてる俺が馬鹿みたいだろうがぁ！！！」
我が愛する人はどうしてこんなにも世間に疎いんでしょうか？
誰がこんな子に育てたんだ……神様か？
真剣に世間の弱者のことを思案しているというのに、本人は顔を真っ赤にして俯いてるだけ。まったく、役に立たん奴だ。
そんなことでは、残業で疲れた夫を尻目にふかふかの布団で眠りつつ、テーブルにカップラーメンを置いているような、ぐうたら主婦になってしまうぞ。
「祐一……恥ずかしいよ」
なんだ？俺何か恥ずかしいこと言ったか？と、思っているとなにやら耳に違和音が届く。
なにやら周り中から聞こえてくるのは気のせいなんだろうか。気のせいだったらどれくらい幸せなのだろう。
じっと、その音に耳を傾ける。
「若い子はいいわねえ……私も結婚前はあんな感じだったわ」
「あの男の子も真面目に考えてるみたいだし、あの女の子も幸せね」
「あら？確かあの女の子、水瀬さんの所の娘さんよね？」
「もうそんな年頃なんだねえ。恋人の方も美人だし、絵に書いたようなカップルね」
聞こえる……すごく俺たちの話題が聞こえるよ。
なんかこう、商店街の主婦の方々に広まりまくってる気がするよ母さん。
名雪は名雪で俯いたまんまだから、「照れちゃって、可愛いわねえ」なんて声も聞こえてくるし。
「名雪……できるだけ自然に、高速かつ迅速プラス早急な歩行でここから立ち去るぞ」
「うん、けして早足にならないながらも競歩の世界記録を塗り替える速度で逃げるよ」
混乱していたからこその絶対に無理な行動を宣言しつつ、何事もないように走り出した。
しかし、走りながらも腕を組み続けていたのを途中香里に目撃され、後日学校で『バカップル』の称号を賜ることになるが、それはまた別の話。
名雪が寝静まった頃、音を立てないように階下に下りる。
秋子さんに、どうしても話したいことがあった。
「あら？祐一さん」
台所にいた秋子さんに、先に声をかけられる。
朝食の仕込みをしていたらしく、鶏肉と野菜を白濁色の液体に漬けたボウルが見える。
「久しぶりにサラダに凝ってみようと思いまして」
「明日が楽しみです」
素直な感想を言って、少しだけ間を取る。
「話……いいですか」
勿論、名雪のことだ。
「ええ、じゃあ私の部屋で」
白いクロスの部屋。窓には柄のない青のカーテン。
木の机には一世代前のパソコン。本棚には文庫本と料理雑誌が並んでいる。
あまり面白みはない部屋だなと思った。
「お茶、どうぞ」
「あっ、はい、いただきます」
と、言ったものの、口はつけない。
そんな俺を見て、秋子さんは少し顔を伏せる。
「……名雪のことですよね」
「……はい」
一番近いところに踏み込んでいる俺には……俺と秋子さんにはわかってしまった。
名雪といつも一緒にいる。今、俺はそのことを最優先に考えている。
だから……気づいてしまった。
「きっとあの子は、まだ気づいてないでしょうね」
「それが余計につらいんです」
いつも一緒にいる。
登校時でも、学校でも、昼休みでも、放課後でも。
休日だって、名雪は俺から離れようとしない。せいぜい部活動の時ぐらいだ。
いつも一緒にいる。
ちょっとした買い物を頼まれても、名雪は絶対についてくる。
店の外で待つなんてことは、もうさせてくれなくなった。
いつも一緒にいる。
香里に買い物に誘われても、必ず俺を連れて行く。
一人で出かけようとすると、少し怒ったような顔をして腕を捕まれる。
いつも一緒にいる。
逆に言えば、名雪は俺といない時がないということだ。
完全な依存。
きっと、名雪はそんなこと意識していない。
それでも、俺には見えてしまう。
名雪が部活に行く時。一人で出かけようとした時。
暗い目。不可視のものに目を合わせたような、現実を捨てたようなあの目。一度だけ見たことのある表情。
名雪は、一人を極端に嫌っている。
まだ、信じきれてないんだ。名雪はまだ、七年前の出来事に囚われている。
目を離せば、また俺が何処かに行ってしまうんじゃないか？今度は二度とこの町に帰ってこないんじゃないか？
きっと名雪は意識していない。
自分がないという、悲しい違和感に。
「俺は……どうすればいいんでしょうか」
まるで名雪を縛ってしまったような状況に、俺は意気消沈していた。
時が経つまでどうしようもないのかもしれない。そう思ってみても歯がゆさは消えない。
「…………」
沈黙。幾分重たい空気に、カップを手に取り口をつける。
暖かく、喉に落ちる前に香ったフレーバーが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「私には……答えが出せません。今のあの子は、祐一さんにべったりですから」
少しだけ寂しそうな笑顔。母親。その立場を如実に表すような笑顔だと思った。
「でも、一つだけ私の考えを聞いてもらっていいですか？」
まるで、母親が子供をたしなめるようなその表情に、俺はドキリとした。
「今祐一さんが、あの子にしてあげたいこと。それをするべきだと思います。例え間違っていたとしても、祐一さんの気持ちがなにより大事ですから」
俺が、名雪にしてやりたいこと……きっとそれを考えるのが、今の俺の役目。
「ありがとうございます。秋子さん」
だから、精一杯考えよう。俺が名雪に何をしてやれるのか。
数日後、ある土曜日
「祐一。明日は……」
「イチゴサンデーは却下だ」
「わっ、祐一エスパー？」
相変わらず全く驚いていないような口調でそう言う名雪。せめてデートと言って欲しいもんだ。
実際に言われると照れくさくてしょうがないだろうが。
「明日は家でごろごろしていたいんだ」
「祐一……不健康だよ」
「毎朝運動してるから大丈夫だ」
「いじわる……」
非難の視線を向けてくる名雪の頭を、ポンと軽く叩く。
準備は整ったし……少しくらいサービスしてやるか。
「まっ、イチゴサンデーは今日食わせてやる」
「三つくらいは頼んでもいいよね？」
イチゴサンデー三つ。税別８８０円×３＝２６４０円＋消費税５％＝２７７２円也。
おっ、ループ番ではないか。こいつは珍しい。
「珍しくても却下だ。一つにしておけ」
「うー、何が珍しいのかよくわからないけど、わかったよ」
さて、決戦は明日だな。
名雪view
『名雪……俺には、奇跡は起こせないけど、でも、名雪のそばにいることだけはできる』
『約束する』
『名雪が悲しいときには、俺がなぐさめてやる』
『楽しいときには、一緒に笑ってやる』
『白い雪に覆われる冬も……』
『街中にさくらの舞う春も……』
『静かな夏も……』
『目の覚めるような紅葉に囲まれる秋も……』
『そしてまた、雪が降り始めても……』
『俺は、ずっとここいる』
『もう、どこにもいかない』
『俺は……』
『名雪のことが、本当に好きみたいだから』
「…………うにゅ〜」
なっ、なんであの目覚ましがなるの！？
最近、起きるのには使ってなかったから、いきなりだと心臓に悪いよ〜。
「いやー、すごいわね。あの名雪が一撃で起きたわ」
「いいなあ……私もあんな事言われて朝起きてみたいな」
「相沢さんが最終手段と泣きそうな顔で言っていたわけがわかりましたね。言った方としては恥ずかしいでしょうから」
……なぜか私の部屋に香里と栞ちゃんと美汐ちゃんがいた。
これは不法侵入って奴じゃないのかな？警察さんを呼ぶべきじゃないのかな？
でも、さすがに知り合いを警察に突き出すわけにはいかないよね？
「と言うわけで、香里。自首して〜」
「なんかあんた、最近相沢君に似てきたわよね。わけのわからないところが」
「ただ寝ぼけてるだけでは？」
「名雪さん、起きてください〜」
栞ちゃんが私の襟首を掴んでガクガクと揺らす。
うにゅ〜、マグニチュード６、２だお〜。しかも、縦揺れだお〜。脳がシェイクされて気持ち悪いお〜。
死んじゃう一歩手前で美汐ちゃんに救出された。
後少しで隣に住んでたトメさん（享年７４歳）の所に駆けだしちゃうところだったよ。
「今度眠りそうになったらこのぬいぐるみを八つ裂きにするからね」
香里がけろぴーを目の前に掲げる。
そういえば最近、フリッカージャブに凝ってるとか言ってたのを思い出したよ。
あまつさえブーメランフックまで決められたら、けろぴー惨殺されちゃうよ。
なんとか眠らないように心がけなきゃ……ダメだったらごめんね。けろぴー（涙）
「でも、どうしたのみんな？」
「説明は後。ほら、さっさと着替えるわよ」
「え？何処か行くの？まだ少し眠いよ〜」
「ええい、しゃらくさい！栞、剥くの手伝いなさい！！！」
「うわっ！？お姉ちゃん、べらんめえだよ！？」
「やっ、やめて香里！たしかに香里のことは好きだけど、それはお友達として……わっ、私の体は祐一に捧げたんだよ〜」
危うくＲ指定を飛び越えてＸ指定にまで達しそうだったけど、香里が急に涙ぐんで危険な状況は終局。
「なっ……なんで名雪のほうが胸大きくなってるのよ……」
そりゃあ、私は毎日のように祐一に揉んでもらってるもん。彼氏のいない香里に負けるわけないよ。
「はあ……水瀬先輩。これを着てもらうので、大人しくしていてください。じゃないとさすがの私達も手伝えません」
「もっとも、私は見てるだけですけど」
えっ？これって……。
祐一view
「よく似合ってるぜ。相沢」
「そいつはどうも……」
今の俺の服装は、黒いタキシード。
しかし……正装っていうのはどうも肌に合わない。
堅苦しい感じがするんだよな。楽しいものの時は、自由な服装が俺としては好ましい。
まあそれはともかく、名雪の方は大丈夫だろうか。
あの三人（栞は駄々をこねて無理やりついていったんだが）に任せたが……まあ、香里と天野なら大丈夫だろ。
秋子さんと佐祐理さんは料理を作ってくれてるし、舞と真琴とあゆはリビングの飾り付けで大忙し。
飾りつけはまるで誕生日会のようなものだけど、俺はこれで大満足だ。
「ちょっと祐一！あんたも手伝いなさいよ〜」
「祐一君は今日の主役なんだから、手伝わせちゃダメだよ」
「……完璧」
ははは……飾り付けはあいつ等にまかせとけば大丈夫そうだ。
みんなには感謝しないとな。
特に北川。あいつが必死に動いてくれなかったら、名雪にばれないように打ち合わせなんてできなかっただろう。
「相沢君」
「おっ、香里。準備できたのか？」
「ええ、なんとかね」
「初めての経験なので、かなり手こずりましたが」
香里も天野も大仕事を終えて、肩の荷が下りたのだろう。気の抜けた顔をしている。普段では中々見れないレアな表情だ。
そんな二人とは対照的に、今にも暴れまわりそうなほど興奮した栞。こいつもこういうのに憧れそうなタイプだからな。
「名雪さんものすごく綺麗ですよ！今すぐに見せてあげたいくらいです」
しかし、ほんとに暴走しそうで怖いな。その目のキラキラ具合とか。
香里も少し呆れた顔で宥めているが、どこまで興奮を冷ませられるか……。
「祐一さん」
優しく声をかけられる。秋子さんは少しだけ俺を見つめると、何かに安心したように呟く。
「これが祐一さんの答えなんですね」
「……はい」
俺が名雪にしてやれることは、誓うだけだから。
だから、これが俺の精一杯だ。
人を信じるのは難しく、とても孤独なものだと思う。
名雪はいつだって、その孤独を背負ってきた……七年前のあの日から。
些細な事で疑惑を持って、疑惑を持ってしまった自分を傷つけて。
そして、信じられていたのは、いつだって俺だった。
信じるって言葉は綺麗だけど、完全じゃない。
ほんの少しでも信じきれないから、信じるって言葉が生まれる。
たとえそれが、無意識のものでも。
誓う。何度でも誓う。
ずっとそばにいる。もう、どこにもいかない。
信じる孤独は、一緒に背負えないけど。
ただの我侭かもしれないけど。
名雪に『疑われたくないから』
綺麗な言葉じゃないかもしれない。
それでも、信じてもらうことで、名雪を縛りたくないから。
名雪の事が……ほんとうに好きだから。
名雪view
「お母さん……もしかしてこれって」
「あら？それを着てもまだからない？」
香里たちが着せてくれたのは、真っ白い雪みたいなドレス。
ゴージャスなレースがたっぷりついてる。上半身はすっきりスリムで、スカートはふんわりと膨らんでいる。
よく、絵本の中のお姫様が着ているような……ウェディングドレス。
「私のお古なんだけど……気に入らなかった？」
「ううん！そんなことないよ。すっごく綺麗！」
「ふふふ、そう。じゃあ、早く行きましょう。みなさん待ってますから」
目の前にあるのはリビングに続くただの扉。
でも、その扉さえも、いつもと違う場所に続いてるんじゃないかと思えるほど、不思議な気分だった。
お母さんに手を引かれて、ゆっくりと扉を開く。
「名雪、お姫様みたい！」
「水瀬さん！似合ってるよ！」
「いいなあ……いつか私も」
「名雪さーん！すっごく綺麗だよ〜！」
「舞、名雪さん綺麗だね」
「……お姫様」
「名雪、何緊張してんのよ！」
綺麗に彩られたリビングには、パーティー料理の乗ったテーブル。それを囲んで座っているみんな。
暖かくて、とても幸せな……結婚式。
私の直線上には、真っ白い絨毯が引いてある。その先には、木の机と、何かの本を持っている美汐ちゃん。
きっと、神父さんの役なんだね。
そして、もう一人……そこへと続く道に、ちょっと格好つけて立っている私の大好きな人。
ゆっくりと、その姿に近づいていく。
「ほらっ」
頬を赤くして、祐一が、そっと私に手を差し出す。
少しだけ泣いちゃいそうだったけど、私は微笑んだ。
優しいお母さんの顔に笑いかけて、私その手をギュッと……握り締めた。
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