これから……
この家で俺と名雪が２人で住むようになってから、もうすぐ１年。
結局秋子さんはあのまま助かることはなかった。
『祐一さん……名雪のこと、お願いしますね』
そう言い残して、彼女は微笑んだままその生涯を終えた。
葬式やら何やらの作業は俺の両親がやってくれたため、俺たちはただただその作業を見ていることしかできなかった。この時ほど自分が無力であることを感じたことはなかった。
母さんは俺たちに一緒に行こうと言ってくれたけど、俺はその申し出を断った。
最初は、秋子さんが死んだ時にすがるようにして泣いていた名雪のことを考えると、俺たちがここに残ることが正しいのかは分からなかった。
むしろ秋子さんのことを思い出させるだけ名雪に辛い思いをさせるんじゃないのか？
そう考えて母さんに誘われた時、名雪と話し合った。俺のここにいたら辛いんじゃないのかという言葉に、名雪は笑ってこう言った。
『でも、ここから離れたらわたしにはお母さんとの絆がなくなっちゃうような気がするから』
今でもこの時の名雪の笑みを思い出せる。
外見は確かに笑っているように見える。だけど心の中は、砕ける寸前だったんだろう。俺には名雪が泣いているようにしか見えなかった。
だから、俺は思わず名雪のことを抱きしめながらこう言った。
『俺は、名雪のそばからいなくなったりしないから……辛かったら俺を頼ってくれていいから。だから泣くのを我慢することはないんだ』
その途端名雪は俺のことをきつく抱き締めながら泣きじゃくり始めた。きっと耐えていたものが溢れ出したんだろう。それから３日間、彼女はずっと泣き続けた。
そんな名雪の姿を見て、俺はこいつのことをずっと守ってやりたいと心から思った。それが秋子さんの願いでもあったのだから。
だから俺はこの家で……水瀬家で暮らしていくことに決めた。俺の両親も最後には俺たちの決意の固さを知って快く頷いてくれたし、２人分の学費も出してくれることになった。
そこまでしてもらうわけには、と断るつもりだったが「息子の覚悟に応えないとね」という言葉に押し切られる形で俺たちは両親の提案を受け入れた。この時ほど俺は両親に対して感謝の念を抱いたことはない。
２人だけの生活が始まったばかりの頃は辛かった。それでも名雪がいてくれたから、名雪がいつも微笑みかけてくれたから頑張れた。
だけど最近思うことがある。
秋子さん……俺は、ちゃんと約束を果たせているんでしょうか……
「ただいま」
高校を卒業して、大学に入学するまでの短い春休み。
その間を俺はバイトをして過ごすことに決めた。少しでも家計の足しにしたかったからだ。
その代わり、ほとんど１日中働くことになってしまったが。
このことを名雪に話した時、名雪は少しだけ考えた後笑顔で頷いてくれた。その後に続いた「祐一と一緒にいられる時間が減るのは辛いけどね」という言葉に俺はこの決断を少し後悔したが。
でもそのことを告げるとこいつは笑顔で言うんだ。男の子がコロコロ意見を変えたらダメだって。だから俺は、名雪のためにも頑張ろうと決めた。
そしてこの日も、当然のように帰ってきたのは夜も遅くなってからだった。
「お帰り、祐一」
キッチンにいたのだろう、名雪がエプロンを着けたまで玄関までやって来た。
春休みが始まるまでは名雪もバイトをすると言っていたのだが、直前になってそうしないことを決めたことを俺に告げた。
その理由を尋ねると、何でも「帰ってきた時に誰もいないと寂しいからね」ということだった。
正直なところ俺は名雪をここに１人で置いておくぐらいならバイトでもしてもらって気を紛らわしてくれた方が安心できたんだが、結局名雪は首を横に振り続けるだけだった。
「祐一ご飯食べてきた？」
「いや、名雪が作ってくれたものの方が美味いからな」
「わっわっ、祐一恥ずかしいこと言ってるよ〜」
顔を赤くしながらご飯の用意をするね、と言い残して名雪は再びキッチンに戻っていく。
以前ならこの時間に名雪が起きていること自体が脅威だったが、最近じゃこれが当たり前になっている。
名雪が俺が帰ってくるまで起きてると言い出した時は無理するなとは言っておいたものの、今日に至るまで俺が帰ってきた時に名雪が寝ていたことはなかった。
それだけでなく俺が寝る時まで名雪は起きているようになった。少しでも俺と同じ時間を過ごしたいから、と。
ボンヤリとキッチンに立つ名雪の姿を眺めていると、だんだんこいつが秋子さんに似てきたような印象を受ける。まあ、親子なんだから当たり前のことなんだが。
そして名雪の用意してくれた飯を食って、風呂に入って。
部屋に戻った時にはもう名雪が俺のベッドに潜り込んで俺が戻ってくるのを待っていた。
「ゆーいち、遅いよ〜」
「そんなこと言われてもな……つーか風呂くらいゆっくり入らせろって」
目を線にしながらの言葉に苦笑しながら、名雪の横に体を滑り込ませる。
こうやって２人で一緒に寝るようになったのも２人だけで暮らすようになってから。
最初はちゃんと別々の部屋で寝ていたんだが、毎日のように名雪が夜中に俺のところに来ては「寂しいよ……」と俺にすがって泣くものだから、ついつい一緒に寝てやると言ってしまったんだよな。
結局そのまま習慣になって今日に至る、というわけだ。
もっともこれは名雪が一緒の時間が欲しいって言ってたからってのもあるんだけどな。
昼間は忙しくて構ってやれないから、せめて夜寝るまででも……と俺なりの心遣いのつもりなんだが、その辺名雪はどう思ってるんだか。
「……ったく、幸せそうな寝顔しやがって」
「うにゅ、まだ寝てないお〜」
「いいから寝てろ。また朝起きれなくなるぞ」
「大丈夫だよー。それよりも祐一とお話したいよ」
そう答える名雪の目はしっかりと開いていた。このやり取りもずいぶん定着してきたもんだな。
それから俺たちは今日の出来事を話し始める。とは言ってもたいした内容じゃない。バイト中にどんなことがあったのか、とか。そんな他愛のないことを２人で話し続けるだけの時間。
だけど、今の俺たちには重要な時間。名雪のどこか翳りのある瞳を見るたびにそう思う。
でも、俺は今日。その名雪の心が砕けないようにするための時間に、今日まで一度も話題にしなかったことを口にしようとしている。
どれだけ名雪がこのことを話すのに辛い思いをするのかは分かっている。それでも俺は、このことを話さないでこれからこいつと２人だけで暮らしていけるのかが不安だった。
……つくづく、勝手な男だな。俺は……
「なあ、名雪」
「ん？ なあに祐一」
「……その、聞きたくなかったら途中で止めてくれていいから。俺の話を聞いてくれないか？」
「変な祐一。今だって話してたのに」
「真面目な話なんだ」
名雪の瞳を覗き込みながら言う。俺の表情からそれが冗談じゃないことを感じ取ったのだろう、名雪はすぐに神妙な顔つきになった。
「俺も、こんなこと言うのは辛いんだけど……」
「うん」
「今度俺のバイトが休みの日にさ、秋子さんの墓参りに行かないか？」
秋子さんの名前が出た瞬間、俺は名雪の体がわずかに震えるのが分かった。
「他の人たちが行ってくれてたりするから、そんなに酷いことにはなってないだろうけど、俺たちだけ行ってないのもな……」
「…………」
視線を俺から逸らしたままで、名雪は１人沈黙し続ける。やっぱりまだ、この話題には触れるべきではなかったか……？
「悪い、今のはなかったことにしてくれ」
「……いいよ。行こうよ祐一」
「え？」
「そうだよね。お母さんもわたしたちが来てくれないんじゃ寂しいよね」
言いながら微笑みを浮かべる名雪。
今にも泣き出しそうな、その微笑みを見て。俺は無意識のうちに名雪の頬に手を触れていた。
最初は俺の行動に少しだけ驚いていた表情を見せた名雪だったが、ゆっくりと撫でる俺の手の感触に瞳を閉じる。
そんな名雪の様子を見て、俺はゆっくりと名雪のことを抱き寄せた。
「ホントに悪い。まだこの話はするべきじゃなかったよな……」
「ううん、いいんだよ。いつかはしなきゃいけないことだったんだし。祐一が謝ることなんて何もないよ。それに、今まで言い出さなかったのは、わたしのことを心配してくれてたからでしょ？ わたしはその祐一の心遣いの方が嬉しいよ」
キュッと抱き返しながらの名雪の言葉。その言葉に堪らない愛おしさを感じて、俺は優しく名雪の唇に自分の唇を合わせた。
ゴトンゴトン……
座っているイスから伝わってくる振動がどこか心地よかった。気を緩めると隣に座っている名雪と同じように眠ってしまいそうなほどに。
俺のバイトが休みの日。この間交わした約束の通りに俺たちは秋子さんの墓参りに行くことにした。
電車に乗ってわずか１時間。
たったそれだけの距離しかないのに、昨日までの俺たちにはその距離が果てしないものに感じられていた。
今日という日が近付くにつれて名雪の様子も少し緊張して見えていた。やっぱりまだ吹っ切れてないんだろう。この間は俺に心配をかけまいとして気丈に振る舞っていただけなんだ。
肉親との別れは、それだけ重いものなんだな……
そう思った時には、俺は重ねられていた名雪の手を握り締めていた。
「ん……」
小さく名雪が反応する。同時にもぞもぞと動き出した。
「悪い、起こしちまったか？」
「ううん、そんなことないよ」
弱々しい笑みを浮かべながら手を握り返してくる。その手がわずかに震えているような気がした。
「……もうすぐなんだね」
「ああ、そうだな……」
「私、大丈夫かな。ちゃんと笑えてるかな」
「心配するなよ。普段通りにしてれば大丈夫だって」
本当なら頭を撫でてやりたかったのだが、名雪に近い方の手は握り締められているために動かすことができない。だからその代わりに、俺はもたれかかっている名雪の頭を軽く自分の頭で小突いた。
「そんな風に不安がってる方が秋子さんが心配すると思うぞ」
「そう、だね……」
噛み締めるようにしながら俺の言葉に頷く。そしてさらに強く俺の手を握り締めてくる。
それから先、目的の駅に辿り着くまで俺たちは一言もしゃべることはなかった。
ただただ、つながれた手から伝わってくる体温だけを心の支えにしているだけだった。
しばらくして俺たちは電車から降り、ゆっくりと手をつないだまま歩き出す。
駅から歩いて１０分ほど。そこにある寺に秋子さんの墓がある。そう考えただけで気が滅入ってくるのだが、それを表に出すことはできない。名雪が余計に塞ぎ込んでしまうから。
自然と足取りは重く、しかしそれでも歩き続ける限りは俺たちは前に進んでいく。
ようやく、といった感じでその寺に辿り着いた時には、すでに俺の体は疲労感を覚えていた。正直、これ以上先に進むのは辛い。この目で、もう一度現実を受け入れなければならないから。
「名雪……」
「ん？ 何？」
「あ、いや、何でもない」
思わず口にしてしまった彼女の名前。俺がそんな風に言葉を返すと名雪は「変なの」と言って笑みを浮かべる。
だけどこの笑みは心から名雪が浮かべているものなのだろうか。叔母と甥という関係である俺ですらこれだけ辛いんだ。実の親子である名雪は、どれだけの苦しみを背負っているのだろう……
ともかく俺たちは寺で桶を借りてそれに水を入れ、２人並んで目的の場所へ。もちろん手はつないだままだ。
そのつないでいる手から小さく震えが伝わってくる。思わず名雪の方を振り向いてしまう。
バチッと目が合った。その視線が「何？」と尋ねていた。だから自然と口が開いた。
「……名雪、ホントに大丈夫か？ 何か震えてるみたいだけど」
「祐一、大丈夫？ 震えてるけど」
同時に口を突いて出た言葉。その内容を把握した瞬間、俺たちの口から出てきたのは笑い声だった。
静けさに包まれていた空間に響き渡る俺たち２人の笑い声。場違いだとは思ったけど、それを止めることはできそうになかった。
「あはは、まさか同じこと考えてるとはな」
「うん、びっくりだよ」
しばらくの間その場所を動くことなく笑い続ける。見る人から見れば罰当たりなんだろうな、と頭の片隅で考えつつ。
「……でも、祐一も辛かったんだよね。あんな風に震えてるんだもん」
「俺、そんなに震えてたかな」
「うん」
「そっか……」
「でも、わたしも震えてたみたいだからおあいこだね」
そう言って笑みを浮かべたまま、つないでいた手を振り解いて名雪は１人先に歩いていく。
「お、おい待てよ名雪！」
「あはは、早くおいでよ祐一〜」
慌てて歩み寄ろうとするものの、手に持った水入りの桶が案外重く、なかなか名雪に追いつくことができなかった。
だけど、しばらく行ったところで不意に名雪の動きが止まる。それで俺はようやく名雪の横に並ぶことができた。
「ふーっ、ようやく追いついた。おい名雪、１人でさっさと行くなよ……」
そこまで言って俺は口を閉ざした。どうして名雪が立ち止まったのかが分かったからだ。なるべく音を立てないようにして、手に持っていた桶を下に置く。
はっきりと刻まれた「水瀬家乃墓」の文字。果たして名雪はその文字をどんな気分で見ているのだろう。
きっと、俺の感じているのよりも何倍も深い……悲しみ。
長い髪に隠れて表情が見えない名雪の肩に、優しく手を乗せる。その瞬間、ビクッと体を竦ませた名雪がゆっくりと俺の方に振り向いた。
今にも泣き出しそうな名雪。それでも懸命に泣くまいとしている姿が痛々しかった。
「……前にも言ったけどさ。辛かったら、我慢しなくていいんだぞ」
そっと頬に触れながら言う。
この言葉がキッカケとなったのか、名雪の瞳から涙が１粒零れ落ちた。
一度堰を切ってしまえば、後はそのまま流れ出す感情に突き動かされるだけ。
「うああああ……祐一、ゆういちぃ……」
俺の胸に縋り付きながら泣く名雪のことを、俺はギュッと抱き締める。
「それでいいんだよ。我慢することなんて、何もないんだ……」
名雪の嗚咽が響き渡る中、その声にかき消されそうな声量で。
俺は名雪の耳元でそう囁いた。
名雪が落ち着くまで待って、それから桶に溜めてあった水を墓石にかける。
その後で花と煙を上げる線香を供える。
その間中、名雪は俺の隣に佇んでいるだけだった。
だけどその表情はもう沈んではいなかった。泣いてすっきりしちゃったとは本人の弁だ。
「ほら、名雪も」
「うん」
俺の差し出した数本の線香を掴んで、おずおずと供える。
名雪は線香を供えるためにしゃがんだままの体勢で静かに手を合わせる。その後ろに立って俺も名雪に倣う。
線香の香りが漂うその空間で、俺は今日まで抱えていた疑問を心の中で、もうこの場にはいない人に問いかける。
（秋子さん……俺は、ちゃんと約束を果たせているんでしょうか……）
もちろんその疑問に答えがあろうはずもない。答えがあるとするならば、それは……
「どうしたの祐一。そんなに一生懸命に拝んじゃって」
唐突に名雪に話しかけられて、俺は現実に意識を引き戻される。
目の前にはキョトンとした表情で俺のことを見ている１人の少女。少し目が赤いのはさっき泣いたからだろう。
それでも彼女は綺麗だと、素直に思えた。
不意に頭の中に浮かぶ言葉。それはきっと、俺の中で燻っていた疑問に対する答え。
「もー、聞いてるの祐一？」
「聞いてるよ」
「ホント〜？ ……でも、まあいいや。それじゃそろそろ帰ろっか？」
「……いや。俺はまだやらないといけないことがあるんだ」
「え？」
俺の横を通り過ぎようとしていた名雪が驚きの声を上げながら振り向く。
しかしその時には俺はもう名雪の方を向いてはいなかった。わずかに視線を上に向ける。
雲１つない青空が広がっていた。どこまでも、ずっと続くように。
そんな空を見上げながら、俺は１つ大きく息を吐く。心の中で小さく気合を入れてから視線を前に戻す。
そこにあるのは１つの墓石。それを真正面から見据えて、俺は口を開いた。
「……秋子さん。これからも俺は、ずっと名雪のそばにいます。俺はダメなやつだからきっと名雪を悲しませることもしてしまうと思います。だけど……それでも俺は、名雪のそばにいてやりたいと思っています。俺にとって名雪は、それだけ大切な存在だから……」
これなら約束を果たせますよね。心の中でそう続ける。もちろん答えはない。
だってこれは、俺の決意表明だから。
その時、優しい風が俺の周りを吹き抜ける。その風に乗って「あの言葉」が聞こえてきたと思うのは、やっぱり都合のいい幻想なんだろうか？
そんなことを考えながらその風に身を任せていると、不意に背中に何かが触れる。それが何なのかは振り返らずとも分かった。
「名雪……」
「嬉しいよ祐一……わたしのこと、そこまで想っていてくれて」
「当たり前だろ。約束もしたことだしな」
「そうだね」
そう言う従兄妹の少女の声は、震えていた。
だけどそれは、先程までの「悲しみ」という感情ではなく。
きっと「歓喜」と呼ばれるものであることを、俺はこの空に祈った。
しばらくしてから、ゆっくりと名雪の温もりが離れていくのが分かった。振り返ると名雪がどこか照れたような表情を浮かべて笑っていた。
今までとは違う、俺が昔に出会った頃の純粋な笑みを浮かべて。
そんな名雪の頭の上に手を乗せながら俺は言う。
「さてと……そろそろ帰るか」
「うん。でもせっかくだから……」
「そうだな。時間もあることだし、百花屋にでも寄ってくか？」
「じゃあわたし、イチゴサンデー！」
「分かってるって。どうせ俺が奢るんだろ」
言いながら名雪の手を掴んで歩き出す。突然の俺の行動に名雪は顔を真っ赤に染めながら慌ててついて歩き出した。
「わっわっ、ちょっと待ってよ祐一〜」
「何やってんだよ。置いてくぞ」
「手をつないでおいてその言い方は酷いよ〜」
口では酷いと言いながらも、名雪のその表情は明るかった。
２人並んでの帰り道は、来た時とは違って会話の絶えないものだった。
きっと肩の荷が下りたんだろう。俺も名雪も。
今日ここに来たことは正解だったと思いたかった。隣で微笑む彼女のことを見て、俺はそう考えずにはいられなかった。
きっと、この約束は果たします。
だから秋子さん……俺たちのことを見守っていてください。
俺たちがいつか、貴女のところに逝くまで……
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