青く、白く、煌々と輝く月明かりの中を。
……ふたり、どこまでも寄り添いながら歩いていく。
そしていつか、それも思い出へと還り。
遠い未来の、昔語りとなる。
……そんな月夜の晩の、ささやかな物語。
『 銀 月 夜 話 』
「なあ、香里。そろそろ決まったか？」
相沢くんがこちらに声を掛けながら、隣の通路から顔だけを覗かせる。
彼が物色していたのは、おそらく洋画の新作コーナーだろう。
「俺の方はもう決まったぞ」
そう言いながら、片手に持ったビデオのケースを振って見せた。
「……恥ずかしいわね、全く」
もちろん、本気で呆れているわけではない。
むしろ周りの目などお構いなしの暢気そうな姿に、思わず笑みが込み上げる。
「ほんと、変わらないわね。子供みたいだわ」
小声で呟く。
と、あたしのぼやきが聞こえたのだろうか。
「香里、何か言ったか？」
台詞までは聞こえていないようだった。
「そうね、あたしはこれにするわ」
貸し出しカウンターに近い所で彼と合流し、お互いの選んだ作品を確認する。
「香里にしては珍しい選択だな」
妙に感心したように呟く。
「まあね。たまにはいいでしょう？」
「ああ、悪くないぞ。俺も嫌いじゃないしな」
満更でもなさそうだった。
もちろん、相沢くんがこの手のジャンルが好きだということは、予め調査済みだ。
その代償が、イチゴサンデー１杯と思えば安いものだった。
それにあたし自身も、結構嫌いじゃない方だったから。
（でも、あの子が怖がりだったから……ね）
ふと、懐かしさが込み上げてくる。
もう何年も前、一度だけ借りてきたことがあるホラー映画。
あたしに言わせれば、陳腐なＢ級ホラーだったけれど。
（あの子は、信じられないぐらい怖がっていたわね……）
結局あの日、怖くてひとりで眠れなくなった栞は、あたしの部屋に布団を並べて眠った。
ぎゅっと、手を繋いで。
結局それ以来、あたしたちの間ではホラーは禁止になった。
あたしは別段嫌いじゃなかったけれど、栞が怖がるのだから仕方がなかった。
そしてそれ以来今に至るまで、ホラー映画を借りることはずっとなかった。
栞を失った今ですらも、それが何となく習慣になっていたから……。
「……りっ、おい、香里っ」
肩を揺すられて、刹那、我に返る。
本気で思い出の中に埋没していたようだ。
「どうした、香里。ぼーっとして」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと、ね」
何だか恥ずかしかった。
つい、誤魔化すために話題を逸らしてしまう。
「そういう相沢くんは、何を選んだの？」
「ああ、俺か？ 俺は……まあ、これだ。あと、これもな」
そう言ってビデオのラベルをあたしの方へと向ける。
ひとつは最新作のアクション映画だった。
「話題作だった割には、直接見に行けなかったからな」
……思い出した。
一緒にこの映画を見に行く約束をしていたのに、風邪を引いた相沢くんにすっぽかされたのだ。
結局それ以来、見に行く機会のないまま終わった正月の話題作だった。
「そう言えば、こんな映画もあったわね……」
「だろ？」
ふたり、苦笑する。
「それで、もうひとつは？」
「ああ、これか？」
彼がもう片方のラベルを見せる。
その頬が、少し赤面していた。
「これ……」
思わず息を呑む。
それは、少し古い恋愛映画だった。
邦画のＴＶドラマの劇場公開特別版で、べたべたの恋愛物。
でもそれでいて、悪くはない洒落た内容。
……どこからどう考えても、相沢くんの趣味とは思えなかった。
「まあ、その……なんだ。香里はこういうの、意外に好きそうだと思って」
少しどもりながら、照れたように口にする。
けれど今のあたしには、正直それどころではなかった。
内心の動揺を悟られないように、大きく息をひとつ。
（うん、大丈夫）
そして言葉を継ぐ。
「そうね、相沢くんにしてはまあまあの選択かしら？」
さり気なく、いつもの調子で。
「まあ、そのなんだ。実は、名雪のお勧めというか、知恵を借りた」
彼が苦笑する。
「なるほどね」
納得した。
これであの子はまんまと、あたしたち両方からお気に入りのデザートをせしめたわけだ。
「でも、そうね。この映画は悪くはないわよ。見ておいても損はないわね」
「ん？ 見たことがあるのか？ だったら他のにするか？」
頭を掻きながら、計算外だったとでも言いた気な表情を浮かべる。
「構わないわ。面白かったし、久しぶりにもう一度見てもいいかしらね。懐かしいわ」
「そうか？ んじゃ決定ということで」
「なあ、香里。この映画、前に見たことがあるって言ったよな？」
「ええ、あるわよ」
ビデオ屋からの帰り道。
辺りはもう、すっかり暗くなっていた。
さすがに暦の上では秋に入ったとは言え、まだまだだいぶ暑い。
虫の声だけが、秋の雰囲気を醸し出していた。
「それって……いや、悪い。なんでもない」
そのまま口を噤む。
こう見えても、相沢くんは妙に勘の鋭い時がある。
『それって、栞と一緒に見たのか？』
それがおそらく、彼の言葉にならなかった台詞。
「ええ、そうよ。相沢くんの想像した通り」
だからあたしは、それだけを答えた。
「……そうか」
「そうね」
それだけをお互い確認しあって、それでお終い。
でも今は……少しだけ気分が良かった。
優しい懐かしさが、胸に染み出していたから。
だから……。
「ねぇ、相沢くん。聞いてくれるかしら？」
「なんだ？」
ぶっきらぼうなその様子が、だけど彼なりの心遣いだと感じられた。
「ちょっとした、昔話」
「うん？ まあ、悪くはないか。それに上手くすれば、香里の弱みが握れたりしてな」
冗談めかして、重くなりそうな空気を軽くしてくれる。
たぶんあたしは、そんな所に惹かれたのだろう。
「馬鹿ね」
そう言って、繋いだ手を引き寄せるようにして、少し彼の方へ身を寄せる。
「……って、香里っ！？」
こうして付き合い始めても、未だにこんなことでペースを乱す彼の様子が可笑しかった。
つい、笑みが零れる。
「ったく、仕方がない奴だな」
しかし言葉とは裏腹に、満更でもなさそうに呟く。
「ほら、聞かせろよ。着いちまうぞ？」
照れ隠しが可愛らしい。
「なら……もう少し、ゆっくり歩きましょうか」
「そうだな、折角だから河原の方を回って帰るか？」
……なんて素敵な提案だろうと思った。
そうしてふたり、月明かりの下、少しだけ遠回りをしながら。
ゆっくりと、ゆっくりと。
川面を渡る夜風は心地よくて。
微かに秋の匂いがした。
……それは、少しだけ切なかったあの頃の。
セピア色の、思い出。
「栞、入るわよ」
いつものように、ドアをノックしつつ声を掛ける。
『うん、いいよー』
いつもなら、そんな元気な声が返ってくるはずだった。
でも今日は、少し様子が違っていた。
「……っ、ちょ、ちょっと待ってー」
ガサガサッ。カサッ。カタン。
何やら慌てているような雰囲気が伝わってくる。
そしてすぐに静かになり、ようやく返事が返ってきた。
「いいよ、お姉ちゃん。入っても」
何か、怪しい。
あたしはドアを開いて栞の部屋へと足を踏み入れると、探るような視線で部屋の様子を見渡した。
栞は机の前の椅子に腰を掛けて、こちらを向いていた。
何気に足をぶらぶらさせながら、口を開く。
「なーに？ お姉ちゃん」
明らかに、態度が白々しかった。
長い付き合いの姉妹だからこそひと目でわかる。
そしてあたしは、それに気付いてしまった。
仄かに甘い残り香。
……バニラの匂いだった。
（まったく、この子はもう……）
内心、思わず呆れてしまいつつも、表面上は平静を装う。
栞の方も、あくまでもとぼけた様子を崩さなかった。
「お姉ちゃん、どうかした？」
あくまでも、しらを切り通す心積もりのようだ。
そんな栞の言葉に我に返る。
「え、ああ。夕食の支度がもうすぐ出来るから呼びに来たのよ」
「あ、うん。でも私、あんまり食欲がないかも」
今日のところは見逃してあげようか、なんて仏心が少しはなかったわけではない。
けれども栞のその発言を聞いてしまったら、もう止まらなかった。
「そう。でも……こんな物なら食べられるようね」
あたしはそう言うと、屑篭の中に丸めて捨ててあったビニール袋を取り出した。
近くのコンビニの袋だ。
「あっ」
しまったという顔をして、口に手をあてる仕草をする栞。
その後、気まずそうに視線を逸らしていく。
ビニール袋の中のごみが、バニラアイスのカップの蓋なのを確認したあたしは、さらに続けた。
「あとは……そうね、ここかしら」
栞の側に寄って、机の引き出しを開ける。
案の定、食べかけのバニラアイスのカップがひとつ。
これでも隠したつもりなのだろう。
「これは没収ね」
すると、恨めしそうに上目遣いであたしを見上げてくる。
「うー、お姉ちゃん、嫌い……」
頬を膨らませて、可愛らしい抗議の声を上げる。
「ならせめて、食事くらいはきちんと摂りなさい」
あたし自身、こういうところはとんでもなく甘いと自分でも思う。
この子にこんな風に拗ねられると、駄目だった。
アイスに伸ばしかけていたあたしの手が、途中で止まる。
「全く仕方がない子ね、本当に。今度だけよ？」
途端に、栞に笑顔が戻る。
「だからお姉ちゃん、好きっ」
そう言って、ふふっと笑う。
「けれど、晩御飯はきちんと残さず食べるのよ？」
「はーい」
返事だけは調子がいい。
嬉々とした様子で、半ば溶けかけたアイスのカップに手を伸ばす栞。
（本当にもう、この子ったら）
現金なものだ。
でも、こんな風に元気で笑っていられる栞の姿が、あたしには堪らなく嬉しかった。
「それで、検診の結果はどうだったの？」
真顔に戻って、栞に問い掛ける。
今日は、週に一度の検診の日だった。
今でこそこうして自宅で生活していられるけれど、小さい頃の栞は入退院を繰り返していた。
そして今でもこうして、週に一度は病院に通っての検診が続いている。
「いつもと変わらないみたい。大丈夫だよ」
あたしはそれを聞いて、少し安心した。
以前の栞は今よりも身体が弱く、些細なことですぐに倒れては病院に運ばれることも多かったから。
「そう。でもお医者様の言うことは良く聞くのよ？」
栞はただでさえ食も細く、身体も小さい。
たとえ今この瞬間は元気でも、体力的な不安は常に付き纏っていたのだから。
正直に言えば、お菓子やアイスクリームの類だって、栞の身体のことを思えば控えさせたかった。
まして食事に影響が出るようならば、尚更だった。
けれど、そうやって今まで厳しくしてきた反動だろう。
そのせいでか、こんな風に隠れて食べるようになってしまったのだろうと思う。
本当は、この子の好きにさせてあげたかった。
でも、わかって欲しいと思う。
（あたしだって、辛いんだから）
そんなあたしの想いを知ってか知らずか……。
「うん、ごめんね、お姉ちゃん」
しおらしく項垂れて素直に謝る栞の姿に、少しの罪悪感を覚えた。
「今日は少し帰りも遅かったみたいだから、それで余計に心配していたんだけれど」
そう言うと、さらに申し訳なさそうな顔をする。
アイスを買いに寄ったり、そこに見えるそれとか、道草をしてきたから帰るのが遅くなったのだろう。
外に遊びに出ることは滅多に叶わず、外出と言えば通院を意味する栞の気持ちを考えれば……。
（少しくらいの寄り道で、目くじらを立てるつもりはないけれど）
そうは言っても、好きにさせてあげたいとは思いつつも、どうしても心配なことに変わりはなかった。
もしも、あたしの知らない場所で倒れたら？
誰も助けのない場所で、急に苦しみ出したら？
そう思うだけで、気が気でないことも事実だった。
内心でそんなことを思いながら、ふと栞の様子を眺める。
気落ちして俯く栞の姿を見ると、こちらの方が辛く思えてならなかった。
少し空気が重たく感じる。
こんな雰囲気は苦手だった。
（仕方がないわね、もう）
あたしは話題を変えることにして、布団から覗いているそれに目を付けた。
慌てて隠そうとして、隠しきれていなかったそれを素早く手に取ると、しげしげとタイトルを眺めた。
「あっ……」
栞が小さく声を上げる。
病院の帰り道、道草土産のレンタルビデオ。
それも、少し前に流行ったベタベタの恋愛ドラマの劇場版だった。
慌てて布団の中に隠そうとしたあたり、寄り道したことを咎められるとでも思ったのだろう。
あるいは、借りてきたビデオが恋愛物だったから、少し恥ずかしかったのかもしれない。
あたしは、栞がこういう話が好きなことを知ってはいたけれど……。
「ふーん……」
わざと素っ気なく呟く。
栞は可哀想なくらい耳まで真っ赤にして、視線を逸らしていた。
もしかしたら、ひとりで隠れて見るつもりだったのかもしれない。
こんな可愛らしい栞をもう少し見ていたい気もしたけれど、これくらいにして助け舟を出す。
「でもそうね、栞にしてはまあまあの選択かしら？」
悪戯っぽく笑いながら、ビデオをちらつかせる。
「これ、あたしも見たかったのよね」
あんまり苛めすぎるのも、ね。
するとどうだろう。
さっきまで、この世の終わりみたいな顔をしていたくせに、あたしの一言で急に笑顔を取り戻していく。
「じゃあ、お姉ちゃん。一緒に見よ？ ねっ、ねっ」
別人のような明るさで、楽しげに同意を求めてくる。
「そうね。でも晩御飯をきちんと食べて、そしたらよ？」
その言葉に、栞がにっこりと微笑む。
「あと、寒くないようにしてきなさい」
一応、念を押す。
「うん、そうするねっ」
「じゃあ、そろそろ御飯にしましょう」
けれど……。
お気に入りのお菓子を準備して、とっておきのお茶を煎れて。
あの子は好きなジュースを準備して。
ふたりで一緒にドラマを見る。
そんな他愛もないことが、それが最後になるなんて、あの時は思いもしなかった。
『ねぇ、お姉ちゃん。またビデオを借りてきて一緒に見ようね。次はどんなのがいいかなぁ』
そんなあの子の言葉が、今も胸の奥に残っている。
……それは、ほんの少し切なくて、懐かしい。
月夜の晩の、昔語り。
「あたしと栞が一緒にビデオを見たのは、結局それが最後になったわ」
思い出を語り終えて、一息つく。
結局、思いがけず長話になってしまった。
でもその間、相沢くんは黙って聞いていてくれた。
「結局あの子は、その後すぐに容態を崩してしまったの。そして、あたしたちは……」
言葉に詰まる。
そこから先は、相沢くんも知っての通りのことだった。
一度は壊れてしまった、壊してしまったあたしたち姉妹の関係。
そんなあたしたちのために、相沢くんがしてくれたこと。
そして最後に取り戻すことが出来た、ふたりの絆。
そのことで、どれほどあたしが慰められ、温かい気持ちになれたことか……。
「……っ！」
不意に、無言のままで繋いだ手が強く握り締められた。
先刻までよりももっと強く、ぎゅっと。
それでいて……優しく。
どうしてこの人は。
あたしがそうして欲しい時に。
あたしが欲しいものを与えてくれるんだろう。
繋いだ手の温かさが、そのまま胸に染み入ってくるように思えた。
……不覚。
少しだけ、ほんの少しだけ、泣けそうな気分だった。
そうしてそのまま、ふたり黙り込んで。
ただ夜の河原の道を、幽かな影を曳きながら。
どこまでも、どこまでも、目的もないままに歩き続ける。
握り合った手がゆらゆらと揺れて。
ふたり、同じ速さで。
ただ、ゆっくりと、ゆっくりと……。
水のせせらぎが、耳に心地良かった。
ふと、夜空を見上げる。
優しい銀色を振り撒いて。
……月が、煌々と光っていた。
…………。
……。
「ねぇ、相沢くん……」
「なぁ、香里……」
…………。
……。
思わずふたり、笑い出す。
今まで黙り込んでいたくせに、こういう時だけはお互い妙にタイミングが被ってしまう。
ついクスリと笑って、彼の方を見つめる。
彼は鼻を擦りながら苦笑していた。
多分、あたしたちは今、お互いに同じことを想っている。
……そう確信できた。
あたしは軽く頷くようにして、彼の言葉を促す。
そんなあたしの仕草に、彼が口を開く。
「俺は、今でも信じているけどな。それでも……栞は幸せだったって」
彼の言葉が堪らなく嬉しく感じられる。
それは今、あたしも思ったこと。
だから、あたしは。
「そうね。あたしも……そう思ってる」
彼の言葉に頷く。
「……ずいぶん自信たっぷりだな」
茶化すような言葉とは裏腹に、嫌味な感じはなかった。
「そうね、だって……あたしがこんなにも、あの子の思い出で幸せなんだから」
言いながら、彼の腕を強く抱きしめる。
「あの子もそうだったって。同じ気持ちを、同じ幸せを共有できたんだって信じられる」
あの頃のあたしにはわからなかったこと。
そして、今のあたしにならわかること。
……隣にいる大切な人が、気付かせてくれたこと。
「そのくらい、自惚れさせてもらってもいいわよね？」
「ああ、信じていていいと思うぞ」
胸が熱くなった。
目尻にしみるものを感じて、思わず指で拭う。
嬉しくて、照れ臭くて。
泣いてしまったことを彼に知られるのが、なんだか恥ずかしかった。
顔を逸らして、水面にゆらゆらと漂う銀円を眺めながら。
少し俯き加減で、一歩、二歩、三歩……。
繋いだ手から流れ込む温もりに、愛しさが込み上げてくる。
穏やかに涼風が吹き抜けた。
火照った身体を優しく包んで癒すように。
ゆるやかに、髪がなびく。
そっと片手をあてて髪を押さえるようにして……。
不意に、銀の帯のように照り返していた川面が、輝きを失くしていった。
辺りの闇色が濃く、強く変わっていく。
ふと、見上げた。
「雲が……」
つい足を止める。
「どうした、香里？」
「……月が」
その一言で、彼も夜空を見上げる。
「ああ、隠れちまったな」
少し感慨深げに呟く。
束の間の薄闇。
今なら、あたしの赤く染まった顔も、彼にははっきりとは見えないかもしれない。
……ううん、そんなことはどうでもいい言い訳にすぎなかった。
単に、きっかけが欲しかっただけなのだから。
「ねえ、相沢くん」
「ん？」
彼が、見上げていた顔をゆっくりとあたしに向ける。
……ほんと、隙だらけなんだから。
瞬間、あたしは彼が振り向くタイミングに合わせて。
軽くつまさき立ちで、握った手を少し引くようにしながら。
その一瞬だけは瞳を閉じるようにして、素早く彼に頬を寄せる。
それは、あたし流の不意打ち。
素直じゃないあたしにとっての、それが最大限だった。
唇に温もりを感じる暇もないままに、彼から身を離す。
何が起きたのか理解できていない風の彼の顔が、何故か微笑ましかった。
そのまま彼の手を離すと、たまらず駆け出した。
「あっ、おいっ」
後ろからは、彼の慌てた声。
「……ったく」
呆れたような呟き声が、風に乗って届く。
あたしは、そのまま少し走った所で振り返る。
彼は先刻までと些かも変わらない歩調で、のんびりと。
そんな彼に、どうしても言葉で伝えたい想いが胸の奥に湧き上がっていた。
「あたしっ、幸せだから」
彼に、あるいはそうではない誰かの元へ届くように。
……想いを込めて、強く、強く。
大切な人へ、大切だった人の元へ、届くようにと……。
そうしてふたり、もう一度ぎゅっと手を繋ぎあって。
銀の雫の下を、どこまでもゆっくりと。
それはどこまで続く道かはわからないけれど。
肩を並べて、寄り添い歩いていく。
いつまでも、どこまでも。
これから先もずっとと、願いながら。
ふたり歩いてきた途が、思い出へと変わるまで……。
それは……。
それもまた、いつかは思い出へと還る。
……銀の月夜の、ほんの小さな物語。
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このSSは、作者の方に二次著作権が存在します。
転載、無断引用を固く禁止します。
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