Flying
――鳥ははばたいていた。果てしなき大空を。
――風に乗り、大空を舞い、滑走する。
――永遠に変わることはないと思われた……。
「じゃあ、今日は無理なのか？」
「ごめん、この埋め合わせは必ずするから」
水瀬名雪は、すまなそうな表情をして相沢祐一を見つめていた。祐一としては、別に許さないつもりでもなんでもなかった。
ただ、祐一が欲しいＣＤがあるから商店街へ行くと言ったとき、名雪がついてきたいと言っただけなのだ。
「部活なんだろ。それにお前は部長だし、俺にそれを責める権利はないよ」
「ほんとにごめん」
それでもまだ納得がいかないのか、名雪はしつこく謝り続ける。
「ほら、早く行かないと遅れるぞ」
「あ、ほんとだ。急がないと」
「頑張ってこいよ」
「うん、ありがとう。祐一」
そう言い残し、玄関を出て行った。祐一はその姿をしばし見つめていた。
大変だよな。あいつも……。祐一はそうしみじみ思う。
すでに３学期も終わり、今日は春休み初日だった。
たまたま部活も休みで、のんびりできると思っていた矢先の出来事だった。ついさっき顧問の先生から電話がかかってきて、緊急集合がかかったそうだ。
祐一の心の中には、あの時部活に入らなくて良かったという安堵感が広がっていた。
「さて、俺も出かけるかな」
祐一は祐一で自分の予定を実行しようと、部屋に財布を取りに戻った。
祐一と別れた名雪は、学校へ向かって歩みを進めていた。
心の中には、不思議な罪悪感がたちこめていた。
「名雪〜」
唐突に名前を呼ばれた。声の正体は美坂香里だった。
彼女もまた、部活のため、学校へかりだされたのだ。その途中で名雪を見つけ、声をかけた。
「香里〜」
名雪は手を振りながら香里のところへ駆け寄ろうとした。
キィイイイイイ
名雪が動き出した直後の出来事だった。けたたましいブレーキの音が耳に入る。
一瞬だった。
ざわめきだす通行人。道に横たわる少女。蒼い顔をして震える少女。
独立した３つの要素が、空間を支配していた。
――翼は傷ついた。
――はばたくことのできなくなった鳥は、地へ堕ちていくことしかできなかった。
――抵抗することもなくまっすぐと……。
「あら、祐一さん。お出かけですか？」
階段を下りてきたところで、水瀬秋子が祐一に話しかけた。
「はい、ちょっと商店街まで」
「そう……。だったらついでに頼まれてくれるかしら」
「それくらいお安い御用ですよ」
居候をさせてもらうようになって３ヶ月が経過しようとしているが、こういうことを言われると祐一は嬉しくなる。
自分も家族の一員として認めてもらえてるんだなと思えるから。
「で、何を買ってくるんですか？」
「それは、これに書いてあるわ」
折りたたまれたメモ帳らしき紙を一枚受け取る。
祐一としては、こういうふうに頼まれたほうが気が楽だった。
好きなものを買ってこいと言われた日には、名雪と秋子に嫌がられないものを買わなければ、という脅迫概念に襲われるからだ。
「じゃあ、よろしくね」
「はい、わかりました」
トゥルルルル
唐突に電話のベルが鳴り響いた。
「はい、水瀬ですけど」
秋子は、当然のように電話に応答する。
最初はいつもと変わらなかったが、時間がたつにつれて秋子の顔が険しくなる。
「祐一さん。予定変更。病院へ向かいます」
「えっ？」
祐一は、その言葉の意味が理解できなかった。
病院の入り口で待っていたのは、意外な人物だった。
「香里……」
「あ……」
祐一の姿を確認すると、香里は説明を始めようとした。
だが、それに気づいた秋子が制する。
「いいのよ。何も言わなくて」
それだけを告げ、受付まで歩き始める。
祐一と香里のあいだを、怖いくらいの沈黙が流れる。まるで、言葉を失ってしまったように。
少したつと、秋子は祐一たちのところへ戻ってくる。
「秋子さん。一体何が……」
祐一は思い切って訊いた。秋子の顔には動揺の色が浮かんでいた。
「名雪が……」
そこでいったん言葉に詰まるが、すぐに紡ぎだされる。
「交通事故に……」
「えっ……」
何も言えなくなった。すべてが唐突過ぎた。祐一はその言葉の意味の理解に一瞬苦しんだ。
だが、すぐに我に返り、１人の少女の名前を呼んだ。
「名雪は、名雪は今？」
「手術中よ……」
「し、手術って……」
一体どういうことだろう？ 名雪はそこまで悪いのかろうか？
「命には別状はないみたいですけど……、足が……」
「足？」
「なんか、足に大きなダメージがあったみたいなの」
ただの骨折でも、治りを早くするために手術するってのは聞いたことがある。
だけど、その場合だと準備とか何かがされるものだが、今回の手術は唐突過ぎる。嫌な予感だけが脳裏を駆け巡る。
「ふふ、私が事故に遭ったときも、名雪はこんな気持ちになったのかしら……」
祐一はその時のことをはっきりと覚えている。
名雪がどれほど悲しんだか。どれほど苦しんだか。
でていって。
その言葉が鮮明に思い出される。名雪との新しい生活が始まるかと思われた直後……。
祐一はその時何ができただろうか。結局は、名雪を待ち続けることしかできなかった。
３人は、ただひたすら待つしかなかった。
「水瀬さん……ですか？」
何時間がたったのだろう。１人の医者が、祐一たちのところへやってきた。
「はい、そうです」
秋子はすかさず答える。自分の名字を呼ばれた時点で、何を言われるか想像するのは難しくないだろう。
祐一は、ただ祈ることしかできなかった。何もできない自分が悔しかった。
「お嬢さんのところまでご案内します。ついてきてください」
医者はそれだけを告げると、きびすを返し歩き始めた。
祐一たちは、無言のまま、そのあとを追いかけた。
「ここです」
案内されたのは、個室だった。
個室ってのは、症状が重い人が来るところというイメージがある。それは、祐一たちを不安にさせる。
医者がドアを開けると、ベッドに横たわる名雪の姿が映った。
目はどこかうつろで、焦点が定まっていないようだった。麻酔がまだ完全に抜けきっていないのかもしれない。
足にはギブスがつけられ、痛々しいほどの包帯が巻かれていた。
「名雪！」
秋子が一番に声を上げる。そして、香里はそれを待っていたかのように名雪の方へ歩き出す。
「お母さん……。香里……」
意識だけははっきりしているようだった。となると、さっきほうけていたのは事故のショックからきたものだったのだろうか。
「祐一……」
最後に祐一の名前を呼ぶ。
「よう、思ったとおり元気がないな。大丈夫か？」
「祐一、あいかわらずだね……」
少し笑顔が宿ったようにも見えたが、それもすぐに消えてしまう。
「できれば、少し１人にさせて欲しいかな……」
「名雪？」
秋子は怪訝な目つきで名雪を見つめた。
「いろいろと考えたいから……」
名雪は、今にも消え入りそうな声でつぶやく。
「……わかったわ」
秋子は、しばらく名雪の目を見つめ、そう答えた。
確かにそのほうがいいだろう。本人がそう希望してることだ。今は思うようにさせてあげたほうがいい。
「それじゃあ、向こうで手術の結果とかをお話しますよ」
「わかりました」
秋子は医者の言葉にうなずくと、そっと部屋を出て行こうとした。
「あ、待って」
「何。名雪？」
再び名雪から発せられた言葉を、秋子は優しく受け止める。
「結果、できたら教えて欲しい……」
その言葉を聞いて、秋子は困ったように医者を見つめる。
「そのことについては、そちらにお任せしますよ」
「結論から申しますと、娘さんの足が治る確率は五分五分です」
非情な言葉が医者から告げられた。祐一も秋子も言葉を失う。
「最悪、足を切断する必要が出てきてしまうかもしれません」
「ちょっと待ってください！ それって！」
祐一は立ち上がった。ここがどこなのかも完全に忘れていた。
「祐一さん、落ち着いて。ここは病院ですよ」
「でも、これで落ち着けって言われても……」
落ち着けるような状態でもなかった。祐一は動揺していた。
そんな祐一を横目に、医者は冷静に話を続けた。
「相沢君。名雪はどうだったの？」
外で待っていた香里が一番に駆けつけてくる。
「折れた翼は、相当重症だよ」
「折れた翼？」
祐一の意味不明な発言に、香里は首をかしげる。
「奇跡が起こる可能性は５０％。最悪で切断だとよ」
「うそ……」
「真実ってのは、残酷なもんだよ」
それっきり、香里は言葉を失ってしまう。
「名雪には、なんて言いましょうか」
秋子が困ったようにつぶやく。
結果、できたら教えて欲しい。
名雪の言葉がちらつく。こんなこと、本人に言えるわけがない……。
だけど、いつかはばれてしまうものだろう。このまま不安な気持ちでいさせるよりは、すべてを受け入れてもらい、気を強く持ってもらうことも大切かもしれない。
「秋子さん。俺から言ってもいいですか？」
間があった。いつもなら一秒で了承してしまう秋子だが、こればかりは決心がつかないようだった。
「……お願いします」
秋子が出した結論はそれだった。
――翼を失った鳥は生きていくことができるのだろうか。
――地に堕ちた鳥はあがくことができるのだろうか。
――素直に死を迎え入れるしかないのだろうか。
祐一はすべてを告げた。偽りのない真実のみを……。
「うそだよね……」
名雪の顔から血の気が引いていく。
――鳥は絶望の淵へ叩き落される。
「うそじゃない」
表情を変えずに言う。
これは、どれだけ辛い決断なのだろうか。
「わたし、もう走れないの？」
「そんなことはない！ 治る確率は５０％もあるんだ」
「でも、５０％は治らないんでしょ！」
悲痛な叫びだけがこだまする。
「なんでこんなことに……」
目から涙が零れ落ちる。何滴も何滴も。
その雫を、祐一は直視することができない。
「名雪……」
「でていって……」
「え？」
「でていって！」
口調は強くなる一方だった。
祐一にできることはなくなった。言いようのない悲壮感が漂い始める。
その中、祐一はそっと部屋を出て行く。
「名雪」
入れ替わるように、秋子と香里が部屋の中に入ってくる。
「ひとりで、考えたいから……」
ぽつりとつぶやいた声が、心に針をさすようだった。
その空気を悟った秋子は、無言で香里の肩をたたく。
言葉が交わされぬまま、時間だけが刻一刻と流れていた。
――鳥を救うことはできないのだろうか……。
祐一はいつしか、とあるベンチでたたずんでいた。
ここは、７年ぶりに名雪に再開した場所……。
それだけではない。名雪をふって、名雪に告白した場所。不思議な因果が眠る場所。
なぜ祐一がこの場所へ来てしまったのかもわからない。それだけ印象深い場所だったのだろうか。
それとも、この場所に何かを期待したのだろうか。
秋子が事故に遭ったときは、この場所で名雪は心を開いた。きっと今回も期待してしまっているのだろう。名雪はここまで来れるはずがないのに。
祐一の心の中は、わらにでもすがりたい気持ちでいっぱいだった。名雪のためなら喜んで地獄へも行くことができる。
「情けないよな……」
すこし、自嘲気味に笑う。そうでもしなかったら自分を保つ自信がなかったから。
「相沢君……」
直後、香里の声が聞こえた。祐一は驚いてその方向を向く。
「こんなところにいたんだ……」
ぽつりとつぶやき、祐一に歩み寄る。
「ここは、一体なんなの？」
一瞬、悩むようなしぐさを見せたが、それもすぐにおさまる。
「７年前に名雪をふって、７週間前に名雪に告白した場所だ」
「はぁ、さっぱりわからないわ」
「大丈夫だ。わかってもらうつもりはさらさらない」
その通りだった。わかるわけがないだろう。
そもそも祐一には説明する気もなかった。たまたま７という数字が共通したから出しただけだったのだ。
「こんなところで何をしているの」
「べつにいいだろ。なんだって」
真実を話すわけにもいかず、半ばヤケクソだった。もう、すべてがどうでもよくなりつつあった。
「よくないわよ！」
香里は突然怒鳴りだした。その姿に、祐一はただ唖然するしかなかった。
「名雪を助けられるのは、あなただけなのよ」
「そんなわけないだろ。それに秋子さんだってついてる」
「……何もわかってないのね」
怒ったかと思えば、今度は悲しそうな声で答える。疑念は深まるばかりだった。
「おばさんですら、名雪の心を生き返らせることができなかった。名雪の心は完全に死んじゃってるのよ。それを生き返らせることができるのは相沢君だけなのよ」
「何でそんなことが決めつけられるんだよ」
「相沢君だからよ」
「余計わからないな」
険悪なムードが流れ出す。お互い一歩も引かない状態だった。
「言葉通りよ」
何が言葉通りなんだ、と言い返したかったがなぜかできなくなった。その原因となったのは香里の不思議な笑顔だった。
「翼は傷ついたわ。それを癒せるのは言葉という魔法だけ。その魔法が使えるのはあなたなのだから」
祐一は言葉を失う。
「私の友達……親友を頼んだわよ」
最後にそれだけを告げ、香里はこの場を立ち去っていった。
翼は傷ついたわ。
その言葉が、いやに頭に残った。
翼が傷つく……それは飛べなくなったことを意味する。飛べなくなった鳥はどうなるだろうか。
地に堕ちて、そのまま生涯を終えることしかできないのだろうか……。
それを癒せるのは言葉という魔法だけ。
言葉で包み込むことによって、勇気を与えらるものなのだろうか。だが、祐一はあの時、名雪を勇気づけられた。
その魔法が使えるのはあなただけなのだから。
今の祐一に何が言えるだろうか。今はあの時とはちょっと違う。あの時は悲しみを向ける対象が別人であった。
だからこそ、心を強く持たせることができた。
だが、今回は違う。悲しみの対象が自分なのだ。自分の殻をやぶれない限り、再び飛び立つことはできない。
だけど、このままでいいわけがない。だとすれば、何をするかはおのずと見えてくるだろう。
「いくら悩もうが、結局はやることはただひとつしかないんだよな」
そして祐一は、重い腰をベンチから上げた。名雪を再び飛び立たせるために。
――弱い心の無限増殖だけは、止めなければならない……。
名雪の病室の前は、怖いほどの静寂に包まれていた。
……名雪は走るのが好きだった。好きなことを奪われた時、人は何を思うのだろうか。
今日、祐一は名雪のいろいろな姿を見た。元気に部活へ向かっていく名雪。ベッドの上でうつろな瞳のままぼーっとしていた名雪。
いろいろな姿が脳裏を駆け巡る。
「入るぞ、名雪」
ドアをノックしながら名雪に向かって呼びかけるが、返事は返ってこない。
そもそも返事が返ってくることを期待してなかった祐一は、遠慮することなくドアを開けた。
やはり、名雪の姿が一番に目に映る。
「祐一……」
「よぉ、名雪」
祐一はいつも通り振る舞わなければならない。そうでなければ、名雪を不安にさせてしまうかもしれない。
「あいかわらず、元気がないな」
「……」
名雪は黙ってしまうが、祐一はおかまいなしに続ける。
「病は気からって言うだろ。少しは元気を出せよ」
もう少しまともなことは言えないのか、そんな自己嫌悪の念が祐一を包み込む。
「祐一にはわからない。わかるはずがないよ」
名雪の表情は変わらない。まるで、感情というものを忘れてしまったようだった。
祐一は、再び言葉を失ってしまう。まさに名雪の言うとおりだ。祐一にはその辛さを理解してあげることはできない。
「確かに俺にはわかるはずはない。だけど、名雪のそばにいてやることはできるから」
「……」
そのまま黙ってしまう。
「優しすぎるよ。祐一は……」
「俺は自分では比較的冷徹な奴だと思ってるけどな」
「普段はね」
「おい、少しは否定してくれよ」
表情が、かすかに緩んだようだった。
祐一はこのまま癒しという名の魔法を唱えることができるのだろうか。
名雪に笑顔を取り戻させることはできるのだろうか。
「わたしは、祐一を二度も拒絶しちゃってるんだよね……」
「は？ 何を言い出すんだよ」
「お母さんが怪我したときも。わたしが怪我したときも……」
「何言ってるんだよ。俺は７年も……」
「違う！ 違うの……。あの時の祐一と今の私じゃ、重みが全然違うもん」
名雪の目から涙が溢れ出す。
見ているのが辛い。だけど、目を離すことはできない。
目を離してしまうことが、何を意味してしまうのか、祐一にはわかっていたから……。
「祐一……ごめんね、ごめんね……」
声が震えていた。
「お、おい、何謝ってるんだよ」
「香里から聞いたよ。ずっとあの場所にいたんだって……」
「まったく、あいつは余計なおせっかいばっかりするな」
そう言いながら、祐一はベッドのふちに腰掛ける。名雪に背中を向けてしまったため、姿を見ることはできない。
直後、名雪が上半身を起こした。祐一は背を向けていたため見ることができなかったが、服と布団との摩擦の音で推察できた。
「そんなこと言わないでよ。これでもわたしの一番の親友なんだからね」
名雪は名雪なりに自分自身を奮い立たせようとしている。
「……いろいろ考えたよ、あの場所で。俺は結局、名雪に何をしてあげられるのだろうかとか、どうすれば名雪は心を取り戻してくれるだろうかとか……」
「わたしのこと……ばっかりだね」
「ああ、それ以外に考えてる余裕なんてなかった」
「……ありがとう」
「不思議な奴だな。さっき謝ったと思えば、今度はお礼か？」
「いいの。わたしの本心なんだから」
名雪の顔を祐一は見ることができない。だけど、笑顔を取り戻してくれることを願っていた。
今すぐとは言わない。時間がかかってもいい。心の傷を癒すのには時間がかかることはわかっているのだから。
「でも、ごめんね」
「いいさ、名雪は俺がこの世でたったひとりの愛する人だからな」
「わ、さりげなく恥ずかしいこと言う」
「恥ずかしくなんかないさ、これが俺の本心なんだからな」
その通りだった。それに、この部屋には祐一と名雪以外には誰もいない。遠慮する必要もなかった。
「祐一。実はね、祐一があの場所でわたしを待ってくれてるって聞いた時、すごく嬉しかったんだ。いつになるかわからないのにずっと待っててくれるんだなって」
「待ちきれなくて、ここまで来てしまったんだけどな」
「それでもいいの」
言いながら、名雪は祐一の背中にもたれかかる。服ごしに名雪のぬくもりが伝わる。
「祐一の背中、やっぱり大きいね」
「男だからな」
「ふふ、愛してるよ。祐一」
「お前こそ、恥ずかしいことばっかり言うじゃないか」
「そうかな〜」
たわいもないやりとりに変わってしまったが、名雪の中で何かが変わりつつあったのは事実だった。
祐一は自分の言葉が名雪を救えたとは思わなかった。だけど、名雪に生じた変化をはっきりと感じ取っていた。
それから名雪は変わった。
自分の境遇を悲しむこともなく、言い訳にすることもなく、試練に立ち向かった。
彼女の家族は、できる限りの手助けをした。
「よう、元気か？」
「あっ、祐一」
祐一もまた、名雪の家族だった。
そして、家族以上の想いがあった。
――愛する者のために。
「わたしは、やっぱり走るのが好きだから。だから、再び走れるようになりたい」
「そうか、頑張れよ」
「うん」
心の底から祈っていた。
――想う気持ちは、運命をも動かすことができる。
名雪の想いはただひとつだった。
――わたしは、やっぱり走るのが好きだから。だから、再び走れるようになりたい。
そして、月日はめぐる。
――鳥は、再びはばたこうとしていた。
「お母さん。祐一は？」
名雪の退院の日が訪れていた。
５０％の確立で起こる奇跡は、まわりの人が見れば価値のないように思えるだろう。
だが、名雪も秋子もそうは思わない。他人であるはずの香里も祝福してくれた。
「祐一さんなら、『あの場所で待ってる』ですって」
「ほんと？」
「ほんとよ。早く行ってあげなさい」
「え、でも荷物が……」
名雪は決まりの悪そうな顔をして秋子を見つめる。
「それくらい、運んでおいてあげるわよ」
「いいの？」
さらに決まりの悪そうな顔になる。
「いいわよ」
その言葉を聞くと、名雪の顔がぱぁっと明るくなる。
「じゃあ、わたし行ってくるね」
そういって走り出す名雪のうしろ姿を、秋子は微笑みながら見送った。
――鳥は目指す。約束の地を。
――翼は癒された。再び大空を舞う。
――風に乗り滑走する。
「遅い……」
祐一はむっすりした顔をしながらも、素直に待っていた。
病院へ迎えに行かず、ここで待っているということを決めていたからだ。
「ゆ〜いち〜」
名雪が走りながら祐一の名前を呼ぶ。息を切らせながら祐一の下へ走り寄る。
祐一は笑顔で受け止める……なんてことはせず、こぶしで迎え入れる。
迎え入れられた瞬間、名雪の断末魔の悲鳴が響き渡った。
日差しとたわむれていた鳥たちは、ばさばさと音を立てながら逃げていった。
「祐一……痛い……」
殴られたところをおさえながら、名雪が反論する。
「遅れた罰だ」
「ひどい……時間なんて決めてないよ〜」
名雪は目に涙をためながら恨めしそうに祐一を見つめた。
だが、祐一にとってこれは単に照れ隠しでもあった。
名雪が再び走っている姿を見れたことは、これ以上ない喜びだったから。
そして、これからも、こんな時間が続けばいいと思う。
刹那、一陣の風が２人の間を通り抜ける。
名雪の髪を揺らし、祐一の頬を通り過ぎ、風は螺旋を描きながら天空へと昇っていく。
落ち葉が舞い、その形を描き出していた。
――願わくば、この想い、風とともに天までとどけ。
祐一はその光景をぼーっと見上げていた。
「どうしたの、祐一？」
「いや、なんでもない」
「う〜、気になる〜」
「気にするな」
「気になるよ」
何も答えず、祐一は歩き出す。
「帰るぞ」
「あっ、待って」
「ったく、早くしないとおいてくぞ」
そう言いつつも、名雪に手を差し出す。
「ありがと、祐一っ」
その手をとって、名雪は歩き出した。
――飛び立った鳥をさえぎるものは、もう何もない。
――鳥は再びはばたいていた。
――けがれのない、果てしない大空を……。
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